「ビューティフル・マインド」

 本年度アカデミー賞受賞作品の「ビューティフル・マインド」を先日、映画館で観た。
映画の内容は、統合失調症(旧称:精神分裂病)を患いながらも懸命に生きて、ノーベル賞を受賞した数学者ジョン・ナッシュの半生を描いたもので、素晴らしい映画だったと思う。ジャンルは違うものの学問で身を立てようとする人間にとっては、むしろ自分の平凡さを思い知らされて安心と失望をもたらされるものだったのだが。

もう、10年以上も昔の話だ。僕たちは体験実習で、とある精神科の閉鎖病棟をおとずれ、そこで入院中の患者さんたちと1日接することになった。医学部に入って間もない僕たちは、それこそ胸から心臓が飛び出しそうな思いで、その病棟に入っていった。
優しそうなその病棟の主任の先生は、僕たちにこのように語りかけた。
「ここの病棟の人たちは、みんなココロは真っ白です」と。
精神科の医療に興味を持っていた僕としては、気合を入れて、その実習に臨んだつもりだった。
で、その現実はというと、ずっと「ごはん、ごは〜ん」と叫び続ける人、「おんなのこ、おんなのこ〜」とつぶやき続ける人、ず〜っと同じおもちゃで遊び続け、僕たちが何か違うことをしようとすると「ダメ」という子供。

正直、キツかった。真っ白なココロ、なんて、勘弁してくれ、と思った。
まだ実際に人と接すること自体にも慣れていない僕たちにとっては、辛い体験。

人間には一次欲求というのがある。食欲、睡眠欲、性欲の3つ。
それが、人間の本能における最大の目的。

本能に従えば、食べて、寝て、ヤッてという3本柱の人生になってしまうわけだ。
きっとそれが「純粋」なんだろう。
(中島らもさんは、修行によって、禁欲や絶食をする人のことを「そのほうが、その当人にとっては快楽なだけだ」と述べている、参考までに)
僕たちは、本能を抑えて生きる能力を後天的にさずけられた。そしてそれは「自分らしさ」の足かせのように思われるときもある。
孟子は、井戸に落ちそうな子供を自然に助けてしまう人間の感情を「惻隠の情」と呼び、それを人間の根本の性は善であるということの証拠としたが、僕は後天的な教育を全く受けていない人間は、子供を助けないと思う、たぶん。

 それが病気なら、仕方がない。でも、精神的な病気でもなく、自己判断能力を持った人間が、「純粋に生きる」ということを振りかざして、あまりにも身勝手なわがままを通してもいいものなのか。他人に必要以上の忍耐を強いてもいいものなのか。
ナッシュが寮から落とした机が、自分の頭の上に落ちてきたら、どうするんだ。

 ジョン・ナッシュは、統合失調症だから「ビューティフル・マインド」なんじゃない、彼は、自分の病気を自覚しながら、それでも病気とうまくつきあっていこうとし、他人に少しでもかかわりながら生きていけるように努力していったから、「ビューティフル・マインド」なのだ。

 僕は、「真っ白なココロ」なんて、怖くて欲しくない。ピュアじゃなくてもけっこう。このどす黒いココロを抱えて、本能を抑えながら生きていこうと思う。他人には、なるべく白っぽい部分を見せられるように。

実際、根はいい人なんだけどねえ、なんていうけれど、いちいち他人のココロの根っこまで掘ってるほど、僕たちは暇じゃないのだ。