もう、「キツさ自慢」の医者たちの時代は終わった


参考リンク:『病院を去るにあたって思うこと』(ある内科医のひとりごと)

↑の参考リンクの文章を読んでいて、僕もいろんなことを考えさせられました。
僕は10年くらいこの仕事をやっているのですが、正直、そろそろ、自分の限界(という言い方は不適切かもしれませんが)というものが見えてきたような気がするのです。もちろんそれは、「医者としての技術の限界」というものではなくて、「医者として自分が望めるものの限界」みたいなものなのです。僕はそんなに勤勉ではないし、自分で道を切り開いてどんどん論文を書けるようなタイプでもありません。世渡りも得意じゃない。まあ、要するに、大学で偉くなっていくようなエネルギッシュな人間ではない、ということなのです。しかしながら、自分の病院を建てて人を使って「病院」という事業を成功させていくほどの野心もない。とはいえ、ずっとこんなふうに、朝から晩までいつ呼ばれるかわからないような生活を、あと何年続けていけるだろうか?とも感じます。たぶん、あと5年くらいは出来ると思う。でも、10年後は?20年後は?と考えていったときに、僕はなんだか、その想像が怖くなってしまうのです。少なくとも、入院設備がある病院の勤務医で働くということは、僕が昔思っていたほど「気楽」ではありませんでしたし、これからは、どんどん辛いことばかりになっていくと思います。今の時代の趨勢として、多くの病院は「リスクを避ける」ということの優先順位が上がってきていて、「ちょっと問題になりそうな患者さんは、早目に救急病院や比較的大きめの公立病院に紹介する」ようになってきていて、要するに、そういう病院で勤務医として働くということは、そのリスクをたくさん抱えざるをえなくなる、ということになってしまうのです。

 多くの病院では、「患者さんへのサービスの向上」が目標とされているのですが、職員たちの労働環境というのは、残念ながら改善される兆しはほとんどありません。そして、病院を経営している人たちは、スタッフに「患者サービスの向上」と「経営の改善」のために、「どんな状況でも(明らかに専門の医師がいないような疾患でも)患者さんを断らないように」というプレッシャーをかけてきます。実際、そういう経営者たちは、自分で当直をするわけでもないのに。そもそも、あの産婦人科の事件でも、トカゲの尻尾切りのように、ひとりきりで前線で頑張っていた医師がスケープゴートにされました。いや、もしあれが罪だと言うのならば、そんな診療体制を作り上げた病院の偉い人や町の首長に罪はないのでしょうか。

 医者というのは、昔から「キツイことを自慢する職業」だったのです。僕はなんだか不思議だなあ、と思っていたのですが、医者というのは、「自分が、いかにキツイ職場で安い給料で働いているか」ということにプライドを持っている人が多い仕事でした。いやもちろん、100%がそうとは限らないのですけど、医者って、大きな病院で仕事がハードなところのほうが、田舎の夕方には仕事を終えられて休日は当直医にほとんど任せて自分の時間が持てる民間病院より給料が安いなんてことが普通にある職業なのです。それは医局からの派遣だったり、「自分の勉強になるから」というのが理由なのかもしれませんが、「ヒマでラクなほうが給料が良い」というのは、やっぱり矛盾しているような気がしていました。それでも医者というのは、やっぱり、「そんなヒマな病院で働くのはプライドが許さん!」という人が多くて、「ヒマな病院のほうが、多くの給料を出さないと誰も行きたがらない」という人種だったのです。少なくとも、これまでは。まあ、それは職業倫理のたまものなのかもしれないし、あるいは、成績優秀でこの世界に入ってきた人間たちの「強迫観念めいた、ええかっこしい」なのかもしれません。

 でも、最近、どんどん流れは変わってきています。今までは「患者さんの全身が診られないと、医者らしくない」と敬遠する学生も多かった眼科が、「QOLも高いし、目の治療で患者さんの役に立てるならば、それでもう十分じゃないか」ということで、どんどん人気が高まってきていますし、逆に、小児科や産婦人科、外科といった、キツくてリスクが高い科の人気は下降気味です。今まで、「給料は安くても、大きな病院で、最前線で働きたい」という医者の「常識」は、どんどん揺らいできています。でもそれって、普通の「職業」としてはごく当たり前のことで、別に「悪いこと」ではなくて、「そんなリスクを背負ってボロボロになるよりは、ある程度自分の生活を大事にしたい」というだけのことなんですよね。そもそも、どんなに頑張ってみたところで、みんなが教授や大病院の院長になれるわけじゃない。じゃあ、どうするのか?それでも大きなリスクを背負って、いつ破裂してしまうかわからない医者としての自分の可能性に限界まで賭けるのか?それとも、医療を生業として考え、自分の手の届く範囲内の患者さんに誠実な医療をしていく程度で満足して、ひとりの人間としての「楽しい生活」を求めるのか?もちろん、そんな仕事は辞めてしまう、という選択肢だって、なくはないのですが、現実的には、この2つの狭間で、「教授や大病院の院長にはなれない僕ら」の心は揺れ動いているのです。でもね、その一方で、そういう「就職」が、自分の今後の可能性を非常に狭めてしまうというのも事実で、たとえば老人保健施設の院長を5年やった人が、いきなり救急救命センターで働くなんていうことは、現実的には難しいことです。あるいは、開業して自分の病院を建てて、うまくいかなければ目も当てられませんが、仮にうまくいってそれなりの「院長」としてのステータスを得たとして、じゃあ、その次に僕たちは何に向かっていけばいいのか…?自分の「限界」を認めてしまうのは、それはそれで辛い。

 先日のニセ医師のように、お金を稼ぐためだけの仕事と割り切れば、まだまだ「オイシイ職場」というのはありはずです。まだ、医者たちはみんな迷っている最中だから。でも、このまま行くと、みんなが賢くなって「ラクして高収入病院」を選んで、あぶれた者がハイリスクの入院施設のある病院勤め、なんていう事態になってしまう可能性も十分あるのではないかと僕は考えているのです。いや、ちょっと考え方を変えれば、老人保健施設にだって医者は必要なのだし、誰かがやらなければならない大事な仕事なのですから。訴えられるために働くのなら、誰がそこで火中の栗を拾いたがるというのでしょうか?

 でも、ずっと今のままでもいられないのだよなあ……