私のプロフィール


 少しメモ書きみたいになってしまいました。結構愚痴も混じってる。

年月日 出来事 コメント
1971.5.1. 大阪市内の
緒方病院で
出生
 父敬一朗、母靖子の長男として誕生。生まれた当時は、未熟児だったらしい。今の僕を知っている人は意外と思われるかもしれません。幼稚園までを摂津市鳥飼下で過ごす。
1972.12. 幼児洗礼  日本キリスト教団千里丘教会で安藤洋介牧師(日本キリスト教団八幡西教会前牧師)から幼児洗礼。母も同時に洗礼を受けています。ただ、記憶は全くない。(当たり前か?)その後、小学校低学年くらいまでは教会学校に通っていたが、その後なぜか離れてしまう。(信仰告白をした今では、結構痛恨なことかな。)
1976.4. 摂津市藤森
幼稚園入園
1976.?. 茨木市めぐみ
幼稚園に転園
 いつの間にか、転園。私が今所属する日本キリスト教団千里丘教会の親教会である茨木教会付属の幼稚園です。このときに、千里丘から茨木までスカイブルーの103系(今は東海道山陽線緩行線(今はあまりこの言葉を聞かなくなったなー。いいことのなのだろうか?)からは撤退しています。)で通園していたことによって、鉄道ファンになる。
1978.3. 茨木市めぐみ
幼稚園卒園
1978.4. 吹田市立
津雲台小学校
入学
 小学校入学と同時に、摂津市鳥飼下から吹田市津雲台に転居。そして、阪急千里線沿線に転居したことによって、さらに鉄道ファンぶりが加熱。やっぱり阪急沿線って当時は何とも言えない響きがあったもんな。
 それと、実はゴスペラーズのボーカルの村上てつや(本名は哲也だったと思う)は私の住んでいたマンションの隣のマンションに住んでおり、1,2年の間、同じ組であった。さすがに紅白出場したときは驚いた。
1981.5. 浜学園入塾  灘中に入学しやすいといった理由から入塾。その前に、2つほど塾に通っていましたが…。
1981.10. 甲子園学院
小学校
に転校
 受験勉強に集中するとかいった理由で転校。在学中の1982.4.に豊中市刀根山へ転居。このころから朝にABCの「おはようパーソナリティー道上洋三です」を聞くようになる。(ただ、ずっと聞き続けている訳じゃない。)この番組を聞くようになってから、阪神タイガース教(ちなみに、阪神タイガースのホームページはこちら)に入信するようになる。(社会人になってから、番組の公開放送にギャラリーの1人として出演させてもらったことがあります。)ある意味、クリスチャンとしての活動より積極的かな…?
1983.6. 豊中市立
刀根山小学校
に転校
 豊中から西宮の小学校に通学することは大きな負担であったこともあり、近くの小学校に転校。
1984.3. 豊中市立
刀根山小学校
卒業
1984.4. 灘中学校
入学
 灘中に合格した(ただ補欠合格だった。)うれしさに浸るもつかの間、同学年は東大、京大、阪大、神大医学部の現役合格者数が日本一という恐ろしい学年だったこともあって、高校に入ってからはほとんどブービーであった。特に、理系であるにもかかわらず、物理はテスト以外に追加のレポートを科されるという恐ろしい状態であった。ただ同級生や鉄道研究部の先輩後輩とのつきあいは続いており、OB間のつながりが深いのがいいところじゃないかと思う。(これは多くのOBも言うことですね。)
 趣味の面では、まず鉄道の方は、阪急宝塚線、神戸線で通学しており、また鉄道研究部に所属していたことから当時は阪急電車のほとんどの編成の並び方を覚えていた。(ただ今はねぇー、編成の組成がもっとひどくなって覚えられない。)野球の方は、ジャイアンツファンの国語の小川光司先生、カープファンの数学の新井直也先生のおかげもあってか、さらに自分が阪神タイガース教の信者であることを認識させられるとともに、野球理論を鍛えられた。(勉強はどないなってたんやとの声が飛んできそう。(^_^))
1990.3. 灘高等学校
卒業
1990.4. 駿台予備学校
大阪校入学
 鉄道研究部の先輩の薦めなどもあって、「京大に入りたい。」との大志(?)を抱き、友人がほとんど現役合格して青春を謳歌して入学式を迎える中、駿台予備学校大阪校に入学。(あの時はほんと悔しかった。)灘校時代の遅れ(?)を取り戻すべく、日夜勉強に励んだ毎日であった。特に、英語の構文重視の勉強は非常にためになった。何せ、予備校に入った頃はSVOCの意味が十分わかってなかったのでね。
 物事の本質を把握させる勉強は、大学以降の私の勉学の指針となった。ただ、遅れは予想以上に大きく、センター試験であえなく撃沈したこともあって、阪大を受けたものの不合格。平行して合格した関西大学に、英語の桜井博之先生(この先生はどんなだめな和訳でも丁寧に添削してくれた。)や灘校の友人のアドバイスもあって入学。
1991.3. 駿台予備学校
大阪校卒業(?)
