映画『ジェネラル・ルージュの凱旋』への医者的感想


映画『ジェネラル・ルージュの凱旋』公式サイト

(原作(小説版)への僕の感想はこちらです)

 救命センター長・速水先生役の堺雅人さんが原作のイメージに近かったこともあり、また、「救急医療って大変なんだなあ」ということを観客に伝えることのできる作品ではあったと思います。

 でも、原作に比べると、ちょっと物足りないというか、やっぱり、「商業映画」となると、こんなふうになっちゃうのかな、とがっかりしたところも多かったです。

 以下、基本的にネタバレなのでご注意ください。


 原作は、「愚痴外来」の田口先生と放射線科の島津先生、そして速水先生は「同級生」という設定で、「同期の連帯感」みたいなものがすごく印象的でした。医学部というのは1学年に100人足らずの学生しかおらず、6年間ほとんど同じメンバーで遊んだり、実習をしたりするので、「同級生のつながり」というのがけっこう強いんですよね。僕は原作を読みながら、自分の同級生たちのことを思い出してしまいました。

 でも、映画版は、田口先生=竹内結子さんなので、さすがに堺雅人さんと「同級生」という設定には無理があると判断され、「田口先生は、研修医時代に速水先生のところに研修に来たことがある」という設定になっています。細かいところなのだけれど、同級生どうしで、「血をみるのが嫌で愚痴外来なんかやってる昼行灯」みたいな軽口を叩き合うのは問題ないのですが、「先輩」である速水先生が田口先生に同じことを言うと、なんだかすごく「パワハラ」っぽく聞こえたんですよね。

 ほとんど存在そのものがスルーされていた島津先生をはじめとして、原作では重要人物である如月翔子もほとんど空気。まあ、『ナイチンゲールの沈黙』とリンクしている部分まで描いてしまうと2時間で収まるわけがない、というのはわかるのですが……

 実は、僕がこの映画を観ていちばん「原作と違う」と感じたのは、この映画では「ある事件で人が死ぬ」こと、そして、その「犯人」がいる、ということでした。

そして、映画のなかでは、「悪党」の正体が判明し、白鳥が活躍することで、とりあえず「めでたしめでたし」の結末になってしまう。

うーん、それはちょっと違うんじゃなかろうか。

この『ジェネラル・ルージュの凱旋』で描かれていた「救急医療の行き詰まり」っていうのは、ひとつの病院のなかにいる「利益至上主義者たち」のせいではないはず。

原作の登場人物たちは、みんな一癖もニ癖もある人たちですが、けっして「自分のことしか考えない悪人」ではありませんでした。人手不足の自分の科を崩壊させないため、病院経営を健全化するため、天才の指揮下で疲弊しきっているスタッフをみかねて……

彼らは、みんな「頑張りすぎるくらい頑張っている」にもかかわらず、救命センターは大赤字。それどころか、頑張れば頑張るほど赤字は増える一方。

海堂先生が描きたかったのは、特定の「悪人」ではなくて、いまの日本の社会における「救急医療が陥っている致命的な悪循環そのもの」であり、どんなに疲弊しても報われることのない現場の姿だと僕は考えています。

そして、誰かひとり悪いヤツがいなくなったくらいで、この「構造的な行き詰まり」が解消されることはありえません。

「救いようのなさ」を描いた話のはずが、映画では「救われる話」になってしまったために、「日本の救急医療への警鐘」がぼやけてしまった印象が拭えないんですよ。

「現場の人間は一生懸命やっているのに、どんどん追い詰められている」というのが、いまの救急医療(いや、救急に限らない話でしょうねこれは)の悲しい現状なのです。

それでも、「救急医療って大変なんだなあ」ということがこの映画によって少しでも伝われば、それはけっして無意味なことではないとは思うのですけど……