私の古墳時代観と聖徳太子像 ● 馬に乗った遊牧騎馬民族の渡来と古墳文化 紀元前660年の日本国建国以来、稲作が全国に普及し、 先住民族の縄文人と渡来人の弥生人の文化が融合した文化が栄え、 しばらくの間平和が続いていたが、 紀元前2〜1世紀ごろ、中国大陸から、 馬にまたがってさっそうと走り抜ける遊牧騎馬民族が渡来して来た。 当時都は奈良にあったが、大陸からのこの渡来人の勢力は 北九州を本拠地とした。 北九州を中心とする勢力は、奈良の都をそっくり北九州に遷都し、 奈良を中心とする勢力と北九州を中心とする勢力が争いを起こし、 双方が王君(おうきみ(天皇))と称した。 「祟神天皇」が即位したのはこのころであり、 正当な都は奈良であったが、渡来騎馬民族の都は北九州であった。 そうこうしているうちに、稲作中心の弥生文化と 馬や牛を養う遊牧民の文化が融合した文化が普及する。 それまでは大きな墳墓を造営する習慣はなかったが、 中国の天円地方(天は丸、地は四角)という思想と 天地人というように天と地が交わるところに人ができるという思想に影響され、 また、偉大な人をお祭りしたい、という気運が盛り上がって、 大きな前方後円墳が造営されるようになっていく。 弥生時代後半の大きな古墳が造営された3世紀半ばまでの時期を古墳時代、 その文化を古墳文化というが、 耶馬台国の卑弥呼がいたのも3世紀ごろである。 (「耶」という漢字には「よこしまな」という意味があり、 「台」という漢字には「皇族(こうぞく)」という意味があり、 耶馬台国を読み下すと「よこしまな馬の皇族の国」になるので、 耶馬台国はおそらく、北九州の遊牧騎馬民族の本拠地と思われる。) 奈良を本拠地とする大和朝廷は、4世紀に全国統一をすすめた。 (日本武命(やまとたけるのみこと)は、大和朝廷の全国統一の際に 活躍したひとりの日本国民である。) (大和朝廷の「大和(やまと)」は、後に「聖徳太子」が、十七条の憲法の第一条で 「和をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ」と定めているように、 日本は「和」の国であり、その「和」に大きいという意味の「大」をつけた 「大きい和」という意味と思われるが、 矢(や)の的(まと)という意味もかねている。) 朝鮮半島を介した大陸の遊牧騎馬民族の影響力がやがて衰え、 「応神天皇」のころに朝鮮半島を介した最後の争いがあった。 それ以降は、日本国民は、ふたたびひとつにまとまることができ、 応神天皇の次の天皇の「仁徳天皇」のときに、 延べ面積がエジプトのピラミッドよりも大きい日本最大の前方後円墳を造営し、 それ以後、古墳文化は衰退していく。 大和朝廷が国を統一していた時代を大和時代という。 ● 仏教を重んじた聖徳太子と大化の改新 大和朝廷は、朝鮮半島にも勢力を広げ、 中国や朝鮮半島から多くの人が日本国に移り住むようになった。 朝廷や豪族たちは、これらの帰化人を保護して、 その結果、「漢字」、「儒教」、「仏教」などの 進んだ大陸の文化が日本国にひろまり、人々の生活は大きく向上した。 ところが、大陸の文化が伝わるにつれて、各豪族たちも力を強め、 豪族同士で勢力争いをして国が不安定になった。 仏教は外来宗教であったが、有力豪族の大伴氏・物部氏は、仏教を排斥し、 蘇我氏は仏教を擁護して争った。 「聖徳太子」はこのような時代背景のときにうまれ育った。 聖徳太子は仏教をよく理解し、また仏法を体得し、 (飛鳥時代の法隆寺の夢殿は、太子が精神修養を行った精神修行場跡と思われる。) 以下のように感じて、それを実現すべく自ら仏法を行った。 