「病院で死ぬということ」と「自宅で死ぬということ」


毎日新聞の記事より。

【「住み慣れた自宅で最期を迎えたい」と望む国民は約2割しかいないことが、厚生労働省が実施した「終末期医療に関する調査」で明らかになった。介護する家族の負担や経済的な負担を懸念しているためで、6割以上は一般の病院や老人ホームなどでの最期を希望していた。幸せな死を迎える理想の場所として自宅が挙げられることが多いが、今回の調査は理想と現実のギャップを浮かび上がらせた。

 同調査は、望ましい終末期医療(ターミナルケア)のあり方を探るのが目的で、対象は全国の20歳以上の国民5000人と医師2000人、看護師、介護職員各3000人(回収率50.7%)。92、97年に次いで3回目の調査だが、今回初めて、「自分が最期まで療養したい場所」などについて尋ねた。

 その結果、国民が望む最期の場所としては「病院」が38.2%で一番多く、次いで「老人ホーム」が24.8%。「自宅」は22.7%に過ぎなかった。「自分の家族が療養してほしい場所」でも、最も多かったのは「病院」の41.2%で、「自宅」は26.7%だった。

 自宅以外を望む理由には「家族の看護などの負担が大きい」「緊急時に迷惑をかける」「経済的負担」「最期に痛みで苦しむかもしれないから」などが挙げられた。

 一方、医師の49%、看護師の41%、介護職員の38%は「自宅」での最期を希望し、一般の国民との違いが際立った。「住み慣れた場所で最期を」「家族との時間を多く」などが主な理由だった。】

 これと同じ記事から、ちりんさんがコメントされています。ご参考までに。

 参考リンク:「最北医学生の日常」の11/23分「最後に向き合う医療は」

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 僕は医者になって、もう8年目になりますから、医者として、たくさんの人の死に立ちあってきました。それぞれの人について、いろんな思いはあります。多くは、「あのとき、もうちょっと何かできたんじゃないかなあ」という後悔の念ですが。
 現在、多くの人は病院で死を迎えています。
 それは、否定しようもない現実で。
 たとえば、末期癌の患者さんなどでは、「死を迎えるために病院に入院する」という患者さんは厳然として存在します。
 御家族は、「食事も入らないし、家ではどうしようもない」と言って、病院への入院(=病院での死)を希望されるのです。
 やっぱり、「どうしようもないと思っていても、家で急に息をひきとったりすると心残りだ」というのはあるのでしょうし、「病院にいることで、少しでも状態が良くなれば…」という気持ちもあるのでしょう。どこまで事実かわかりませんが、「あそこの爺さんは、具合が悪くなっても入院させてもらえなかった」と近所に言われるから、なんて話を耳にしたこともあります。

 「死を迎えるために入院する」患者さんに入院していただくとき、医者は気が重くなるのです。残念ながら、「安らかな死」なんていうのは、なかなか難しいもので、それこそ薬剤を使って「安楽死」でもやらないかぎり、人間は苦しまずに死ぬことは難しい。
 自覚的な痛みは麻薬で抑えることができても、呼吸状態が悪くなって一生懸命苦しそうに呼吸されている様子などは、やはり家族にとっては「見ていられない」状況だと思うのです。
 でも、その「苦しそうな様子」まで無くしてしまうことは、今の医学では不可能。
 それこそ、「生きるための最後の努力」なわけですから。

 僕も以前は、そのような「死を迎えるために病院に入院する」という患者さんの家族に対して、「最期まで家にいさせてあげれればいいのに」と思っていました。
 最近はそうでもなくなってきたのですが。
 むしろ、僕自身は、「家で死ねる状況だったらいいけど、それがムリなら病院でも仕方ないな」という考えになっています。

