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寄稿 「おいしい入院」 私の入院顛末記
林 浩昭

◆ はじめに

「今すぐ入院が必要です」その言葉を医師から宣告されたとき、私の頭の中ではもうすでに覚悟は出来ていた。それはまるで、「判決。被告人に懲役1年、執行猶予3年の刑を言い渡す」と、予期していた通りの判決を言い渡された被告人の心境に近かった。1995年12月25日。世間ではまだクリスマス気分の余韻を残しているこの日、私の生涯始まって以来の、そして、画期的な入院生活は始まった(何が画期的なのかは後で説明する) 。

よく、芸能人が闘病生活を強いられると、退院した後に"闘病日記"の類いの本を出す。また、政治犯などが刑務所の中から獄中記を出す。私は、今回の入院がいかに突然で初めての経験だったとはいえ、そんな入院記を書く気などはさらさらなかった。ところが、いざ入院生活を始めてみると、24時間あちこちにおもしろいネタがたくさんころがっている。「こりゃー、誰かに話さなくちゃ気が済まないなあ」と思いはじめた。最初のうちは友人に片っ端から電話をしまくり、おもしろおかしく話していたのだが、同じことを何度も話すのは疲れるし飽きる。それで、自分としては日記なんて少女趣味っぽくてキライなんだが、友達にバカ話をしているつもりでこれを書き始めた。入院しているとはいえ体がすこぶる調子よく、頭の回転も日常生活と変わらない状態だったから、これだけ書けたのかもしれない。しかし、無理を押して書きまくり体調が悪くなった時もあった。でも、こういう体験というか記憶は本当に旬のもので、退院してから思い出しながら書こうと思っても、現場でのインパクトやリアリティーは薄れてしまう。だからほとんど毎日書きまくった。おかげで、当初予定していたページ数よりも大幅に多くなってしまった。

◆ 序章

それは12月22日(金)に何の前触れもなく突然やって来た。朝起きてから「何か顔の右半分が変だなぁ」とは思っていた。歯を磨いて口をゆすぐと、右の口元から水がピュッと漏れたりする。さらに、症状は仕事に出るとますますひどくなっていった。顔の右半分の筋肉が動かない。昼食時には食べ物、特に汁物が右の口からしたたり落ちてしまうのだ。しかし、体はきわめて健康。どこも痛くもダルくもないのだ。
『きっと大したことないだろう、そのうち直るさ』などと軽く考えていたが、周りから
「顔の右半分が怒ってるよ」と言われ、
「これって"たけし"状態だなー」なんてふざけてはいたが、内心は不安だった。だって他は本当にどこも悪くないんだから。その日の夜、心配なので医学書で調べてみると、
" 顔面麻痺 = 顔筋がマヒする病気で、普通、片側だけに突然起こる。寒冷などで顔面の神経が冒され、顔面の筋肉の運動能力を低下させる。精神的な疲れやウイルスによるという説もあるが、原因は不明。安静にして顔面を暖めるなどしていれば2週間位で自然に治る"
とある。「なーんだ、やっぱり大したことないのか」そう思い、ひきつった顔に不気味な笑みを浮かべながら、その日は床についた。

次の日、病状は悪化していた。口だけではなく、眉毛や上まぶたが下がってきた。もちろん右半分はほとんど動かず、物を食べようにも口が開けなくなってきた。
『ちょっと病院で診てもらおうかな。今日は祝日だけど、休日診療の医者がやってるし、薬をもらって飲めば治るかもしれない』と思い、等々力の"玉川メディカルセンター"へ行った。そこは "MT(芸能人)" の自宅の前にあって、私は何度も、車が横付けされてお付きの人が "MT" を待っている、という光景に出くわしたことがある。(でも、もう引っ越したみたいです *筆者注)その"玉川メディカルセンター"の待合室にはカゼの患者らしき人達が20人ぐらいいて、大変混んでいた。

受付にて申し込み書を提出すると、
「お熱は何度くらいーっ?」と中年のオバサン看護婦が30メートル先まで聞こえるような大きな声で聞くので、私は紙に
『顔の右半分が麻痺している』と書いて無言で差し出した。すると、「エーッ!」とオバサンは言い、「先生、センセイッ!」と叫びながら先生のいる診察室にバタバタと入って行った。中でなにやらゴソゴソと話声がした後、
「これはちょっと診られないわねー。ウチは風邪とかそんな人ばっかりだから・・・。近くの玉川病院っていう大きな病院がちょうど今日は当番でやってるから、そっちへ行ってくれます?」と言いながら、なんとそのオバサンは事もあろうにドアを開けて待合室まで出てきて、私の顔を無遠慮にのぞき込みながら例の デカい声で
「どれどれ、あーホントだ、動かないわねー」などと言った。

通常、病院の待合室などというものはみんな徹底的に退屈しているもので、かすかに聞こえてくる診察室の会話に聞き耳を立てたり、他の患者の様子などを無遠慮に眺め回すことがごく当然のように執り行われている。当然、私もそのオバサンの暴挙により周目のさらし者と化してしまったのである。

さて、玉川病院へ行けということらしいので、不自由な右顔面をいたわりながら車を運転した。しかし、だんだん心なしか右目の視力が弱って来ているようで、視点が定まらない。挙げ句の果てに、一方通行だらけの通称 "世田谷樹海" に足を踏み入れてしまい、同じ所をぐるぐる回る羽目になったが、なんとか捜し出して行き着いた。

その病院は砧公園の近くで、世田谷区岡本という超高級住宅地に立地していた。私は以前、この岡本という地に迷い込んでしまったことがあるが、我々のような一般大衆には拝むことさえもバチが当たりそうな大邸宅がひしめき合っている土地であった。そんな場所なので少し身構えていた私の目に映った玉川病院は、意外にも少し古ぼけた(あくまでも外観がね)総合病院であった。

祝日だったので正面玄関は閉じられており、夜間受付口から入った。申込書に記入すると、宿直の看護婦が
「どうしましたか」と病状を聞くので、
「顔の右半分が麻痺してるみたいなんですけど」と言うと、看護婦はここでも
「あっ、ちょっ、ちょっとお待ちください」と言ってバタバタと内線電話をかけ始めた。なんでも、その日は内科と外科の当直医師しかいないらしく、看護婦は最初に外科に電話をかけたが、
「あっ、この症状は内科の方がいいんですね」と、すぐに内科へかけ直した。

まもなくすると医師が到着し、救急治療室に通された。そこで対面した医師は、年の頃からして27〜8であろうか。どことなく男子バレーの中垣内裕一風の、熱血医学生的好男子であった。彼は私の顔をひと目見ると、しばらく考えてから唐突にこう言った。
「今から入院できますか」
「えっ、入院?、今からですか」
「そう、今からです」
なんでも、この顔面麻痺という症状は、脳の疾患が原因で起きることもあるらしいので、入院していろいろな検査が必要だという。

「いやー、突然今すぐ入院と言われても仕事の途中だし、車も返さなくちゃいけないし、家族にも連絡したいし・・・」突然、非日常的なことを言われたので私の思考回路は混乱したが、だんだん正常になっていくに従って、
『入院→検査→CTスキャン→脳腫瘍/脳溢血→ガン?・・・えっ、ガン?→あと何日生られますか→転移→進行が速い→女房子供→遺言・・・』などと考え始め、とてつもなく暗く深く落ち込んでしまったのだった。

結局、この病気の専門は耳鼻科か神経科だということだが、両方の科は今日と明日は休みなので、今入院してもただ単に栄養剤を点滴して寝ているだけだというので、入院は本格的な検査が始められるあさっての月曜日からにしましょうということになった。

ところで、入院する病院を選ぶということは本人にとって極めて重要な問題である。よい先生がいる、評判がよい、いつも混んでいる=流行っている、ある程度の規模、きれいさ、などチェックすべき点は多々あるが、見落としがちなのはその立地である。

病院に行くのは自分だけではない。妻子や親族、そして見舞い客にとっても、交通至便な病院が良いに決まっている。特に奥さんは毎日来るのだから大変だ。これが、交通事故なんかで救急車で担ぎ込まれた日にゃー目も当てられない。何しろ、どこの病院がいいなどと言っているヒマはない。遠方で事故に巻き込まれた場合などは、もちろんその現場近辺の救急病院になるのだろうから、見舞い客は東京からわざわざ出かけて行かなくてはならない。

