「あのね、看護師さんはなぜそんなに不機嫌なんですか?」
『できればムカつかずに生きたい』(田口ランディ著・新潮文庫)より。
【1997年、私は婦人科の個人病院に通院していた。
憂鬱だった。その病院の一人の看護婦さんのことが苦手だったのだ。なぜかこの看護婦さんはいつも不機嫌なのだ。病院という場所は、できればあまり行きたくない場所である。その場所に不機嫌でつっけんどんな人がいるととても気後れする。妊娠中だった私は月に一度の定期健診に通わなければならないのだけれど、あの看護婦さんがいるかな〜と思うと足が重くなる。
毎回毎回、ひどく些細な彼女とのやりとりが私を憂鬱にした。
些細過ぎて言うのも恥ずかしいのだが、こうした日常の些細なことの積み重ねが、病気の時は負担になる。たとえばある時、料金を支払う際に「2540円です」と言われ、5000円札を出した。すると彼女はギロリとお札をにらんで、ものすごく不機嫌につっけんどんにこう言った。
「田口さんは毎回、2540円ですから」
一瞬彼女が何を言いたかったのかわからなかった。つまり、彼女は「毎回同じ金額なんだから、細かいのを用意しとけよ」という事を遠回しに言ったのだ。
「あ、あの探せばもしかしたら細かいのがあるかも……」
私はあせって小銭入れを取り出そうとしたが、彼女はにべもなく、
「いいわよもう。次回から気をつけてください」
と言うのである。
どうして「いいわよもう」なのだろう。どうして「細かいのがあったらください」と言わないんだろうな、と不思議だった。普通に言ってくれればなんでもないことなのにな。言葉が曲がっているのだ。本当に言いたいことをストレートに表現しない。この看護師さんは一事が万事こんな感じだった。だから、みんなビクビクおどおどする。
(中略)
この看護婦さんに、ある日二人きりの時に私は言ってみた。
「あのね、看護婦さんはなぜそんなに不機嫌なんですか? 私はあなたの前に出るといつも怒られているような気分になって緊張してしまうんです。病院に来るのが憂鬱になっちゃう時があるんです」
「え?」
と言ったまま彼女は固まってしまった。彼女の顔は見る見る真っ赤になって、何も答えず黙って保険証を返してきた。私も気まずかった。でも次の時、彼女は自分から話しかけてきて、
「自分に子供が生まれないことをととても気にしている。おまけに寝たきりの姑を抱えて仕事をしていて気持ちの余裕がもてない」
と話してくれた。
「子供、生まれないの?」
「不妊症みたいなの」
「それじゃあ赤ちゃんや産婦さんを見るとなんか辛くなるよね」
すると彼女はそのことに初めて気がついたみたいに、
「そうかもしれない」
と言った。
「自分でも、なんでイライラしてしまうのかわからなかった」
不妊症の女性が産婦人科に勤めるというのは、確かにストレスがたまるだろう。でもそのことに彼女は自分で気がつかなかったのだ。以来、彼女の態度は変わった。私も彼女に親しみをもって会話するようになった。しばらくして彼女は病院を辞めた。噂では内科の病院に移ったらしい。
(中略)
誰かの言葉に傷ついた時、私は相手を変えたいと思ってきた。でも、最近は相手を変えたいのは自分の都合なのだと思うようになった。
「私が気に入らない」のだ。その際に大切なのは、相手を非難することではない。自分がどう感じているかを相手に伝えることだ。】
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この話、日頃患者さんに接している僕としては、非常に考えさせられました。この看護師さんなんて、田口さんの文章を読んでいると、「こんなトゲトゲしい態度をとっていて誰にも指摘されないわけないんだから、この人はワザとやっているんだろうな」と僕は思ったのですが、その後の話からすると「誰もそれを今まで指摘していなかった」し、「本人もそんな態度をとっていたという認識はなかった」みたいなのです。まあ、「ちょっとイライラしていた」という自覚はあったみたいなのですけど。
僕はなるべく患者さんに接するときには気をつけているつもりなのですが、実際に相手にどのように受け止められているのか、というのは、自分ではわからないものなんですよね。自分では「親しみを込めて」接しているつもりでも「なれなれしい」を思われたり、「敬意を表して」接しているつもりでも「よそよそしい」なんていう印象を与えたりしていることもあるのが人と人とのコミュニケーション。僕もけっこうイライラしたりして周囲のスタッフへの言葉がキツくなったり、あまりに患者さんが多かったり、話が堂々巡りになってしまうときには、「はいはい」なんて聞き流すような態度をとっていることもあります。
でもほんと、他人に対しては、「どうしてあの人、気づかないんだろう?」なんて思ってしまうけれど、自分では自分のことって、全然わかってないのですよね。医療者の場合には、患者さんも「もし感情を害されたら、自分の不利益になるかもしれない」と黙ってしまわれることが多いのでしょうし。
「そういうのは、プロ失格!」と言われてしまうのでしょうが、医療従事者だからといって、常に安らかな精神状態であったり、体調がベストであったりするわけではありません。「体調管理が甘い!」というお叱りを受けるのは致し方ないとしても、「身内の病気が心配」なんていうのは、まさに不可抗力だし、ここで取り上げられている看護師さんのように、「自分では表に出していないつもりのプライベートな悩み」というのが、表面に出てしまうことだって絶対にないとは言い切れません。いや、原則的には「親が死んだとしても外来に穴をあけるのは不誠実」なのかもしれませんけど、やっぱり、そういう状態で「平常心」になって病気の人を診るのは辛いかったりもするのです。僕も自分の親を亡くして葬儀を終え、復帰初日の夜中に担当の患者さんを看取ったときには、内心、「自分はいったい何をやっているんだろう……」という気持ちになりましたし。看取られる患者さんの側からすれば、それは「医療者であれば、当然乗り越えるべきこと」だったのかもしれませんが、当時の僕には、やっぱり辛いことだったし、どうしてこんなときに……という気持ちにもなりました。「そんなことに影響されないのがプロ」なのだと頭ではわかっているつもりでも、いつまでも引きずっていてはいけないのはわかっていても、それが実際に「忘れられる」かどうかというのは、また別の問題で。
僕はここで、「医療従事者だっていろいろあるのだから、多少不愉快な目にあわされても大目にみてくれ」なんて、言うつもりはありません。そして、「(少なくともわれわれが使える限られた時間では)話が通じない相手」というのも、悲しいことに、この世界には存在しています。でも、ここに書かれている【その際に大切なのは、相手を非難することではない。自分がどう感じているかを相手に伝えることだ。】という言葉は、非常に重みがあると思うのです。もちろんこれは、医療者側から患者さん側へのアプローチの際にも言えることでしょう。人間っていうのは、他人に教えてもらわないと、うすうす自分では感じていたとしても、「自分の言動が他人にどんなふうに伝わっているか」がわかっていないことが多いのです。鏡がないと、自分の顔がどう見えるのかがわからないように。まあ、伝えられることによって不快に感じる人も多いでしょうし、伝えても受け止めてくれなかったら、それはもう「どうしようもない」ので、わざわざそんなリスクを取るよりは、少しの間だけのつながりだから、じっと嵐が通り過ぎるのを待つほうがいい、というのが「処世術」なのかもしれませんけどね。それでも「伝えること」によって、変わる場合も確実にあるはず。
医療者というのは、みんなが求め、期待しているほど「完璧な人間」ではないのです。それだけは、ここで伝えさせてください。