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2001.1.8 黄色いカエルの生態 SAKANO 家で大事に飼われている、肌が黄色で眼が赤い、キュートなカエル。本日、"グリエルミンピエトロ君"と命名された。エサとして、モノ凄いご馳走である、尻尾付きのエビを与えられた。口は大きいのだが、エビがちょっと大き過ぎた為、眼をシロクロ(ウソ、赤い眼のまま)させて飲み込んでいた。エサを飲む時には眼を閉じて、一層キュートのな表情になる。人が見ていない時に、いつのまにか見ている方向を変える(カエル、なんちゃって)のが、不思議。特に、今日のお客様である、S氏を好んで見ていた。 他の水槽には、水草に取り付いて藻を食べる"くっつき君"、やはり藻を食べて水槽をキレイにし、死んでしまうとカッパエビセンの様に赤くなる"エビ"、水草の陰からはめったに出てこない"ヌシ"、大事にされ過ぎてやたら大きくなった熱帯魚などが生息している。 2001.1.8 真夜中に喋るピカチュー 単なる玩具のピカチュー。振動させると"ピカチュー!"と発声するという、子供騙しの、いやさ、精巧なグッズ。ダイの大人が数人で、ピカチューをたらい回しにし、"喋らせたら負け"ゲームに没頭。しかし、恐ろしい事実が明かされた。夜、SAKANO 家の全員が寝静まった頃、人間が誰もタッチしていないにもかかわらず、"ピカチュー!"と叫ぶと言う。SAKANO さんは、この世にも恐ろしい出来事を、にこやかに語った。パーティー参加者は、背中に冷たいモノを感じたが、額に脂汗を流しながら、口元には笑みを浮かべて聞き入ったのであった。 |
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2001.3.11 カラフルなトカゲ君の生態
SAKANO 家で、"黄色いカエル"に替わって、大切に飼われている、非常にカラフルな、キュートなトカゲ君。彼は本日、"ビヨルクルンド"と命名された。熱帯産で、暖気は欠かせない為、ガラスの容器の底に、電熱器が置かれている。食事は、"コオロギ"。 |
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2003.4.19 成長して変色したカラフルなトカゲ君の生態
2年ぶりに再会した、SAKANO 家で大切に飼われている、キュートなトカゲ君。"ビヨルクルンド"と命名されたハズだが、セッカク命名した名前は完全に忘れ去られていた。しかも、実はトカゲではなく、イモリの一種であるという。更に、成長によって体色が乳白色に変化しており、自然界における生命の神秘の存在というものを我々人間に諭すが如くであった。だが、そのつぶらな瞳の輝きに変化はなかった。人間達の楽しげな宴が繰広げられている傍らで、いつものようにコオロギを美味しそうに召し上がっていた。 |
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2005.1.2 その後のカラフルなトカゲ君の生態
人間が繰り広げる正月の宴を横目に、相変わらずコオロギを主食として成長を続ける、SAKANO 家のキュートなトカゲ(実はイモリ)君。2年弱の間にもスクスクと成長し、幾分ほっそりとした姿が確認できた。前回の写真撮影からこの日までの間にSAKANO 家には、ウーパールーパー君というライバルが出現していた。だが、ウーパールーパー君はとても恥かしがりやさんで、残念ながらこの日は、我々にはまともに顔を見せてくれなかった。 |
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2006.1.2 今年もカラフルなトカゲ君とウーパールーパー君の生態
SAKANO 家で生息しているトカゲ君だが、成長の仕方は安定し、色合いに大きな変動はない。だが、とてつもなく旺盛な食欲でコオロギを消化し続けている。エサになる前のコオロギが、秋でもないのに、悲しげな旋律を奏でていた。本日はウーパールーパー君も元気な姿を見せ、トカゲ君に替わって著しい成長を目立たせているカメ君も動き廻っていた。SAKANO 家は遂に、"JAZZ が流れる優雅な野生の王国" と化した。 |
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2006.1.31 子犬君の生態
SAKANO 家に加わった新しい家族、名前は「ナナ」。ピーター・パンのお話の、ウェンディーの家の犬と同じ名前である。筆者は未だ実物を拝見していない。「ナナ」が家族以外の人物を記憶することが出来るかどうか、試したいものである。 |
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2006.10.28 子猫君の生態
SAKANO 家に加わった更に新しい家族、名前は「大」(Big)。筆者は未だ実物を拝見していない。トカゲ、ウーパールーパー、犬、猫、トカゲの食料のコオロギ、窓ガラスに張り付く蛾などと、SAKANO 家は動物の楽園状態。 |
寄稿 - ドラマーの談話
フランドル製のチェンバロの構造
text by Masaaki Sakano
第一話 / プランクとプーランク
◆ 皆さん
プランクが「エネルギー量子仮説」をベルリン物理学会のクリスマス・パーティーを兼ねた講演会で発表した、19世紀最後の年、その一年前1899年にプーランクが生まれています。20世紀を席巻することになる量子物理学が19世紀最後の年のしかもクリスマスというまさに20世紀直前に姿をあらわしたのはなんともドラマティックで不思議だと思いませんか?しかもその前年にプーランクが生まれているのです。たまたまカタカナで書いた二人の名前が似ているからといってなんの関係もないのですがまあいいじゃないですか。
◆ プランクは黒体放射のスペクトルの研究から光のエネルギーは古典物理学で考えられていたように連続的な値をとるものではなく、振動数にある定数をかけた値を最小単位とし、必ずその整数倍になっているという考え方を導き出します。これを「エネルギー量子仮説」といいます。振動数νの光のエネルギーを測定すると振動数νにプランク定数のhをかけたhνを最小単位としてhν、2hν、3hν・・・・というようにとびとびの値になります。
E=nhν・・・ということです。 (Eは光のエネルギー)
CD=whmv・・・というのもあります。これは中田さんによる、CDを買うのはポイントが2倍の値をとる水曜日のHMVにかぎるという説です。この場合、=は「買うなら」と読みます。
◆ ところでピアノが楽器の王様であることは、ライオンが百獣の王であり、ナボナがお菓子のホームラン王であるのと同じくらいの常識ですが、この王様に出来ないことが一つあります。他の多くの楽器には出来るのに王様に出来ないこと、さあ一体なんでしょう?ある意味致命的な欠陥といってもいいかもしれません。ピアノは「グリッサンド」ができないのです。グリッサンドというのはある音からあ
る音へ無段階的になめらかに音を移行させることです、バイオリンなどの弦楽器は指板の上で弦をを押さえた指をずらしていけば音を無段階てきに上下させることが出来るというのはイメージできると思います。管楽器の場合でも半音程度であればブレスのコントロールで上下は可能です。ところがピアノの場合たとえばCの音からひとつ隣のC♯になめらかにずらしていくことは出来ないのです。ピアノの奏法にもグリッサンドと呼ばれているものはありますがこれは鍵盤の上で指を滑らせて上下にビロビロひくやつでいわばグリッサンドもどき、あるいはグリッサンドの出来ないピアノの半分やけになった悪あがきにすぎません。
◆ 現代の一般的な鍵盤楽器は「平均律」という調律が施されています。これはオクターブの間の12の音の間隔が等比級数的に並んでいるのです。1オクターブ上がると音の振動数は2倍になります。ある鍵盤の音の振動数に2の12乗根の値をかけたものが半音上の鍵盤の音の振動数になります。平均律の成立によって、鍵盤楽器上での移調に制約が無くなりました。このあたりの調律と音楽の調性の話はとても面白い興味深い話なのですが長くなるので次回にします。まあ要するに平均律というのは近代のもつ便宜性という物に通底しているという話です。
◆ 最近は電子的なチューニング・メーターみたいなものもありますが、平均律で調律する場合二つの音を同時に鳴らしてある単位時間のなかでの「うなり」の数を数えるのです。そのためには二つの音の振動数の値が解らないと二つの音を鳴らしたときに発生するうなりのピッチが解りません。要するに2の12乗根が数学的に解けるまで平均律の調律は出来なかったのです。そうして平均律で調律された鍵盤の上では整数倍的な完全なハーモニーは決して現れません。ピアノのドミソは実は綺麗な和音にはなっていないのです。ところが人間の耳もいい加減なもので、このハーモナイズしていない音でも満足出来るようになっているのです。
◆ と、まあプランクとプーランクということで、光のエネルギーあるいはピアノの音の振動数が段階的な値しかとりえないというところで何か共通性があるのか無いのかよくわかりませんがとりあえずおしまいということで・・・・。ちなみにプランクがノーベル物理学賞を受賞した1918年にプーランクは「ピアノ連弾ソナタ/ Sonate pour piano 4 mains 」、「無窮動/ Mouvements perpetuels 」の二つのピアノ曲を作曲しています。
(掲載 2003.5.31)
第ニ話 / プランクの鉄、プーランクの鉄、クープランの鉄、そして残念!ソレンスタムの鉄
◆ 皆さん
プランクとプーランクの話をしたついでクープランの話しもしてしまおうと。ただしものすごい遠回りをします。何故かとりあえず鉄道の話から始めたいと思います。なぜに鉄道かというとそこに鉄があるからなのです。
◆ 20世紀初頭にベッセマー法などによる鉄の精錬方法が確立し大量の鉄が工業的に生産されるようになります。圧延ローラーのあいだから出てくる鉄のスピードこそが近代の持つ速度への希求そのものとなります。鉄路は製鉄工場から送り出される鉄の「スピード」を消費するためにも限りなくどこまでも続かざるをえなくなったのです。そして一方、鉄と鉄とがぶつかりあう第一次世界大戦が始まります。史上初の総力戦となったこの大戦の戦場の一角にあのモーリス・ラベルもいました。
◆ 大戦に先立つ19世紀後半ドイツは普仏戦争に勝利して賠償金と共にアルザス・ロレーヌ地域を獲得します。石炭と鉄鉱石を産出するこの地域を獲得したことによりドイツの製鉄業は飛躍的に成長します。良質の鉄を生産するためには溶鉱炉内の温度の制御が重要になってきます。当時はそんな溶けた鉄の温度を測る温度計はありませんでした。そこで溶けた鉄の色で温度を知ろうとしたのです。そこでプランクが光のスペクトルの研究をするわけです。そしてこの大戦の後、かたや鉄の科学が量子論へと導かれ近代物理学の扉を開き、一方ではラベルによる「クープランの墓」へ、そして近代の音楽への道が開かれることになるのです。
◆ クープランの音楽に変身するためにふるえる鉄の弦、プーランクの音楽になるために叩かれ続けるスチールの弦とそれを支えるアイアンのフレーム、そして時速300キロで走る新幹線やTGVの線路と車輪が奏でる旅の時間の調べをイメージしつつ書いていくことにします。
◆ 昭和31年東海道線の全線電化が完了します。これにより東京-大阪間の特急列車は全線通しの電気機関車牽引となります。牽引機は EF-58、これにより東京-大阪間の所要時間は7時間30分になります。特急の「つばめ」「はと」(1、2、3等食堂車併結)は当時としては画期的なカラーリングで登場しました。牽引の機関車を含めて明るい青緑色でした。通称「青大将」と呼ばれています。ちなみに東海道、山陽、九州特急の「あさかぜ」(2、3等寝台、食堂車併結)の東京-博多間の所要時間は17時間25分でした。
◆ ところで東海道線が全線電化されるまでは「つばめ」「はと」は蒸気機関車によって牽引されていたことはいうまでもありません。EF-58 に替わるまえの最後の牽引蒸気機関車は C-62 でした。国鉄最後の高速列車牽引用の大型蒸気機関車です。鉄道の路線はそこを通過する列車の種類によって軌道の設計荷重が異なります。C-62 のような大型高速機の走れる路線は東海道、山陽、東北各本線など限られていました。蒸気機関車は蒸気によるピストンの水平運動をクランクによって車輪の回転運動に変換します。回転運動を連続的になめらかにおこなうために車輪に偏心ウエイトが取り付けられています。ところが車輪の回転が高速になるとこの偏心ウエイトが上下の力となって軌道を叩くことになってしまい軌道を破壊することになるのです。この現象をハンマーリングといいます。そのために大型の高速機関車を走らせるためには強固な軌道が必要なのです。
◆ 機関車の車輪で駆動力を持つものを「動輪」といいます。蒸気機関車の型番、C-62、D-51 などの頭のアルファベットはこの動輪の数を表します。Cは3つ、Dは4つです。C-62 のような大型高速機は大きい動輪が必要になります。一方、D-51 のような貨客両用機はそれほど大きな動輪は必要としませんが、その代わり牽引重量が大きい分、軌道との摩擦力を確保しないといけませんから動輪の数を多くします。
◆ さて C-62 をよく見て見ましょう。大きな3つの動輪の前後に小さな車輪が配置されています。前に2つ、後に1つです。前方のものを先輪、後方のものを従輪といいます。さて、機関車のような慣性質量の大きい車両が直線からカーブに入る場合、等速直線運動をしている車両はそのまま直進しようとしますから曲線部分の外側のレールにとてつもない横方向の荷重が掛かることになります。等速直線運動をしている観測者の間では特殊相対性理論によりお互いの時間が遅れて見えますがこの話をしだすとアインシュタインからプランクに戻ってしまいプーランク、クープランへ行けません。
◆ そこで車両が曲線部分に入るときに先輪がまず曲線部分に入り頭を曲線方向に振ってくれるのです。そうすると今度は車両のおしりが外側に振られますからそれを後の従輪がもどしてくれます。C-62 のような2-3-1という車輪配置は「パシフィック型」と呼ばれます。
◆ そしてようやく音楽の話しに近づきますが、「パシフィック 2-3-1」というタイトルの曲があります。オネゲールによる交響的断章 第1番がそれです。蒸気機関車が発進、驀進し、停車するまでのダイナミズムを音響的にとらえたものです。1923年にパリで作曲されていますが、当時即物主義の音楽としてセンセーションをおこしました。
◆ さて、これでまずプーランクまで行く道筋がととのいました。オネゲールはミヨー、タイユフェール、オーリック、デュレ、そしてプーランクと共に「フランス六人組」のひとりです。「六人組」の中でのオネゲ-ルの立場は微妙でしたが、これまた立ち入ると大変なので省略。
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◆ ここで面倒くさいですが1954年5月10日付けのプーランク宛のオネゲールの手紙を全文引用しておきます。
ショーネンベルグ、ブラテルン(バーゼル)にて
親愛なるフランシス
君の「クロード・スルタンとの対話」をいま受け取ったところだ。即座に読んでしまった。ありがとう。これを読んだことで、君は僕に非常に近い存在になったといえる。忠実な友としての君に対する尊敬が増したのだ。君は実に自然な音楽のクリエーターで、そのことが他の連中から君を大きく隔てている。能力のない連中が強制しようとした流行やらシステムやらスローガンやらのなかで、君は尊敬に値するその希有な勇気をもって君自身であり続けたのだ。
僕たちはお互いにとても異なっているが、共通点を持っていると思う。成功よりも音楽を愛しているという点だ。対立したところで、僕たちは同じように表現しているのだ。君はサティーを愛し、フォーレを理解できないと言っている。僕ははじめフォーレを優雅なサロン音楽家だと考えていたが、今では最も尊敬する作曲家のひとりだ。サティーは恐ろしく正しいエスプリを体現しているが。創造的な力にはまったく欠けていると思う。「私の言っていることをやりたまえ、くれぐれも私のやっていることだけはやらないように」と言っているようなのだ。君も僕もシュトラウスの力強さが好きだし、嘆かわしい失敗作の『アリアーヌと青ひげ』より、うまく書かれた『ルイーズ』の方が好きなはずだ。君だってベートーベンやワーグナーやシューベルトの嫌な面がうまく生かされているベルリオーズに十字を切ったりしないだろう。1954年にワーグナーを踏みにじることのナイーブさがわかるだろう?(いちばん人気のある花のエッフェル塔を取り払ってしまえ、と市議会にたのむようなものさ)。君はもう『マイスタージンガー』など金輪際聴きたくないというのかい?僕にとってはそれはまだ味わいたい体験の一つだというのに。僕の大好きなトゥールーズ=ロートレックを全部あげてもいいと思うほど夢中になっているファン・ゴッホを、君は好まない。そのトゥールーズ=ロートレックにしても、きみがグレコを称賛するのと同じくらい僕はたたえているのだよ。
これら全ての違いは僕たちを遠ざけるのでなく、逆に近づけている。多用こそ人生と芸術でもっとも美しいことではないだろうか?君の隣に並んで「僕たちふたりは "正直な人間" だ」と言ったら、君は僕を思い上がっているとおもうだろうか?