私の場合は幸いにも2日間の猶予があったので、じっくり病院選びをする時間があった。その結果、総合的に判断して(立地条件を重視したが)、武蔵小杉駅近くの日本医科大学付属第2病院にすることにした。決して玉川病院が悪かったわけではないが、駅から遠く、私の自宅からは不便な場所だったのでご遠慮申し上げた。それに、私はかつて東海大学医学部の紹介ビデオの制作スタッフとして関わったことがあり、病院の密着取材もしたことがあるのだが、大学の付属病院というものに対してとても良い印象を持っていた。だから、日医大病院に決めて、25日の月曜日にもう一度外来を受けて見ようという気持ちになった。

◆ 1995年12月25日(月) 入院初日

さて、当日の朝、私は手ブラで(つまり入院に必要な備品などは持たずに)耳鼻科の外来へいった。最初に聴力検査をし、間もなく問診が行われた。

ところで、よく"初診は月曜日に行け"と言うがこれは本当である。なぜなら、月曜日の初診はたいてい、その科の一番偉い先生が行うのである。私の場合も部長先生が診てくれた。もっとも月曜日の初診はメチャ混みだが。

私の病名は、"突発性顔面麻痺(別名ベル麻痺)"だった。顔筋をつかさどる神経が耳の奥にあるそうだが、その神経が何かの原因で炎症を起こし顔面を硬直させているのだという。
「脳の傷害から来ることはないでしょうか」と当然ながら聞いてみると、もし脳に異常があれば手や足にも麻痺が出るということで、
「とりあえずレントゲンなどの検査はしますが、あなたの場合、脳に異常ということはまず無いでしょう」と言ってくれた。
「CTスキャンも必要ならやりますが、まずやらなくてもいいと思いますよ」
とのこと。部長先生のこの力強いお言葉に、私は安心してしまった。

すぐに頭部レントゲンを撮った。実は私は子供のころから鼻が悪く、アレルギー性鼻炎なのだが、以前に蓄膿症になりかけていると言われたことがある。蓄膿症もひどくなると手術が必要で、その痛さといったら想像を絶するものらしい。だからついでに、蓄膿症かどうかのレントゲンも併せて撮ってもらった。その結果、やはり脳には異常はなく、何と蓄膿症もまったくないということだった。(でも、アレルギー性鼻炎であることには変わらないのだが)

さて、気になる顔面麻痺の治療法だが、
『薬かなんか飲んで通院していればいいんじゃないの』なんて、ここでも気楽に考えていた。その予想を見事に打ち砕き、先生は、「今すぐ入院してください」と言った。
『えーっ、やっぱり入院?、まあしょうがないか。きのう家族でクリスマスパーティーもやったし、念のためにゆうべ年賀状も全部書いて、今朝出しといたし』というのが私の正直な気持ちだった。先生が言うには、入院して強い薬を点滴によって投与するらしく、その治療に十日間かかるらしい。

『ということは、大晦日も元旦もー?でも正月ぐらいは返してくれるんじゃないの?以外に直りが早いですねー、とかなんとかいってさあ、返してくれないかな』私でなくとも誰でもそう思っただろう。ところがそれはまったく不可能であることが後になって分かるのだ。

さていったん家へ帰り、入院用の荷物をバッグに詰めて、私は妻と一緒にまた病院へやって来た。耳鼻科の外来へ行くと、
「いま、病棟からお迎えが来ますので、そこでお待ちください」と言われた。お迎えとは縁起でもないな、と思いながら待っていると、背のスラッとした美形の若い看護婦さんが迎えに来たので、一緒にエレベーターで4階へ上がった。
『ゲッ、4階!最近はあんまり"4=死"とかは関係ないのかな』などとバカなことを思いながら、病室"456号"に入った。

そこは6人部屋であった。私は「もしかしたら個室か」と、まあ冷静に考えれば絶対ありそうもない期待をしていたのだが、当然というか「なんでお前が個室に入れるんだよー」とばかりに、私の部屋は6人の大部屋だった。

「私が林さんの担当です。非番のとき以外は、退院されるまで私がお世話いたします」と、若い美形の看護婦さんは言って、それから1日のスケジュールやら、洗面所や風呂の使い方やら、やれ回診はいつだとか、配膳の決り事などをてきぱきと説明してくれた。

ちなみに、携帯電話は心電図やモニター類等の医療機器に悪影響を及ぼす恐れがあるので使用禁止。ワープロ、ノートパソコンはキー音がうるさいので持ち込めないらしい。なんだか飛行機の中みたいだ。

私達が病室へ入るとすぐに看護婦さんが同室の人達を紹介してくれたのだが、驚いたことに、6人中2人しかベッドの上にいないのだ。しかもその時安静にして寝ていたのは、私のベッドの斜め右位置の窓際にいる、年の頃で30前後の男性だけだった。 その隣は20代前半の学生風の男子で、ちょうど私達が入ってきたとき看護婦さんと一緒にどこかへ出かけて行った(連れて行かれたという表現の方が適切だが・・・後にそれが手術室へ連れて行かれたことが分かる)。その隣が姿勢のシャキッとした60代のおじいさんで、決してベッドの上にいることはなく、絶えず快活に出歩いている。私の右横の人は昼間は姿が見えなかったのだが、一時帰宅していたらしく夕方になって戻ってきた80代のお年寄り。私の左横は今日退院したということで、空のベッドだった。

この人達は、患者着(病院で支給される寝間着)の上着は着ずに、代わりにTシャツを着て歩き回っていた。外は寒く、セーターなどを着込んでいる外界から来た人間にとって、この薄着集団は異様に見えた。真冬の常磐ハワイアンセンターといったところか。

ところで私が最近見舞いに行った病室はみな個室で(つまり、もう直らない人の見舞いばかり行ったのだが)、そういえば大部屋に入ったことはなかった。で、はじめての入院だし大部屋ということで、他の人とどう接すればいいのか大いにとまどった。全体的な雰囲気としては皆一様に無口だし、かといって全く自分の世界に入っているわけでもなく、他人の行動を無遠慮にながめている。

そんなわけで、私は患者着に着替えた後もなんとなく病室に居たくなくて妻と二人でロビーでバカ話などをしていたが、まもなく昼食が運ばれて来たので仕方なく病室に戻り、ベッドの上でそれを食べた。メニューは、つゆなし中華そばの上にあんかけが乗ったものとナムル、それに牛乳とみかんだった。当然、大食らいの私にとって足りる量であるはずがなく、欲求不満のまま昼食を終えた。

とかなんとかしているうちに、とりあえず、やることもなくなったので妻は帰り、私はふとんにもぐりこんで昼寝をすることにした。というより、他に何もすることがないので仕方なくといった方がいい。今朝はいつもより1時間も早く起きたので、ウトウトとしてしまった。昨日までの疲れもあったのかもしれない。

ウトウトし始めてまもなく、担当の看護婦さんが話を聞きたいというので別室に行き、そこで事前に渡されていてすでに記入し終えたアンケート用紙を手渡した。アンケートの内容は、入院に際して不安なことはあるかとか、一日にトイレは何回位行くかとか、ふろは毎日か一日置きかとか、好き嫌いはないかなどといった他愛もないものだった。ちなみに"入院中に心配なことはありますか"との問いに対し、"顔の半分が不気味なので心配。特に笑うと。"と書いた。これはナースステーションでウケたらしく、私の担当ではないが大変親しみのある(というか大変なれなれしい)若い看護婦さんが(ここの看護婦さんはほとんどみんな若いが)後日話してくれたのだが、「申し送りのときにこれ読んで、笑っちゃったー。なんだー、コイツって思っちゃったもん」(いつもタメ語なのである)と言っていた。

で、担当の看護婦さんとの問答は、家族構成や既往症や薬のアレルギー、血圧などのことだった。
「もうすぐ担当の先生が来ると思います。いま手術中なので・・・」と言われて病室でボーッとして待っていると、
「私が担当医の久野です」と言って医師が現れた。私は中年のオッサン先生を想像していたのだが、なんとその先生は20代後半の、まだ大学を出て間もない様な若い女医さんだった。(残念ながらさほど美人ではなかったが)