 医者としてではなく、家族の一員として考えたとき、「死んでいく人間の身の回りの世話をする」というのは、大変な負担になることです。僕は医療従事者ですから、そういう状況に慣れていますが、一般家庭では、そういう状態の患者さんにも食べやすい食事をつくったり、排泄の処理をしたりといった行為は、かなりの負担になるのではないでしょうか?
 現代日本では核家族化がすすんでいますから、仕事を持っている家庭では、「誰がそれをやるのか?」というのは、大きな問題。
 亡くなる人間がみんな「昨日の夜までは元気だったのに、朝起きたらポックリ」なんて状況なら、家族の負担は減るのでしょうが、それはそれで心残りだろうし。
 そして、そういう「看護の負担」というのは、人間の心を荒廃させることもあるのではないかなあ、とも思うんですよね。
 死にゆく身内に尽くしてあげたい、という人でも、その期間が長くなれば、純粋な心でいられなくなっても仕方ないような気もするのです。
 そういった「苛立ち」みたいなものは、「最期の家族関係」を悪い方向へ向かわせるのではないでしょうか?

 「それこそが身内の最後の責任だ」という意見もあることは承知しています。
 でも、逆に最後くらい、負の要素は減らしてもいいんじゃないかなあ。
 むしろ、医療や看護の専門家がサポートすることによって、最後の時間をより効率良く使える可能性だってあるわけで。
 「自宅」にこだわらずに、家族がみんなで病院に来て、看護の負担を減らした状態で「死にゆく人間を見送る」、というのも、ひとつの選択肢だと思うのですよ。

 それにしても、人間というのは不思議なものですね。
 自分が死んでしまうという仮定の中でも、「家族の負担」とかを気にしてしまうのですから。

 あともうひとつ考えたのは、たぶん、現代人(とくに若い人)にとって、「自宅」という空間のイメージが湧きにくいのではないかなあ、ということです。

 一昔前なら、持ち家の離れに病人用の部屋があって、孫が「おじいちゃん、だいじょうぶ?」とか顔を見に来る、という感じなのかもしれませんが、現代人にとっての「家」というのは狭いアパートやマンションですし、「そこで死にたい」というような気持ちになれないのも無理ないのではないでしょうか?

 医療関係者に「自宅での死」を望む人が多いというのは、日頃家に帰れないのと、医学的知識を持っているので、「何かあっても対応できる」という自信があるからだと思うのです。
 「病院でも家でも同じなら、わがままが言える家のほうがいい」とか、「病院での悲しい死の風景をたくさん観てきているから、家で死にたい」という面もあるでしょう。
 実際、「自宅での死」を見る機会なんて、一般的な医療関係者はほとんど見る機会もないはずだから、比較しようがないのですが、なんとなく「病院でよりはマシなんじゃないか?」という意識があるのかも。

 人間にとって「死」が避けられない限り、病院は「人間が死ぬ場所」であり続けることでしょう。
 「自宅での理想の死」をうまく迎えられればいいけれど、「病院をうまく利用して理想の死を迎えること」だって、選択肢として考えていいと思うんですよね。

 ただ、今でもホスピスという終末期医療のための施設があるのですが、現時点では、医療の世界は「人間をなんとか生かすこと」に手一杯で、「人間により良い死を迎えさせること」にまでは殆ど手がまわっていない状況なのです。
 そこまでやるには、費用も施設も人手も全てが足りていなんですよね…
 それは、これからの大きな課題になってくるでしょう。

 「病院で死ぬということ」は、確かに悲劇なのかもしれません。
 ただ、「死」というのは、常に悲劇の要素を持っています。

 僕は自分の身内の死を経験して、こんなふうに思うようになりました。

 「死の間際の意識もない状態になって一生懸命話しかけたり世話をするくらいなら、今、そう、まだその人が病に臥せってもおらず、普通に話ができるうちにしっかり話をして、顔を見ておいたほうが、よほど自分にとっても相手にとっても良いことなのではないだろうか?」って。
 
 それが判ったのは、「話ができなくなってしまった後」のことでした。

 そう、みんなわかっているんだ。でも、わかっていてもできないんだ。