「年俸3500万円」の麻酔科医


asahi.com2008220日の記事より。

関西空港の対岸にある大阪府泉佐野市の市立泉佐野病院で、激務などを理由に麻酔科の常勤医が一斉退職する見通しとなり、後任の医師を確保するため、病院側が最高で年3500万円の報酬を雇用条件に提示していることがわかった。麻酔科医が不在になれば、救急対応を含む大半の手術ができなくなる。拠点病院としての機能低下を防ぐ窮余の一策としている。

 同病院の麻酔科には現在、4人の常勤医師がいるが、いずれも3月末で辞職する可能性が高い。一部の医師が昨年末に辞職を願い出たのを機に、残る医師も「補充なしで手術室を支えられない」と退職を決めたという。

 年収3500万円は病院事業管理者(特別職)の約2倍。厚生労働省の調査(昨年6月時点)では、自治体病院勤務医の平均年収は1427万円で、これと比べても突出している。同病院は所属先のない「フリー」の麻酔科医に1日約12万円の報酬を支払っているといい、この水準をもとに年収をはじき出した。今月1日から大学などに要請する形で募集を始めたところ、これまでに数件の引き合いがあるという。

 同病院は全国に3カ所しかない「特定感染症指定医療機関」の一つ。今夏をめどに、産科医療の中核施設「地域周産期母子医療センター」となる予定で、緊急手術に即応できる常勤麻酔科医の確保が急務だった。市幹部は「ほかの医師の給与に比べて高すぎる、との指摘が内部にあったが、手術ができない事態は避けねばならない」と話す。】


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 3500万円!うらやましいなあ……というのが、この記事を読んで最初に僕が思ったことでした。少々仕事がきつくても、1年がんばれば、地方都市ならマンションの一部屋、あるいは、憧れの一軒家だって買えるくらいのお金が稼げるわけですから。

 しかしながら、あらためて考えると、この話、ちょっと怖くなってきます。

 「年功序列が大原則のはずの公立病院で、年俸3500万円も貰える麻酔科医の『仕事』って、いったいどんな激務なんだ?」と。

 この病院の場合、常勤の医師たちが一斉に辞職しそうなため、こんな高額年俸が提示されたのですが、おそらく、こんなふうに「公募」する前に、今までの常勤医者に対して「年俸アップによる残留工作」が測られた可能性が高いのではないかと僕は想像しています。その科の医者を完全に入れ替えるとなると、どうしてもいろんなことが軌道に乗るまで時間がかかりますし、周りの医師たちとも面識があって「計算が立ちやすい」はずですから。

 でも、おそらくこの病院の常勤の麻酔科医たちは、「その条件なら、残ってここで働いてもいい」とは言わなかったのでしょう。実際に働いていた人たちが、そういう判断をしているというのが、この病院での麻酔科医の仕事の厳しさを如実にあらわしています。

 報道によると、この病院の麻酔科は、4人体制だったそうです。病床数は348床で、ICU-CCU 8床。

 麻酔科医というのは、「手術のときに麻酔をかける」ことだけが仕事のように思われがちですが、実際は(その病院にもよりますが)、手術室の運営だけではなく、集中治療室(ICU)の管理・運営や病棟・外来でのペインコントロールも彼らの業務です。

 また、細かいことではありますが、手術の前日には、必ず翌日に麻酔をかける予定の患者さんの部屋を訪ね、挨拶をして不安を取り除いています。「そんなのあたりまえのこと」だと思われるかもしれませんが、そういう「あたりまえのこと」も積み重ねると、かなり時間はかかってしまうのです。

 そして、この病院で麻酔科医として働くのにいちばん辛いのは、やはり「当直・オンコール」ではないでしょうか。この規模で救急患者を積極的に受け入れる病院であれば、おそらく、「夜間の緊急手術が無い日のほうが少ない」はずで、その際には、当直あるいは当番で待機している麻酔科医が呼び出され、麻酔をかけることになります。