実は最近、私は女医さんに縁がある。仕事場の隣にある行きつけの歯医者の担当医師は、これまた超美人で、どことなく"鈴木京香"似の、おまけにスタイル抜群の超グラマーな女医さんなのだ。それまでは男性の医師ばかりだったので気が付きもしなかったのだが、歯科医療行為というものは、特に奥歯の場合、医師が自分の胸を患者の頭部に密着させるものなのだ。もし医師が女性で、しかもグラマーだったとしたら・・・。私はその時、
「やっぱり歯は徹底的に全部直してしまわないとなー」と、強い決意をしたのだった。

話を元に戻そう。で、その耳鼻科の担当女医さんは、また例によって私の既往症やら何やら問診した後、顔の神経がどのくらいダメージを受けているかを調べると言って、私を2階の耳鼻科外来診察室に連れて行き、顔に電極をつけて感電させたり、耳に奇妙な音を流したりといった電気的な検査を行った。

さて、冒頭に"私の画期的な入院"と書いた。何が画期的なのか。実は私は顔の右半分が麻痺しているだけで(麻痺といっても笑おうとすると引きつる程度なのだが)、他は痛くもダルくもないし疲労しているわけでもない。つまり、今すぐにでも団地の5階へ冷蔵庫の1本も運べるし、エアコンなんて1時間で据え付けられる。それほど元気なのである。しかも入院中は食事制限なし。つまり、病院食以外に何を食べても良いのだ。コーヒーを飲もうが間食しようが自由だ。これで酒が飲めたら言う事ないが・・・。まあ、類いまれなる幸せな入院生活なのである。だから、いろんな事象に対する好奇心、観察欲が旺盛にあった。そこで、これから折に触れて入院生活のポイントを挙げてみよう。実際に体験してみて初めて気が付くことも多い。

《携帯品》

入院の際手渡される"入院案内"という冊子には、携帯品についてこう記述している。
"お産の方を除き、基準病衣(ねまき)は病院で用意してありますので必要ありません。印鑑、下着等、洗面用具、箸、湯呑、スプーン、スリッパなどが必要ですが・・・"
このうち、印鑑は入院手続きの際に使う。下着は当然分かるが、ねまきが用意してあるかどうかは病院へ行ってみないと分からない。この病院では2日に1回取り替えてくれた。

それと、注意すべきは洗面用具。洗面用具というと普通は洗面器、バスタオル、石鹸、シャンプー、歯磨きセットを連想するが、歯磨きセットだけが必需品であって、他のものは、風呂があるのか(またはあっても入って良いほどの病状なのか)によって異なる。私の場合、風呂が(しかもバスタブ付きの風呂が)病室の真ん前にあったが、点滴でつながれていたために入院して4日目まで入ることができなかった。

なお、箸、スプーン、タオルについては、病院をビジネスホテルのつもりで行くと足をすくわれる。患者個人の体に触れる備品は、当然自分で持って行かねばならないのだ。特に意外と気が付かないのは箸箱だ。昼食に弁当をもって行く人でもない限り、まず普通の人は箸箱なんて必要ないだろう。私も当初は必要ないと思っていたが、途中で必要性に気付き買った。箸を収納しておく時に結構スマートだ。

それから、病院側は"湯呑み"と書いてあるが、コーヒーカップの様に取っ手の付いているカップの方が、お茶を注いでもらったり自分で洗ったりする際に何かと便利だ。あと、案内には書いてないが重要なものがある。時計だ。それもベッドサイドに置けるやつ。病院で暮らしていると、とても時間が気になる。「日が暮れて来たなあ、ああ、もう5時か」と時計を見る。

もうひとつ、注意すべきはスリッパ。これも、スリッパではなくサンダルの方が文句なしに良い。だって床は固いんだぜー。最後にティッシュだが、これは鼻炎の私にとっては日頃からの必需品なので忘れるワケがなかったが、周りの人を見るとみんな持っている。病気によって使い方も様々だ。蛇足だが、ねまきの上から羽織るものは用意した方が良いだろう。いくら空調が効いているとはいえ外は寒波なのだから。私は、妻が買ってきてくれたスポーツジャケットが大いに重宝した。

《売店》

入院者にとってたったひとつのオアシスは売店である。そこには、およそ入院に必要と思われるモノはたいていそろっている。私は売店でサンダル、プラスチック製のマグカップ、ツメ切り、ハシ、インスタントコーヒー、お菓子類、ボールペン、ノート、それに新聞を2紙(日経と朝日)購入した。その後も足しげく売店に通った。他に何もすることがないのだ。

ところで、どうして売店には書籍(特に、いわゆるハードカバーというやつ)が豊富に置いてないのだろうか。雑誌類はかなり置いてあるのに・・・。私は入院の際に多量の雑誌を持ち込んだ。おかげで、読むものには一応不自由はしなかったが、いかんせん、ほとんどがパソコン関係の雑誌だったのである。これは飽きる。だから仕方なく売店でB級小説を2冊買ったが、本当は、北野たけし著の"顔面麻痺"が読みたかった。

病院の売店というものは、成田空港の出発階にある売店のように、食べ物に始まり書籍、雑誌、CD、電気シェーバー、ウォークマン類、ついでに銀行まであるとありがたいのだが・・・(東海大の伊勢原病院や駒沢の国立第2病院の新館には、本当に銀行のキャッシュディスペンサーがある)。

《点滴》

夕方5時ごろ、いよいよ点滴治療が始まった。左手甲側の、ちょうど時計をする少し上の位置に注射器で血管に細い管を入れ、1,000ミリリットルの液体をポタポタと落とす。
「この針は退院するまで抜きませんので」と医師が言った。
「ゲッ、するってーと、十日間も金属の針がオレの体内に刺さりっぱなし?」と気色悪くなったが、後で聞くところによると、金属針は管を入れる時だけですぐに抜き、ずっと入っているのは細いカテーテルの管だけだそうだ。

よく、病院に行くと点滴のポリ袋(ビンもある)をぶら下げた車輪付きの帽子かけの様なものを、ガラガラと引っ張りながら廊下を歩いている患者に遭遇するだろう。まさしくその状態になってしまった。私はそのガラガラに"点滴カー"と名付けた。まあ、ベッドにいる時は"点滴タワー"だが。(看護婦さんは"点滴台"と言っていたが、"台"というイメージからは程遠いものだと思うのだが・・・)

私がまず最初に入れ始めた点滴は16時間コースである。落差の関係で、手の位置(管が刺さっている位置)を上の方に持ち上げると落下速度が遅くなる。看護婦さんはこの落下具合をよく調節しに来てくれる。きちんと16時間で全部の量を入れないと行けないからだ。この16時間コースは次の日の朝10時まで続いた。

《食事》

「食事は原則として各自のベッドで食べて下さい。ただし、面会の方といっしょに食べる場合は患者用食堂(同じフロアにある)もご利用いただけます」との説明があったが、食事はほとんどベッドの上で食べた。ベッド脇に背もたれ付のイスがあるのだが、これはもちろん見舞い客用のイスだ。同室の他の人達のスタイルを観察すると、みんなそのイスに座りサイドテーブルで食べている。ただし、背のシャキッとしたおじいさんだけは膳をベッドの上に置き、正座して食べていた。うーん、あの姿勢といい行儀といい、禅僧を彷彿させるのであった。

さて、食事の時間になるとすぐに問題が生じた。まず、ハシがない。初回の昼食はなぜか割りバシが付いていたのだが、次からはついていない。それと、お茶を入れる湯呑み(カップ)もまだ持っていなかった。お茶は同室のおじいさんたちが親切にも注ぎに来てくれるのだ。これには困った。とりあえずは看護婦さんに借りたが、すぐに売店で買うことになる。

《消灯》

なんと夜9時が消灯である。笑うと不気味なこと以外は何の障害もない私にとっては、 これから夜が始まるという時間である。なにせ、いつも仕事から帰ってくる時間が9時前後である。寝ろったって眠れる訳がない。だが幸いなことに、消灯後も備え付けの電気スタンドは点けてもよいことになっていたので助かった。

