モータースポーツもやっていました。 

 40号車が私です。トップ争いに見えて格好がよいですけど、そんなことは一度もなかったはずですのでセカンドグループでしょうね。つまり、5〜6位くらいの集団なんです。

 88年にライセンスが切れましたが、それまで6年ほどレースフィールドにいました。主に乗っていたのはKP−61という、FRスターレットです。

 一応表彰台には2回乗ったことがありますが、なんせ底辺レースですから自慢になりません。2000万円の借金を覚悟していれば、今頃はその道で喰っていけたかも知れませんが、私が知る限り、そんな運の良い方は存じませんね。

 「実力だけで勝負が出きる世界」などと、本気で思っていた純粋な頃の思い出ですなあ。

 AE−86には耐久レースで乗りました。チームの友人の車です。足回りもなにも「とりあえずつけた」ってだけのしろものでして、いざ予選となると監督が「タイムアタック、おまえ行け」だって。せめてタイヤの皮むきとブレーキパッドの焼きくらいいれさせろよな。

 そんな状況だから結果は・・・・思い出したくもありません。86って車は俗に言う「走りや」さんの中では高性能って話ですよね。私にいわせれば、単なる不安定車です。振り回しやすいので事故は回避しやすかったような気がしますけどね。

 このときの予選で、たしか始めの最終コーナーで横を向いてしまったんです。86って車を知りませなんだから。しかし大馬力車みたいなアクセルワークは使えないし、かろうじてステアリングとアクセルON・OFFでかわしたような気が・・・よく無事だったな。やっぱり、コーナーはゆっくりと走るに限ります。

 こちらのKPは、第一回目の「ナイター耐久レース(9時間)」で乗った車です。決勝通過は45台ながら、エントリーは42台だったため予選落ちは無し。気楽に予選でタイヤの皮むきができました。

 3時間×3ヒート+インターバル1時間という変則レースでしたが、クルーの応援のおかげでなんとか完走させていただきました。エントリーフィーは1台15万円。その他にさまざまな用品が必要でしたので、皆さんのカンパがありがたかったです。幸いタイヤはBSさんから戴けたのですが、それがなければ・・・・・やっぱ、勤め人の小遣いでレースやるのって、無理よ。

 かけた費用なんか計算もできません。モータースポーツなんぞやっていなかったらマンションの頭金くらい、楽勝で残っていたでしょうね。でも、お金に代えられないさまざまを身につけられましたので、まあ、いいか。

 JAFのWEBで検索すると、私の記録は10個くらい残っていました。たしか20回以上決勝を走ったはずなんですけどねえ。・・・それほど古い話でしたか。               (2009年2月28日)