友愛をこめて
君のA・オネゲール
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◆ さて、オネゲール、プーランクが出てきたので、舞台を東海道線の線路の上からパリへとうつします。今パリのシャンゼリゼ大通りの歩道の上がちょっとした鉄道博物館状態にになっています。ナポレオン三世の特別列車とか最新のTGVとかが展示されているのです。展示は来月の15日までですから興味のある方はおいそぎを。
◆ さて、シャンゼリゼの歩道を鉄道の車両を見ながら歩いたら、時計の針を戻して18世紀初頭にしましょう。まずは18世紀初頭におけるパリ大改造の話です。パリ大改造と言ってもオスマン、ナポレオン三世によるものでもなければ20世紀のグラン・プロジェも関係ありません。グラン・ラヴァルマンの話です。
◆ クープランと言えばやはりなんといってもクラブサンのための組曲でしょう。1717年から1730年にかけて出版された27の組曲からなる作品です。そしてこの作品が作曲された18世紀初頭のパリでグラン・ラヴァルマンが隆盛をきわめることになるのです。
◆ さて、このあまり耳にすることのないグラン・ラヴァルマンとはなんでしょうか?長くなってしまったので次回グラン・ラヴァルマンの話の話から続けることにしましょう。
◆ 残念でした、ソレンスタムのアイアンもコロニアルCCのグリーンの上では魔法を演じてはくれませんでした。お疲れさまでした、アニカ!
(掲載 2003.5.31)
第三話 / プランクの鉄、プーランクの鉄、クープランの鉄、part2
◆ 皆さん
グラン・ラヴァルマンの話をする前にパリをちょっと離れてフランダースを訪ねてみましょう。フランダースは現在のベルギーの北半分にあたる地域で言語はオランダ語が用いられています。フランダースというのは英語で、オランダ語ではフランデレン、フランス語でフランドルというのですが、この地域にはなんだか良くわかりませんが複雑な言語事情があるみたいで、この地域の人たちは自分たちの故郷の地名が、フランス語圏以外の国でフランス語で呼ばれるのを好まないのです。かといってオランダ語の名称は一般的にあまりにもなじみがないのでベルギー政府もこの地域およびそれに含まれる都市の呼称には英語を用いています。フランダースと言うと、どうも「犬」がまとわりついて「わんわん」いってしまうので、以後この稿ではフランドルを用いることにします。
◆ さて、このフランドル地方は北ヨーロッパのなかでも最も早くから経済的にも文化的にも繁栄していました。14世紀終わりにブルゴーニュ公の支配するところとなり、その後ブルゴーニュ家とハプスブルグ家の婚姻によりハプスブルグ帝国に組み込まれます。16世紀にはスペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねたフランドル生まれのカール五世(カルロス一世)がネーデルランド地方を統一、彼の死後その息子のスペイン王フェリペ二世の支配下に置かれます。ヴェルディーのオペラ「ドン・カルロ」はこのフェリペ二世の息子ドン・カルロの話です。
◆ さて、15〜16世紀のフランドルは数多くの音楽家を輩出しています。それとともに楽器の制作も盛んでした。イタリアに次いで初期のチェンバロが数多く残っているのはここフランドルなのです。そして17世紀に至るまでチェンバロの制作はアントワープ一市に集中していました。そして1575年、史上空前のチェンバロ制作家一族であるルッカース一族がアントワープ市の記録に登場します。この年に初代ハンス・ルッカースは結婚し、4年後の1579年にギルドへの加盟を認められます。彼にはヨハネスとアンドレアスという2人の息子がいましたが、ヨハネスはのちにルッカース家の当主として聖ルカ・ギルドで画家のルーベンスと肩を並べる存在となります。そして17世紀ルーベンスの時代にルッカース一族のチェンバロは大量生産ラインにのり次々と送り出されることになります。ルッカースのチェンバロはマリー・ド・メディシスやマリー・アントワネットも所有していましたし、海運で栄えていた隣国オランダへも大量に輸出されました。ルッカース制作によるバージナルやチェンバロが一般市民の家に置かれ、それらは画家フェルメールなどによってその画面のなかに克明に描かれています。
◆ ところでクープランの話をするためには、どうしてもフランドル製のチェンバロの構造、制作過程の話をさけて通れないのですが、ものすごく簡単に、乱暴にいうと、それまでのイタリアのチェンバロと比べて、その基本構造が「床工法」から「壁構造」になったこと、(ちょっと建築的で面白いでしょう)、弦を支持するブリッジが大きくなり、しかも響板のブリッジの下の補強が無くなったことなどで音の減衰時間が長くなり、硬質ではあるがよくのびる音になったのです。中音域の音が美しく、しかもクリアーであるために多声音楽のかく声部を明確に聞き取ることができるのです。とにかく僕自身本物のルッカースを聴いたわけでもないのでよくわかりませんが、チェンバロのもつイメージとは裏腹にルッカースによる大量生産のシステムやそれによって生み出された構造による音の寛容性が近代のシステムの萌芽として存在するような気さえします。
◆ そして18世紀初頭のパリでラヴァルマンの嵐が吹き荒れることになるのですが、よく考えれば途方もないこのラヴァルマンという行為に耐えることのできる「大きさ」をルッカースの楽器はもっていたということになります。
◆ さてふたたびアントワープの駅の9と3/4番線から列車に乗って18世紀初頭のパリへ戻ろうと思いましたが、よく考えたらアントワープ〜パリ間にこの時代まだ汽車は走ってませんでした。
・・・・・つづく
(掲載 2003.5.31)
第四話 / SOUND OF MUSIC ・・・ ドはドーナツのド?
◆ 皆さん
音律の話・・・その1
楽音は「基音」とその整数倍の振動数を持つ「部分音」とからなっていて部分音は通常「倍音」と呼ばれています。基音のn倍の振動数を持つ倍音を第n倍音と呼ぶのですが、基音とその倍音を下から高さの順に並べたものを自然倍音律おいいます。譜面も使わずに文章だけで説明するのは無理があることは承知でとりあえず説明していきます。
◆ たとえば「C、ド」の音。普通大文字のCで表すのは、ピアノの鍵盤でいえば、真ん中の「ド」の音(小文字c1で表します)の2オクターブ下の音、普通の88鍵のピアノでいうと、左から10番目の白鍵の音です。このCを基音として見ていきましょう。とりあえず、ハ長調の音階を作ってみましょう。最初の倍音、第2倍音は基音の2倍の振動数をもちます。振動数が2倍と言うことはすなわち、オクターブということですから、基音Cに対してオクターブ上のおなじc音になります。(cであらわします)。次は第3倍音、これは真ん中のド(c1)から完全4度下がったg(ソ)の音になります。第4倍音はおわかりだと思いますが、ふたたびc音(c1)、第5倍音はe音(e1、ミ)、そして第6倍音は第3倍音の倍ですからgのオクターブ上のg音(g1)となります。第7倍音はf♯の音になってハ長調の音階にはありませんから省略。第8倍音はふたたびc(c2)第9倍音はd音(d2、レ)、第10はe(e2、ミ)12はg(g2、ソ)15がb(b2,シ)となります。11と14は7と同じ理由で省略。このうちd2,b2は高い位置に出現していますから、これをオクターブ下げてやります。こうするとピアノの鍵盤の真ん中の「ド」の音(c1)から始まるハ長調の音階の骨格が出来ます。ここで出来ているのは振動数が整数倍比で出来ている「純正調音階」と呼ばれるものです。ところがc(ド)、d(レ)、e(ミ)、g(ソ)、b(シ)はそろいましたが、まだf(ファ)とa(ラ)がありません、どうしましょう。c音の倍音からだけだとf、aが出てこないのです。しょうがないので、ハ長調の下属和音(サブドミナント、クラシックの楽理でいう主要3和音のひとつ)を構成するこれらの音はF音(ハ長調の下属調の主音)を基音とする倍音列上から求めます。するとこの2音に関してはさきほどの基音Cに対して10-2/3、13-1/3という整数倍比でない音となります。これが鍵盤楽器の音律に大きな問題を起こすのです。純正調に限りなく近いこの音律は実際の鍵盤の上では使い物にならないのです。この問題を解決する為の調律の方法の歴史、現在における実践に関してはこれ以上文章だけで説明するのには限界があります。そこで乱暴ではありますが、その結果「平均律」が生まれたということだけ理解してください。
◆ プーランクは20世紀、クープランは18世紀の作曲家です。プーランクの時代には楽器はすでに現代のピアノに進化しています。クープランの時代はまだクラブサン(チェンバロ)の時代です。この2世紀の時間の隔たりの中で同じ鍵盤楽器でありながらそこから出てくるド、レ、ミ、ファの音の「振動数」(厳密に振動数の比率)が違っているのです。もちろん、音律の話だけでなく、楽器の響き方など色々な要素が積み重なっての話なのは言うまでもありませんが。
◆ ちなみに現代においてはピアノは真ん中のA(ラ)の音を基準とし、この音を 440 ヘルツにします(モダン・ピッチといいます)。ところが現代においてもバロック音楽ではいわゆる「バロック・ピッチ」といってこのA音を 415 ヘルツでチューニングするのが普通です。ほぼ半音低いチューニングになっているのです。本来バロックの楽器であるリコーダーも学校などで使われているものは(教育用だけではなくピアノなどと合奏するためのもの)は 440 のモダンピッチですが本格的にバロックをやろうとすると、415 のバロック・ピッチのものが必要となります。
(掲載 2003.6.1)
第五話
深夜のコーヒー
◆ 皆さん
このところずっと、ずっと継続しつつ未だ結論に達し得ていない、ROKUTAN 先生との間での研究課題があります。要するに日本語における表層的な意味作用とその裏にあるもう一つの意味作用の問題です。
◆ ここで研究の対象になっている日本語の例文をあげてみましょう。この日本語は日本語を母国語としているある特定の3人のあいだで実際にかわされている日本語の会話からのものです。前後の経緯はいろいろあるのですが、そこに立ち入ると話が長くなりますので、この稿においては省略させていただきます。
◆ 簡潔に整理するならば、(1)ある質問、(2)そしてその問いに対する答え、(3)そして其の答えによって継起されるあるひとつの行動、(4)そして其の行動が引き起こす精神的、肉体的、社会的意味、充足度ということになります。一番難しいのは(2)においてその意味を表層的な第一義的意味合いだけの解釈で終わらせて良い物かという点にあるのです。それでは例文を示します。
A:これから遊びに行っていいですか?
B:いいえ、だめです。
これが基本形です。Bの否定形構文がさらに強調されたものになる場合が多くサンプリングされています。次のような場合です。
C:これから遊びに行っていいですか?
B:だめです。絶対に来ないでください。
さて、日本語としてはかなり簡単なものにすぎません。A、あるいはCの訪問の許可を求める質問に対しBは拒否の返答をしています。一般的にはこのような返答を得たA、およびCはBを訪ねる行動は起こし得ません。特に社会的意味合いに置いてはそうです。物理的には強引に訪問をすることも可能と考えられますが、(4)における双方の人間として充足度を考えるとそのような行動は疑問と考えざるを得ません。
◆ 現在におけるひとつの結論 ・・・
言葉の伝達に置いてはその言葉の辞書的解釈よりも心理的意味合いをもってして第一義的意味として定義しても良いのではないかというのがとりあえず ROKUTAN 先生との間での合意事項となっています。たとえば「バカヤロウ!」と言う日本語を例にとっても解るように優しさのこもった「愛」のある「バカヤロウ!」もありますし、KITA さんご夫妻の「愛」を無条件に信じる我々としては「絶対に来ないでください」という言葉が真の「拒否」を表すものだとはとうてい思えないのです。KITA 夫妻のとてつもなく大きな、大きな「愛」を想うにつけ、この答えは全く正反対の意味を持っている途方もなく大きな、寛容力のある言葉だということにいやでも気が付かされるのです。KITA さんのお宅で過ごすあの至福の時間を思い起こすたび、ふだんは神の存在など考えることのないこの私にすら、ふとなにか至上の御心の存在を感じることすらあるのです。
(掲載 2003.6.1)
第六話
Anything , Anywhere, Anytime !
◆ 皆さん
ノラ・ジョーンズなんてどうでしょう?グラミー賞をそうなめにして話題になりましたが、その前から僕はものすごく気に入って聴いていました。へたな「ジャズ・ボーカリスト」よりもある意味はるかにジャズ的というか、いまさら4ビートに載って "You'd be so nice to come home to・・・" とかいうのがジャズだという気はあまりしないのです。ノラのアルバムは "Come Away with Me" というタイトルです。このタイトル、僕にとってちょっとばかり引っかかるものがあります。
◆ 時は1970年初頭、ベトナムでの戦いも末期のころです。当時米軍の横田基地によく通っていました。飛行機の写真を撮るためです。当時僕は飛行機マニアでした。なかでも民間の旅客機が好きでした。当時アメリカ本土で休暇をとるの兵士達の輸送にチャーターされた民間の旅客機が使われていました。当時羽田に定期便として飛んで来ていたのはノースウエストとパンアメリカンだったと思います。一方横田にはセコンド・レベル、サード・レベルの航空会社の飛行機が飛来していました。それが珍しくて横田通いをしていたのです。
◆ その横田基地の片隅にほとんど飛ぶのを見たことのない機体がありました。ひとつはほとんんど無塗装の銀色の機体にちいさく AIR AMERICA というロゴが描かれたダグラス C-118 という4発レシプロ・エンジンの輸送機でした。そしてその横に何故かいつもいるタイ空軍のフェアー・チャイルド C-123 というやはりレシプロの双発の輸送機でした。当時からこの AIR AMERICA というのはどうも怪しいと言われていました。CIAが運営しているというのです。
◆ そんなことも記憶の片隅に追いやられていた1990年、ある映画が封切られます。ものすごくマイナーな映画でしたから記憶に残っている人はあまりいないと思います。主演はメル・ギブソンでした。僕の最も好きな俳優のひとりです。特にB級作品での彼がものすごくいいのです (映画化されたハムレットもやっていて、これはなかなか悪くないです)。そんな映画の中でなんと AIR AMERICA 、そして C-123 と出会うことになったのす。映画のタイトルはそのまま AIR AMERICA でした。
◆ 舞台は1971年のラオス。当時ニクソン政権はラオスへの政治介入を否定していました。そんなラオスの国内を飛び回る AIR AMERICA の C-123 がほとんど主役と言ってもいいでしょう。とにかく「いい顔」してるんですこの飛行機。飛行中のこの機体前方、斜め情報から空撮で捉えているのですがこれがなかなかいいのです。
◆ 航空会社 AIR AMERICA のモットーは "Anything, Anywhere, Anytime" でした。亡命者、豚、武器、麻薬なんでもござれの宅急便、パイロットは金のため、女のためといった一発山師のやくざものばかりです。そんなパイロット」の一人をメル・ギブソンが演じます。そして苦労してかき集めた武器の山を積んで最後の飛行。武器を売り払った金を持って国へ帰ろうと、そんなとき一人の女のために計画が台無しになります。積んでいた武器を全部投げ捨てて難民を助けることになってしまうのす。その結果彼はすっからかん。難民をおろして飛び立つ C-123 。晴れ上がったラオスの空をバンクしながらとぶ銀色の機体。自分のロマンティストぶりを自嘲しつつもさわやかなおそらくは最後のフライト。
◆ そんなラストシーンのバックに流れるのがフランク・シナトラが歌う "Come Fly With Me" なのです。なんとも感動的で涙がちょちょぎれそうになります。1960年代にシナトラはキャピタル・レコードとの契約の中で膨大なアルバムを残しています。僕の場合ものごころついて最初に聴いた洋楽がシナトラのジングル・ベルとホワイト・クリスマスでした。そんなこともあってかシナトラは特別なのです。今から20年くらい前ですがイギリス版でキャピタル・レコード時代の全アルバムを復刻した23枚組の箱入りLPレコードのセットが出て、おもわず買ってしまいました。大量素数買いです。
◆ キャピタル・レコード時代のこのアルバム群のなかに "Come Fly with Me" , "Come Dance with Me" , "Come Swing with Me" の3枚があります。ノラはその音楽的ベースにジャズがあります、本人の意思、好みにかかわらずアメリカの音楽の土壌にしっかりしみこんだ栄養素としてのジャズ、そしてこのアルバム・タイトルのもつ言葉の記憶がいま新しく蘇ってくるのです。知らなくても知っている言葉の響きなのです。
(掲載 2003.6.3)
第七話
京王線の話、その1
◆ 皆さん
京王線をご利用いただき、ありがとうございます。毎日のご利用が、より一層楽しくなるよう心から願っております。井の頭線が小田急電鉄だったこと、さらには京王も京浜急行も小田急もみんな東急だったというお話。
◆ 現在の京王電鉄の鉄道路線は大きく分けると京王本線、相模原線と井の頭線にわかれます。井の頭線は本線とは軌道の幅もちがいますし、まったくつながってはいません。もともと別の会社として誕生しているからです。京王線は1910年に京王電気軌道鉄道として創業、1913年に笹塚 - 調布間が開通します。1916年に新宿 - 府中に延長、1926年に別会社として府中 - 東八王子間で開通していた玉南電気鉄道を合併します。
◆ 一方、井の頭線は1933年に帝都電鉄として渋谷 - 井の頭公園間が開通、翌、1934年に吉祥寺まで延長されます。
◆ 井の頭線は1940年に小田原急行電鉄に吸収されます。そして戦時体制下、1942年に陸上事業調整法によって小田急電鉄、京浜電気鉄道(後の京浜急行)東京横浜電鉄と共に東京急行電鉄となります。そして1944年には京王電気軌道もこれに加わり、五島慶太率いる、いわゆる"大東急時代"となります。
◆ 戦後、この大東急は、東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王帝都電鉄、そして東横百貨店の5社に分割されます。この分割の際、路線規模が小さく、単独での採算性が低いということで帝都電鉄(井の頭線)が京王線と組み合わされることになったのです。
◆ ちなみに、井の頭線の軌道幅はJR在来線と同じ1067ミリ、京王線は1372ミリの軌道幅です。日本では新幹線のみがヨーロッパなどのスタンダードである1435ミリ(標準軌)です。そしてこの軌道幅の違いが現在の京王線にスピードと素敵な乗り心地をあたえているのです。京王線の8000系、9000系の特急電車に乗り慣れるとJR中央線の201系快速電車がとても前近代的に思えます。
(掲載 2003.7.27)
第八話
京王線の話、その2
◆ 皆さん
京王線はひょっとしたら今、中央線だったかもしれないという話。
◆ 現在のJRの路線の多くは、最初私鉄として開通しています。山陽本線などの幹線も最初は私鉄でした。さて、中央線も最初は私鉄でした。明治22年に新宿 - 立川間に甲武鉄道として開業します。その後路線は延長されますがその辺はちょっと省略、で明治39年に国有鉄道に買収され国鉄中央線になります。
◆ 明治37年には飯田町 - 中野間が電化、初めて電車が走ることになります。
◆ 中央線の快速電車は、大正8年、東京 - 中野間でラッシュ時のみ「急行」を走らせたのが始まりです。その後、昭和36年に「急行」を「快速」に改名、同41年には運転時間帯が拡大され、京王線に特急が出来たのに対抗するため42年に特別快速の運転が始まります。さらに61年にラッシュ時の下りに通勤快速が、63年には青梅線直通の青梅特快が、そして平成5年に通勤特快が走り始めて現在にいたります。
◆ さて、明治の時代、東京の近郊では八王子が繊維産業などで栄えていました。その八王子と都心を結ぶ鉄道が計画されたわけですが、当初、幹線道路であった甲州街道沿いに施設する予定でした。ところが街道沿いの住民達から猛反対を食らうことになります。当時はまだ鉄道の有用性等に対して一般的に理解されていませんでしたし、蒸気機関車から火の粉が飛ぶとか、音で鶏がビックリして卵を産まなくなるとか、そんなことが反対の理由でした。
◆ そこで、しょうがなく、当時それこそ何も無かった武蔵野の野原の真ん中に定規で一本線を引き線路をひくことになったのです。中野 - 立川間の中央線がまっすぐなのはこうした理由によるものです。
◆ ですから、甲州街道沿いの農民達に少しでも先見の明があったら、今の京王線は中央線だったかも知れないのです。
◆ 京王線の話、これにて完!