豪族の争いを静めて国を平和にするためには、 + 文化的に進んだ大陸に媚びず、中国が認めるような独立国家になること、 + 大陸のすぐれた文化はすべて日本国のものとして吸収してしまうこと、 + 口伝や独自の絵文字や以心伝心ではなく、組織形態も記録も定め事も 中国が納得でき尊重できる形で明文化したものを作成しそれをきちんと実施すること、 + これらのためには、天皇の権威を明らかにし、 天皇を心のより所として、各人がひとつにまとまった政治を行うとよい。 聖徳太子は推古天皇の摂政となり、そのように政治を執り行った。 しかし、聖徳太子は志し半ばで命絶え、また、 その一族も豪族によって滅ぼされてしまったが、 その志しは後世の人に受け継がれ、 聖徳太子の理想は、「大化の改新」としてそれ以後実現する。 (聖徳太子の理想は面々と日本国民に受け継がれ、 明治維新のときにも形こそちがえどこの理想がかかげられる) 聖徳太子がおられた頃は、大和朝廷が朝鮮に進出したなごりで、 朝鮮半島に任那日本府があったが、 朝鮮半島では新羅(しらぎ)が強大になって、任那日本府は新羅に滅ぼされ、 新羅は朝鮮半島を統一した。 聖徳太子は、大陸のすぐれた文化を吸収した新しい文化を日本国全土に普及することは たやすいことでなく、時間がかかることを承知していた。 そこで、飛鳥(あすか)時代に奈良県の(明日の香りと書く)明日香(あすか)村に、 大陸文化を吸収したところの規模の小さいモデル都市を建設した。 大陸文化を吸収した新しい文化が日本国全土に普及するのは、奈良時代、平安時代であるが、 飛鳥時代の明日香村はそのモデル都市となり、奈良時代、平安時代の発展に大きく貢献した。 推古天皇の頃から、大化の改新までの歴史は、血で血を洗う骨肉の歴史である。 仏教伝来の前には、八百万の神を奉る文化や記録を記した独自の絵文字などがあり、 当時の日本にとって仏教は邪教だった。 大陸文化を取り入れるにつれ力をつけた豪族の間で争いが起こっていて、 有力豪族の大伴氏・物部氏は仏教を排斥し、蘇我氏は仏教を擁護して争っていたが、 大陸文化を取り入れる上では仏教は欠かせない存在だった。 そこで聖徳太子は、蘇我氏に協力し結果的に大伴氏・物部氏を滅ぼすことになる。 大陸文化を大々的に摂取する為には、それまで大事にしてきた日本古来の文化を 大切にすることは、邪魔なこと以外の何ものでもなかった。 大陸文化を大々的に摂取する為には、それまで大事にしてきた日本古来の文化を 一度白紙に戻す必要があった。仏教を邪教とする勢力は壊滅させる必要があった。 仏教を邪教とする勢力は壊滅し、蘇我氏(馬子、蝦史、入鹿)が天下を取ることになる。 聖徳太子は天皇を重んじ天皇を中心とした社会を建設しようとしていたが、 ところが蘇我氏は、日本古来の伝統に乗っ取り、蘇我入鹿のときには、 蘇我入鹿を王君(おうきみ)と称して天皇をないがしろにし、 聖徳太子の死後聖徳太子の一族は豪族に滅ぼされてしまう。 滅ぼされてしまうが聖徳太子が定めた十七条の憲法の第一条の 「和をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ」に従って無抵抗だった。 蘇我入鹿を王君(おうきみ)とたたえたことは、銅鐸の絵文字に記されている。 蘇我氏は栄華を極めるが、天皇を重んじ天皇を中心とした社会を建設しようという志しは 後の人に受け継がれ、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を打って改革を行い、 大化の改新(645年)として天皇中心の国家を建設した。 (聖徳太子様は、仏教を中心とする大陸文化を吸収することと、 従来からあった王君(おうきみ、天皇)の権威を明らかにするという、 あい矛盾することを両方とも実現するという十字架を背負っておられた。) 2006年 5月 9日 作成 2006年 5月13日 更新