ところで、6人部屋の個々のベッドはカーテンで遮断することができる。"盗難防止も含めて、寝る時、処置中などを除いてカーテンは開けておいてください"と注意書きがあるので昼間は開けてあったが、消灯時間になると全員が1斉にカーテンをシャーッと閉めはじめたので、私も慌てて閉めた。

カーテンを閉めて個室にしてみると、けっこう居心地がよい。どことなく、国際線夜間飛行中の機内という雰囲気がしないでもない。ノートパソコンでもあれば、顧客データベースの打ち込みでも始めてしまいそうな雰囲気だ。

消灯後は雑誌を読みふけっていたが、他の人もテレビを点けたりしていて、全員の電気が消えたのは夜中の1時頃だったろうか。実は私はものすごいイビキをかく(らしく)、また歯ぎしりもするということなので、ちょっと心配していた。でもすぐに安心した。皆さん、私なんか問題にならないぐらいご立派なことだったので・・・。

夜中に耳がズキズキと痛み出す。初めは、大したことないだろうと思っていたが、だんだんひどくなってきたのでナースコールで看護婦さんを呼ぶ。「じゃあ、冷やしましょーか」と、昼間とは違う夜勤の若い看護婦さんが言って、アイスノンを当ててくれた。するとまもなく眠りに落ちていた。

少したってから急に目が覚めた。熟睡したなーと思ったが、まだ朝の3時だった。もう眠れない。やはり生活のリズムが変わったので普通じゃない。不思議なことに耳はもうなんともない。結局、ウトウトしている間に起床時間になってしまった。

◆ 12月26日(火) 入院2日目

朝6時に廊下の方がざわざわし始め、まもなく看護婦さんが、「おはよーございまーす」といって部屋の蛍光灯スイッチをつけた。ここ最近、6時などに起きたことがなかったのでベッドの上でまどろんでいると、7時少し前にガラガラという配膳ワゴンの音がして、「朝食でーす」と、朝メシが運ばれて来た。窓の外はとても景色がよく、きれいな朝日が出ていた。私は点滴カーをのろのろと引っ張りながら、自分の名札の付いている給食のような配膳セットを、ベッド脇のサイドボードに付いている引き出し式のテーブルの上に乗せた。朝食後、ねまきの交換があった。サイズをLからLLに変えてもらった。

この日の午前中、空いていた左隣りのベッドに他の病室から内科の患者さんが移されて来た。この病棟は主に耳鼻科と泌尿器科の患者が入院しているが、内科で収容しきれなくなると、あぶれた人が移されて来る。この日移されて来た人は右半身が不自由で、リハビリを受けているらしい。奥さんの手厚いケアーが印象的だった。昼前、妻がいろいろと荷物を持って来た。特に、上に羽織る上着は大変重宝した。足りない物は売店で買うことに・・・。今日の外は風が冷たく、とっても寒いと言っていた。2日ぶりにヒゲを剃ってさっぱりした。サンダルも手に入れて快適な生活が始まった。今日の昼食はカレーだった。けっこうおいしかった。食後、売店で買ったロールパンを食べた。

《面会》

病室には見舞い客がよく来る。一番多いのが奥さんで(見舞いじゃないか)毎日来る。来る時間も人それぞれ固定化しているようで、斜め右にいる32歳の綾部さんの奥さんは必ず夕食時に来るし、他のおじいさんたちの奥さんは、だいたい3時から5時の間の様だった。向かいの(20代前半かと思っていたが)30歳の小関さんは、手術当日の夕方にはお母さんらしき人が付き添っていたが、それ以外には誰も来ない。だが、同じ病院内に弟が入院しているらしく、頻繁に会いに来ていた。(後日、打ち解けて話すようになってから分かったのだが、弟さんは膠原病(こうげんびょう)だということで、菌に対する抵抗力がないので冬の間は病院にいて春になると自宅に帰るという生活らしい。もう何年もそのパターンが続いているのだが、年々、病院にいる日数の方が長くなっているということだった)

見舞い客といえば、私が入院した日に前述の綾部さんあてに、会社の上司で部長らしき人が見舞いに現れて、開口一番、
「いやー、実は2時ごろここに着いたんだが3時からが面会時間と言われたんで、近くの◯◯精機さんへあいさつ廻りして来たぞ」とか、
「そういえば、あの件は通ったぞ。来期は○千万を目標に頑張らなくちゃあいかんがなー」とか、「いつから復帰できるかね」
「ええ、○○社の賀詞交歓会が6日にありますので、それにはなんとか出席したいと考えています」といった2人の会話を聞いていて、あやうく吹き出しそうになってしまった。なぜなら、どうも彼は私と同じ顔面麻痺らしいのだが、私は入院する際に医師からこう言われていた。
「ゆっくり静養して下さい。神経の治療ですから、体を休めるだけではなく心も休めて下さい。一番いけないことは気を使うことです。仕事のことはすっかり忘れて下さい。」

後日聞いたのだが、彼は***証券の本社法人営業部に勤務しているということで、自宅は病院のすぐ近くらしい。年も近いし同じ病気だったので、共通の話題で盛り上がり、その後もよくしゃべるようになった。うらやましいことに、部下らしき女の子2人組や、同僚か友人らしき美人の女性がたったひとりで見舞いに来たりと、彼の人望は大変厚い様だった。

夜、新たな難問がおそいかかった。今日、隣のベッドへ移って来た立岡さんのイビキが凄いのだ。これは凄いと言っていられるレベルのものではない。一睡もできなかったのではないだろうか。ちなみに私は耳栓をしたがやはりだめだった。

夜中の2時に、看護婦さんが点滴のチューブを途中のつなぎ目から外しに来た。2本目の16時間コースが終わり、翌朝からまた次の点滴が始まるのだ。

◆ 12月27日(水) 入院3日目

朝6時に起きてから、体の調子がすこぶる良い。昨夜あんなに眠れなかったのに、だ。朝のうちは点滴カーも外されているので自由の身だ。気がつくと背のシャキッとしたおじいさんの横田さんは、もう起きてロビーで新聞を読んでいた。トイレに行くと綾部さんが「ゆうべ、眠れました?」と聞くので、「いいえ」と言うと、「僕も全然・・・。耳栓、借りたけどダメでした」と言っていた。

午前中に売店にてテレビの申し込みをする。昼前に業者が来て、サイドボードの上に10インチの色映りの大変良いテレビを設置して行った。5日間2,500円、延長は1日につき300円だ。

《テレビ》

はじめは、ベッドサイドにテレビなんかいらない、と思っていた。いつもそんなに見ていないし、雑誌と音楽があれば十分だと思っていた。見たくなったらロビーのテレビを見ればいいやなんて気楽に考えていた。ところが、他の人はほとんどテレビを置いているのである。なぜだろう。それは"最終的な娯楽はテレビに行き着く"からである。また、すぐに気がついたのだが、ロビーのテレビのチャンネルはそう簡単には変えられないのだ。だって、他の人が見ている"正午のNHKニュース"を「ちょっと、いーですかー」といって「笑っていいとも」には変えられないだろう、普通は・・・。だから個人のテレビが必要なのだ。

初日は何とか我慢した。でも2日目には限界に達した。なにしろ、運悪くこの時期は年末スペシャル番組が目白押しで、テレビのない生活なんて考えられない、と思うようになってしまった。

ところで、私は電気店に勤めている。ベッドサイドに置くテレビならば14インチが最適だということは知っている。最近はテレビデオも人気だ。また、店に1台だけ展示してある、シャープの11インチ液晶ポータブルテレビ"ウィンドウ"は大変魅力的だ。だが待てよ。確かにテレビは売るほどある(実際に売ってるんだから)。でも展示品を借りられる訳がない。ましてこのクソ忙しい時にわざわざ誰がここまで持って来てくれるんだ?でもテレビが欲しい。途方に暮れた私は、ガラガラと点滴カーを引きずっていつのまにか売店に来ていた。そこで"レンタルテレビで楽しい入院ライフ"と書かれた1枚のチラシに光明を見出すのであった。