(掲載 2003.7.27)
第九話
新幹線の話
◆ 皆さん
新幹線の始発駅が、もしかしたら高井戸になっていたかもしれないという話。
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走れ超特急 湯浅譲二作曲 山中恒作詞
ビュワーン ビュワーン 走る
青いひかりの超特急 時速250キロ
すべるようだな 走る
ビュワーン ビュワーン ビュワーン 走る
ビュワーン ビュワーン 走る
丸いひかりのボンネット 時速250キロ
とんでくようだな 走る
ビュワーン ビュワーン ビュワーン 走る
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◆ 1964年10月1日、午前6時、まだ薄暗い東京駅の19番線。ひかり1号が静かに滑り出しました。この日、東海道線新幹線は開業します。最高速度200キロ、東京−大阪間の所要時間は4時間でした。それまでの在来線の特急「こだま」「つばめ」の所要時間は6時間50分、一挙に2時間50分の短縮となったのです。
◆ 東海道新幹線は1959年4月、総工費1,800億円、工期5年で工事が開始されます。1959年といえば、話は全然違いますけど、チャールトン・ヘストンとか出てくるあの70ミリ超大作のあの「ベンハー」が作られた年です。なんと制作費54億円、撮影したフィルムの総延長380キロメートル(新幹線の東京 - 名古屋間に相当)、上映時間3時間42分。新幹線が1,800億円で、映画1本54億円ですよ、すごいと思いません?実はこの映画が作られた30年前にもう1本「ベンハー」が撮られています。無声映画の「ベンハー」です。つい最近 NHK の衛星放送で1日間を置いてこの2本を深夜にやってました。なかなかやってくれるのです NHK 。最近の NHK は最高です。で、この無声映画の「ベンハー」、これがなかなかでした、ベンハーの役者もよかったですし、ローマの海将アリウスなど新しい方よりぜんぜん良かったですし、しかも圧巻は、マケドニアとの海戦シーン、出てくるローマの戦艦の形の良さ、迫力これはもう感動ものでした。有名な仇敵メッサラとの戦車レースのシーンなども不思議な魅力があり、翌々日、新しい方も見たのですが、思ったより迫力がなかったのは意外でした。そんなこんなでベンハーに都合6〜7時間費やしてしまいました。
◆ 話を新幹線に戻すと、新幹線が5年で出来るわけないんです。実はあまり知っている人はいないかもしれませんが、新幹線の工事は戦前から始まっていたんです。戦争が終わった時点で、たとえば日本坂トンネルは完成していましたし、新丹那トンネルは両端から2キロづつくらいは掘れていたのです。用地の買収も100キロ分くらいは終わっていました。戦前に計画された東京−下関間の「弾丸列車計画」の大いなる遺産だったのです。
◆ 1,435ミリの標準軌の採用、溶接によるロングレールの使用。駅外における自動閉塞信号と自動列車停止装置(ATS)、駅構内における自動閉塞信号と自動列車制御装置(ATC)の採用など、1940年に着手されたこの「弾丸列車計画」はその後の「新幹線」計画のかなりの部分を先取りしたものだったのです。その計画の中で最期まで決まらなかったのが名古屋 - 大阪間のルートと東京の始発駅の問題でした。いくつかあった始発駅の案の中に高井戸始発案というのがありました。さらに壮大な計画もあり、対馬、朝鮮海峡にトンネルを通し、大陸の鉄道と直結しようといううものでした。高井戸から新幹線に乗ると翌日には北京あたりに着いている、そんなことになっていたかもしれません。
(掲載 2003.7.29)
第十話
90 th anniversary of KEIO BUS
◆ 皆さん
おかげさまで京王バスも90周年をむかえることになりました。今は昔、1913年に京王線未開通区間の新宿 - 笹塚間、および調布 - 府中 - 国分寺間の運行を始めたのが最初です。東京で初めての路線バスでした。人を乗せる民間航空の最初はKLMでしたが。それに匹敵する歴史を持つ京王バスなのでした。
◆ 今日は、遅くまで新宿で飲んでいて、最後の手段の、新宿発稲城駅経由、南大沢行きの京王深夜バスに乗ることが出来ました。幡ヶ谷から首都高を走ること7分、中央道を8分、稲城大橋を渡ってほぼ20分ちょいで稲城駅到着。何ともすばらしい京王バスなのであります。
◆ あこがれる仕事に、バスの運転手とかがあります。京王深夜急行バスの運転手もなかなかかっこいいのですが、ドイツあたりだと金髪の髪の毛をポニーテールに結んで大きなメルセデスのバスを運転する女性ドライバーとか、メチャかっこいいんですよね。
◆ で、もう一度生まれ変わるなら、一つはドイツで女性のバス運転手になる、あるいはイタリアのくクレモナでバイオリン作りの職人になる、日本に生まれるなら、海上自衛隊の対潜哨戒機の機長になるというのが願いです。
(掲載 2003.8.1)
第十一話
やっぱりもう少し京王線と京王バスの話
◆ 皆さん
かなり暑くなってきました。夏なので冷房車の話を少しだけ・・・。
◆ やはり京王線は偉いのです。関東の私鉄で最初に通勤電車に冷房をつけたのは京王線です。1968年に、5000系電車の17両が冷房化されました。
◆ やはり京王バスも偉いのです。東京で路線バスに最初に冷房をつけたのは京王バスでした。1976年の7月のことです。当時のバスの冷房は冷房機専用のサブ・エンジンを搭載したものでした。その後、1978年に直結式(走行用エンジンでエアコンも駆動するタイプ)となり、1991年には100パーセント冷房化されました。
(掲載 2003.8.5)
第十二話
Lovely Time As Never Before
◆ 皆さん
◆ 昨日は、ジョアン・ジルベルトのコンサートでした。予想を裏切らないジルベルト時間で、始まったのは一時間遅れの PM 8:00 でした。しかも、開演の前、
「本日は、演奏者の希望により空調を停めさせていただきます。」
だって。携帯電話や写真撮影など、指示に従わない行為があった場合、公演の中断・中止がありえるとのアナウンス。観客もいささかナーバスな感じに。
◆ 途中、挨拶があるわけでなし、曲の紹介があるわけでなし、ただ歌っていきます。東京国際フォーラム、ホールAの一階のうしろの方でした。あのばかでかいホールですから、ステージははるか彼方。でも日建設計の KAMEI さんが双眼鏡を。双眼鏡をしっかり持ってきたのは KAMEI さんだけでした。
◆ 一時間半ほどでジョアン・ジルベルト武愛想に退場。しかし再びステージに現れ更に30分、「イパネマの娘」でコンサートは終わりました。
◆ たった一本のギター、たった一人での2時間。終わってみれば2時間でしたが、5,000人も入る、あのうすらでかいホールAの空間も時間もまったく感じさせないものでした。とにかく行ってほんとうによかったコンサートでした。誘ってくれた日建設計の KITTAKA さん、一緒に行ってくれた KAMEI さんにも感謝です。こんなコンサートはそうめったにあるものではありません。
◆ 木々が茂る夕方のフォーラムの中庭も気持ちのいいものでした。フォーラムに集う多くの人びと、カウ・パレードの牛さん達と、ちょっとサウジ・サウダージなジルベルト時間の予感と、そんなものをすべて気持ちよく包み込んでくれるあの中庭。建築家ビニョーリにも感謝です。そしてなによりもこの素敵な「東京のど真ん中」に「Bravisimo!」です。
(掲載 2003.9.13)
第十三話
Santa Maria della Scala
◆ 最近のマイ・ブームは消防車の梯子です。ドイツに Carl Metz という消防車の艤装をやっている会社があります。もともとは梯子作りが専門だったのではないかと思いますが、現在は METZ Aerials GmbH & Co・KG という会社になっていて、ベンツやイベコのシャシーの上に消防車の艤装をする会社です。
◆ ところで、このメッツの梯子がなかなか美しいのです。1980年代からだと思いますが、東京消防庁がドイツ製の30メータークラスの梯子車をかなり導入しています。導入された当時の日本製の梯子はひどい物でした。別にひどくはないのですが、メッツの梯子と比べたときのメンバーの太さを始め、「こりゃだめだ」状態でした。日本では消防車のはしごが美しくなくてはいけないなどとは、誰も考えたことがなかったのです。さすがに日本のメーカーも、これでは駄目かもしれないと思ったらしく、そのあとすぐに新しい設計の梯子が出てきたのですが、すぐにメッツ社から特許侵害かなんかで訴えられていましたけど。
◆ 東京の四谷三丁目の交差点のところに消防博物館があります。ここに古い消防車とかが展示されているのですが、その中にメッツの梯子を架装した梯子車が2台展示されています。
◆ 一台はベンツのボンネット型のシャシーにメッツの全金属製の梯子を架装したもの(日本で最初の全金属梯子車だと思います)、それと、これがなかなかの見物だと思うのですが、いすずのシャシーにメッツの木製梯子を架装したもが展示されています。
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◆ で、このところラテン語と、イタリア語と、メッツの梯子の周辺をうろついているのですが、イタリア語で梯子は scalaですから(あっ、駄洒落になってる!)おそらくラテン語でも同じであろうと、かってに考えています。(ところで、ラテン語は名詞の格変化が6つもあるんですよ、しかも固有名詞も格変化します。そのかわり冠詞がないんです)
◆ scara といえば、Teatro alla Scala の scala と同じじゃないですか。ということは「スカラ座」ってもしかして「梯子座」?知りませんでした。今のスカラ座は、Santa Maria della Scala / 階段の聖マリア教会の跡地に建てられたものだったんですね。
La sobria costruzione, di stile rinascimento italiano e situata su un lato di Piazza della Scala. Il Teatro alla Scala per i milanesi, e non soltanto per loro, e familiarmente “La Scala”, la piu famosa nel mondo delle istituzioni ambrosiane, una delle ragioni per le quali migliaia di persone vengono a Milano.
L’architetto Giuseppe Piermarini, inizio il nuovo Teatro nel 1776, sull’area della Chiesa di S. Maria della Scala, cosi chiamata perche fatta erigere nel XIV secolo da Beatrice Regina della Scala, moglie di Bernabo Visconti.
ということだそうです。
◆ ついでに scala は英語の scale ですから「音階座」「縮尺座」と訳せないこともありません。英語では鱗も scale ですがイタリア語では scaglia といいます。scala は、女性名詞ですから、複数形で scale になります。
◆ 近々、消防博物館へメッツの梯子を見に行こうと思っているのですが、YANAGISAWA さんも一緒にどうですか?
(掲載 2003.9.18)
第十四話
画像二題
The Tyger
Tiger!Tiger!Tiger!
In the forest of the night,
What immortal hand or eye
Could frame the feaful symmertry
In what distant deeps or skys
Burned the fire of thine eyes?
On what wings dare he aspire?
What the hand dare seize the fire
And what shoulder, and what art,
Could twist the sinews of the heart?
And when thy heart began to beat,
What dread hand? And what dream feet?
by William Blake
◆ Congratulations Hanshin Tigers!!!!
白い蛾の飛びかうころに
I went out to the hazel wood,
Becouse a fire was in my head,
And cut and peeled a hazel wand,
And hooked a berry to a thread
And when while moths were on the wing,
And moth-like stars were flickering out,
I dropped the berry in a stream
And caught a little silver trout.
from " WANDERING AENGUS " by W.B.Yeats
◆ 僕のうちは「蛾」の天国です。今日も玄関のドアの横に大きなのが張り付いていました。広げた羽の幅が17センチくらいあります。蝶と違ってほとんど動きませんから観察にはもってこいです。ベアトリックス・ポッターのようにはいきませんが、取りあえずPC上でスケッチしてみました。最初はギョッとしますがよく見るとものすごく綺麗です。ぼくのへたな絵よりはるかに綺麗です。おまけに、W・Bイェーツの詩の一節を。「さまよえるイーンガスの歌」の冒頭です。「白い蛾の飛びかうころに・・・」の一節は、あの「マディソン郡の橋」のなかでフランチェスカがキンケイドを誘うために橋に張り付けた手紙の文に引用されています。
(掲載 2003.9.20)
第十五話
ゲーテの秋、もしくは、丸善のハヤシ・ライス
◆ 皆さん
◆ やはり秋ですから、ゲーテなんぞ読むのも悪くありませんな。ついでに、スヴェント・レオポルトの「ゲーテの猫/もしくは、詩と真実」なども読み直しています。ナポレオンに飼われ、戦線などにも同行し、その後ゲーテのもとに身を寄せた猫の小説です。ゲーテの色彩論の実験に役立ったと自負している猫さんの話です。漱石とホフマンとレオポルトと内田百けん(門がまえに月の字が見つかりませんでした)は猫小説のマスト・アイテムです。
◆ 先日は、日本橋三越でやっている、日本伝統工芸展へ行って来ました。Tさんという人のおばあさんが、志村ふくみさんの一番弟子の染織家で、作品を出していたのでTさんとTさんの彼女と、N設計のYさんも誘って行って来ました。途中、丸善の屋上でみんなでハヤシ・ライスを食べて、そのあと吉野さんと銀座通り縦断で歩いてきました。何年かぶりの銀座通り縦断でした。日本橋マルゼンの屋上のレストランのハヤシライスはお勧めです。なんともいえない、ことばで説明するのが難しい、怪しくも、楽しい場所です。
メフィスト
何ともはや悲しげな顔つきで
赤い半欠け月が昇ってきて
出遅れた光を投げ始めたが
あれじゃいかにも暗過ぎる
お陰で一歩行く毎に
木にぶつかったり
岩にぶつかったりだ!
お許しおば頂いて
鬼火でも呼ぶことに致しましょう
あそこにひとつ
陽気に燃えている奴がいる
おおい!お若いの!
済まんがこっちへ来てくれないか?
