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2009.12.18 太陽の塔/京都

11:40 太陽の塔

◆ 1970年に大阪の千里丘陵で開催された日本万国博覧会、その跡地である万博公園にいまだ健在の、岡本太郎の意匠による巨大オブジェ、太陽の塔。岡本太郎の芸術の真髄をそのまま造形化したようなユニークな外見と、70メートルという驚くべき高さ。他の建造物が全て解体された中でこれだけが残されたという事実には、それなりの説得力がある。万博開催当時はテーマ館の一部として太陽の塔内部に展示ルートが作られてたが現在は密封状態、今後の改修の後に閉鎖された内部が再び公開されるという。

◆ それにしても、平日の万博公園は、実質的には誰もいないと言ってもよいという寂しい状況。この冬で最も強い寒波が訪れていて、公園を散歩するどころではない状況ではあるが、京都からも大阪からも離れているのもあろう、ここが「観光地」と言うのは難しいという事が分かった。

15:45 金閣寺

◆ 通称「金閣寺」の正式な呼称は「鹿苑寺」。著名な金色の壁面の建造物は「舎利殿」。室町幕府第三代将軍足利義満は、1397年に西園寺家の別荘である北山第を譲り受け、舎利殿を金箔で覆った。1950年に消失した舎利殿は1955年に再建され、1986年に修復工事が行われた。夕日を浴びて舎利殿の壁面が光り輝いている。こちらはサスガに平日でも観光客は多い。


20:30 blue note

◆ セッション

HOST - 芦津直人 p , 矢野克宏 b , 仲野肇 g , ドラマー

2009.12.19 京都

9:20 坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地 (近江屋跡)

◆ 慶応3年11月15日(1867年12月10日)、幕末の雄、土佐藩海援隊長の坂本龍馬と陸援隊長の中岡慎太郎は、この地で襲撃を受けた。いまだ犯人の特定には至っていない。彼らがもう少し長く仕事をしていたら・・・と思わないではいられない。それから140年あまりが経過し平和な世の中になり、何とこの跡地はコンビニになっていたのであった。この辺の人たちは、弁当やチョコを買ったりする度に彼らのことを思い返すのだろうか?

◆ ホテルの案内係の紳士に跡地の場所をきいたところ、正確な場所が分からなかったようであった。著名な観光スポットでもないのか。


10:00 銀閣寺

◆ 通称「銀閣寺」の正式な呼称は「慈照寺」。著名な建造物の正式な名称は「観音殿」。室町幕府第八代将軍足利義政が1482年に東山殿を造営、1490年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、慈照寺が創設された。

◆ 銀閣は残念ながら修復中であり、1階部分が困った状態であった。

11:10 清水寺

◆ 音羽山清水寺の伝説上の起源は778年にまでさかのぼる。デコボコの地形にいくつもの建物が並んでおり、かなり雑多な印象。よく「清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・」などと話される対象の建物は、「本堂」である。現在の本堂は、1633年の徳川家光の寄進により再建されたもの。毎日多くの観光客が訪れており、大事に扱われている建物であっても、やはり傷みも目立つ。

12:50 二条城

◆ 1601年に徳川家康が上洛時の宿所として築城。天守は1750年に落雷で焼失し、現在は天守台しかない。二の丸御殿という大変広い平屋の建物が二条城の中心であり、現在は公開されていて内部を一巡できる。徳川将軍が滞在した各部屋は、豪華さと威厳を感じさせる。

◆ 慶応3年10月13日(1867年11月8日)、徳川慶喜による40藩の重臣への大政奉還の諮問は、ここで行われた(大政奉還の成立は翌日)。坂本龍馬と中岡慎太郎の受難の1ヶ月前であった。坂本龍馬は後藤象二郎に大政奉還論を説いたというが、それにしても、坂本龍馬の明治維新への影響力というのは実際にはどのくらいのものだったのだろうか?一つだけ言えるのは、言動に対する証言や手紙の内容から、非常にユニークな人物であったのが今日まで伝わっており、ついつい応援したりツッコミを入れたりしたくなることである。

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