今日は体がすこぶるハイなので、午前中は患者用食堂(私は図書館と呼んでいるが)に行って新聞を読んだり、このエッセイを執筆したりして過ごした。他の見舞い客の人達が言っていたが、今日も昨日と同じで外は風が強く、とっても寒いらしい。なんでもこの冬一番の寒さで、朝は零度以下だったそうだ。病院の中は薄いねまき1枚で歩き回れるほど暖かいので、ウソのようだ。

昼食後も図書館で忙しくしていると、妻が現れて、「今日、お父さんとお母さんがお見舞いに来るって連絡があったわよ」と言った。4時過ぎに私の両親がやって来た。笑うと不気味なこと以外はどこも異常のない私にとって、両親が即座に見舞いに来るという現象をすぐには理解できないでいたが、考えてみれば、自分の息子が知らないうちに入院していたというニュースは、親にとってはかなり重大な事態なんだろう。「思ったより軽い症状なんで安心したよ」と、ほっとした表情で帰っていった。

夕食は相変わらず個性のない病院食だった。食後はいつも甘いものを足して食べているが、今日はポテトチップを食べた。少しセキが出始めた。おかしいと思って喉を診てもらったら、やはりハレていた。明日から喉の薬が出るそうだ。

テレビが入ったので退屈しなくなった。さっそくテレビガイドを購入して番組をチェックした。夜は報道スペシャル番組などを見て本を読んでいたら午前1時になり、点滴16時間コース最後の3本目が終了した。夜勤の美人の看護婦さんがすぐに点滴カーを外してくれたので、安心して耳栓をして寝た。

◆ 12月28日(木) 入院4日目

昨晩よりはよく眠れた。朝、綾部さんと目が合うと、また「ゆうべ、眠れた?」と言わんばかりにニヤッと笑っていた。今日はどうしても風呂に入りたいと思い、担当医に言うとOKが出た。さっそくシャンプーなどを売店で買って、風呂に入った。

《風呂》

風呂は私の病室の前にある。毎週火、木、土の9時から16時が男風呂になる。点滴治療を受けている者にとって風呂に入れる時間とは、朝のほんのつかの間の時間しかない。夜中に点滴が外されて自由の身になり、朝の10時ごろに再び点滴でつながれるまでが、唯一の入浴チャンスというわけだ。

もう4日も風呂に入っていないので体が臭かった。風呂はユニットバスだが広い脱衣所やシャワーもあり、普通のマンションの風呂よりは立派なものだった。私はもちろんシャワーだけでなく、しっかり湯船に湯を張って体を沈めた。(貧乏性のため)

《看護婦さん》

職業柄当然なんだろうが、看護婦さんは本当に愛想が良い。いつもにこやかで小まめに面倒を見てくれる。そして若い子が多く、以外にも(?)美形が多い。また、患者に話しかける時ははじめに必ず"○○さーん"と名前を呼ぶ。これはマニュアルで決まっているのだろうが、とても親近感がある。電気店にも接客マニュアルがあって、顔見知りで良く買いに来るお客さんには必ず、「いらっしゃいませ、○○さん」と呼びかけた方が良いのだそうである。そこから親近感が生まれ、リピート客の創出につながるという。しかし時々、お客さんの名前を間違えて呼びかけ、親近感どころか不快感を創出してしまうこともある。

とにかく若くて、美人で、愛想が良くて、面倒見の良い看護婦さん達に対して、私は今まで陳腐だと思ってバカにしていた"白衣の天使"という称号を、崇高な気持ちで何のためらいもなく与えてしまえるのだった。(オーバーだなー)しかしいくら天使でも、時には"こんなことまでしてもらっていいのかな"と思った時もあった。

それは入院して3日目、まだ風呂の許可が降りず体が臭くなり始めたころだった。突然看護婦さん(担当の看護婦さんが休みだったので代わりの人だった)が、濡れたオシボリを2本、ビニール袋に入れてやって来て、
「林さーん、お風呂まだでしょー、からだ拭きましょーかー」と、明るく言ってきた。
『えっ、体って、どこまで拭いてくれるの、まさか全身?』と、一瞬のうちに思い巡らせた私は
「あっ、べっ別にいいです。自分でやりますから」と言ってしまった。まさか局部まで拭いてくれるとは到底思えないのだが、でも今にして思えば、拭いてもらえばよかったなー。

普通、看護婦さんは昼間勤、准夜勤、夜勤の1日3交替制で、夜勤の看護婦さんはそれこそ夜中の間でもずっと私たち患者のお世話をしてくれる。点滴の落ち方はどうか、寝たきりの患者に異常はないか、など定期的に見回りに来る。もちろん我々は熟睡しているわけで、看護婦さんも当然そう思っているから、ベッドのカーテンを音もなく開けて中に入って来る。これがけっこうエロチックなのだ。カーテンとはいえ仕切られているのだから1応個室、しかも真っ暗闇の中で若い女性と若い(若くもないか)男性が二人っきり。しかも、脈を取る時は男の手を握る(まあ、つかむが正しいが)のである。ナニカオコッテモ フシギデハナイ。でも、当然何も起こらない。だって彼女たちはビシッと仕事の顔だ。

いつだったか、眠れなくてボーッとしていた時、ふと我に返るといつの間にか私のすぐ横に色白のほっそりとした看護婦さんが青白く立っていて、本当に心臓が止まりそうになったことがあった。

点滴の16時間コースが3袋目で終了し、今日から8時間コースになる。点滴の容器も袋からビンに変わる。ビンのラベルには"体外循環希釈剤 サリンヘス"と書いてある。なんとなく心配になる。なんでも血液の巡りを良くする薬らしく、実は16時間コースの時も、これと同じ薬が2本分入っていたらしい。8時間コースは朝の10時くらいから始まり、夕方の6時には終了する。今日からノドの薬を飲み始めたが、抗生物質・ノドの炎症止め・それにごていねいなことにセキ止めまで入っていた。その薬を飲んだせいか、なんとなく眠い。

天気は昨日までとはいくぶん異なり、風もなく気温も少し上がったようだ。窓からみる景色は相変わらずの冬晴れなのだが。毎日、午前9時半ごろから耳鼻科の回診(といっても先生が病床まで来てくれるわけではなく、患者は処置室という部屋まで出向いて行って診察を受ける)があり、回復具合をチェックしてもらうのだが、入院して4日目の今日になっても顔は回復していない。この病気は発病してから1週間ぐらいがピークだそうで、治療していてもむしろ悪化することがあるそうだ。「あせらずに気楽に静養して下さい」と言われているので、特に気にすることはやめた。

《日々の暮らし》

入院生活のイメージというと、手足に包帯をぐるぐる巻き、車椅子・松葉杖、または寝たきり・人工呼吸という映像が少なくとも私の脳裏には残っていた。ところがここの病棟は主に耳鼻科と泌尿器科の混合病棟である。患者さんたちは局部的にはそれぞれ問題があるが、手足は全くピンピンしている。だからみんな歩き回るわ、ロビーにたむろするわ、公衆電話に群がるわの大騒ぎである。特に電話は売店と並ぶ入院砂漠のオアシスである。病院から1歩も出られないので、家族に電話していろんな用事を言い付ける。家族はたまったものではない。家からテレビを持って来いとか、銀行から金を下ろして来いとか、大掃除したかとか、まるで"おせん泣かすな馬肥やせ"の世界である。

私も妻に、あれ持って来いこれ持って来いと言い付けて閉口されたが、何よりも体は元気でヒマを持て余しているので、やたらといろんな友達に電話したくなる。「よう、元気?、実はさー、俺いま入院してるんだー」すると10人中10人が、「えーっ?何で?いつから?どこで?」となる。それが面白くて、片っ端からかけまくった。サマーバーゲンの景品用に使ったテレホンカードを大量に所持していたのもラッキーだった。

ほかの患者さんも私と同様、比較的ピンピンしているので、その共同生活といったらまるで病院には似つかわしくない。朝起きて洗面所へ行くと、見知らぬ人でも、たとえ歯磨き中でも「おはようございます」と言い合う。これで温泉でもあれば湯治場だ。時節柄、年賀状を書いている人達がたくさんいた。