そんなところで無駄に燃えて何になる?
いい子だから登って行く
俺たちの足元を照らしておくれ
鬼火
畏れかしこみ 心から
ご指示に沿いたく存じますが
浮いてさまよう本性ゆえ
うまくそういきますことか
ジグザグに動いて行くのが習慣なのです
J・W・ゲーテ 「ファウスト・・・ヴァルプルギスの夜」からのイメージ
(掲載 2003.10.16)
第十六話
真珠湾目前
◆ 皆さん
12月1日、午後5時30分、聯号艦隊の山本司令長官は機動部隊に対して命令を発しました。旗艦「長門」の電信キーを打つと、自動的に呉通信隊から発信されるようになっていました。
◆ 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」・・・十二月八日午前零時以後海戦状態ニ入リ各部隊ハ予定ニ基キ作戦ヲ開始セヨ
◆62年前の丁度今頃、ヒトカップ湾を発進した帝国海軍機動部隊は西経170度、北緯40度のハワイ北方の海域にいます。空母「飛竜」の今日の晩ご飯のおかずは「ハンバーグ」です。
◆12月8日を間近に控えた今日3日は、ハンバーグを食べて歴史に思いをはせるのが毎年の我が家のならわしです。・・・・・・・・うそです!
(掲載 2003.12.6)
第十七話
干 物
◆ 皆さん
◆ おととい kita さんの夢をみました。kita さんの眉毛が何と5つに分かれていて、な〜るほど、こういうのも似合うわけだ!といたく感動したのです。
◆ 最近干物にこっています。先日も伊豆の大島からトビウオのクサヤの干物を取り寄せました。この季節伊豆諸島の沖合で獲れるトビウオを「春トビ」といいます。太陽の熱で翼を失い地上に墜ちたギリシャ神話のイカロスに想いを馳せつつ、太陽の熱で翼を失い、美味しい干物にになったトビウオを頂くのもまたおつなものかと・・・。
(掲載 2004.5.18)
第十八話
五月闇 蛍飛び交い
◆ 皆さん
◆ いささか肌寒い今日この頃ですが、午前中部屋の窓を開けておくととても気持ちがいいのです。窓の外は綺麗な緑でいっぱいですし、まるで絵に描いたようにホトトギスが鳴いています。あとは初鰹があれば完璧です。ウグイスも鳴いています。春に鳴るとウグイスが鳴き始めるのですが、春の最初のころは鳴き方が上手でなく、いかにも練習しているという感じなのですが、時間がたつにつれ「だんだんよくなる法華の太鼓」となります。ホトトギスはこの時期、繁殖期になると「トッキョ キョカキョク」とかいって鳴いていますが、子育てには熱心でなく、ウグイスの巣に卵を産んで人任せなのです。その様子を万葉の時代の人達もちゃんと観察しているんですね。万葉集の中に次のようなのがありました。長歌の一部です。
鴬の卵の中に霍公鳥独り生れて己が父に・・・・・
ホトトギスと言えば、平成17年度の小学校の音楽の教科書に「唱歌」が13曲ほど復活しました。その中に「夏は来ぬ」もはいっています。とても嬉しいニュースです。さて、皆さんはちゃんと歌えますか?歌えないと「音楽」と「国語」が小学校からやり直しです。
◆ 夏は来ぬ
(1)
卯の花の匂う垣根に
時鳥 早も来鳴きて
忍び音もらす夏は来ぬ
(2)
さみだれの注ぐ山田に
早乙女が裳裾濡らして
玉苗植うる夏は来ぬ
(3)
橘の薫る軒端に
窓近く蛍飛び交い
おこたり諌むる夏は来ぬ
(4)
楝散る川辺の宿の
門遠く水鶏声して
夕月すずしき夏は来ぬ
(5)
五月闇蛍飛び交い
水鶏鳴き卯の花咲きて
早苗植えわたす夏は来ぬ
◆ そこで突然ですが、日本語教室です。
@ 来(き)ぬ
A 来(こ)ぬ
の違いについて文法的にしっかり理解しましょう。
◆ 「春は来ぬ」の場合はもちろん@です。まず語幹ですがこれは動詞「来(こ)」です。この場合の「ぬ」は完了の助動詞です。この「ぬ」は活用語の連用形につきます。動詞「来(こ)」はカ行変格活用の動詞ですから、未然、連用、終止、連体、已然、命令が それぞれ、こ、き、く、くる、くれ、こ(こよ)と変化しますから、連用形の「き」について「きぬ」となります。「来(こ)ぬ」の場合の「ぬ」は打ち消しの助動詞「ず」の連体形です。したがって、「来(こ)ぬ人」のように、そのあとに修飾される体言が続くのが普通です。
◆ 日本語解釈練習問題
・・・「夏は来ぬ」の3番の歌詞について説明しなさい。
◆ もう一つ素敵な歌を。「こいのぼり」です。屋根の瓦と雲を波と見る「見立て」のセンスが抜群ですし、それをうける「中空」という言葉がなんとも素晴らしい。「橘かをる」はなんか宝塚のスターの芸名みたいですが、実は宝塚の芸名はこうした日本語の素敵な部分が出ているのですよね。最近ようやく行きすぎた「ジェンダー・フリー」教育に歯止めがかかりつつありますが、「鯉のぼり」の歌なども、ともするとそんなばかげた考えのやり玉にあげられないとも限りません。あぶない、あぶない!
◆ 鯉のぼり
(1)
甍の波と雲の波、
重なる波の中空を、
橘かをる朝風に、
高く泳ぐや、鯉のぼり。
(2)
開ける廣き其の口に、
舟をも呑まんさま見えて、
ゆたかに振るふ尾鰭には、
物に動ぜぬ姿あり。
(3)
百瀬の瀧を登りなば、
忽ち龍になりぬべき、
わが身に似よや男子と、
空に躍るや、鯉のぼり。
(掲載 2004.5.23)
第十九話
万延元年の月見饅頭、および野生の虎の保護について
◆ 皆さん
◆ 幕末の歴史に現れる人物はは数多くいますが、そのなかでも僕にとって慶喜は別格なのですが、その他といえば、やはり孝明天皇、将軍家茂、そして皇女和宮の三人のことが、気になります。三人の「若者」といって良い彼らの当時の心の中を考えながら、大きな流れとしての歴史の中での、個々の人間の心の中の風景のリアリティーのようなものを考えています。
◆ 歴史の状況の現実を考えれば、苛酷でもあり、そのなかで翻弄された生涯であったともいえますが、やはり人間ですからその中にも現在の我々の日常にあると共通するもがあったと思いますし、そう思えばこそ、歴史を考えることが意味あることになるように思えます。
◆「公武合体」の戦略のなかで、孝明天皇の妹でもある和宮が将軍家茂に嫁いだのは彼女が16歳のときでした。実際には彼女は「丙午」であることをきらい、「歳替え」をおこない前年の生まれということにしていましたから、実際には15歳でした。家茂も16歳でした。
◆ 江戸に降嫁する和宮が中山道の道すがら実際に眼にした風景。彼女の心のレイヤーに重なった景色や出会う人々の顔、交わす言葉はどのようなものだったのでしょうか。「悲劇のヒロイン」としての、「悲しみ」、「不安」、「恐怖」のレイヤーの他に、「希望」、「期待」のレイヤーは無かったのでしょうか。なんといっても若いですからそれらを持ちうるエネルギーはあったと僕は考えます。
◆ 万延元年(1860)の6月16日に、宮中で和宮のための「月見の儀」が行われています。男子の場合の元服の儀式の女の子バージョンのようです。お饅頭の真ん中に萩の箸で穴をあけてそこから月を見るのです。「明治天皇紀」によるとその模様は「其の作法、月に百味を供し、女子其の中の饅頭一個を取り、萩箸を以て之に孔を穿ち、其の孔より月を覘き観るなり」ということになります。ドナルド・キーンは著書「明治天皇」のなかでこの「明治天皇紀」の記録文にについて触れ、「この月見の儀には、何か読む者の心を魅惑する「あどけなさ」のようなものが感じられる。たった一人の妹を手放したくない孝明天皇の気持ちが、なんとなくわかるような気がする」と書いています。
◆ この時使用されたお饅頭は「虎屋黒川」のものです。やはりお菓子は「虎屋」にかぎります。虎屋のサイトにこのお饅頭のことが写真付きで掲載されています。
http://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_017.html
当日は水仙饅頭100個、大焼饅頭200個、椿餅30個などが同時に注文されているようで、月見饅頭はひとつだけだったみたいです。そんな記録が残っている虎屋はやっぱりすごい!
◆ 虎屋のサイトによるとこの月見饅頭は直径が七寸もあったようで、女の子が片手に孔の開いた小さなお饅頭もって月を覘き観ているという「あどけない」イメージはこれによってちょっと修正が必要になりました。キーン先生は虎屋のサイト見たかなあ。「明治天皇」の巻末の膨大な参考文献リストには載っていませんでした。
◆ 和宮が江戸で家茂と暮らしたのは2年程度でしかありませんでした。歴史の流れの中で家茂は孝明天皇に会うための上洛を余儀なくされ、彼はそのまま江戸に戻ることなく20年の生涯を終えます。上洛する前に「京のおみやげは何がいい?」という家茂に和宮は「西陣の織物」をおねだりします。家茂の死後その「お土産」が江戸の和宮のもとへ届けられます。
◆ 空 蝉 の 唐 織 ご ろ も な に か せ む
綾 も 錦 も 君 あ り て こ そ
和宮の辞世といわれている歌です。たった2年の2人の生活でしたが、この時2人は現代の若者達と変わることのないものすごく「リアリティー」に満ちた日々を過ごしていたと僕は感じるのですが。家茂と和宮は芝増上寺に埋葬されています。確か、戦後に改葬されたときの話だったと思うのですが、棺の中の和宮の胸の上にガラス湿版による写真が置かれていたそうです。立烏帽子姿の青年の写真だったらしいのですが、開棺後、ちゃんと処理、保管しなかったために、翌日には画像が消えてしまったようです。この写真の青年が誰だったのかという下世話なミステリーです。6歳の時に婚約していた、許嫁の有栖川熾仁(たるひと)親王のものではないかという説もありました。
◆ 虎屋のサイトで今日初めて知ったのですが、虎屋は野生の虎を保護する運動に協力しているのだそうです。皆さんも虎屋のオリジナル・グッズを買うことでトラさんを絶滅の危機から救うが出来ます。
(掲載 2004.5.23)
第二十話
2225年前の冬
◆ 皆さん
◆ やはり「教養人」となるためには、漢籍に親しまなくてはいけません。
風蕭蕭兮易水寒、
壮士一去兮不復還
風蕭々(しょうしょう)として易水寒し
壮士一たび去って復還らず
中国、戦国時代末期にあらわれた燕国の義士荊軻(けいか)による絶唱です。今から2,200年以上前、秦王政(後の始皇帝)の27年、紀元前227年のことです。政が天下を統一する6年前のことです。
◆ 前230年に先ず政は韓を滅ぼします。その2年後には趙(ちょう)をさらに3年後には魏が滅び、春秋時代の大覇者であっ晋が三分された韓、趙、魏が消滅します。韓と趙が滅びたあと危機感を感じた燕の太子丹は秦王政を暗殺することによって局面を打開しようと考えます。そこで送られた刺客が荊軻でした。暗殺は失敗に終わります。楚は前223年に滅ぼされていますし、その後燕、斉を滅ぼし前221年に政は天下統一を成し遂げます。
◆ 荊軻が旅立つ日、太子丹を始め皆が易水のほとりまで見送りに来ます。生還が期しがたい事を知って、皆、白い衣冠に身を包んでいます。見送りの人々の中に荊軻の親友高漸離もいます、彼の奏でる筑にあわせ荊軻が歌ったのがこの歌でした。この時荊軻が天を仰いでフーッと息を吐くと、その息がひとすじの白い虹となって雲間に立ち上り太陽を貫いたという伝承も残っています。
◆ さらに彼は歌います・・・
探虎穴兮入蛟宮
仰天嘘気兮成長虹
虎穴を探って蛟宮に入る、
天を仰ぎ気を嘘けば長き虹と成る
詩人でもない彼が即興で遺したものですが、2千年以上たった今も人々の心のなかにあり続けます。漢詩のなかでもまず最初に思い浮かぶもののひとつです。
(掲載 2004.5.27)
第二十一話
2055年前の夏
◆ 皆さん
◆ やはり「教養人」となるためには「ラテン語」が必要です。それではラテン語の勉強をしましょう。最初は名詞の複数変化です。
◆ ラテン語の名詞はすべて文法上の性をもちます。男性 (m) , 女性 (f) , 中性 (n) のいずれかです。
複数形になるときの語尾の変化の仕方の違いによって、第一変化 (a幹) 名詞と第二変化 (o幹) 名詞に分かれます。
第一変化名詞は単数形の語尾が−aで終わるもので、男性または女性名詞です。
複数形の語尾は−aeになります。
例
puella f. 少女 pl. puellae
poe`ta m. 詩人 pl. poe`tae
◆ 第二変化名詞は単数語尾が−us または−umで終わるもので、
−usは男性または女性、−umは中性です。
複数語尾はそれぞれ-i`, -a となります。
例
ami`cus m. 友 pl. ami`ci`
pi`nus f. 松 pl. pi`ni`
oppidum n. 町 pl. oppida
◆ それでは練習問題(exercita`tio` secunda ) です。次の名詞を複数形にしなさい。
? castellum ? co`moedia ? discipulus ? elephantus
D exemplum ? fenestra ? fluvius ? praemium
◆ e´, a` ,i`,o` 等の表記はとりあえずイタリア語表記からの借用で長母音をあらわしています。アクセント記号ではありませんのであしからず!
◆ 欧米ではよく「モットー」などにラテン語を使うことが多いようです。よく大学の紋章や建物のペディメントなどに刻まれていたりします。たばこのマールボロのパッケージに小さな紋章がついていて、よく見ると小さな字で、
veni、vidi viciと書いてあります。これはガリア遠征のシーザーがローマの元老院に送った「来たり、見たり、勝てり」という報告文です。紀元前51年のことです。僕もラテン語はよく知りませんが、現代イタリア語とはかなり近い部分もあります。
この veni、vidi、vici を現代イタリア語で見てみましょう。
◆ 最初のveniですが現代イタリア語の動詞「来る」の不定形は
venireで一人称、単数、遠過去の変化はvenniになります。nがひとつ多いですが、まあ殆ど同じです。
次のvidiですが現代イタリア語の動詞「見る」の不定形はvedereで一人称、
単数、遠過去の変化系はvidiでこれは全く同じ。
最後のviciは現代イタリア語の「勝つ」は不定形vincereで
同じく変化形はvinsiです。これだけはちょっと違いますねえ。
◆ ここに出てきたイタリア語の動詞は3つとも不規則変化動詞です。現代イタリア語の場合動詞は人称、単数、複数で別の変化をしますし、直説法現在、過去、遠過去、未来、命令形、そして接続法の現在、半過去、条件法現在などによって別の形になりますからそれはそれは大変です。不規則動詞は辞書の巻末に変化表が載っているわけですが一つの動詞で40個くらいあったりしますからたまりません。ラテン語の方も格変化が6つもあったりして、しかも固有名詞まで格変化しますからこれもたまりません。それに比べると英語のなんと楽なこと!
(掲載 2004.5.27)
第二十二話
暗殺者
◆ 皆さん
◆ 久しぶりに、ハインリヒ・マンの「アンリ四世」を読みました。16世紀後半のフランスは、宗教対立による内乱状態でした。ドイツでの30年戦争が始まる少し前です。そこ頃、フランスに三人の「アンリ」がいました。当時の国王、ヴァロア家のアンリ三世。カトリック同盟(リガ)の首領、大貴族ギーズ家のアンリ。そして、新教徒の中心人物であったブルボン家のアンリ、後のアンリ四世です。新教徒との妥協を模索していたアンリ三世は、過激なリガの存在に手を焼きます。リガのアンリは、アンリ三世の新教徒対策に不満を持つパリの街に迎えられ、国王アンリは一時パリを逃れます。そしてアンリ三世はリガのアンリの暗殺を決意、それを実行します。アンリ三世もこの後、刺客ジャック・クレマンの手によって刺し殺されます。そして、国王になった最後のアンリ、アンリ四世も資格ラヴァイヤックの凶刃に倒れる事になります。
◆ 歴史に現れる刺客のなかで、最も有名なのは「荊軻」でしょうか。曹沫(そうかい)、専諸(せんしょ)、豫譲(よじょう)、聶政(じょうせい)、荊軻(けいか)の5人です。なかでも中国全土の人々の恐怖そのものであった始皇帝を倒すために向かった荊軻は、現在に至るまで人々の心から離れません。燕の国を離れる荊軻を涙と共に見送る「易水の別れ」は名場面です。彼は始皇帝の暗殺には失敗しますが、歴史の中に、その名が永遠に刻まれることになります。
◆ 絶対的な「力」を持つものと、その「力」によって極限まで追い詰められるもの。その追い詰められたものがとりうる限られた行動。言ってしまえば「テロリズム」なわけですが、その行為の善悪を判断し得るものが「力」の論理なのでしょうか。「忠臣蔵」などもあえて言えば「テロリズム」なわけで、そこに人間行動の「美学」を見出すというのはいったい何なのでしょう。刺客列伝のなかの豫譲は「士は己を知る者の為に死す」と言っていますが、そんな精神風景をイメージしている昨日・今日です。
(掲載 2004.5.27)
第二十三話
気分爽快!機雷掃海!