1991.4. 関西大学
工学部
(現:環境都市工学部)
土木工学科
(現:都市システム
工学科
)
入学
 工学部(現:環境都市工学部)土木工学科(現:都市システム工学科)(しかし、土木の名前ほんと消えていってますね。今では、土木の名前を残している大学は日本にはありません。土木という名前自体に悪いイメージがあるのはねー。ちょっと寂しい気がします。まあ、英語ではCivil Engineeringといいますので、直訳すると市民工学ということになるのでずれるといえばずれるんですけどね。土木の名前自体は「築土構木」からきているんですけどね。)に入学。
 大学、大学院では交通計画を専攻し、交通工学研究室(現:都市交通計画研究室)に所属していました。現在京都大学准教授をなさっている山田忠史先生には、修了後も大変お世話になりました。(というより迷惑をかけた部分が多いかな。)また、同じ教会にいる海岸工学研究室(現在は、違う研究室名になっています。)に2004年3月まで勤務されていた井上雅夫教授には、研究室は違っていましたがいろいろ叱咤激励もされながら、良き(?)交わりは続いています。交通計画を仕事にしなくなった今、阪神タイガース教信者という部分でしか、2人の先生とつながりがもてないのは寂しいところです。
 また、2009年10月から学長をされています楠見晴重先生は、学生時代に授業を受けていました。当時から研究に対して謹厳実直な態度で接しておられたのが印象的です。
 サークルは工学会というところに入っていました。最近は、飲み会に行くこともほとんどなくなっているのが、残念なところです。
1995.3. 関西大学
工学部
(現:環境都市工学部)
土木工学科
(現:都市システム
工学科
)
卒業
1995.4. 関西大学
大学院入学
1996.3.18. 父敬一朗召天  虚血性心疾患(心不全)という突然の出来事で天に召されていきました。趣味のページでも述べてるように野球の話では馬が合ってましたし、倉敷出身ということもありその年のGWの倉敷マスカットスタジアムの阪神中日戦を楽しみにしていたにもかかわらずのことでした。
 父の召天もあって、1996.8.に豊中市刀根山から摂津市鳥飼本町(今の自宅と少し離れたマンション)に転居。その後、1997.7.に現住所に転居。
1996.12.22. 信仰告白  日本キリスト教団千里丘教会で、似田兼司牧師(当時)のもと信仰告白。あの感激は良かったねぇー。(ところが、今の私は…)父が亡くなったときは、こんな早くに信仰告白するとは思いませんでした。今は信仰告白してよかったと思ってます。
1997.3. 関西大学
大学院修了
1997.4. 民間建設
コンサルタント
入社
 入社後、以下の内容を中心に業務を行ってきました。
・ 商業施設等の周辺交通計画(大阪府 商工労働部の大規模小売店舗立地法のホームページを見ていると、退社した前後に関わった物件は、大阪府全体で届け出をしていたうちの半分は私が関わっていた。これって自慢?)
・ 交通実態調査(交通量・渋滞長・信号現示(信号の青・黄・赤の順序のパターン)・OD(Origin Destination:起終点)調査、といっても一部の言葉の意味が初心者の人にはわからないかな?)
