医者になって良かったなあ、と心から思った瞬間
もう、何年前のことだろうか?
僕はまだ駆け出しの研修医で(今でもそんなたいしたもんじゃありませんが)、そのときはローテーションで救急部で研修していた(内科にも、救急部ローテーションがあるのだ)。
当時、僕の母親はずっと体調が悪くて、実家と病院を行ったり来たりしているような状態だったのだが、その日は、「朝から様子がおかしい」と弟から連絡を受け、実家に行ってみると、明らかに様子がおかしい。うわごとのようなことをずっと言っており、嫌がる母を救急車で一時間かけて、僕が当時の研修先の病院に連れてきたのだ。
このときは治療の甲斐があって、次第に病状は安定し、ようやく落ち着いた。
その日の朝、僕は母親の病室で仮眠をとっていた。
そこに、その病棟で僕が研修していたときの指導医の先生がやってきて、僕に言ったのだ。なんだか、他の患者さんのことでバタバタしているみたい。
「先生、お母さんの採血してもらってもいい?」
「ああ、いいですよ」
身内の採血というのは結構緊張するものだ。
外科の先生は、「絶対に身内は手術しない」という人がけっこう多いと聞く。
やっぱり、平常心ではいられないから。
僕にとっては日常の仕事だったのだけれど、少し緊張しながら、
かなり細くなっている母親の肘の血管に針を刺した。
よかった、一回で成功した…
無事に採血を終えてホッとしていると、母親は嬉しそうに僕に言った。
「お前、採血うまいねえ。全然痛くなかったよ」
僕の採血の腕は、褒められたものじゃない。
研修医時代は、採血のときは本当に鬱だった。
だいいち、針を刺されて全然痛くない人間なんているわけないじゃないか。
僕は、部屋を出て採血管を検査室に持っていきながら、涙が止まらなかった。
このときほど医者になれてよかった、と思ったことはその後もない。
あんまり医者に向いてなさそうな僕がいままで仕事をしてこられたのも、
あの言葉のおかげかもしれない。