◆ 皆さん
◆ 温かいお風呂に浸かり1日の疲れをおとし、湯上がりの爽快感のなかでべったら漬けをつまみながらワインなどいただきます。何時の頃からでしょう、風呂桶がFRP製になってしまったのは。昔は、僕の家でも風呂桶は檜のものでした。木の香りと爽快感ということで、今日は掃海艦の話でもしましょう。
◆ 近年、敷設される機雷も深深度化、高性能化しています。今日紹介させていただく海上自衛隊「やえやま」型は、潜水艦用に深々度に敷設された機雷に対処するために平成元年度予算で建造されました。掃海能力は海面下数百メートルに達します。深々度機雷には敷設された位置で爆発するタイプのものと、キャプターという魚雷型のものがあります。これは、目標を感知すると推進装置が作動してホーミング魚雷のように目標に向かっていくものです。「やえやま型」は深々度機雷用(機雷用という言葉を漢字変換したら最初 「嫌いよう」とかでてきて、笑ってしまいました。)の機雷探知機 S−7(2型)、機雷処分具 S−8係維掃海具の他、中深度用の掃海具、水中処分具も装備しています。これらのことを知識として持っていると、日々の暮らしの中で、とても役に立つ・・・・・ことはないでしょう・・・・・か?
◆ 役に立たないことばかりでもなんですので、掃海艦に関して是非知っておいて貰いたいことを書きましょう。まず、一番大切なのは、自衛隊のこの1,000トンクラスの掃海艦がなんと木造船であることです。掃海艦は磁気機雷の爆発を防ぐため鉄で造るわけに行かないのです。1,000トンという大きさは軍用艦船の中ではごく小さなものですが、1,000トンクラスの木造掃海艦は世界的にも最大クラスです。しかもその大型木造艦建造の造艦技術を大手の造船メーカーが持っていることです。
◆ 「やえやま型」には、「やえやま/艦ナンバー301」のほかに同型艦の「つしま/同302」「はちじょう/同303」があります。?番艦の「やえやま」が日立造船神奈川造船所、2番艦「つしま」、3番艦「はちじょう」が日本鋼管神戸造船所でつくられています。
◆ もう一つ、我が国の海上自衛隊の持つ掃海能力はかなり高いものである、ということです。帝国海軍以来の伝統もありますが、太平洋戦争後に日本の沿岸部で行われた掃海作業の経験が海上保安庁、海上自衛隊と引き継がれているのです。湾岸戦争時、海上自衛隊の掃海艦がペルシャ湾に派遣されています、この時は掃海母艦、補給船、そして4隻の掃海艇が掃海作業に従事しました。この時派遣された掃海艇は400トンクラスの小さいものですから、行くだけで大変です。波に揉まれながら片道一月かかっての航海です。本当にご苦労さまでした。
◆ 四国の琴平神宮には戦後、瀬戸内海などに投下された機雷を撤去する際に触雷して犠牲になった人達が祀られています。たしか79人だったと思いますが、この内の一人は朝鮮戦争のさなかに「戦死」しています。当時、南下する北朝鮮軍が釜山までせまります。追いつめられた韓国軍を支援するため米軍を主体とする国連軍は上陸作戦を行うために、群山、仁川、海州、鎮南浦、元山の五カ所で掃海作業を行う事となります。この作業を行うためにアメリカ政府は日本政府に掃海部隊の派遣を依頼します。当時はまだ自衛隊はありません。海上保安庁の掃海部隊です。もちろんPKO法も周辺事態法も自衛隊派遣法もなにもありません。ある意味違法の隠密行動でした。戦後もこの事実が表面に出て来ることはありませんでした。現在でも知っている人は少ないと思います。そしてこの掃海作業のなかで掃海艇MS−14号の触雷事故が発生します。死者1人、重軽傷者18人を出しています。この時指揮官は負傷者収容後、残り3隻に対して戦線離脱し帰国を命令します。この指揮官は勝手に部隊撤収した責任を取れされて解任されていますが、この後も掃海艇の派遣は行われ、延べ1,200人が掃海作業に従事しています。
◆ ここまで語ると、ただ一言、「ああ、そうかい」とか言われそうな気がします。
(掲載 2004.5.29)
第二十四話
哨戒機の紹介記
◆ 皆さん
◆ 皆さんは "コメット" さんはお好きですか?コメットさんの変形バージョンにニムロッドさんがあります。このニムロッドさんは世間ではほとんど知られていません。
◆ 時は1944年、英国ブラバゾン委員会で決定されたジェット旅客機報告書に対し、デ・ハビランド社が製造に名乗りを上げます。そして1949年、世界初のジェット旅客機、デ・ハビランド DH106 コメットはヘリフォードの滑走路を飛び立ちます。その後、原型1号機、2号機による徹底的な試験が行われ、1950年春には当時の英国のフラッグ・キャリアーであったBOAC(英国海外航空)へ引き渡されます。BOACの乗員訓練も兼ねた500時間のフライトの後、量産型9機がBOACに引き渡され、1952年に1月に(僕がちょうど一才になったころです)南アフリカ路線の貨物便として就航します。そして1952年の5月2日に、ロンドンーヨハネス・バーグ間で世界初のジェット機による定期旅客便のサービスが開始されるのです。
◆ しかし、その後コメット機に悲劇が襲いかかります。1953年5月、1954年1月、4月と立て続けに3件の墜落事故を起こします。飛行中の空中分解でした。時のチャーチル首相は「たとえ、イングランド銀行の金庫が空にになってもいい、徹底的に原因を追及せよ」との命を発します。地中海の海底にバラバラになって沈んでいる機体の破片を出来うる限り回収します。一方、機体が丸ごと入る巨大な水槽を造り、水圧をかけ、金属疲労による破壊実験をおこないます。
◆ 旅客機は高空を飛ぶ際に、機体内部を与圧することによって客席の快適さを保ちます。高々度の上空では外部の気圧は相当低いですから、旅客機の機体は風船のように膨らむわけです。地上に戻ると、またもとの状態、即ち機体の内部、外部の圧力が同じの状態にもどります。繰り返しの飛行の中で機体表面の金属板は延びたり、縮んだり。金属疲労がたまります。
◆ その後、改良を加えられたコメット4型機が運行を始めます。同じ頃アメリカのボーイング社がボーイング707型機を開発中でした。コメット4型はこのライバルの B-707 より3週間早く北大西洋路線に就航するのですが、その後のジェット旅客機の歴史はコメットに対して未来を与えることをしませんでした。スタートこそ遅れはしましたが、これから以後は大型旅客機の歴史はボーイングが牛耳ることになります。
(掲載 2004.5.31)
第二十五話
Come Fly with Me !
続・哨戒機の紹介記
◆ 皆さん
◆ 今と全く違う職業につくとしたら何がいいか?僕の場合やはり哨戒機のパイロットに憧れます。海上自衛隊では最近女性の哨戒機の機長がいるみたいですが、なんとも頼もしいかぎりです。
◆ 前回ご紹介した、英国空軍の対潜哨戒機「ニムロッドは」は同じく紹介した旅客機コメットの機体を原型としています。前にも書いたように、コメットは1949年初飛行ですから、僕よりも年上です。飛行機は元の設計がいいと、以外と長い間設計寿命を保つことができます。ボーイングとの競争に敗れ、結局はBOACがほとんど唯一の運行会社でした。
◆ 今から30年くらい前、僕が現役の旅客機マニアだった頃、1970年代ですが、その頃すでに国際線の花形はボーイング707とダグラスDC−8でした。ダグラス社も旅客機の名門です。その時点でコメットはとっくに過去の飛行機になっていました。僕は一度だけ羽田空港の旅客スポットに英国空軍のコメットが停まっているのをみて感激した記憶があります。そんなコメットでしたが、1980代に突然蘇るのです。コメットの機体をベースにした対潜哨戒機ニムロッドが登場するのです。
◆ 哨戒機は制海権を確保する為に非常に重要な役目をはたします。もともと英国は海運国、海軍国ですし、第二次大戦中にUボートによる通商破壊に手を焼いた苦い経験もあります。日本もそうですが、自国を取り囲む四方の海の安寧をはかる哨戒の任務はとても誇り高いものなのです。そうした誇り高き任務を担う哨戒機は、そこが英国ですが、やはり自前の機体じゃなければ格好がつかないのです。そこで白羽の矢がたったのがなんとコメットだったのです。これにはいささかびっくりしました。機体の原設計は当時でもすでに30年以上経っています。しかし搭載されている電子機器は最新のハイテクぎんぎんの機体なのです。
◆ 英国の軍事は時としてそれ自体がモンティー・パイソン的です。1982年のフォークランド戦争戦争の時、将兵の輸送のためにキューナード社から豪華客船のキャンベラやQE2等を民船徴用しています。1982年の5月に40隻近い数の英国海軍機動部隊がポーツマス軍港からフォークランドへ向かいます。同じ日にエリザベス女王が英国政府に対して「勅令」として民船徴用権を与えます。そしてQE2などは1月弱の期間で、ヘリポート増設などの改装を加え船体の色を全部塗り替えマストに陸軍の将旗を掲げ3,000名の陸軍第5歩兵師団を乗せ戦場へと向かいます。別になにも、QE2でなくてもいいのですが、そこは「芝居」です。機動部隊の艦船の数といい、QE2の徴用といい、勝利したとはいえ、6隻の艦艇と250人の将兵の命を失ったこの戦争自体、まさにモンティー・パイソンです。
◆ フォークランド戦争後、英国で、次のようなジョークがささやかれました。
The Folkland thing was a fight between the two bold men over a comb.
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは、国家、王室、為政者にたいして歯に衣着せない言葉を浴びせる英国国民ですが、ただそのようなことを可能たらしめる「国家」、そしてそれを守ってくれている自国の軍隊に対する限りない尊敬と信頼があることを忘れてはいけません。こうした、国家の行動としての軍事作戦の「確かな記憶」がないとモンティー・パイソンなど、一番ばかばかしいところが楽しめないことになります。
◆ 今年は日本海海戦から100年です。東郷平八郎も山本権兵衛も西郷従道も鈴木貫太郎もみんなみんな忘れてしまった今の日本の精神風土からはスラップ・スティックさえ生まれないような気がします。
◆ 話が長くなりました。まるで冗談としか思えないニムロッドの「容姿」に英国的なものを感じます。シェークスピアの芝居のなかの「劇中劇」の役者のようでもあります。
◆ ニムロッドの話でここまで来てしまいました。最後になってしまいましたが、我が国の海の平和を守ってくれている、海上自衛隊の対潜哨戒機を紹介してお終りにしようと思います。ロッキードP−3C オライオン対潜哨戒機です。この機体も、もとはといえば、ロッキード社の開発した4発ターボ・プロップ旅客機でした。ロッキード188「エレクトラ」です。この機体も初飛行が確か1958年くらいだったと記憶します。この機体も就航後に墜落事故などのトラブルが続き、その改良を行っている間に、世の中がターボ・プロップがらターボ・ジェットの時代へと移行してしまい生産機数も170機程度で終わりました。P−3の場合は旅客機の開発と同時に哨戒機への改造が行われました。日本の政治、外交姿勢が米国追従かいなか、それとは別に各国の軍隊を支える将兵の間にある国際的な信頼関係というものがあるということも今の日本人はイメージすることさえ出来なくなっているような気がします。
(掲載 2004.6.4)
第二十六話
掃海艦−哨戒機−潜水艦−チキン・カリー
◆ 皆さん
◆ 第二次大戦中ナチス・ドイツは最後まで優秀な長距離爆撃機を持つことはありませんでした。何故かヘルマン・ゲーリングは長距離爆撃機に興味を示しませんでした。ドイツが優秀な長距離爆撃機を持っていたら歴史は確実に変わっていたでしょう。
◆ 第二次大戦末期、同盟国であるドイツと日本の間の行き来が問題になります。インド洋、大西洋ともに英国が制海権、制空権を確保しています。日本もドイツも無着陸で飛べるような長距離機はもっていません。最短コースを取るためにソ連の上空を通過するわけにもいきません。やむなく潜水艦による往復を決行します。マレー半島、シンガポールは日本がおさえていますから、ここから出発してインド洋、喜望峰を経由し大西洋を北上、当時ドイツの占領下にあったフランスのロリアン軍港をめざします。行きはドイツの求める天然資源、天然ゴムや錫などを運び、帰りはドイツのレーダーやジェット・エンジンの技術を持ち帰るためです。
◆ インド洋、大西洋ともに英国軍の哨戒活動下にあります。昼間は潜行して航行します。夜は平気かというと、そうではないのです。しかし潜水艦はずっと潜りっぱなしというわけにはいきません(原子力潜水艦は別です)。浮上航行の時はディーゼル・エンジンで走り、その時同時にバッテリーに充電をします。潜水時は空気を取り入れる事が出来ませんから、浮上航行時に充電したバッテリーの電気でモーターを駆動し航行します。当時は浅深度航行時に空気を取り入れるシュノーケルもありませんでした。特に、大西洋に入ると大変です。昼間も夜も英国の哨戒機につけ回されます。ほとんど浮上することが出来ないのです。浮上しないと充電が出来ませんし、艦内の空気はどんどん汚れていきます。本国、ドイツとの無線交信も出来ません。当時英国は電波探知機を実用化していましたから、少しでも電波を発信すると位置を突き止められてしまいます。
◆ ようやく大西洋もフランスの沖合に達し、ここで出迎えのドイツ海軍のUボートと洋上で会合します。最小限の通信で決められた会合のポイントで決められた時間に両国の潜水艦が至近距離で同時浮上します。これは感動のシーンです。
◆ こうして行われた数回の潜水艦による往復の試みも成功に終わったのは2,3回しかありませんでした。しかしこの航海によって、たとえば当時ドイツにいたインド独立運動の闘士、チャンドラ・ボースが日本の土をふむことになります。
◆ インド独立の闘士にもう1人のボースがいます。ラス・ビハリ・ボースがその人です。彼は大正4年に英国支配下のインドから日本へ亡命してきます。当時は日英同盟下でもあり英国政府は日本政府に対しボースを国外退去させるよう圧力をかけます。最初は日本政府も弱腰で対応、国外退去を決定するのですが、犬養毅、頭山満などが反発、そして新宿中村屋の創始者である相馬愛蔵、黒光夫妻がボースの身柄を引き受けこれをかくまいます。その後もしつこい英国に業を煮やした日本政府は態度を一変させます。大正11年には日英同盟が破棄されます。その後ボースは相馬夫妻の娘俊子と結婚します。このボースがインド式の「カリー」を日本に伝えたいと申し出ます。おかげで現在我々は美味しい中村屋のチキン・カリーをいただくことができるのです。
◆ 潜水艦の話がカリーの話しになってしまいました。これは僕にとっても予想外の展開でした。
(掲載 2004.6.7)
第二十七話
真の飛行艇
◆ 皆さん
◆ 中国の戦国時代、秦の統一の前、七強が競っていいた頃の話です。諸国を往来した商人の1人に呂不韋(りょふい)という人物がいました。彼は趙の都邯鄲(かんたん)で秦から人質として送られてきている、秦の昭王の孫の子楚に会い、
此れ奇貨なり。居く可し(おくべし)。
と、言ったのです。奇貨とは掘り出し物のことです。呂不韋が見いだしたこの子楚の子供が孝文王でその子供が政、後の秦の始皇帝です。
◆ 「秦の始皇帝」の話をし出すと長くなるので、今日は「真の飛行艇」の話でお茶を濁
すことにします。
◆ 民間航空の歴史の中に「飛行艇の時代」というのがあります。1930年から1945年の間の15年くらいでしょうか、大洋横断の大型飛行艇が活躍した時代がありました。当時郵便飛行から旅客輸送の時代へとなりつつありました。飛行機の技術が進み長距離を多くの旅客を乗せて飛ぶことが出来るようになったのですが、大型の飛行機が離着陸出来るような長い舗装滑走路を持つ空港設備はまれでした。しかも航法技術も未熟で、地上からサポートも不完全でした。さらに当時の飛行機は離着陸時の安定性がなく、特に横風に対しては極めて脆弱でした。そこで大型機の荷重に耐える舗装滑走路の設備も不要で、しかもどの方向からも離着陸可能という飛行場として、海面が使われることになったのです。そんな大型飛行艇もその華やかな時代は極めて短いものでした。第二次大戦が終わる頃にはダグラスDC−4、DC−6、ロッキード・コンステレーション等の大型旅客機にその任務をバトンタッチすることになります。
◆ 夕日の沈みゆく海の上に次の飛行に備えて翼を休ませている大型飛行艇の姿をイメージすると、なにか「古き良き時代」という言葉がピッタリのような気がします。フィッツジェラルドの小説でも読みたくなります。
(掲載 2004.6.7)
第二十八話
バークにまかせろ!
