志賀高原スキーが鎮魂のスキー行きになってしまった
 
<2018年2月8~9日> 
 
 掲載日2018年2月15日               斉藤 清
 
  
2月8日、7時の自宅の屋外気温は-12℃だった。 
電車で長野駅へ、そこから急行バスで志賀高原の奥志賀高原スキー場と焼額山スキー場を
1泊2日で滑ってきた。今シーズン3回目の志賀高原スキー行きである。 
 
 1月21日、私の親友のN君が、インフルエンザから肺炎を併発し、ご自宅で急逝された。満82歳だった。
 彼は小学校1年~5年生まで(6年は男女共学になり一緒のクラスにはならず)と、中学1年生、高校でも一学年
同級になり、子供のころから遊び友達だった。
 私が現役を退職(62歳で)し、茨城県ひたちなか市から長野県安曇野市に妻と移住し、ここを終の棲家にしてから、
HPで安曇野の情報を発信する「コンフォートあづみ野」を掲載するようになったが、N君が偶然、そのHPを見て、
当時私が入会していたNAC(安曇野に新しく移住してきた仲間の懇親会)のスキークラブで、毎週木曜日、「爺ヶ岳
スキー場」でスキーを滑っているとの情報を見て、私になんの連絡もなく、爺ヶ岳スキー場に行けば、私に会えると
思ってこのスキー場に来たのは、もう10年以上前のことだった。全く偶然の再会だった。
 今シーズン、3度目の志賀高原スキーであったが、前回の志賀高原スキーをした1/9~11日、次のホテルの予
約を2/8~9日にしておいたので、まさかそれがN君を偲ぶスキー行になるとは、全く信じられないことだった。
 
 N君の奥様に送った追悼の手紙の一部。
(縦書きの文を横書きに変更したことと、内容の一部変更や割愛した箇所がある。)
 
  ご逝去の報は、二月一日、お嬢様からのメールと二月三日、奥様から届いた訃報のハガキで知りました。
 さっそく、ご返事を書くべきでしたが、あまりにも突然のことで、私もN君のご逝去をなかなか受け入れることが
出来ませんでした。それでご返事が遅れましたことをお許しください。

 私がN君と、柏野小学校一年生から五年生(六年には初めて男女共学になったので別クラスになった)と的場
中学校一年生、当時の市立函館東高校でも一学年同級と、高校までの十二年間に七年間も同じクラスで学んだ
者です。

 今から数年前までは、N君と志賀高原スキー場に毎年のようにスキーに出かけていたのですが、彼から突然ス
キーはもう止めると言われ、その理由が「車の運転は大好きだが、スキー道具を車に積む作業が、なぜか億劫に
なった、歳のせいかな」でした。

 私は日立市の電機メーカーに、大学を卒業してから四十年務めたのち六十二歳で退職し、丁度、その年が今から
二十年前の長野冬季オリンピックだったこともあり、妻と安曇野に移住し、最初にやったことが、北アルプス山麓に
ある八方尾根スキー場で、滑降競技の選手を誘導する英語の通訳ボランティアでした。そのことが、私たち夫婦が
安曇野を終の棲家にする決心をしたきっかけでした。

 それで、彼と一緒に志賀高原スキー場に出かける時は、「長野駅まで僕は安曇野市から電車で行くから、貴方は
最短コースの関越自動車道から上信越自動車を乗り長野駅で合流しよう」と何度も言いましたが、彼は中央自動
車道から長野自動車道を経由する遠回りして、わざわざ拙宅まで朝六時頃迎えに来てくださり、彼の車で十回
以上も一緒に志賀高原スキー場を楽しみました。

 スキー場でも昼食時や休憩時間には何時も小学校時代の思い出話で、彼の記憶力には驚いたものでした。
 私はお酒が好きなほうでしたから、お酒を呑みながら彼の思い出話を聞いていましたが、彼はお酒が体が受け付
けないと言って全く呑まずに、ほんとに時間さえ許せばいつまでも特に小学校、中学校時代の話をしてくれました。
 何故か高校時代の話は殆ど出ませんでした。

 彼は数年前に突然スキーを止めましたが、私は八十一歳(今年の三月に八十二歳になる)の今でもスキー大好き
人間で、彼と一緒に滑った志賀高原スキー場を相変わらず滑り、僕の編集するホームページ(HP)「コンフォート
あづみ野」に結果報告をしております。彼からは時々、ドライブで行ったいろいろの花や風景の写真を送ってくださり、
それを何度も私のHPに掲載させていただきました。
 