今日は精力的にこのエッセイを書いた。寝てばかりいると生活にメリハリがつかないので、食事の時以外は"図書館"へ行って書いた。私の担当の看護婦さんは本日が仕事納めということで、あいさつに来た。「最後までご面倒を見られなくてすみません」と彼女は言っていた。私の入院予定期間が1月4日までだから、もう顔を合わせないかもしれない。彼女は12月29日から1月4日までの長期休暇だそうで、両親と温泉に行くのだと言っていた。

今日は1人も来客がなかった。しかし、貴重な日だった。綾部さんや横田さんとだいぶ打ち解けて、かなり長い時間しゃべったのだった。

◆ 12月29日(金) 入院5日目

朝から曇り、午後晴れ。昨日に比べていくぶん顔のつっぱりがなくなってきた。しかし昨夜から小水が良く出る。回数も量も異常に多い。点滴患者は"畜尿"といって、全ての尿をトイレに設置してある畜尿器に溜めるのだが、私は他の人の2〜3倍は出る。点滴は血液の循環を良くする液体らしいので、体内の新陳代謝が良くなり腎機能も活発になっているせいらしいが、あまりの量の多さにひとつの容器だけでは収納しきれず、ついに"No.2"と書かれた畜尿器が用意されてしまった。

昨日、根をつめてエッセイを書いていたので結構疲れている。今日はゆっくり休んでいよう。何のために入院しているのか分からないから。

同室の人達が次々と退院していった。右隣りの伊藤さんは、2カ月間入院していたそうだ。退室時に、奥さんからごあいさつの印として茶菓をいただいた。左斜めの横田さんは1月中旬に手術だそうで、今日から1月5日までは一時帰宅するそうだ。本日は仕事納めらしく、午後、職員の納会が行われていた。明日から看護婦さんが激減するのだろうか。なんだかとっても寂しい。

今日も誰も来なかった。年末になりテレビ番組もいいのをやっているので、仕方なくテレビを見て過ごした。

◆ 12月30日(土) 入院6日目

昨夜は11時半に寝て、今朝は起床の6時になっても目が覚めず、7時ぐらいまで寝ていた。立岡さんのイビキにも慣れ、完全に熟睡できるようになった。その立岡さんも今朝、正月の一時帰宅のために病室を離れていった。その結果、病室には綾部さん、尾関さん、私の若手3人のみになってしまった。昼食前に綾部さんと長い時間しゃべっていたら、少し口の開き方が不自然になってきた。ノドも大変乾く。全体的に昨日よりは良くなっているようだが、まだ無理はできないようだ。

今日は来客があった。長い間話し込んでいったので少し疲れたが、気分転換にはなった。同じフロアーの患者さんたちはどんどん減り始め、隣の病室などは誰もいなくなって電気が消されている。あれほどにぎわっていたロビーもひっそりとして、テレビすらついていない。ウチの病室も若手3人組だけになり、高校の運動部の合宿所みたいな雰囲気になった。しかし彼ら2人も明日で去る。大晦日の夜から元旦、三が日はなんと私一人の独占個室となってしまうのである。

◆ 12月31日(日) 入院7日目

とうとう大晦日になってしまった。外は相変わらずの良いお天気だ。昨夜はなぜか良く眠れなかった。立岡さんのイビキから解放されたのに。それともイビキが聞こえないと眠れない体になってしまったのだろうか。

今日の朝食から私のご飯は大盛りになった。昨日、看護婦さんに「ご飯のおかわりはできますか?」と聞くと、大盛りならできるとのことなので、そうしてもらった。ここの食事は、おかずの量が総じて多いので、ご飯だけが余るということはまずない。配膳台の名前札には"林浩昭殿 大もり"と記されてしまった。

朝食後、若手3人組の1人の尾関さんが一時帰宅した。彼は30歳で(25〜6に見えたのだが)、なんと3人の子持ち。子供3人とも家で大カゼをひいてしまったらしく、奥さんはまだ一度も彼の見舞いには来ていないということだった。

点滴の前に洗面所で頭を洗った。美容院のシャンプーエプロンのようなものをつけて洗ったので、うまく洗えた。ついでに足も洗った。この時初めて、洗面器の必要性を感じた。こういう時に使うのかと思った。私は持っていなかったので清掃用のバケツを借りて足を洗った。ところで私は昔から異常に足に汗をかく。革グツなんか履いているとすぐにムレてしまう。入院中はいつも裸足なので足は快適かと思っていたが、とんでもない。汗で臭くなってくる。靴下をはいた方が良いのかもしれない。

ベッドの枕元に"ナースコール"のボタンがあって、それを押すと小型スピーカーから「どうされましたか?」と看護婦さんの声が帰ってくる。この答え方は正しい。「ご用ですか?」だと「なにーっ、ご用があるから呼んでんじゃい!」になるし、「なんですかーあ?」などと言われようものなら「いや、ちょっと呼んでみただけです」と弱気になってしまうかもしれない。

昼食後、ついに最後の一人、証券マンの綾部さんも退院してしまった。「これ、よかったらどうぞ」と言って、雑誌類(ゴルフ雑誌と、見舞い客からもらったというエロ写真集)、ご飯にかける小袋ふりかけ、ティッシュ1箱、お菓子類などを置いていってくれた。別れ際に名刺交換などをして、「今度、飲みに行きましょう!」と、実に典型的なサラリーマン的社交辞令型あいさつをして別れた。

とうとう個室。ついに一人。誰もいなくなるとやはり寂しい。もう必要なくなったので自分のテレビのイヤホンを引き抜き、音を大きくしてみてもなぜか心は満たされない。他の病室には何人ぐらい残っているのかと(つまり、この天下の大晦日に不幸にも病院暮らしを余儀なくされた哀れな同胞たちの顔ぶれを覗いてやろうと)病室を覗きに行ったら、残っている人達のほとんどは高齢者で寝たきりの病人ばかりだった。

大部屋にひとりポツンといると、時間の経つのが異常に遅い。もちろん、今まで同室の人達と会話をしていたから時が早く過ぎていたわけではない。たまに気の向いた時だけ会話し、あとはお互いに自分の世界を作っていたが、自分の世界に入っていても、"あの人は何をやっているんだろう"という盗み見の暇つぶしはできた。今はそれすらできないのだ。看護婦さんも、「ひとりで寂しいでしょ」などとやさしく声をかけてくれるが、かといってお話相手になって遊んでくれるわけではない。

結局、ノロノロと午後の時間が行き過ぎ、仕方なく大晦日のテレビ番組をあてどもなく観ていた。NG大賞やビートルズの特番、超低俗な企画だなあと思いながら結果的に大変楽しめてしまった野球拳などを見終わると、今年もあと15分足らずになってしまった。

トイレに行こうとナースステーションの前を通ると、それまで、もぬけのカラだったステーションも、いまは看護婦さんたちが仕事を始めている。「年末年始は患者さんが少ないから楽なんです」「紅白見ないんですか?」と言っていたから、おそらくステーションの奥の部屋でみんなで紅白でも見ていたのだろう。それが終わって、さーて、仕事、仕事といったところだろう。年末年始は当然、特別手当が出るそうだ。

ところで、年越しのテレビは"行く年 来る年"に限る。番組の冒頭が必ず雪の禅寺という設定が、妙に気に入っている。そういえば、今までの人生の中で私はさまざまな年越し経験をした。今はなき有明の巨大ディスコで、所ジョージさんとカウントダウンしたこともあるし、柴又帝釈天、伊豆修善寺、渋谷の飲み屋は言うに及ばず、第3京浜を3ッ沢から玉川まで不覚にも1人で運転中に新年を迎えてしまったこともある。その輝かしい歴史の1ページにいま、"病院"の二文字が刻み込まれようとしている。なんと情けない瞬間ではないか!