◆ 皆さん
◆ まもなく、北海道旭川から明治天皇がご到着になります。安着されることを心から願っているしだいであります。
◆ 前から読みたいと思っていた本のひとつにドナルド・キーンの「明治天皇」があります。上下2冊で、各三千二百円するのでちょとためらっているうちに月日が過ぎてしまいました。先日深夜の tsutaya で同じくドナルド・キーンの「明治天皇の肖像」という新書を買って読み、いよいよ時来たれり、といった感じで仕方なくネットで古本を探したら、旭川の古書店に2冊で三千円というのがあったので注文しました。ドナルド・キーンは大好きな学者の1人です。彼の日本語は書いたものも、話す言葉もとても美しい。最近のバイリンガル・タレントのようなうまさでは決してないのですがとにかく綺麗な日本語を話します。僕が一生かかってもあんなに綺麗な日本語を話すことはおそらく出来ないでしょう。
◆ ところで、明治天皇はやはり北海道から来るのに限ります。明治9年に明治天皇は東北、北海道に巡幸されます。7月16日には「明治丸」で青森から函館に到着、この時は「海陸に点ずる紅燈は水際に映じて、各船より打揚る煙花は星宿の彩を奪ふ」という盛況で、その光景を錦絵「函館港烟火天覧図」が今に伝えています。翌々18日、函館を出航し20日に横浜に到着されます。この7月20日は後に「海の記念日」になり」さらに平成になって祝日「海の日」となります。由来を知っている人はあまりいないでしょう。この時に明治帝が座乗された「明治丸」は現在商船大学構内に重要文化財として保存、公開されています。
◆ 明治丸は灯台補給船として英国グラスゴーのネピア造船所で1874年に建造されています。最初は2本マストの船でしたがその後「3檣シップ」型帆船に改造されます。「3檣シップ」というのは、3本のマスト(帆柱)を持ち、3本のマストすべてにヤード(帆桁)を装備したものです。3檣シップの場合3本のマストは前からフォア・マスト、メイン・マスト、ミズン・マストと呼ばれます。明治丸は後にミズン・マストのヤードが腐朽したためにこれを取り外しました。ミズンマストにヤードのない船型は「3檣バーク」と呼ばれるのですが、明治丸は一時期「変形3檣バーク」の容姿をしていたことになります。現在は3檣シップの形に復元されています。
◆ 3檣バークといえば、ウイスキーで有名な「カティー・サーク」号は3檣バーク型のティー・クリッパーです。この船は1869年にやはりグラスゴーのスコット・アンドリントンズ造船所で進水しています。ティー・クリッパーというのは「高速茶積帆船」のことです。中国やインドで取れた茶葉を新鮮なうちに如何に早く運ぶかというのが「ティー・クリッパー」の使命でした。1833年にイギリス東インド会社の独占がなくなり、競争が始まります。その年取れた新茶を誰が最初にイギリスに運ぶかという「ティー・レース」がおこなわれていました。1850年の12月3日にアメリカのクリッパー・ボルチモアが1,500トンの新茶を積んでイギリスに到着します。その年に取れた新茶がその年のうちに飲めるのはこれが最初でした。この時の茶葉はプレミアがついて高値で取引され、クリッパー・ボルチモアはこの一航海で船の建造費の三分の二を稼いでしまったといわれています。そんなことがあって英国でも対抗のために建造されたのが「カティー・サーク」なの
ですが、カティー・サーク建造の一週間前にスエズ運河が開通しています。また船も帆船から蒸気船への時代へとなっていきます。ここにもまた「古き良き時代の終焉」があります。
◆ 今は無きパン・アメリカン航空の飛行機はクリッパーと呼ばれていました。全ての機体に「Clipper・・・・・」という愛称がつけられていました。映画「2001年宇宙の旅」のなかでヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」の音楽にのて宇宙ステーションへアプローチする宇宙船はパン・アメリカン航空の機体でした。おそらく、ちゃんとクリッパー・ネームが付けられていると思います。調べてみます。戦後の民間航空界をリードし、ひとつの憧れ出もあったアメリカのフラッグ・キャリアーが2001年を待たずに消滅してしまうなんて、アーサー・C・クラークを含めていったい誰が想像しえたでしょうか。ニュー・ヨークに行っても、パーク・アベニューに跨るパンナム・ビルがメトライフビルになってしまっているのは何とも寂しい限りです。
◆ 今回添えた歌は明治帝の皇后、後の昭憲皇太后のものです。明治帝も歌人で、生涯に10万首の歌を残していますが、皇太后も沢山の歌を残しています。僕はこの昭憲皇太后が大好きなのですが、これも長くなるので省略しますが、前述のドナルド・キーンの「明治天皇の肖像」を読むとこの時代における彼女の立派さが少しわかります。皇后は子供を産むことは出来ませんでしたが、その行動力と少女のような好奇心は生涯変わらず、明治帝の大きな支えとなったのです。そんな皇后が詠んだ乗り物関係の歌のひとつです。「造船所」は日清戦争時に捕獲した清国海軍の戦艦「鎮遠」の修理作業を見ての歌ですが、造船所に船見に行く皇后なんて素敵だと思いません?
飛行機
たくみなるわざと開けて神ならぬ人も空飛ぶ世となりにけり
造船所
たくみ人よりてつくろふ船見れば皆御軍のえものなりけり
(掲載 2004.6.11)
第二十九話
Carthago delenda est
◆ 皆さん
◆ ふたたびラテン語教室です。
◆ Carthago derenda est
プルタコスの「対比列伝」(英雄列伝)の「大カトー」の章によると、カトーはなにかにつけてカルタゴ殲滅論を唱えていたようで、全ての意見を述べるにあったって最後は必ず上記の言葉で締めくくったらしいです。「カルタゴは滅びなければならない」という意味です。
◆ この言い回しにも見られるのですが、ラテン語には独特の表現のセンスがあります。この場合でも主語はカルタゴになっていて、まるでカルタゴの問題のように聞こえますが、じつは「滅ぼす」主体があって、それはじつのところローマなわけです。しかしそこを、そう言わないのがラテン語のみそなのです。
◆ 紀元前216年、ハンニバルが象にのってアルプスを越えてイタリアに入ります。第二次ポエニ戦争です。そしてこの戦いから1世紀後カルタゴは地上から抹殺されます。
◆ ラテン語には動形容詞 ( gerndivum ) という品詞があります。動名詞 ( gerndium ) は英語にもありますが、この動形容詞はラテン語独特の言い回しに大きく関係しています。この文でも動名詞形の delendum (滅ぼすこと)を使わずに動形容詞形のdelenda (滅ぼされるべき)という受動的なニュアンスの品詞を使っているのです。
◆ 「証明終わり」の意味で使われるQ.E.D. は Quod erat demonstrandum の略語ですが、
このこと ( quod ) が証明されるべき ( demonstrandum ) であった ( erat )。
となっていてこの demonstorandum は 動詞 demonstro の動形容詞形です。
◆ 動形容詞は上記の文のように sum ( est は英語の be 動詞にあたる sum の3人称単数形です)と一緒になって述語的にも使われますし、名詞を修飾することもあります。
◆ 名詞を修飾する言い回しで面白いのをひとつ。アントニウスとオクタビアヌスとレピドゥスによる「三頭政治」というのがありましたよね。これはラテン語では triumvir rei publicae onstituendae と言うのですが、
再建されるべき ( constituendae ) 国家 ( rei publicae ) の三人組のひとり ( triumvir )
というわけで、実質的には「〜することを」「〜するための」「〜すべき」ということなのですが、そこをそう言わず、まるで他人事のように「〜されるべき」とか述べて、そうすることで自らの行動を正当化し、普遍的価値を与えようという古代ローマ人の発想が面白いのです。
(掲載 2004.6.16)
第三十話
金メダル
◆ 皆さん
◆ やりましたね、「たわらちゃん」が金メダルです。
◆ オリンピックの何よりの楽しみは、世界中から集まる選手の名前の多彩なところにあります。さしあたって水泳のピーター・ファンデン・ホーヘンバンドあたりがそのアナウンサー泣かせの長さと競技における実力を含めて金メダルものです。柔道60キロ級、モンゴルののツァガンバータル・ハスフバータルあたりも悪くありません。モンゴル人の名前は最近お気に入りです。相撲の朝青龍の本名ドルゴルスレン・ダグワドルジもかなりいいですね。卓球の愛ちゃんの初戦の相手は、ミャオ・ミャオでした。
◆ サッカーのイタリア代表なんかみんなイタリア人の名前でいいですねえ(あたりまえだ?)。ペリッツォリ、ボネーラ、フェラーリ、バルツァッリ、モレッティ、ピンツィ、デ・ロッシ、ピルロ、パロンボ、ジラルディーノ、スクッリ。監督なんかクラウディオ・ジェンティーレという名前。Gentile はイタリア語で優しい、とか親切な、とか上品なという形容詞ですから直訳すると(?)、「優雅ななクラウディオ」。監督としてまずは素敵な名前です。
◆ 他にも素敵な名前を見かけたら教えて下さい。
(掲載 2004.8.16)
第三十一話
イタリア語学習の成果
◆ 皆さんは "なし(梨)" は好きですか?"なし" といえば・・・・"なしめんと"・・・・
"みるとん・なしめんと" と "まるこす・あんとにお・がるしあ・ど・なしめんと" と、どっちが好きですか?
◆ ところで、うなぎやの店の中にどういう訳か船で使われる滑車装置が置いてあって、その前で一人の女の人が鰻丼を食べていたとすると、イタリア語では次のようになります。
Davanti a una ghia della unagi-ya, una donna stava mangiando una una-don.
ダヴァンティ ア ウナ ギア デッラ ウナギヤ、ウナ ドンナ スターヴァ マンジャンド ウナ ウナドン。
訳 : うなぎやの滑車装置の前で、一人の女が一杯の鰻丼を食べていた。
(掲載 2004.8.17)
第三十二話
中国で大事な物
◆ 皆さん
◆ 中国で大事な物 (中国旅行を思い出しながら)
(1) 関公
ご存知三国志に出てくる関羽であります。姓は関、名は羽。食事をしたレストラン等、関公が祀られているところが多いのです。横浜の中華街にも関帝廟があります。一週間、びったり付いてくれた通訳の女性も関さんでありました。今回中国で買ってきた土産物の一つは真鍮の鋳物で出来た、馬に乗った勇ましい関公の置物です。
(2) 狛犬
建物の入口によく狛犬がいます。日本では二匹が「阿吽」の形をとっていますが、中国の狛犬は「阿阿」であります。日本人と中国人の性格の差が現れているような気もしました。
(3) 李白
帰るときに、仕事先の人がお土産絵をくれました。中国の三大「搭」の一つである「黄鶴楼」という建物の形をした小さな金属製の風鈴でした。それだけだと安っぽいただの土産物なのですが、実はこの黄鶴楼で詠んだ李白の有名な七言絶句があり、このことに気が付くと、キッチュな土産物が突然とてもありがたいものに大変身します。
黄鶴楼送 孟浩然之広陵 李白
故人西辞黄鶴楼 故人西ノカタ黄鶴楼ヲ辞ス
煙火三月下揚州 煙火三月揚州ニ下ル
孤帆遠影碧空尽 孤帆ノ遠影碧空ニ尽キ
唯見長江天際流 唯見ル長江ノ天際ニ流ルルヲ
・・・がそれでありますが、やはり有名な唐の詩人孟浩然が揚州へ行くのを見送る詩であります。おそらく孟浩然は突然「揚州炒飯」が食べたくなって出かけたものと想像されます。僕がうろ覚えの漢詩を書き出すと関さんがその先を書いてくれたりして、知性ある素敵な女性でしたが、とにかく日本と中国の漢字文化の共有の楽しさが味わえました。これぞ「中華三昧」!!!
(4) 香港
香港といえば、
「ホンコン焼きそば、ホンコンにうまいよ!」
という、立川談志がやっていた大昔のTVコマーシャルがどうしても頭をよぎってしまいます。それはさておき、香港といえばやはり " Love is a many-splendored thing " 、ご存知映画「慕情」であります。主題歌のコード進行は下記の通りであります。
Bb | Gm | Dm | Dm | Eb | Cm | Gm | Gm
Cm | Cm | Cdim | Cdim | Gm | A7 | D | F7
Bb | Gm | Dm | Dm | Eb | Cm | Dm7 | G7
Cm | D7 | G+/C9 | Ebm6 | Gm | Cm/F7 | Bb | Cm7/F7 ||
◆ やはり曲の歌詞にもあるように " Once on a high and windy hill " ということでケーブルカーで丘の上に登ってみました。映画の中でのジェニファー・ジョーンズの台詞 "・・・・There is no greater thing in the world (on the earth だったかもしれない)than gentleness ・・・・" を思い出します。香港のザ・ピークにのぼると「優しさ」こそが地上でもっとも大切な、かけがいのないものであるということに、いやでも気が付くのです。KITA さんのうちを訪ねたときの NORIKO さんの眠たそうな姿が忘れられません。おねむの NORIKO さんのあの姿などこの地上における「優しさ」の具現の数少ないひとつなのかもしれません。
(掲載 2004.11.8)
第三十三話
牛にカウベル、猫にバイオリン、KITA さんにギター!
◆ 皆さん
◆ 今年は、クマがしばしば里に降りてきて何かとニュースになっています。先日もテレビのニュースで、放牧しているウシがクマに襲われないように、首に大きな音のするカウベルをつけられていました。ベルをつけられたウシは自分の首のところで鳴る大きな音におどろいてピョンピョン飛び跳ねていました。牛さんが飛び跳ねているのってどこかで見たことあるなあと考えて、はたと気が付きました。イギリスのナースリー・ライムのなかにある有名な詩、Hey ! Diddle Diddle ! です。マザー・グースの詩のなかでも、Baa Baa Black Sheep , Humpty Dumpty などと並んで定番中の定番です。
◆ 今から10年以上前ですが、ほるぷ出版と言うところから古いイギリスのナースリー・ライムの復刻版がでました。十数冊のセットで10万円以上したように記憶しますが、なんと買ってしまいました。色々な大きさ、装丁の本がかなり見事に再現されています。僕の宝物のひとつです。なかでも Arthur Rackham の挿し絵による William Heinemann 版がお気に入りです。今でも時々声を出して読んでいます。英語の音を少しでも身体のなかに持つためには、とにかくマザー・グースは必須です。これがないとシェークスピアもコール・ポーターもへったくれもないのです。
◆ Hey! Diddle Diddle ! は意味など全くない、ナンセンス詩ですが、これほど映像的なイメージを喚起させてくれる詩もないでしょう。古今、多くの人が絵に描いています。
(掲載 2004.11.25)
第三十四話
Born In The U.S.A.
◆ 皆さん
◆ 11月21日の大相撲、垣添が取り直しの末、気迫のこもった相撲で琴光喜を破りました。垣添は大分県宇佐市の出身です。宇佐と言えば宇佐八幡。宇佐八幡と言えば聖武天皇の時代に中央政府と結びつき絶大な権威を持つようになります。ここから出る御神託が政治を動かす力を持ちます。弓削の道鏡が暗躍するようになるのもこの御神託の力と関係があります。で、この御神託に「異議」を唱えたのが和気清麻呂です。地方官として派遣された和気清麻呂はこの宇佐八幡の権威と闘い道鏡が天皇になるのを防いだということで、戦前までは歴史上の大忠臣ということになっていました。
◆ 皇居のお堀の北東のカド、気象庁があるあたりに清麻呂の銅像が建っています。最近ではこれが誰の銅像かなど誰も知らないでしょう。彼は長岡京、平安京造営にも関わっていますし、なりよりも地方行政官として、地方政治の改革者として実力のあった人だと思います。彼のお姉ちゃんは広虫とと言う名前です。彼女は日本のマザー・テレサのような人です。
(掲載 2004.11.29)
第三十五話
玉階怨
◆ 皆さん
◆ 秋もそろそろ終わり?もうすぐクリスマス?お月様に棲んでいるのは兎、蟹?