 彼は毎日、私のHPを朝起きたら一番初めに見ることを日課にしていて、私の動向をいつもチェッくしていると
言っていました。その一言が、HPを今まで継続し今も続けている原動力です。彼が他界されてからは、私のHPの
更新頻度も急激に減ってしまった昨今です。ご葬儀も済まされた今、私に出来ることはないかと考えたとき、彼と
一緒に滑った思い出の志賀高原・焼額山スキー場と奥志賀高原スキー場に、一人で鎮魂のスキーに出かけ、その
記録写真を奥様にお送りする事が彼のためにも良いと勝手に考え、二月八~九日、志賀高原の焼額山スキー場と
奥志賀高原スキー場を滑ってきました。スキー場の山頂(標高二千メートル)、気温マイナス十五度、ゴンドラリフト
を降りた所が、いつも彼と滑るときのスタート地点でしたので、そこの深い雪の上に小さな祭壇?を設け、持参した
お花と果物を供え、彼に会ってきました。(中略)

 その時写した幾枚かの写真を同封させていただきますので、見ていただければ幸いです。(後略) 
 
 1日目(2/8) 奥志賀高原スキー場
 
 奥志賀高原スキー場・第二エキスパートコース。斜度30度の上級コースを
N君は綺麗な弧を描いて降りていた。私は連続斜滑降でようやく降りた。
彼は運動神経が抜群で、高校時代、函館港でヨット(僕は在学中、高校にヨット部が
あることすら知らなかった。当時はマイナーな部活で、彼以外選手はいなかったらしい)、
大沼などの特設リンクでスケートの選手としても活躍した。
当時、僕らの高校にはプールが無かったが、彼は、道立函館商業高校のプールで水泳の競技もしていた。
 
   
エキスパートコースの斜度は30度、
当日(2/8)の上部の気温は-17℃、
積雪量は280cmと電光掲示板に
掲示されていた。 
奥志賀高原ホテルのロビー。
ロビーの暖炉で休憩し、コーヒーを飲む。
N君はお酒は飲めないが、コーヒーは好きだった
と思う。ここで小学校時代の思い出話をした。 
  
 2日目(2/9) 焼額山スキー場(愛称:「ヤケビ」)
   
プリンスホテル南館前から出ている
第2ゴンドラリフトで山頂(標高2000m)に向かう。
左側がパノラマアウトコース(全長2500m)の下部。 
山頂に向かうゴンドラリフト(6人乗り)から、
スキー場のある風景を眺める。
右奥にうっすらと北アルプスが見える。 
  
 
 山頂に着くと、そこがN君と一緒に延べ100回位滑った「ヤケビ」で一番楽しいパノラマアウトコース
のスタートポイントで、標高が丁度2000mである。ここの雪の深い所に、持参したお花と果物と
彼の名前と日付、下に私の名前を書いた板を挿し、ここでN君に会い、話をして来た。
(HPに掲載するため、お名前は写真を加工して消してある。)
 
   
私と、右下に供花などがある。 
10番はスタート地点、最下部の1番から10番
まで、コース脇に番号標識がある。 
   
   
 パノラマコースを滑走開始、しばらくは割合
傾斜の少ない所を滑る。

奥の一番高い山は、横手山(標高2310m)で、
上級コースでしか降りることが出来ない。
N君は上手だが、私はやっと滑ったコースである。
横手山山頂には、日本一標高の高いレストラン
があり、N君はここのボルシチが美味しいと言っていた。

奥の右手に見える白い山は、先日三千年ぶりに噴火
して、死者も出た群馬県側の「本白根山」と「白根山」
である。冬季は志賀高原と白根山の麓にある草津温泉
間の山岳道路は閉鎖されているので、「本白根山」
中腹にある草津国際スキー場には、長野県側側から行く
ことは出来ない。
途中で最大傾斜(23度)を滑る。
これはその急スロープを降りてから
カメラを望遠にして撮影したから、非常に
急なスロープに見えるが、実際に目で見ると、
これほど急ではない。

今回はこのパノラマコースを2回滑って、
N君を偲ぶスキーを終えた。
人生の無常と儚さを痛感したスキー行きだった。

合掌



 
  
 追記:「コンフォートあづみ野」のHPの「スキー」のホルダーのトップ頁にサムネイル写真が6枚掲載されているが、
上段の3枚はN君と一緒に志賀高原スキー場を滑った時の写真。
(アンダーバーの所をクリックすると、その頁が出て
くる)。その写真に写っている女性は、安曇野で知り合った山ガール。
 N君は黒いスキー服、私は薄茶色の服を着ている。僕たちの後ろに付いて滑ってるのは、その山ガールのKさん。
 その時、同行されたKさんは、数年前に北アルプスの北穂高岳登山中に滑落し、帰らぬ人になった。
 北アルプスの栂池高原スキー場」の標高差800m、長さ7kmのロングコースを、N君とKさんと一緒に滑ったことも
あった。N君は、宿泊スキーは何故か嫌いらしく、彼と一緒のスキーは、殆ど日帰りだった。早朝に車でご自宅を出発
され、スキーが終わると一緒に拙宅まで同じ道路を通って送ってくれた。そして安曇野で一緒に夕食を(私の妻も同席
したこともあった)摂ってから、東京のご自宅に深夜到着で帰られたのである。この「栂池高原スキー」の時だけ、栂
池高原のペンション(ここでKさんはアルバイトをしていた)に一泊したことがあった。
 
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