31歳男性医師が観た「僕の生きる道」



「僕が生きる道」の最終回を観た。
なんでこんなベタな話に感動しちまうんだろう?
と内心悔しかったけれど、ポロポロ泣いた。

僕は今、31歳。中村先生より、ちょっとだけ年上だけど、ほぼ同世代。
そして、医者でもあるわけで。
つまり中村先生と金田医師の両方の視点から、このドラマを観ていました。

医者の視点としては、
「消化管出血で心臓が止まるような状況だったら、吐血か下血が必ずあるはずだ」とか
「あれだけ(少なくとも15分くらいは)心臓が止まってたら、
心拍は再開しても意識レベルの改善は厳しいんじゃないか」とか、
思ってしまうところもあったのですが、
「僕は最後まで生きたいんです!」
と外出許可を求める中村先生に
「医者として外出許可はできない」
と金田医師が言ったシーンでは、僕は完全に金田医師とシンクロしてしまいました。

 ほんとうは、部屋から中村先生が「勝手に」出て行ってしまったとき、
金田医師は、内心「これでよかったんだ…」と思っていたような気がします。
実際、あのまま病室で亡くなっていたら、すごく後悔したと思うから。

 しかし、現実にあの場面では、外出許可を出すことはできないのです。
 もし、それで彼が外出先で死んでしまったら、「どうして外出なんてさせたんだ!」
と非難する人がいることは間違いないから。

 あのドラマの中では、中村先生、妻のみどり先生、お母さん、
同僚の先生たち、生徒たちが登場人物なのですが、
現実には、こういうときだけ口をはさみたがる親戚とかが、必ず出てくるものなので。

 「責任取るのが怖いんだろう?」って、うん、それもあるよ、正直。

 実際には「死を目前にした人間」(しかも、癌の末期という、極度に消耗した状態)に、
あれだけ体を動かすことができるというのは、まず考えられないし…

 

 と、ひとしきり専門家ぶってみたところで、
僕が人間としてこのドラマに感動させられたことは、紛れもない事実なのです。

 それで、僕はこのドラマについて、どうしても今、書いておきたいと思って、
こうやってキーボードを叩いているのです。
もう夜遅いし、明日も朝から仕事だけれど、
「明日書こう」と思っていたら、もう書けないかもしれないから。

 「僕が生きる道」のクライマックスは、中村先生の死です。
そして、愛する人の横で、教え子たちの感謝の歌を聴きながら迎える死というのは、
言葉にしようがないくらい甘美で感動的なシーン。

 でも、僕は敢えて言いたい。

「僕が生きる道」は、「中村先生が死ぬ」ドラマじゃなくて、
「中村先生が生きていく」ドラマなんだと。

 「若くしてドラマチックに死ぬこと」「愛する人たちに囲まれて死ぬこと」に、僕たちは憬れます。

 それは、あまりにも美しいことのような気がするから。

 人間には、エロスという生きたいという衝動とともに、
タナトスという「死に向かう衝動」があると言われています。
その葛藤のシーソーの上で、僕たちは生きているのです。  
 映画でも小説でも、「死」というのは、もっとも感動を呼びやすいシーン。

 このドラマは、とくに最終回は、「死ぬこと」を前提に話が進みます。
本人も妻も医師も「助かりますか?」とも「生きられます」とも一言も言いません。

 それは、すごく潔い態度でもあるし、このドラマの様式美でもありますが、
ある意味リアリティが欠落している部分なのかもしれません。

 現実は、30にもならないでこんな病気になったら、
最後の最後まで足掻くのが普通だと思うから。

 そして、このドラマに対して僕が危惧するところは
「綺麗な死」にばかりスポットライトが当たってしまうのではないか?
ということなのです。

 

 現実に僕らの周りで起こっている「死」というやつは、
もっと無機質で、もっと無感情で、もっと冷たいもの。
 だから、中村先生が死んだということに対して、死を美しいものだと思わないでもらいたい。

 僕は、「綺麗な死にざま」よりも、物語前半部の金をばら撒いたり、
みどり先生に無理やりKissしちゃったりするシーンのほうに、リアリティを感じました。

 「美しい死」なんてのは、おとぎ話だから、本当に。

 医師として、31歳の人間として感じたことは
「綺麗な死に人は憧れがちだけど、みっともなくても生きているって素晴らしいことなのだ」
ということなのです。

 もちろん、僕は「死は悪だ」と言っているわけではありません。
 でもさ、「死に方」より「生き方」だよ。

 死んだ後のことなんて、自分じゃ(たぶん)どうしようもないんだし。


 最後に、もうひとつだけ。

 「死んだら終わりじゃないですよね」

 僕もそう思います。死んだ人は、きっと今生きている僕たちの中で
さまざまな記憶や知識の断片になって、生き続けていくのです。
何百年、何千年と時間が流れて、
元が誰だか、わからなくなっても。
 そして「生きようとした」人間のほうが、きっと残せるものが大きいのではないか、って。

 もちろん、誰にも知られずに消えていきたい、という人生観を全否定するものではないけれど…

 「死」は、必ずやってくる。僕だって、「余命30年」くらいでしょう。
 それを意識しないのは、たぶん、自分に忘れたふりをするのが巧くなったから。

 

 僕には矢田亜希子はいないけれど、
溺れそうになりながらも、死ぬまでは、生きていくつもりです。

このドラマのタイトルは「僕の死に方」じゃなくて、「僕の生きる道」。