◆ "玉階怨"、僕の大好きな李白の詩。エズラ・パウンドによる英訳も素敵で、日本語による読み下しも含めて、ご家庭での鑑賞にはセットがお得です。
玉 階 生 白 露
夜 久 侵 羅 襪
却 下 水 精 簾
玲 朧 望 秋 月
李 白
◆ 蛇足と思いますが、の読み下しを・・・。岩波新書「新唐詩選」の吉川幸次郎の解説では先ず次のように読み下しています。ふりがなは( )で示します。
玉階に白露(はくろ)生(しょう)じ
夜久(なが)くして羅襪(らべつ)を侵(おか)す
水精(すいしょう)の簾(すだれ)を却下(きゃっか)して
玲朧(れいろう)、秋月(しゅうげつ)を望む
中国語の場合日本語の助詞、英語などの前置詞にあたるものがありません。形容する語句など、どこに係ってくるかは必ずしも定かでありません。古来、漢詩の解釈では、ある「不確定性」を避けることはできません。岩波の「新唐詩選」は僕の生まれた翌年初版出版ですから、かなり古い本ですが、今でも片時もはなせない本のひとつです。吉川幸次郎の玉階怨の解説も「不確定性」を持ちつつも素敵な解説です。この本をおかげで漢詩など楽しむようになったのですから。その一部を紹介します・・・。
玉階をのぼり切ったところには、テラスがありそこには内と外とをへだてるべく、簾がある。普通の家ならば、竹の簾であるが、宮殿だから、水精の簾である。水精とは水晶とほぼひとしいものらしい。すきとおった水晶をあんで、簾が作られているのである。
あまりにもあざやかな月光である。それを直接に受けるのは、たえがたい。美人は、つと手をのばして、水精の簾を、まきおろした。
「却下(きゃっか)す水精の簾」
却下の二字は、つづけてよみ、巻きおろすという意味であるとして読んだが、すこしくたしかでない。水精の簾をまきおろしたのは、あまりにもたえがたい月光をさえぎろうとしてである。そうしてまた、わが心の憂愁にも、カーテンをおろそうとしてである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吉川幸次郎はこのあとにエズラ・パウンドの英訳も紹介しています。
The Jewel Stairs Grievance
The jewelled steps are already quite white with dew,
It is so late that the dew soaks my guaze stockings,
And I let down the crystal curtain
And watch the moon through the clear autumn.
Teranslation by Ezra Pound
◆ ところで吉川ほどの中国文学研究者が書く日本語に漢字が最小限しか使われていないのにお気づきですか?ふだん何も考えずにワープロ・ソフトを使っていると、文章のなかの漢字の使いかたのバランスが著しくくずれていることに鈍感にります。気をつけましょう。パウンドは李白の詩を、アーネスト・フェノロサが残した詳細なメモをもとに翻訳しました。フェノロサは固有名詞の漢字を日本語読みしているのですが、パウンドはそれをそのまま踏襲しています。李白を Li-PO とせずに Rihaku としています。
(掲載 2004.12.1)
第三十六話
泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯でポカホンタス
◆ 皆さん
◆ 最近、 iPod, iTunes Music Store を使った新しい音楽の聴き方が出来るようになりました。その一つに iTunes Music Store における「シングル買い」があります。このシングル買いを利用して聴き比べをしてみました。聴き比べたのはペギー・リーの往年のヒット曲、"Fever" です。この "Fever" を32曲、シングルで購入しました。すでに3つ持っていたので、全部で35曲の聴き比べです。"Fever" と言えばもちろん、オリジナルは Peggy Lee です。Basin Street East というライブ盤に入っています。最近のものでは、ダニー・ハザウェイの娘のレイラ・ハザウェイがジョー・サンプルと演っているもの、あるいはレイ・チャールズがナタリー・コールと歌っているものなどがあります。レイ・チャールズのものなどは逸品です。
◆ "Fever" と言えば、やはりシェークスピアのソネット、第147節がその源泉であることは間違いありません。英語の文化における源泉の多くはシェークスピアにたどり着くのです。
" Fever " ----- written by J. Davenport and E. Cooley
Never know how much I love you, never know how much I care
When you put your arms around me, I get a fever that's so hard to bear
You give me fever - when you kiss me, fever when you hold me tight
Fever - in the the morning, fever all through the night.
Sun lights up the daytime, moon lights up the night
I light up when you call my name, and you know I'm gonna treat you right
You give me fever - when you kiss me, fever when you hold me tight
Fever - in the the morning, fever all through the night.
Everybody's got the fever, that is something you all know
Fever isn't such a new thing, fever started long ago.
Romeo loved Juliet, Juliet she felt the same
When he put his arms around her, he said "Julie baby you're my flame"
Thou givest fever, when we kisseth, fever with thy flaming youth
Fever - I'm afire, fever yea I burn forsooth.
Captain Smith and Pocahontas had a very mad affair
When her Daddy tried to kill him, she said "Daddy-O don't you dare"
He give me fever - with his kisses, fever when he holds me tight
Fever - I'm his Missus, Oh daddy won't you treat him right.
Now you've listened to my story, here's the point I have made:
Chicks were born to give you fever, be it Fahrenheit or Centigrade
They give you fever - when you kiss them, fever if you live and learn
Fever - till you sizzle, what a lovely way to burn.
What a lovely way to burn.
What a lovely way to burn.
◆ この手のスタンダード・ソングの職業的作詞家の手になる歌詞というのはなかなかいいものです。文学的な詩とは違った意味での作詞のテクニックは見事なものです。"Fever" でも Romeo と Juliet のくだりは古い Shakespeare 的な英語に(単語レベルですが)なっていたりしてお洒落です。アメリカの作詞家ですから、Romeo & Juliet に匹敵するアメリカの歴史的ラブ・ストーリーを探したら Captain Smith & Pocahontas くらいしかなかったというのがアメリカの悲しさでこれがまた面白いのです。歌詞の中では Pocahontas の父親の大酋長 Powhatan のことを Captain Smith は "Daddy" とか呼んじゃったりしてます。
◆ ところで、嘉永7年(1854)1月16日、7隻からなる米国東印度艦隊が2度目の来航をした際、ペリー提督が座乗する艦隊旗艦は Pocahontas の父親の名前を冠した U.S.S. Powhatan でした。
(掲載 2006.1.3)
第三十七話
横笛に鬼の吹き落ちると・・・
◆ 皆さん
◆ 最近、Sharon Bezary というクラッシックのフルーティストが気に入っています。けっしてバランスのとれた Emmanuel Pahud ような音色ではないのですが、ストレートで、ときには脳天に突き刺さるようなギャラントな感じが気に入ってしまいました。現代曲などは、意外にも日本の笛の音をイメージしてしまいます。
◆ 歴史上の人物で、音楽の名手であったといわれる源博雅に興味があるのですが、彼が奏でたといわれる、葉双(はふたつ)の笛の音はこのようなものだったのかもしれないなどと思ったりしています。
◆ 博雅は夢枕獏の「陰陽師」に安倍清明の仲良しのお友達として出てくる実在の人物で、有名な天徳の歌合わせで講師をつとめた際には歌を読み上げる順序をまちがったりて、ちょっとおっちょこちょいな人だったのかもしれません。この天徳の歌合わせの時には、最後壬生忠見と平兼盛の歌の出来が拮抗します。兼盛の歌は百人一首にも入っている有名な歌ですが、この史実のエピソードを夢枕獏がなかなか面白い物語に仕上げています。
(ものや思ふと・・・・ / 文春文庫 陰陽師 付喪神ノ巻 に収録)
平兼盛
忍ぶれど色にでにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで
壬生忠見
恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか
◆ 江談抄に、博雅が笛を吹くと屋根の鬼瓦が落ちたとありますが、Emmanuel Pahud の音では落ちなくても、Sharon Bezaly の音ならば鬼瓦落ちるかもしれません。
江談抄第三巻五十三段
被命云 博雅三位ノ横笛(ニ)鬼ノ吹落(ルト) 被知哉如何 答曰 慮外承知候也
命せられて云はく、博雅三位の横笛に鬼の吹き落ちると、知るや如何と。
答えて曰く、慮外ながら承知しさふらふと。
命じられて言うことには、博雅三位の横笛に鬼の(瓦を)吹き落とすというが、
ご存知だろうかと。答えて言う(知らないという答えを期待しているならば)、
期待外れだが承知していると。
(掲載 2006.1.3)
第三十八話
Platform 9 4/3
◆ 皆さん
◆ 去年の暮れ、TV で「ハリー・ポッター 賢者の石」をやっていました。原作は3回読んじゃいました。で、ハリー・ポッターの話からイギリスの歴史の話をしましょう。イギリスの「戦い」の歴史を乗物から探ります。飛行機ならばやはり1940年の The Battle of Britain 、船から入ればやはり1805年の The Battle of Trafalgar でしょうか。しかし今回は汽車から入ります。普通の歴史の本には間違っても載っていません、これは。その戦いの名は "The Gauge War" と言います。
◆ ハリーはホグワーツに行くために、ロンドンのキングス・クロス駅からホグワーツ・エキスプレスに乗り込みます。そう、キングス・クロスの Platform 9 3/4 から発車します。この列車を牽引する蒸気機関車が重要です。映画で使われた蒸気機関車は Great Western Railway の 4900 Hall Class と呼ばれる機関車です。この形式の機関車のなかで、1937年の4月に完成した車番 5972 Olton Hall が映画に登場します。Great Western Railway は1833年にブリストルで創設された鉄道会社で、1948年に国営の British Railway に吸収されており、現在は存在しません。Great Western Railway はもともとブリストルの商人達なの強い希望がもとになって誕生しています。当時ブリストルの港は注ぎ込むエイボン川が土砂の堆積で水深が浅くなっていました。当時船舶の大型化などもあり、リバプールが商港として魅力のあるものへとなりつつあり、ロンドンからの鉄道も直結していました。そこで危機を感じたブリストルはロンドンと直結する鉄道の建設を決めたのです。そしてロンドンから南西へと延びる他社との競合を考え、画期的な規格を設定します。
◆ 鉄道敷設にあたり当時27歳であった Isambard Kingdom Brunel が技術者として採用されます。その彼が最終的に採用したのが 7ft 1/4in (2140mm) の線路幅でした。Broad Gauge (広軌)と呼ばれるもので当時他の鉄道で採用されていた Standard Gauge / 4ft 8 1/2 in (1435mm) より広いもので、Brunel はこれによりより高速での列車の運行が可能となるとしていました。現在ヨーロッパの鉄道の軌道幅は殆どが Standard Gauge になっています。例外的にはスペイン、ポルトガルの 5ft 5 1/2 in (1668mm) 、アイルランドの 5ft 3in (1600mm) その他があります。ロシアは戦略上、西側の鉄道が接続出来ないようにあえて 5ft (1524mm) という変則軌間幅を採用しており、現在もそのままのはずです。ちなみに我が国では JR 新幹線、阪急、阪神、近鉄、京浜急行、京成電鉄などの私鉄が Standard Gauge を採用しています。
◆ 画期的な基準であった Brunel の Broad Gauge でしたが、暗雲が立ちこめます。議会は初めは Brunel 側についていましたが、鉄道の軌間幅を審議するために設けられた Guage Commission は最終的に Broad Gauge の採用を否決してしまいます。当時議会は鉄道の将来性よりもその時点での利潤確保が優先と考えており、既存の他の Standard Gauge との共通性を優先したのです。これによって、新たに敷設される鉄道はもとより、既存の路線の Broad Gauge への改軌の道は閉ざされたのです。
◆ 1850年頃、ブリストル周辺にはBristol and Exeter Railway 、Birmingham and Gloucester Railway など Broad Gauge を採用していた鉄道ががありましたがこれらが Standard Gauge へ改軌を始めます。その後、各鉄道の相互乗り入れを実現するために Mixed Gauge (片方のレールを共通にした3本のレールで異なる軌道幅の列車が走行出来るようにしたもの。我が国では現在も小田原−箱根湯本間にその例が見られます。標準軌の箱根登山鉄道の路線に狭軌の小田急が乗り入れています)が暫定的に採用されますが、趨勢は Standard Gauge 優位となり、1892年までにすべての Broad Gauge は Standard Gauge へと改軌されてしまいました。歴史の "if" は禁物ですが、もしも Brunel の Broad Gauge がこの戦いに勝利していれば鉄道の歴史は変わっていたでしょう。現在でも十分に早い新幹線もさらに高い高速走行性を得ていたかもしれません。
(掲載 2006.1.4)
第三十九話
ロンよりハーマイオニー
◆ 皆さん
◆ 去年の暮れに TV でやっていたハリー・ポッターの映画を見てしまいました。原作は何度も読んでいるのですが、それ故にイメージが壊れるのが怖くて映画は見ないでいたのですが、見たら見たで結構楽しめました。Hermione も可愛いし。この Hermione という名前がものすごくいい。ものすごくきれいな音の名前です。あまり一般的でない名前で、英国内からも作者のローリングに何と発音するのかという問い合わせが沢山あったみたいで、"Harry Potter and the Goblet of the Fire" のなかで Hermione's name is pronounced "Her-my-oh-nee" とハーマイオニー自身に説明させています。じつはこの名前はシェークスピアの "The Winter's Tale" のシチリア王 Leontes の妻の名前です。夫から自らの貞節を疑われ身を忍ばせるのですが、最後にはアポロの神託の成就するのをじっと待ち、最後はハッピーエンドとなります。
◆ ローリング自身もハリー・ポッターが世に出るまでは生活保護を受けるシングル・マザーで苦労したみたいですが、この Hermione の名前に自らを重ねていたのかもしれません。彼女にどのような「神託」があったのかわかりませんが、何か一つのことに絶対の確信をもっていたのでしょう。そんな確信を同じ文学の世界の大先輩シェークスピアが支えているのです。ちょうどハリーの確信(あるいは不安を)をダンブルドアが支えているように。
◆ 第二作目の重要な脇役として登場するのが、英国フォードが1959年から1967年まで作っていた Anglia 105E という車です。今回はホグワーツ急行に乗り遅れたハリーとロンをホグワーツまで連れて行き、また森の奥で蜘蛛に取り囲まれ窮地に陥った二人を助けに来たのもこの空飛ぶ "Anglia" でした。とにかく格好悪い車で、英国人の乗物のデザインに関する無頓着さにはあきれるものがあります。英国の自動車会社が軒並み経営不振にいたったのはここにも大きな原因があります。その格好の悪さは "Anglia" というより、むしろ "Uglia" と呼びたくなります。しかし、このいかにも英国らしい物語に登場させるのにこれ以上ふさわしい車はないかもしれません。
(掲載 2006.1.4)
第四十話
線路の話
◆ 皆さん
◆ 去年の暮れに羽越本線で脱線事故が起きてしまいました。この文章は福知山線の脱線事故のあとに書いたものです。
◆ 福知山線の痛ましい大事故は、19世紀のイギリス帝国主義のしたたかさにその遠因をうかがうことが出来ます。明治の初頭に鉄道を施設するにあたり。西欧各国の鉄道の売り込みは激しいものがありました。鉄道の利権を手に入れればほとんどどそのの国を支配することが出来たからです。アメリカは当時鉄道王国でしたから当然売り込みには熱心でした。それに対抗してイギリスは、何とかしてイギリスの鉄道を売り込みたい。しかし当時の日本には資金もない。そこで工事費の安い狭軌を勧めたのです。また狭軌は、この当時イギリスの植民地であった南アフリカやニュージーランドで採用されていたゲージでした。これをそのまま売りこめれば、すでにある車輛や機関車をそのまま売り込めるわけで、じつにしたたかなイギリスの鉄道セールスにのせられてしまったのです。しかし、ここにひとつ日本の幸せがありました。伊藤博文、大隈重信ら、当時鉄道施設に尽力した人々が鉄道の運営権だけは許さなかったのです。
