『ハンセン病元患者宿泊拒否』と消せない「差別意識」
参考リンク:「ハンセン病を正しく理解するための中学生向けパンフレット」(厚生労働省)
いきなり謝ってしまいますが、僕は「ハンセン病」のことをほとんど知りませんでした。
ハンセン病は、現在の医療現場では、ほとんどみられない病気なのです。
しかし、この病気の歴史というのは、本当に、人間というのは差別したがる生き物なのだな、ということを僕たちに伝えているのではないかなあ、と。
この「ハンセン病の元患者を宿泊拒否」という報道を聞いて、多くの文化人やマスコミは、「ひどい差別だ」「人権侵害だ」と大騒ぎしました。そして、ホテル側の「サービス業として当然のこと」という発表が、その怒りの火に油を注いだ形になったのです。
熊本県が、宿泊前日に「拒否」を打ち出したホテル側に対して、文書で「元患者であること」「医学的に感染の危険はない(もしくは非常に低い確率である)こと」を説明したにもかかわらず、「宿泊拒否」したわけですから、それは、責められて当然の対応だったと思います。
しかし、現実問題として、一般の宿泊客の心境としてはどうでしょうか?
「ハンセン病の元患者さんたちの団体と一緒に湯船に浸かること」に対して、拒否感がある(僕は知識不足で、今回「拒否」されてしまった元患者さんたちが、外見上になんらかの問題を抱えておられるのかわからないのですが)人は多いだろうなあ、という気もするのです。
厳然とした「拒否」ではなくて、なんとなくイヤだなあ、とか、できれば避けたいなあ、と思っている人も含めれば、かなりの数なのでは。
その原因は、やっぱり、現代人にとって接することが少ない病気であることによる予備知識の不足なのではないでしょうか?
実際、現時点での「ハンセン病」という病気は、関連リンクを読んでいただければ御理解いただけると思うのですが、「感染のリスクは、ほとんどゼロに等しい」ものです。
でも、今回の報道まで、そのことを知っていた人は少ないのでは。
以前、「らい予防法」の撤廃の際にはかなり話題に上った記憶があるのですが、僕も含めて、多くの人は「過去のこと」として忘れてしまっていたのではないかなあ。
考えてみれば、「ハンセン病の人と一緒に風呂に入る」よりも、「インフルエンザの人と電車で一緒の車両に乗る」ことのほうが、はるかにリスクが高いにもかかわらず、僕たちはそれを日常的に行っていますし、インフルエンザの人が乗車拒否されたりはしませんよね(そりゃ、目の前にいればあんまりいい感じはしないでしょうし、そんなに具合悪そうなら、家で寝てたほうがいいんじゃない?とか思ったりはするとしても)。
そこには、インフルエンザという病気が僕たちにとって「日頃接することが多くて、知識がある」「自分だって、いつ罹患するかわからない」病気である、という要因があるのです。
「ハンセン病」の患者さんたちが差別されてきたのは、これらの無知と、治療法が確立されたにもかかわらず残ってしまった「差別意識」によって、病気そのものや患者さんの存在が隠蔽されてしまったことも原因です。
治療法が確立されていたのだから、積極的にこの病気の正確な知識を広めようとしていれば、こんなことにもならなかっただろうし、むしろ早期発見、早期治療にもつながっていただろうに。
しかし、現実には、「可能性がゼロに限りなく近くても、接触しないほうがリスクがより少ないに決まってるだろ!」というふうに考える人もいると思われます。
これに対して反論することは、けっこう難しいことのような気がするのです。
エイズが話題になったとき、「エイズウイルスは弱いウイルスで、日常生活の接触では感染しません」ということが、広くアピールされました。
だからといって、「大丈夫なのか」と思っても、積極的に患者さんと接触しようとする人は少なかったのではないでしょうか?
僕だって怖かったですよ、やっぱり。
医療従事者の針刺しによる感染例も噂されていましたし。
アメリカNBA(プロバスケットリーグ)のスター選手・マジック・ジョンソンがHIVウイルスに感染したことを告白したあと、彼の同僚の選手の多くは、マジック・ジョンソンと一緒にプレーすることを拒否しました。
当時は「これが差別かどうか?」について、けっこう問題になったものです。
バスケットボールというのは激しいスポーツで、身体接触もありますし、場合によっては、マジック・ジョンソンとの接触プレーで、傷口から血が入ってこないとも限らない。
可能性は低いとしても、「そんなリスクは避けたい」と思うのは、人情として理解できるんですよね。
「差別を失くすために、HIVウイルス感染者とコンドームも使わずにセックスするべきだ!」と叫ぶ人間はバカでしょう。
また、「うつるから、インフルエンザの患者は絶対に家の外に出るな!」と言う人も世間の理解を得るのは難しいはずです。
僕たちは、自分の命を守るためにリスクを避けるべきである一方、多かれ少なかれ、リスクを受け入れて生きていかなくてはならないのが現実というもの。
たぶん、僕たちは日常生活において、この前者と後者の「リスクと社会生活の間」で妥協しながら生きているのです。
今回の問題における、ホテル側や同宿する人たちにとってのリスクは、感染の可能性がほぼゼロ(100%ない、と言い切れないのは、医学という世界の掟だと思っていただければ)なのですから、社会活動を行っている企業としては、当然受け入れなければならない範囲のもののはず。
そう考えると、今回のホテル側の対応は、あまりにも稚拙と言うべきでしょう。
僕自身も、自分の中の「差別意識」を感じることがあります。
仕事場以外で車椅子の人を見ると、なんとなく目をそらしてしまいますし。
でも、その一方で、「差別意識」なんてのは、ある程度「無理矢理なくしていかないといけないもの」のような気がするんですよね。「自然な感情」なんていう言い訳をせずに。
例えば、現代の日本において、外国人への差別意識というのは、明治時代の初期よりはマシにはなってきているはずです。これは、「慣れること」と「教育において、強制的に意識改革していくこと」の効果なのではないでしょうか?
「差別しない」ためには、自分の感情に逆らうことが必要な場合も多いはず。
そうやって、半ば強制的に「意識改革」していかないと「差別意識」なんていうのは、永遠に消えないものだと思うのです。
ほんと、人間って差別大好きだから。
僕は、今でも自分の中に「差別意識」を感じ続けています。
でも、「差別意識」すら自覚できなくなったら、もうオシマイだろうから、今日も自分に「差別しちゃダメだ」と言い聞かせているのです。
たぶん、一生そんなふうに自分に言い聞かせ続けることになるのでしょうね…