臨床医と病理医のあいだに〜2003年を振り返って


 あんまり実感できないのですが(まだ年賀状も書いてないし)、もう2003年も終わろうとしています。僕にとっては、大きなトラブルにも遭遇せず、比較的穏やかな1年ではあったのですが。
 
 僕が病理で研修してもう1年半になりますし、現実問題として、来年は臨床に戻る可能性も半分くらいありそうですから、ここで「病理医として考えたこと」というのをまとめてみるのもいいかなあ、と思うのです。まあ、今年の反省をこめて。

 病理に来る前の臨床からみた病理というのは、正直なところ「見たらわかるだろ?」というものでした。言葉は悪いのですが、「せっかく患者さんにいたい思いをしてもらって取ってきた組織なんだから、専門家である病理医が顕微鏡で診たら、診断がつかないのはおかしい」という感じで。
 実際、病理から返ってくる返事というのは、「〜の可能性があります」とか「〜も否定できません」とか、けっこうグレーゾーンに属するものが多いという感覚がありましたし。
 もちろん、消化管のポリープなどの比較的良性・悪性の判別がしやすいものはそうでもないのですが、原因不明の肝不全の患者さんに行った肝生検の組織だとか、臨床としては藁をもすがる思いで病理に提出したものが「〜も否定できません」みたいな、「よくわからない」というような返事で返ってきたら、けっこう落胆するのですよこれが。
 臨床医としては、「診断をつけるため」と患者さんや御家族に説明して、痛みを伴う組織生検をやっているわけですから、「それで飯食ってるんだから、もうちょっとしっかり診断してくれよ…」という気持ちになることもありました。

 やっぱり、患者さんに「検査の結果は、よくわかりませんでした」なんて説明するのは心苦しいですし。

 それに、「どうして顕微鏡で見るだけなのに、あんなに一週間とか時間がかかるんだ?」とも思ってました。ほんと、知らないっていうのは怖いものです。
 実際に病理をやってみて感じているのは、病理も奥が深いなあ、ということ。確かにこれは、キチンとやろうと思ったら、一生の仕事だと思います。
 それも、一応どの臓器でも一般的な診断はひとりでつけられる能力をつけて、それに加えて肺とか脳とか、ひとつの臓器のエキスパートになれればたいしたものだなあ、と。
 さきほどの「どうして診断がつかないんだ?」という話なのですが、顕微鏡でみた所見というのは、特異的なものがある一方で、例えば腎不全の腎臓の終末像のように、「原因はどうであれ、末期的な状態になってしまえば所見はみんな同じ」という場合もあるのです。
 「その原因は?」と問われても、「今はこういう状態です」としか答えようがないのです。
 病理医というのは、あまり自分の先入観でものを言ってはいけない面もあると思いますし。

 「わからない」というのが、むしろ誠実な態度の場合もあるのですが、それはやはり、「臨床医が求めるもの」とは乖離しているものなのかもしれません。
 また、「組織がほとんど取れてない」とか「バラバラに崩れてしまっている」ということもけっこうあるんですよね。それで「どうして診断がつかないんだ!」とか「取れているはず」とか言われると、ちょっと辛いのです。
 診断を返すまでにかかる時間のことも、実際に組織をホルマリンで固定(1〜2日)して、それを切り出しして薄くスライスして標本を作り(1〜2日)、さらにそれをパラフィン固定して標本をつくり(1〜2日)、場合によっては特殊な染色を追加して(1日〜長いときは一週間程度)、診断を出す、という過程を考えると、少なくとも今の標本と診断のクオリティを維持するには、これ以上の時間短縮は難しいところがあるんですよね。

 そして、いちばん思ったのが、病理医と臨床医の相互理解の不足。
 病理医の立場からすると、「どうしてこの先生は、診断用紙に臓器の略図と線だけ引いて、“Biopsy”だけ書いて終わりなんだ…」とか思うことが多いのです。
 前述したように、病理診断というのは、「どんな組織でも、顕微鏡で診ただけでわかる」なんてものではありません。
 けっこう上の先生でも、標本を診て、わからなければ本や文献を調べたり、場合によっては専門の先生に相談したりしながら診断をしているのです。

 どんなに優秀な病理医でも、すべての臓器に精通するには、人間の臓器は多すぎるし、奥が深すぎますし。
 肝炎のウイルスマーカーや自己抗体は陽性だったかとか、エコーやCTでどのように見えたかとか、肉眼的にはどうかとか、病歴としては急性の変化か慢性の変化かとか、そういった臨床情報というのは、病理診断にとって必要不可欠なのですが、それがいい加減にしか書かれていない診断用紙というのは、けっこうあって、それには悩まされました。

 もちろん、必要な場合は、こちらから問い合わせることもあるのですが、後になって「この生検は、こういう疾患を疑っていたのに、それについて全然コメントがない!」なんてクレームをつけられて、辛い思いをしたこともありました。そんなことは、診断用紙にはひとつも書いてなかったのに…
 
診断用紙という、一枚の紙切れだけを介しての臨床と病理のコミュニケーションには、自ずから限界があるように思えます。
 僕も実際にこの仕事をやってみるまでは、「診ればわかるだろ」なんて思いつつ、忙しさにまぎれて診断用紙を書くのに手抜きしていましたし。
 「基礎は暇でいいねえ」なんて思っていましたが、確かに臨床に比べて自分の時間を自分でコントロールできるメリットがある反面、実際の仕事時間は、収入の格差を考えれば、そんなに遜色ないのではないかと思います。
 定時に帰ることなど、年に何度か(しかも、何か用事があるときだけ)しかありませんし。

 同じ病院で働いて、同じ目的を持っているはずの臨床医と病理医のあいだにも、これだけの乖離があるのです。
 すべての臨床医が、3ヶ月か半年ずつでも病理をローテーションしてみれば、もうちょっとお互いの力をうまく引き出せるような気がするのですが。

 これから臨床に戻れば、そんなことを臨床サイドに伝えていく、というのも僕の仕事のひとつになるでしょう。

 しかし、ひとくちに「医者」とは言うものの、内科と外科の間にもいろんな違いがありますし、なかなかうまくコミュニケーションできていない場合が多いんですよね。
 お互いに、もう一歩ずつでも歩み寄れれば、スムースになることはたくさんあるはずなのに。

 そうそう、来年は研究の成果を出せるようにがんばらなくては。
 大上段に構えて偉そうなこと言う前に、まずは自分のこと、なんですよね…(溜息)

それでは、来年もよろしくお願いいたします。皆様よいお年を!