◆ で、いきなり飛びますが、そのおかげでJR福知山線は狭軌なのです。とにかく、狭軌の線路の上で3分間隔とかで時速100kmを超える速度で列車を走らせているのは世界広しといえども、この日本だけです。3メートルの幅の車輛が1メートルそこそこの幅の線路の上に乗っかって走ってるのですから、よく考えるとかなり無理がある。標準軌の阪急に速度で対抗しようなどしょせん無理なのです。
◆ 東京の私鉄のなかでも、京王線は 1,372mm(偏軌と呼ばれる)というゲージを採用しています。これは明治初頭の鉄道馬車のゲージを踏襲しているものです。この馬車鉄ゲージはその後、東京市電、東京都電と受け継がれ、同じく路面電車として発足した京王電気軌道に繋がります。京浜急行もこの馬車鉄ゲージの京浜電気軌道としてスタートしています。一方、関西の私鉄は阪急、阪神、京阪、近鉄など 1,435mm の標準軌を採用しています。これら関西の私鉄はその創業時から国有の鉄道との競争を運命づけられており、高速化を計る為に創業時から標準軌を採用しています。関東の私鉄が「地方鉄道法」を真面目に守っていたのに対して、関西の私鉄はそれよりも規制の緩い「軽便鉄道法」をに抜け道を見いだし、国家の方針に真っ向から立ち向かったのです。ここにも、江戸と違い、お上を恐れぬ上方の気質が見えて興味深いものがあります。
◆ というわけで、じつは国鉄、JRと関西私鉄の熾烈な競争は半端じゃない歴史があるのです。国鉄の歴史のなかで、何回か標準軌への改軌の計画があったのですが、結局実現にはいたりませんでした。改軌派の鉄道人の夢はその後、満州鉄道で具現化され、そして新幹線へと受け継がれます。ちなみにJRの在来線では、山形新幹線のための改軌が唯一の例だと思います。・・・たしか。
◆ 現在、東京の私鉄、地下鉄はかなり複雑な関係になっています。相互乗り入れがあちこちで行われているのですが、狭軌、偏軌、標準軌が混在していますから、これがなかなか難しい。たとえば、都営地下鉄の浅草線はその両端で京成、京浜急行に接続しています。この都営1号浅草線の計画が持ち上がった当時、京成は偏軌の路線でした。しかし浅草線との接続の必要性から、1959年に標準軌への改軌を行っています。工事区間両端で乗客に乗り換えてもらうという不便はありましたが、列車の運行は止めずにおこないました。同じく偏軌であった京浜急行は京浜電気鉄道と湘南急行の合併の際に湘南急行の標準軌に合わせて改軌しています。都営新宿線の計画の時は、京王線との相互乗り入れが前提であったので、当初東京都交通局は京王に改軌を要請したのですが、すでに京王の旅客輸送量が大きなものになっており、京王側に拒否されてしまい、仕方がなく京王の軌道に合わせて偏軌を採用しています。さらに都営三田線は東武、東急との乗り入れの関係で狭軌、新しい大江戸線は標準軌というちぐはぐなことになってしまいました。
(掲載 2006.1.7)
第四十一話
シャシーはエンジンよりも速く
◆ 皆さん
◆ 福知山線の列車事故で考えたことがあります。車輛の安全性についてです。自動車の例ですが、ダイムラー・ベンツ社(現ダイムラー・クライスラー)の設計思想のモットーに「シャシーはエンジンよりも速く」というのがあります。強力なエンジンを搭載し高速性能を高めるためには、その高速度に耐えうるシャシーの存在が前提であるということです。
◆ 今回事故を起こした、JR西日本の207系通勤電車は、どう考えても電動機(エンジン)出力がシャシー性能を上回っていたような気がしてならないのです。1991年に登場したこの車輛はその後改良が加えられ、最新の車輛では電動機出力が 200kw になり、起動加速度が 2.7km/h/s 、最大 3.0km/h/s という性能を持っています。ちなみに我が愛する京王線の特急に運用されている8000系電車は電動機出力 180kw 、起動加速度 2.5km/h/s です。福知山線の場合、関西の他の路線の例にもれず、私鉄各社との熾烈な競争のなかにあります。若干高い運賃をJRは「速さ」でカバーしています。通勤電車のように短い駅間をトータルで速く運用するためには最高速度よりも加減速性能がものをいうのです。
◆ もう一つ気になるのは台車の性能です。207系の電車はそれまでのJRの通勤型車輛の車幅であった 2,800mm よりも広い、車輛限界いっぱいの 2,950mm になっています。しかもこの車体を受けている台車は最近の主流であるボルスタ・レス・タイプのものになっています。このタイプの台車は車輪の踏面の形状に由来する振動の発生が大きくなる傾向があります。1991年から製造が始まったこの207系は、その後2003年にこの横揺れ対策として、ヨーダンパの取り付けが一斉におこなわれています。原設計に欠陥があったのです。最近のJRの電車はとにかく、「軽く」「安く」がモットーで、設計寿命はかつての半分になっています。207系電車のように、軽く大きい車体に今ひとつ原設計がよろしくない台車を履き、異常なほどの加減速性能を持たせた車輛になにがしかのアンバランスがあったような気がしてならないです。
◆ JRの軌道幅はわずか 1,067mm しかありません。こんな狭い線路幅の鉄道は世界を見回してもほとんどありません。関西の他の私鉄は殆どヨーロッパ標準軌の 1,435mm 軌道幅をもっています(わが京王線は 1,372mm です)。この信じられないくらい狭い線路の上を日本の技術力によって高速で走り抜けてきました。しかしこのところこのバランスがいささか崩れ始め、とんでもなく狭い線路という、JRの持つ鉄道としての基本インフラの限界が露呈してしまったのです。
(掲載 2006.1.7)
第四十二話
あのビッグ・アーティストは今・・・サインは語る (1)
◆ 皆さん
1970年代にはジャズのコンサートに嫌というほど行っています。今考えると、まあよく行ったものだと我ながら感心してしまいます。当時、ジャズのコンサートで一番多かったのは浜松町の郵便貯金ホールでした。その頃はステージでは緞帳の上げ下げがありました。コンサートが終わって緞帳が下がると、ステージの脇にとび乗ってそのままアーティストにくっついて楽屋まで行ってしまうというのがお決まりのパターンでした。そんな状況で、ジャケットにサインをしてもらったLPがものすごく沢山あります。まずはペギー・リー。中野サンプラザでのコンサートでした。当時まだ珍しかった白のサインペンでサインしてもらいました。ペギーが白のサインペンを珍しがったので、そのままプレゼントした記憶があります。とにかく、とっても可愛らしいひとでした。
次はアニタ・オデイ。おそらくは酒の飲み過ぎか、そばで見ると肌があまりきれいでなく、ニワトリみたいでした。
当時、エラ、サラよりもとにかくカーメン・マクレイが好きでした。有楽町の読売ホールでのコンサートでした。そばでよく見ると鼻の下に薄くひげが生えていたような気がしないでもありませんでした。
ナンシー・ウィルソンが、いわゆる "Jazz" を歌っているアルバムの中で最高のものです。来日のコンサートの時はすでにかなりポップな感じになっていました。でもとっても奇麗な人でした。
最近どうしているのやら、昔ものすごく好きだったオランダのアン・バートン。最も好きなのがこのアルバムです。吉祥寺のジャズ喫茶 "ファンキー" にいたら、公演が終わったアンが遊びにきました。うちまで走って帰ってこのアルバムをとってきてサインしてもらった記憶があります。
知る人ぞ知る、いやほとんど誰も知らない、でも好きだったフレダ・ペイン。こんな人のコンンサートが行なわれていたこと自体、今考えると不思議です。でもすてきなお姉さんででした。現在の "素敵なお姉さんシリーズ" のはしりといっていいかもしれません。
サインのコレクションの中でも逸品はこれ。帝王マイルスのサインです。1975年の東京公演、新宿の厚生年金ホールでした。ここでも緞帳がさがっていました。開演時間が過ぎても緞帳は上がりません。そのうちアル・フォスターの叩く8ビートが幕のうしろから聴こえ始めます。しばらくすると、それにあわせてマイケル・ヘンダーソンのベースがなり始めます。そして突然エレクトリック・オルガンのつんざくような和音がなり始めます。そして、緞帳が上がり始めます。するとそこに、真っ赤なブレザーにトンボの眼のような大きなサングラスをした帝王が!!! ステージ右手、斜に構えたマイルスは左手を YAMAHA のコンボ・オルガンの鍵盤の上に乗せたまま動きません。今までに行ったコンサートの中で最も強烈なオープニングでした。いまだにまぶたに焼き付いています。厚生年金ホールのコンサート終了後、宿舎のホテル・ニュー・オータニへ先回りして、ホテルのロビーでもらったサインです。
ここ2-3年、かなりの密度でコンサートに行っていますが、1970年代のころはこんなものではありませんでした。でも今考えると、行っておいてほんとうによかったと思っています。直筆サインといえば、こんな本がお薦めです。イギリス文学の最新鋭、Zadie Smith の作品です。
(掲載 2006.9.3)
第四十三話
あのビッグ・アーティストは今・・・サインは語る (2)
◆ 皆さん
僕の The Autograph Man としてのキャリアは、自分で言うのもなんですが、なかなかのものがあります。僕が1980年代に10年間使っていた手帳にもいろいろな人のサインが書き込まれています。
パリの街角で偶然出会ったジェーン・バーキンのサインです。建築家、長谷川逸子さんのパリでの個展の手伝いでパリに2週間いたときです。後から来た長谷川さんと夕食をとることになり、イタリア・レストランの店先の歩道でアペリティフなどを飲んでいるときでした。折角のチャンスなので長谷川さんにサインをもらっておこうと思い、手帳とペンを出した、ちょうどそのとき、同行していたフランス人の人が反対側の歩道の方を指差し「あっ!!ジェーン・バーキンだっ!!」すぐにすっ飛んでいってサインをもらいました。別れ際にほっぺたにキスをしてくれました。長谷川さんのサインはすっかり忘れて、それ以来もらっていません。ほっぺたへのキスもしてもらっていません。右側のページがジェーンのサインです。
左側のページはスティーブンホール、右側はリチャード・ロジャースのサインです。建築家です。
The Modern Jazz Quartet (MJQ) のピアニストとして有名なジョン・ルイスのサインです。ニューヨークのリンカーン・センターで行なわれたリンカーン・センター・ジャズ・オーケストラのコンサート後に、楽屋でもらったものです。この手帳には好きな詩などが手書きで書き込んでありました。平家物語の敦盛最後とか、スティーブンスンの詩とか・・・。このページにはジョン・ヘンドリックスのマンハッタン・リコという詩が書いてあります。
パリの郊外、コロンバスという町の市民センターのようなところで、ジム・ホールのコンサートに行きました。そのときもらったサインです。
ニューヨークのジャズ・クラブ、ヴィレッジ・ヴァンガードでもらったトミー・フラナガンのサイン。
右はジャン・ヌーベルのサイン、左は写真家の笠井爾示のサインです。笠井君は学生の頃僕の仕事場でバイトをしていました。そのころ、最初の個展は海外でやろうよ、と冗談半分で言っていました。海外で個展開くならば、何処であってもオープニングには駆けつけるからと彼にはいつも言っていました。そんなことも忘れていたある日、彼から連絡があり、ニュー・ヨークのソーホーの画廊で個展を開くとのこと。約束した手前、行かないわけにはいかない、ニュー・ヨークへ飛びました。
ニュー・ヨークのメトロポリタン・オペラで見たドニゼッティーの「愛の妙薬」のリブレットの表紙にもらった、キャスリン・バトル、フランシスコ・アライサ 他のサイン。楽屋口でサインをした後、リムジンの迎えがあるわけでもなく、駐車場をマネージャーの男性と一緒に歩いて帰って行くキャスリンの後ろ姿が印象にのこっています。
アンジェラ・ヒューイットのサインが入った、ベーレンライター版ゴールドベルク変奏曲の楽譜。楽譜の右下を犬がかじりました。
ニュー・ヨークのスウィート・ベイジルでもらったサイン。ケニー・カークランド、ジェフ・ワッツ、ナット・リーブス、ケニー・ギャレットそしてチック・コリアです。チックは、店に遊びに来ていたのですが、ステージに呼ばれて飛び入りで演奏してくれました。ケニー・ギャレットにサインをたのんだら、日本語で「ちょっと待っててね」と言われました。日本語と言えば、ブルーノート東京でドラムのクラレンス・ペンに日本語で「名刺持ってる?」と聞かれたことがあります。「日本語じょうずですねえ」と言ったら、「勉強してるから」とのことでした。小曽根さんの影響でしょうか。
つい、先日フルートのシャロン・ベザリーにサインしてもらった、愛用の i-Pod です。液晶画面が多少見にくくなりました。
(掲載 2006.9.3)
第四十四話
Qu'est-ce que signifie "apprivoiser" ?
◆ 皆さん
◆ 先週、Gaspard et Lisa のフランス語版がほしくて、飯田橋の欧明社まで買いにいったのですが、家に帰ってよく見たら、入れてくれた袋が赤いガリマール社の袋でした。ガリマール社といえば、日本の岩波書店みたいなものです。日本の本屋で本を買って、岩波書店の袋に入っていても、嬉しくもなんともありませんが、この日本で、赤いガリマールの袋となると、何ともうれしくなってしまう単純なわたしなのです。
◆ 欧明社の店頭にはLe Petit Prince の本もたくさんありました。Le Petit Princeは、最初アメリカで出版されています。その後フランスでガリマール社によって刊行されています。サンテグジュペリといえばやはりガリマールです。で、星の王子さま、ガリマールということで須賀敦子さんの「遠い朝の本たち」の中の文章を思い出しました。
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ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間がすぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり、耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心にもどってくることがある。私の場合、それが外国の言葉、とくに動詞であることが多いように思えるのだが、その言葉に出会ったのが成人してからであるのと、どこかで繋がっているのではないか。アプリヴォアゼ、apprivoiser はフランス語で、飼いならす、などと意味する動詞だが、私がこの言葉をおぼえたのは、大学の授業でアントワヌ・ド・サンテグジュペリの『ル・プティ・プランス』(星の王子さま)を勉強しているときだった。
(中略)
アプリヴォアゼという動詞が出てきたのは、そんな朗読も終わりに近いあたりだった。砂漠の中に不時着した飛行士が星のお王子さまから聞いたキツネとなかよくなる話だ。ぼくは、まだ、きみにアプリヴォアゼされていないから、とキツネがいう。ぼくときみのあいだには、なんの関係もない。きみとぼくとのあいだに関係をつくるとする、それがアプリヴォアゼさ。
(中略)
『戦う操縦士』とともにもう一冊、おそらくはフランスに留学する直前に買った、ガリマール書店版の『城塞』が本棚にある。ページも、そのあいだに入れた手製の栞も、茶色に古びているけれど、あるページには濃いえんぴつで、下線がひいてあった。
「きみは人生に意義をもとめているが、人生の意義とは自分自身になることだ」
さらに、表紙の裏にはさんであった封筒には、だれかフランス人が書いたと思われる授業料のメモらしい数字と名前の下に、あのころの私の角ばった字体でサンテグジュペリからの言葉が記されていた。
「大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外には到着というものはあり得ないのだから」
須賀敦子著 遠い朝の本たち 星と地球のあいだで ちくま文庫刊より
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◆ そんなわけで、今日、突然星の王子さまが読みたくなったのです。昔からあった岩波書店版を家中探しまわったのですが、見つからず、でもどうしても読みたくて、近くのスーパーのなかの小さな本屋(La petite librairie)に買いに行きました。でも、買って帰ってきて10分後に古い本が出てきました。まったくの無駄・・・かというと、じつはそうでもなくて、新しい版は1999年に改訂されたガリマール版に依っています。新しいガリマール版は、1943年にアメリカで出版された英語版に従って改められているのです。このアメリカ版が著者が目を通した唯一の版だからです。本文の違いもあるようですが、まだ確かめていません。ただ、挿絵に関しては色彩等が若干違います。古い方の岩波版は40年前に購入したものです。まさに「遠い朝の本たち」ではあります
(掲載 2006.10.19)
第四十五話
ラッパの話
◆ 皆さん
◆ 「たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。」
・・・新約聖書 コリント人への第一の手紙 第13章 第1節 より
この日本語訳新約聖書では、一節の中の最後が "わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである" となっています。英訳の場合は "I am become as sounding brass, or a tinkling cymbal." となっていますが、この訳では Brass を鐘と訳していますがこれは本当でしょうか?現在では Brass といえば真鍮製の管楽器を指します。歴史的には紀元前3000年くらいのエジプトで銅や銀を素材にした "ラッパ" が作られていますから、新約聖書の時代に金属製の管楽器があってもおかしくはありません。さらにこの一節は "言葉" に関して述べていますが、言葉といえば、神の言葉を伝える天使ガブリエル、このガブリエルが最後の審判の時を告げるのは "ラッパ" (英訳だとHorn) です。これを考えてもこの一節の "Brass" はどう考えても鐘ではなくラッパだと思われます。
◆ とにかく聖書、天使ガブリエルといえば "ラッパ" です。なにしろ最後の審判を告げるラッパですから、古今東西あらゆるところに引用されています。フランク・シナトラが歌っている Lonsome Road の歌詞の中にも・・・。
Your charms have broken many a heart and mine is surely one
You got a way of tearing a world apart, love, see what you done
Just as sure as we're living, just as sure as you're born
Look up, look up - seek your Maker - 'fore Gabriel blows his horn
◆ ビル・クリントンが第一期の大統領就任の際の演説にもガブリエルのホーンが引用されていた記憶があります。なぜに記憶しているかというと、就任式のさいに詩人の Maya Angelou が "On the Pulse of Morning" という詩を自ら読み上げたのがものすごく素敵だったからです。この詩は僕の大好きな詩のひとつです。じつは、Fiona Apple はこの Maya Angelou に影響されて詩を書くようになったと彼女自身が語っていました。先日の Fiona のコンサート、ドラムのチャーリー・ドレイトンがメチャクチャかっこ良かったです。
(掲載 2006.10.31)