 実際は、多くの小規模・中規模の病院の外科では、「麻酔科である程度研修をした外科医」が麻酔をかけているのですが、この市立泉佐野病院のような「高度な専門医療」をうたい、常勤の麻酔科医がいる病院では、そういうわけにもいかないでしょうし。

 現在の「4人体制」では、4日に1回、通常の日勤→当直→日勤の日があると思われますが、おそらく、この病院では、「当直の日は麻酔科医はほとんど眠れずに翌朝は麻酔をかけている」のではないでしょうか。「当直の翌日は休み」にするべきだと誰もが感じていても、実際にそれができるくらいのマンパワーはどこの病院にもないのです。

 そして、彼らの仕事である「麻酔」を必要とする「手術」というのは、「9時にはじまって、17時に絶対終わる」というものではなく、(もちろん、予定より早く終わる場合もあるにせよ)翌日まで続くようなケースも、けっして少なくはないのです。

 たぶんこの「4日に1回の当直」って、この病院で働いていた麻酔科医たちにとっては、本当に「限界ギリギリのライン」だったと思うんですよ。あるいは、「限界を超えている」と感じていた人もいたからこそ、今回の「全員辞職」につながったのかもしれません。

 今回の報道では、「最高3500万円」の条件で「3人」の麻酔科医を募集しているらしいのですが、実際にこの病院で働いていた麻酔科医たちは、「どんなにお金を積まれても3人でこの病院の麻酔科を維持していくのは無理」という結論を出したのです。

 麻酔科医というのは、僕の知る限り大まかに分けて2種類に分かれます。

 ひとつは、「麻酔という現象や救急蘇生に興味があって、それを追究したいというグループ」。

 そしてもうひとつは、「比較的オンオフがはっきりしている(と少なくとも僕たちが勧誘された時代に先輩たちは言っていました)ので、「日中は忙しいし大変だけど、病棟にはりついている必要がなく、休日に呼び出されることもないので、自分の時間をきちんと持ちたいというグループ」。

 もともと、そういう前提で麻酔科医になった人たちに、「医者なんだから、激務に耐えてプライベートを犠牲にしろ、休みなしで働け!」などと言われても、そりゃあ、納得できませんよね。「激務に耐えてがんばる」つもりで内科医になった僕も、今はもう「当直料返すから、当直したくないなあ……」と思っているし……

 たぶん、この話、もし足りないのが他科の医者だったら、「もうその科は廃止しちゃえ、不採算だし」というような流れになっていたような気もします。

 ところが、大きな病院、とくに多くの外科手術をこなさなければならないような病院にとっては、麻酔科というのは、まさに「生命線」なのです。麻酔科医がいないと、「手術ができない」し、「ICUを維持できない」。

 3500万円は確かに「高額」だし、「他科とのつりあいがとれない」けれども、本当に麻酔科医がいなくなってしまったら、外科系の大部分の科が、「壊滅」してしまうことを考えると、背に腹は変えられないんですよね。「フリーの麻酔科医」の日給が12万、ということなので、「常勤になることによる社会保障などのメリット」と「当直やオンコールなどの病院に拘束されるデメリット」をあわせると、「そんなに驚くような高給?」なのでしょうか。

 でも、本当は「年俸1750万円で麻酔科のスタッフは6人。ちゃんと休めます!」というキャッチコピーのほうが、より多くの麻酔科医の心の琴線に触れるのでは……

 僕にとっては、「ずっと救急医療の矢面に立たされて、3日に1日は徹夜」で、年俸3500万円の麻酔科医よりも、「1年間1軍の試合に一度も出場せず、「お前の登録名は『おカネ』や!」なんて吼えているだけで年俸1億円の人のほうが、よっぽど「腑に落ちない」話です。

 ただ、同じ病院で働いている医者は、たしかに「なんで麻酔科ばっかり!」って言いたくなるだろうな、とも思いますが……