酸ヶ湯温泉旅日記(2)
 
<2019年5月16~17日>
      参加者:池田浩次、田中利夫、田巻 弘、
          増山俊一、松村和裕、和田 弘
      俳 句:田巻 弘
奥入瀬渓流・十和田湖・盛岡へ

和田 記
第2日(5月16日)天候:晴
 松村君以外の5名は8時50分酸ヶ湯温泉発のJRバスで奥入瀬渓流に向かう。松村君はここから青森市へ向かった。
 以降、増山君が作った日程表に従って奥入瀬渓流を歩く。
 馬門岩バス停で下車 → 雲井の滝バス停  1.8Kmを歩く
 雲井の滝バス停   → 雲井の流れバス停 (この間はバスに乗る)
 雲井の流れバス停  → 銚子大滝バス停  2.6Kmを歩く
 銚子大滝バス停   → 十和田湖畔、子ノ口バス停(この間はバスで)
 子ノ口着 11時35分
奥入瀬の渓流は評判通り見事だ。流れの速さも趣があるが十和田湖から流れ出す水そのものが透明で実に綺麗。

渓 流
 時間がたっぷりあって脚に自信があれば馬門岩から、あるいは更に下流からスタートして子ノ口まで歩くところであるがこの齢では全く自信なし。上に書いたように途中でバスを利用しながらの散策となった。それでもこの日の歩行数を後で調べてみたら15,328歩だった。よくも歩いたものだと我ながら驚いた。この調子なら脚もまだ暫くは大丈夫かな?
 ここで昼食をとった後、十和田湖を観光船で渡る。船は湖に突き出した半島をふたつ巡った先の休屋へと向かった。
 休屋集落の周辺を見た後で同行の4人と別れ15時20分休屋発八戸行きのバスに乗る。バスは焼山までは朝来た道を逆に走り、焼山で酸ヶ湯温泉、八甲田山、青森市方面への道と分かれて八戸へと向かう。ここで気がついたがきょう歩いた奥入瀬渓流(奥入瀬川)は北の陸奥湾へ流れるのではなくて焼山あたりから東の方角へと曲がって、八戸方向へと流れている。八戸行きのバスはこの奥入瀬川に沿って走っている。焼山を過ぎて間もなく、辺りの景色は一変して奥深い渓流の景色から開けた里山の景色、更には田畑の豊かな平地へと変わる。奥入瀬、十和田湖と聞くとなんだか人里離れた別世界の感じ(確かにそうではあるのだが)だが、バスで少し走ると房総でも見慣れた農村の風景に変わるのが何か妙な感じであった。

 八戸駅からは新幹線できょうの宿泊地盛岡へと向かった。19時過ぎにはチェックイン出来た。さすがに新幹線は便利である。
奥入瀬渓流・十和田湖
増山 記
 奥入瀬渓流は焼山から子ノ口にいたる 14kmにわたる渓流である。このうちバス停「馬門岩」と「雲井の滝」の間と、「雲井の流れ」と「銚子大滝」の間の2区間を歩くことにした。前者は流れの名所が多く所要時間は30から35分、後者は滝が多く所要時間は50から60分、バスの間隔は 35分と 57分、年寄りにとってはかなりの強行軍である。「雲井の滝」ではバスが先に着き、走る羽目になる。好天に恵まれ若葉が美しく、雪解けで水の勢いもよく素晴らしい景色を十分堪能できた。
阿修羅の流れ 銚子大滝
淀みては奔る奥入瀬山若葉 奥入瀬を走りて汗の定時バス
奔流の岩に若草小さき里
 子ノ口を12時30分発の遊覧船で休屋まで50分間、見通しがよく風もない快適な船旅を楽しむ。
 
船からの景色 (田巻撮影) 休屋着 記念撮影
十和田湖や水辺白巖松緑 青年や遊船を背に整列す
 休屋で1時間あまり湖畔を散策する。高村光太郎制作の「乙女の像」や十和田神社を訪れる。十和田神社は 807年の創建で祭神は日本武尊とのこと。
 
乙女の像 十和田神社
 和田君は十和田湖(休屋)発15時20分のバスで八戸に行く。4名は一足早く15時00分発青森駅行きのバスで今夜の宿「蔦温泉」に向かう。
蔦温泉
増山 記
 青森から十和田湖に行くバスは、酸ヶ湯温泉を出たあと蔦温泉で10分間の休憩をとり奥入瀬のほうに向かう。此処に宿泊する4名は朝宿に荷物を預けたので身軽に渓流などを散策できた。和田君のタフなことには改めて感心する。
 蔦温泉旅館も酸ヶ湯同様1軒宿である。久安3年(1147年)には既に湯治小屋があったとのこと。また十和田の魅力を全国に紹介した明治の文人「大町桂月」ゆかりの宿でもある。
 大浴場は、男女入替制の「久安の湯」と男女別の湯「泉響の湯」がある。いずれも源泉の上に浴槽がありブナ材を使用した湯船の底板から湧き出し空気に触れていない「源泉湧き流し」の湯をお楽しめる。時々「湯玉」が底からあがってきて湯面ではじける。
 