・ アンケート調査(1つしか担当したことがないけど、もっとやってみたかったな。)
・ 公共交通機関の活性化(下に書いている上司の十八番だった。もっと勉強してみたかったね。)
 業務自体は楽しかった(これは事実!!)が、長時間労働(休みが少ないのには閉口した。)故社員の出入りも激しく、私が技術面で尊敬していた上司が2001年に独立したこともあり転職を考え出す。ただ、不況の影響もあり、いろいろと周囲の方にお世話になったもののやむなく退社。私の同期やその周辺の年代の人間もほとんどは辞めてしまったが、今も一部の人間とはつきあいがあります。在職当時、よく相談に乗ってもらった松本隆二先生とは今も交流が続いています。仕事は、交通計画というよりは調査を行うことが多かったが、そのときお世話になった調査員の方とも今も交流があります。今は辞めて良かったと思っています。じゃなかったら、たぶんこのホームページは存在してなかっただろうな。
2002.7. 民間建設
コンサルタント
退社
2002.9. 大原簿記
専門学校

入学
 税理士を目指すべく、大原簿記専門学校大阪校に入学。結構社会人出身者も多かったです。
2002.11. 日商簿記
検定2級合格
 最初は簿記の「ぼ」の字も知らないところから始めたこともあったので、合格して結構自信になりました。
2003.12. 税理士試験
科目合格
 本試験前の模擬試験では、財務諸表論の方が成績がよかったので自信がありました。ただ、簿記論は計算の内容がわかっているはずなのに、なかなかいい成績が獲れていませんでした。そんな状況で迎えた本試験では、簿記論は第一問、第二問はかなりできがよかったのですが、総合問題である第三問でこけてしまったので、ぎりぎりだと思っていました。それに引き替え財務諸表論では、試験委員対策がばっちりはまったこともあり合格できていると思いました。そして、12月に届いた税理士試験等結果通知書を見ると、1回目の受験で、目標であった簿記論、財務諸表論2科目両方合格を達成したことがわかったときはうれしかったです。
2004.12. 税理士試験
全滅(?)
 2003年8月の本試験後、財務諸表論は合格できていると思ったので、12月の結果がわかるまでは、法人税法と簿記論の授業を受講していました。法人税法は一発で合格するのが難しいという評判通り、受講生(特に2回目以上の受験者)の問題の解答速度が速くてついていくのもままならない状況が続いていました。
 そして、2003年の12月の合格発表があってからは 法人税法と消費税法を受講しました。8月の本試験では法人税法は、理論の問題が訳のわからないところから出題されていい結果が出ませんでした。消費税法も同じようなものでした。やはり、税法科目を一発で合格しようなんて虫がよすぎますね(笑)
2005.12. 税理士試験
科目合格
 2004年の試験結果で法人税法、消費税法とも両方合格可能性が低いとわかっていたこともあり、8月の本試験から法人税法、相続税法の勉強を開始しました。さすがに税法は難しかったです。そんな状況でしたから、正直合格できるかなと思って2005年8月の法人税法、相続税法を受験しました。先に受験した法人税法では理論はある程度書いたのですが、計算が試験委員が代わったこともあって、問題文が異常に長くボリュームも多かったので、解答できる範囲を答えました。ただ、相続税法は理論で論点を勘違いして解答したこともあって、合格は難しいと思いました。そんな中、12月に届いた税理士試験等結果通知書を見ると、法人税法が合格していました。法人税法は合格が難しい科目といわれ、合格のための重要科目ともいわれるので合格できていてホッとしました。
2006.12. 税理士試験
合格
 2005年12月の結果がわかってからは、相続税法、消費税法の勉強をすることとなり、ラストスパートをかける一年となりました。消費税法の方については結構模擬試験でも上位の成績が取れていたこともあり、合格できる可能性が高いと思って勉強してきました。相続税法については問題によって成績のアップダウンがあり合格できる可能性は五分五分と思っていました。
 そんな中、本試験を受験しました。なんと会場は我が母校関西大学でした。それまで3回はすべて大阪学院大学だったので正直うれしかったです。特に消費税法を受験した教室は私が大学時代時々講義を受けていた教室だったのでなんか変に優越感に浸っていました。問題は、2年前に受験したよりも簡単でした。大原の解答速報を見ても十分合格できていると思いました。そして翌日の相続税法の問題は、理論が結構大原簿記専門学校の模擬試験とか出ていた問題で、また計算でも農地の納税猶予関係の問題があったのでうまくいけば合格できているかなとは思っていました。
 そして、12月11日に官報のサイトを見たら合格していました。税理士試験の勉強を始めてから、4年で合格できました。しかし、私の大原簿記専門学校時代の同級生には私より早く合格した人間もいました。彼には追いつくのは難しいかなと思った時期もありましたので、正直うれしかったです。
2008.9.11. 母靖子召天  癌性腹膜炎のため天に召されていきました。いろいろと精神的に支えてもらうことも多かったので召されたときはショックでした。
2009.9. 税理士登録  2006年9月から2009年8月にかけて数箇所の事務所でいろいろと教えていただきました。
 近畿税理士会に税理士登録(114617号)
2009.10. 税理士事務所
開業
 独立して井上健一税理士事務所を開業(近畿税理士会 吹田支部所属/登録番号:114617)
2010.6.    2級ファイナンシャル・プラニング技能士合格
2010.9.  AFP(日本FP協会認定)登録(会員番号:50716433)
2012.7.     CFP®(日本FP協会認定)登録(会員番号:J-90226294号)
2012.11.     1級ファイナンシャル・プラニング技能士(資産設計提案業務)合格

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