などと思っていると、どこからか鐘の音がかすかに聞こえてきた。日本全国どこへ行っても必ずお寺はあるもので、そこで鳴らす鐘の音はどんな人にも必ず届くようになっている。そんな情緒的感傷に浸っていると、時報が1月1日を告げた。しかしまったく眠くない。昼間寝ていたわけでもないのに・・・。きっと酒を飲んでいないから眠くないのだろう。今夜は久しぶりに酒が飲みたい気分になってきた。まずビール、そしてワイルド・ターキーのロック。そして、いまモーレツに食べたいものは、カニ、ウニ、上トロの刺し身(寿司ネタばっかだな)、それに厚手のステーキ。

病院の大部屋に1人で寝るのはまったく恐くない。近くにナースステーションがあって、看護婦さんが一晩中起きているし、廊下が真っ暗になっているわけではないから。

◆ 1月1日(月) 元旦 入院8日目

やってきましたお正月、元旦!入院してからちょうど1週間が過ぎた。朝6時に病室のブラインドを上げ、自分で部屋の電灯を点けた。外はまだ暗い。東京の日の出は6時48分だというので、顔を洗ったりひげを剃ったりして初日の出を待った。昨日のうちから、建物内のどこの窓から朝日が見られるかを入念に下見していたので、初日の出ポイントは決めていた。ところが看護婦さんによれば、屋上に上がれるという。そういえば立岡さんが「正月をここで迎える人は、毎年、屋上に上がって初日の出を見るそうですよ」と言っていたことを思い出した。そこで、看護婦さんに教わった通りの階段を上り、屋上に向かった。

1週間ぶりに触れる外気は思ったよりも冷たくなかった。屋上へ出ると、6〜7人の患者がセーターなどを着込んで集まっていた。同じ耳鼻科病棟の人もいた。すでに赤い太陽が近くのビルのてっぺんに見事に出ていた。朝日を見るのは久しぶりだ。しかもこれは初日の出。振り返ると太陽の反対側には富士山がきれいに見えていた。今年はいい年なのだろうか。元旦を病院で迎えるというのは、やはり幸先悪いのだろうか。いや、全ての厄を最初に落としたから、幸先の良い1年だと思うことにしよう。今年は私の干支のねずみ年だ。

朝食のメニューには、ほんの少し正月らしい彩りがあった。『あけましておめでとうございます。一日も早く治りますように。よい年でありますよう心よりお祈り申し上げます。病院長 職員一同』との添え書き(印刷)も置かれていた。

午前中ウトウトしていると、もう廊下の方でガラガラというワゴンの音がして昼メシが運ばれてきた。驚いたことに、膳には黒豆、昆布巻き、なます、慶事羊羮、それになんと赤飯が盛られていた。「おせちじゃん!」と看護婦さんが言っていた。運ばれて来た昼食の膳は全部で6人分しかなかった。

昼食後しばらくすると妻子が見舞いにやって来た。特に子供は、入院してから初めての見舞いだったので、私の姿(病院衣姿や点滴を打っている姿)を見てショックを受けたようだった。妻がいろんな食べ物の差し入れを持って来てくれた 。特に重箱のおせちには感激した。伊勢エビ、イクラ、車エビ、ホタテ、カズノコ、肉巻、シャケなど、私の好物の盛り合わせになっており、夕食時に食べた。

夕方に妻の両親が迎えに来るまで、妻子は個室化した病室の私のベッドの上で、テレビを見たりお菓子を食べたりジュースを飲んだり(おまけにシーツにジュースをこぼしたり)最後には、子供はベッドで完全に熟睡するという大ワザまで見せて帰っていった。夜は正月番組を見まくって、11時半に就寝。

◆ 1月2日(火) 入院9日目

今日は大変眠い。7時ごろまで起き上がれなかった。ゆうべ、意味不明の初夢を見たが内容は忘れた。昨日差し入れてもらったお重の残りも1緒に食べたので、たいそうな量になってしまい、病院食を少し残した。初めてのことだ。

食後、かなりの満腹状態で胃重感が相当あったが、食後の薬を飲むとまたたく間に良くなった。薬の中に胃薬も含まれているのだが、これはおそらく消化剤だろう。小さな子粒の錠剤だが市販薬よりもよっぽど強力だ。

12月23日から10日間も酒を飲んでいない。さすがにキレてきた。CMなどで旨そうにビールやウィスキーを飲んでいるのを見ると、昼間からでも飲みたくなる。

やはり今日は本当に眠いらしく、朝食後に頭を洗い、足を洗い、体を拭いて点滴をつないでもらってから本格的に寝た。しかし眠りはそれほど深くはなく、まもなく配膳ワゴンのガラガラという音に起き上がるのを余儀なくされるのであった。

もう昼食の時間がやって来た。(書くネタがメシのことしかなくなってしまったなー)今回はなーんとマグロの刺し身が出た。相変わらずおせち色の強いメニューでもある。

午後、妻が年賀状を持ってやって来た。元旦に来る年賀状は今年も少ない。私の年賀状は入院する前日に出していておいたので、元旦には届いているはずだ。今日は正真正銘の眠さなので10時半には眠っていた。

◆ 1月3日(水) 入院10日目

もう10日目になってしまった。清掃やシーツ交換の人達の仕事も始まり、少しずつ活気が出てきた。午前中、同室だった横田さんと小関さんが検査のためにやって来た。横田さんはまた家に帰ったが、小関さんは検査の結果、退院が決まり、荷物をまとめてうれしそうに帰っていった。病棟には、正月に一時帰宅していた何人かの患者さんたちがまた戻り始め、少しずつにぎやかになっていく。

午後の早い時間に、妹一家とおふくろが見舞いに来た。私の顔は、おとといあたりから急速に回復しており、今日はもうほとんど顔面マヒなのかどうかわからないところまで来ている。おふくろは、12月26日に来た時と比べてずいぶん良くなったね、と言っていた。妹たちは、どんな顔だったのか想像がつかない様子だった。

妹たちを1階まで送りに行ってから病室に戻ると、家に帰ったはずの横田さんが予定よりも早く病院に戻っていた。5日まで自宅で過ごすはずだったのだが、病状が変化したので予定を早めて戻って来たそうだ。確かに、家にいるよりもここの方がなにかと安心だ。大部屋の独占状態は三日天下に終わることとなる。

考えてみれば、もう10日間も極端に運動をしていない。トイレへ行くために廊下を歩く程度のことしかやっていない。元旦の朝、初日の出を見るために階段を上って屋上へ行ったことが、唯1の重労働だった。別に1日中寝ているわけではないが、この3〜4日はベッドの上で本を読んでいるかテレビを見ていることが多くなった。きっと退院しても社会復帰には何日もかかるだろう。また団地の5階に420リットルの冷蔵庫を運べる体に戻れるのだろうか。

明日は私の退院予定日だ。しかし予定は未定で決定ではない。まず、主治医がいない。明日は病院に来るらしいのだが、他に予定があり診察するのは夕方になるという。それから、病院の業務開始はあさっての1月5日(金)からである。ということは、明日は退院手続きができないのではないか?だが待てよ。入退院窓口はいつも開いていたな・・・。

夕方5時半ごろ点滴が終った。きっと明日も朝から点滴はやるのだろう。ところが、消灯時間になってから看護婦さんが突然、「点滴は今日で終わりだったですね。針を抜きまーす」と言って、例の細く長いテフロン製の管を私の血管から抜いていった。幸い、綾部さんみたいに出血はしなくて済んだ。点滴が終わったということは、やっぱり明日退院か?

◆ 1月4日(木) 入院11日目

なぜかゆうべは眠れなかった。寝汗もかいていた。朝、病院の外門の近くにあるポストまで年賀状を出しに行った。天気がいいのに想像以上に風は冷たかった。病院は今日まで休みなので、1階は相変わらずひっそりしている。売店も閉まったままだ。売店横の自販機コーナーでカップコーヒーを買い、4階まで上がる。そういえば会社の正月休みも今日までだ。

あれほど快活だった同室の横田さんが、ゆうべからぐったりしている。熱があるらしく日中もずっと眠っている。それとは裏腹に、病棟は昨日にも増して活気を帯び始めた。帰宅していた人達が続々と帰って来た。新しい患者さんも2〜3人入ってきた。

ところで私の退院はどうなったんでしょーねー。当然のことだが、主治医の許可がなくては退院できない。それよりもなによりも主治医が来なくちゃ話になんないよ。

4時過ぎ、業者がレンタルテレビの引き取りに来たが、1日当たり300円だというので明日まで延長しておいた。もうあんまり見ないけど、無いとやっぱり寂しいもんね。夕方、隣のベッドの立岡さんが帰って来た。私はもう退院したと思っていたらしい。