蔦温泉 久安の湯への廊下
   
料理 前菜・小鉢・中丼 地酒 "泉響"
以下 田中 記
 蔦温泉到着入浴の後宴会となる、例に依ってビールで乾杯となる。その後日本酒の注文があり“ぶなのかほり”の名が付けられたものと他の一品は冷酒“泉響”といい作家の井上靖が命名に由来したものが供された。
“泉響”を紫の切子の杯で、時間を掛けて味わう、銘酒なり。
泉響(颯颯)考
 翌朝4時前に目が覚めたゆっくり朝風呂でと「泉響の湯」へ
 浴衣を脱ぎ、湯船に暫く浸かり湯の暖かさを味わっていると湯底から湧き出る湯が皮膚に触れる。底からの湯が空気に触れ化学反応が起こり肌をピリピリと刺激しする。
 入浴する者はただ一人、静かだ。
 眼の前に下からの湯の盛り上がる平らな半球状が目に止まる。
 湯は盛り上がるが直ぐに四方に流れる、此れが湯面に円を描き拡散する。
 此れは音ならば発生音が四方八方に伝わる現象と同一(ただし平面)とみれば泉水がゆっくりと優しく響き渡ると考えての文人の表現“泉響”が出て来たのだろうと想像する。(井上靖の作品の何処に表現されているのか知りたいものである。)
 颯颯は風のさっと吹くさまを言う。松風颯颯の表現が文献にあるとネットに見えた。
以下 増山 記
5月17日(金)
 朝風呂は泉響の湯。朝食はバンケットスタイル。
 宿の近くに“蔦七沼”と呼ばれる景勝地がある。このうち6つの沼を巡る「沼めぐりの小道」が整備されている。1周すると1時間半から2時間かかるということなので、一番大きくて近い蔦沼まで行く。ぶなやみずばしょう、水の流れなど見ながら20分ほど歩き蔦沼に出る。緑の森の上に雪をかぶった八甲田の赤倉岳が頭を出している。9時ごろ宿に戻る。
沼めぐりの小道 蔦 沼
 田巻君は、9時21分発の青森駅行きのバスに乗る。池田、田中、増山の3名は宿の送迎車で、七戸十和田駅に送ってもらい、10時54分発のはやぶさ16号で帰京。新幹線の座席に「トランヴェール」という冊子があり、蔦温泉旅館が紹介されていた。奥入瀬川や縄文遺跡のことなどを話しながら駅まで送ってくれたのは宿の主人だったと知る。
八甲田
田巻 記
 17日皆と別れて青森行きのバスに乗る。途中通過する北八甲田の田茂ヤチ岳頂上にある八甲田山頂公園にケーブルで登るためである。バスの間隔が2時間もあり、その間に登頂下山できることだけを確認して寄ったのだが、結果は大満足だった。残雪の北八甲田、南八甲田の嶺々が一望できるのである。奥入瀬渓流、十和田湖の景観とはまた異なる感銘を受けた。

八甲田の山並み
八甲田視野を溢れる翳と雪 桂月も志功も愛しはだら雪
「十二湖」周遊記
松村 記
5月16日(木)
 850発の青森行き送迎バスに乗車。青森では約3時間空き時間があったので、先ず、八甲田丸に乗船(450円)し、 その後アスパム(青森県物産展示館)で津軽三味線の実演を観・聴いた。
 “三内丸山遺跡”は時間が十分ではなかったので行かなかった。
 青森駅13:51発リゾート白神4号(*)に乗車。(写真)
 途中千畳敷駅では海岸観光(“日本の夕陽百選”)の為、15分停車(3分前に警笛吹鳴)。
 また、深浦駅付近は五能線屈指の景勝地とのことで、徐行運転。(写真)
 ウェスパ椿山駅(**)16:53着。黄金崎不老ふ死温泉泊。“海辺の露天風呂”入浴。(写真)
(*)特別仕様で、座席の縦の間隔が長く、窓も広い。
(**)JRの駅では珍しいカタカナ名称。
リゾート白神4号(青森駅) 五能線屈指の景勝地(深浦駅付近)列車徐行
黄金崎不老ふ死温泉゛海辺の露天風呂”(屋内露天風呂から)
5月17日(金)
 宿の前845発弘南バスに乗車、奥十二湖駐車場930着(800円)。
 “十二湖”は白神山地の麓(世界遺産指定地域の外)で津軽国定公園内にある。青森県指定森林セラピー基地第1号指定。
 命名の由来は、展望台から12の湖沼が見えるとのことで、実際には33ある。
 青池からスタートし、約2時間かけてぶなの自然林の中を7つの池を巡った。(写真3枚…1枚目は青池)
 アップダウンあり結構きつかった(1万歩弱)。 弘南バス奥十二湖駐車場ーー>十二湖駅360円。
 リゾート白神3号十二湖駅1306発に乗車。 
 五所川原・弘前間で約30分津軽三味線の実演を観・聴いた。常設らしく、実演者専用席が2つ設けてあった。
 途中かなり長い間津軽富士(岩木山)が見えた。
 帰路は、新青森駅1722発のはやぶさ34号。