とうとう夕食の時間になっても主治医は現れなかった。看護婦さんは、今日退院できなくて申し訳なさそうにしていたが、私は別に急いでいるわけでもなく退院が明日になろうが一向に構わなかった。

夕食は大いに足りなかった。しかし、カステラやポテトチップスなどはすでに食べ尽くしていて他に何も食べるものがない。そこで仕方なく、1階の自販機で缶入りホットコーンスープを買い、飲んだら結構満足できた。明日は朝7時から売店が開く。入院した当初と同じ状態に戻る。でも、午前中には退院だろう。それにしても隣のオッサンはイビキがうるさい。

◆ 1月5日(金) 入院12日目

朝6時に目が覚め、窓辺のブラインドを上げる。外はまだ暗い。今日は退院だと思うとなんとなく気が締まる。近くに建つ白いビルが朝日で赤く照らされるころ、1階の売店へ降りて行った。7時過ぎなのでフロアに人影はまだ少なかったが、売店はもう開いていた。久し振りに新聞を買う。

朝食が終わるころ、ナースステーションでは看護婦さんたちが勢揃いしていた。見慣れない顔もいる。さすがに昨日までとは人数が違う。8時半ごろ、退院した綾部さんが病室に現れた。彼は仮退院だったので、今日の検査が終われば正真正銘の退院となる。綾部さんもまだ私がいるとは思っていなかったようだ。「今日、退院なんですよ」私は年末年始の様子などをおもしろおかしく話した。

今日から勤務の、担当看護婦の中坂さんも「お久し振りー」と言ってあいさつに来た。退院が1日伸びたので顔を見ることができた。
「久野先生は、今日は何時頃来るんだろう」
「わかんないけど、ちょっと聞いてみるね」(この様にいつもタメ語である)多分、退院は昼食後だろうなと思っていた。

ところが、思いもよらぬ大どんでん返しが待っていた。なんと、担当医は今日まで休みだそうである。12月30日・31日と当直だったので、1月1日から5日までは休みなんだそうである。(看護婦の中坂さんが先生の自宅へ電話して確かめた)「えーっ、じゃあ今日退院できないのー?」どうも看護婦さんたちは、医師のスケジュールを詳しく把握していないようだ。昨日、別の看護婦さんの話では、今日は来ると言っていたのだから。どうしても退院したいのなら、当直の先生に仮診察してもらい、いったん退院してから後日来院して、最終的に担当医にOKをもらうという手もあるらしいが、めんどうくさいのでやめた。明日は土曜日だが先生は間違いなく来るし、病院も正常に機能しているというので「もののついでだ、もう1日!」と相成ってしまった。

すぐに婦長さん(看護婦さんからは"係長"と呼ばれている)が、「退院のことでゴタゴタいたしまして・・・」と、丁重にあいさつに来た。この退院のゴタゴタは実はこういうことだ。先生からは「1月4日(木)が退院です」などとは、実はひとことも言われていなかったのだ。ただ、「点滴で治療します。だいたい10日位かかります」と言われていただけだった。それを私が日数計算して、1月4日(木)と割り出したのだった。点滴は終わっても、どのくらい回復したかを検査しなければならない。検査結果でGOサインが出なければ退院できない。

もう1日退院が伸びたので気が抜けてしまった。さっそく頭を洗い、全身に軽くシャワーを浴びてリラックスした。今日から平常通りに戻ったので、廊下を行き来する職員も昨日までとは比較にならない位多くなった。1階へ降りて行くと、待ち合いロビーはいつも通りの混雑になっていた。売店もにぎわっていた。

午後、他の先生による診察があった。もう、回復度は満点だと言っていた。あとでその先生がベッドまでやって来て、「久野先生に診察の結果を電話で報告したんですが、経過が良好なので、明日の検査後には退院!ということにしましょう」と言ってくれた。また、看護婦さんも、「明日、退院ですって?」と、今さらのように言う。

私は正直言って、点滴が終わった1月3日(火)の時点で、次の日は退院だと思っていたから、もう2日も伸びてしまった今となっては"退院だ、退院だ"と言われても、「そんなこと、もうわかってるよ」という気持ちになってしまう。

しかし、考えてみれば、入院した時点では退院の日取りなんて、普通、分かるはずがないのだ。ケガや病気の回復状態によって退院が早くなったり遅くなったりするのだ。入院したその日に「あなたの退院日は○月○日です」と言われるなんて聞いたことがない。だから先生も看護婦さんも「いつ退院できるのかと思って心待ちにしていたでしょう。でもあなたは明日、待望の退院ができますよ」という意味をこめて"明日退院ですってね"と言ったに違いない。

そういうわけで、空白の1日が生じてしまった私は、もう徹底的にやることがなくなってしまい(正月TVは終わった、本や雑誌はついに全部読み切ってしまった)、とうとう、これとは別のエッセイを書き始めてしまった。ここは本当に文章を書くのに適した環境だ。ベッドサイドのテーブルで、B5ノート5ページ分をあっという間に書いてしまった。おかげで夕食までの時間を持て余さずに済んだ。

夕食はいつも通りの個性のない病院食だった。消灯後、さすがに『もう、家に帰ってもいいな』という気分になった。

◆ 1月6日(土) 入院13日目

今日もいい天気だ。朝のうち少し雲があっても、日が高くなるにしたがって消滅していく。なんでも、いい天気が続き過ぎて水不足だそうだ。

9時過ぎに耳鼻科の診察があり、久野先生から正式に退院の許可が降りた。レントゲンを撮ったり、電極反応の検査などは特にしなかった。もう、顔の違和感はまったくなくなり、顔面の筋肉も正常に動く。笑ったり、口を膨らませたり、眉を動かしたりも以前と変わらない状態まで復帰していた。

しばらくすると薬剤師がやって来て、退院後の飲み薬(錠剤と散剤)について説明し、3週間分を手渡された。なんでも退院後2〜3カ月は薬を飲み続けるらしい。入院した当初から、点滴と併用してビタミンB12を飲んでいるが、点滴が終了した翌日からステロイド剤も飲み始めた。ステロイド剤はとても強い薬らしく、体の抵抗力が弱り、ウイルスに感染しやすくなるという。また、胃潰瘍や顔のむくみ、腹痛などの副作用も出ることがあるらしい。やっかいな薬だ。ステロイド剤の投与は、退院したからといって急にやめることはできない。退院後の約1週間位は、徐々に量を減らしながらも飲み続けることになる。

さて、薬も手渡されたので、病室を引き払うことにした。今まで自分の部屋の様に使っていたロッカーやサイドボードから荷物を片付け始めた。なんとなく名残惜しい。

妻が迎えに来たので、同室の人達にていねいにあいさつをしてから部屋を出た。廊下で、担当看護婦だった中坂さんにあったので、お別れを言った。1階の入退院受付にて精算をした。さて、気になる費用だが、私の場合、入院期間13日に対して下記のようになった。

(保険9割給付)
入院料 19,542円 (1,503円/日)
投薬料 1,012円
注射料 (点滴) 5,351円
検査料 2,065円
食費 7,800円 (600円/日-3食-) (以上 非課税)
テレビ利用税 550円 (68円/日) (課税)

入院料金表で見ると、私の部屋は1日当たり885円のはずだが、実際は1,503円と、倍近い。これは恐らく、年末年始特別割増かなんかではないだろうか。また、テレビ利用料とは、電気代だと思う。レンタル料は別途、業者へ払っているのだから。

退院手続きがすべて終了したので、妻と2人で病院から出て外の空気に触れた。入院中3度程、外の空気に触れたことがあったが、サンダルではなく靴下と靴を履き、寝間着ではなくちゃんとセーターとジャンパーにマフラーをした格好で外を歩いてみると、地に足が付いていないというか、とても違和感があった。しかも、重いショルダーバッグを肩から下げていたので、3分も歩かないうちにとても疲れてしまった。

ちょうど昼飯時だったので、退院祝いに何か食べていこうという話になり店を探し始めたのだが、驚くほど体力の落ちていた私は途中で息切れしてしまい、なんでもいいから早く座って落ち着きたいという心境になってしまった。

結局、病院では食べられなかったものをということで、焼き肉屋へ入った。約2週間ぶりに食べた外界の食べ物は、とてもなつかしい味がした。

終り

掲載 2000.4.1

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