青 池
ぶな自然林
以上
角 館
和田 記
第3日(5月17日)天候:晴
 いくつかの案の中から、今年は奥入瀬渓流に行くこととなったので、折角の機会だからこの近辺で奥入瀬以外のどこかに回ってみたいと思い、サテそれではどこが良いかと思案した末に、ふと思いついて角館に行くことにした。角館は古い武家屋敷が残っていると聞いていたので、機会があれば一度見てみたいと前から思っていた場所である。
 宿泊地の盛岡から新幹線 ”こまち95号”に乗る。便利なもので47分の短時間で角館駅に着いた。ちょっと驚いたのは新幹線とは言うもののこの区間はほぼ全線が単線である。上りと下りのすれ違いも必要となるので運転の都合のためか駅以外の場所にもすれ違いの為の待機箇所があった。自分の暮らす千葉県でも単線区間はごく普通なので、それ自体は驚くに当たらないのだが、スピードが売り物の新幹線にすれ違い用の待機箇所があるとは思っていなかったので、これはちょっとした驚き。線路の幅は狭軌ではなくて標準軌だが、この路線には新幹線車両と共に各駅停車の従来型車両も走っているので、どうなっているのかと駅員に聞いてみた。従来型の各駅停車車両も標準軌にしてあるとの答えであった。ヘエっていう感じである、JRも随分手の込んだ仕事をしているんだな、まさに日本式技術の典型例か。
 
 さて角館だが---角館はいまは仙北市の一部となっている。角館の市街地そのものはそれほど大きくはない。駅前の様子などはどこにでもある田舎の町という感じだ。武家屋敷の残っている地域までは1Kmほどか、それほど遠くはない。駅でもらったパンフレットによると今現在残っている武家屋敷は石黒家、青柳家、岩橋家、松本家、河原田家、小野田家、の6戸(注)。これらの屋敷は通称 ”武家屋敷通り”と呼ばれる広い道路を挟んで点在している。他にも武家屋敷ではないが古い商家、醸造元もあって街全体が江戸時代の雰囲気を残しているところだ。曜日の関係かこの日は観光客もそこそこで、観光地にありがちな人で混雑という雰囲気ではなく(駐車場に止まっていた観光バスは1台だった)、それが又昔の武家屋敷に似合う。

武家屋敷通り
 角館という地名の起こり、別の言い方をするならばここに人々が住み着いて集落が出来てきたのは西暦で言えば1400年頃だったらしいが、はっきりとは分からないとのこと。記録では天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原城攻略の際、当時この地に住んでいて、この小田原攻めに参陣した戸沢盛安なる豪族の系図の中に”角館”という地名が見られるという。

 江戸時代に入り、慶長7年(1602年)には佐竹氏が水戸から移封されて、角館を含む秋田地方一帯の領主となる。
 翌慶長8年(1603年)には、佐竹氏と縁続きの芦名氏が角館の領主となる。その後明暦2年(1656年)に至り、不幸続きの芦名家は断絶、佐竹家の一族である佐竹北家が、この角館一帯の支配の任に着いた。

 上に書いた石黒家は、佐竹北家に仕えた武士。青柳家は芦名家に仕えていたが、芦名家滅亡の後は佐竹北家に仕えた家柄、などなどと戦国時代から江戸時代にかけての時期に、この地に根を下ろした武士達であった。いずれも有為転変の激しかった戦国時代から江戸時代を生き抜いてきた家々ということになる、今考えてもその苦労は大変なものだったろう。
 ところで石黒家その他の家々には、現在でもその子孫が暮らしているとのことで確かに歴史を感じる古い町だ。次の写真はそれら古い家の雰囲気を示すひとつの例。

武家屋敷
 土産にするような秋田名物と言えば稲庭うどん、きりたんぽ、などなどがあるが、ここ角館独自というものはないらしい。元祖”稲庭干饂飩”の製法を継ぐ佐藤養助店という立派な構えの店があったので、ここで干饂飩を買って家への土産とする。

 角館駅14時58分発の”こまち28号”に乗る。18時には東京駅に着いた。たった3時間で昔の風情が残る田舎町から人で溢れかえる東京の雑踏の中に戻るとはなにかお伽噺みたいな気がした。便利な世の中になったものである。

(注)享保時代(1720年前後)に描かれた”角館城下絵図”によると当時の角館には武家屋敷通り以外の地区も含め概略250戸程度の武家屋敷があったらしい。
以上
  
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