教室にオルガンの音が響く。

それに合わせてクラス39人分の歌声が響く。

ひどくバラバラな組み合わせ。

歌声はオルガンに合わせようとせず、また歌声同士が
お互いに合わせようとする気が全くない。

音楽が苦手な俺でもわかる不協和音。

やがて、オルガンの音がわずかに詰まった。

「おい、またかよ。」

誰かが言った。

「やる気あんのか、。」
「この前も間違ってじゃねーか。」
「下手くそ。」
「これじゃうちのクラス全然練習にならないじゃない。」
「どーしてくれるのよ、さん!」

あちこちから上がる非難の声。

指揮を担当している奴がそれを止めにかかる中、
オルガンの前に座るは反論の言葉も口にせず、只黙って俯いているだけだった。


君に拍手を

時は折りしも、秋の全校合唱コンクールに向けて
どこの学年のどこのクラスも必死で練習に励んでいる頃だった。

正直、俺はこの行事が好きじゃない。

わかってる奴はわかってると思うが、俺の性格上、人前で歌を歌うなんつー芸当は
1人でも誰かと一緒でも苦手だ。どっちかってぇと音痴だと思うしな。

実際、音楽の時間に歌の実技のテストがあった日にゃ、
クラスの奴らにクスクス笑われるのが常だ。

鬱陶しいと思うが、かと言って俺だけすっぽかすわけにはいかない。

だから、やや気乗りのしないままこのところの毎日のクラス練習に参加していた。

だが、今年に関しては気乗りのしない理由はもう1つあった。

「おい、!!いーかげんにしろよっ!」
「何回間違えりゃ気が済むんだよ。」
「他のクラスはみんな完璧に伴奏してるのに…」
「肝心のピアノがこれじゃうちのクラスドンドン遅れるじゃない。」
「みんな!!静かにしてください!!」

…またこれだ。

俺はうんざりしてザワザワと騒ぐ連中を見渡し、
次に巨大なグランドピアノの向こうに俯いて座る女子を見る。

クラスの奴らの怒号がかなり応えているのか、泣きそうな顔で
唇をぐっと噛み締めているそいつは、名前をと言った。

はっきり言って地味としか言いようのない奴で、
引っ込み思案なのか友達がいるという話も聞かない。
俺も用事がある時以外口を聞いたことがなく、
一体どういう奴なのか皆目見当がつかない。どうでもいいことだが。

で、今年の合唱コンクール、俺達2年7組の伴奏を
それも課題曲・自由曲2つとも一挙に引き受けているのがこのだった。



一ヶ月前、初めてが伴奏者に名乗りを上げた時のことは今でも覚えてる。

その時、クラス委員がホームルームで伴奏者を募っていたものの
誰もやる気がなかったのか手を上げようとせず、
クラス委員はそれじゃあ困るのに、と頭を抱えていた。

元々2年のクラスの中でもとりわけ協調性に疑問が残る、と
評判のこのクラスにそんなことを求めるのは本来無理な話だ。

しかし、状況が状況だけにそんなことは言っていられない。

担任教師とクラス委員がどうしたものか、と目配せし合っていた時だ。

スッ

誰かが、手を真っ直ぐに挙げた。

それを見たクラス中の誰もが驚いた。普段、他人のことなど気にかけてない俺でさえも。

何故ならば、手を挙げたのがあのだったから。

地味で引っ込み思案で滅多に自分から物を言わないあのが、
自主的に、それも合唱コンクールのピアノ伴奏という大役に名乗りを上げたのだ、
吃驚しねぇはずがない。

クラス中がざわめく中、は今まで俺が聞いたのことないはっきりした声で言った。

「課題曲なら私がやります。」

話はそれで決まったハズだった。

は課題曲の伴奏だけを担当する、自由曲に関してはもう1人誰か募ることになった。

普通ならそれで話は早い。

だがしかし、クラス委員が何度も何度も終礼の時間の度に募っても、
自由曲の伴奏を自ら申し出るものはいなかった。

そうこうしている内に、練習を始める時期が近づいてしまい、
窮地にたったクラス委員は苦肉の策を取った。

その時、既に課題曲の伴奏練習に入っていたに自由曲の伴奏も依頼したのだ。

俺はその話をたまたま耳にした時、(俺の席はの前だったから)
そんな無茶を依頼をするもんじゃねぇだろ、馬鹿か、と思った。
だって迷惑じゃねーか。断られるのが関の山だ。
あいつにはその権利だってある。

しかし、は言った。

「わかった。誰もいないんじゃどうしようもないし。私、頑張ってみる。」

俺は机に突っ伏しながら正直、マジか、と思った。

こいつは正気じゃねぇ。合唱コンクール用の曲は滅茶苦茶難しい。
俺なんか楽譜を渡された瞬間、顔が引きつったくらいだ。
1曲だけでも練習するだけで負担が掛かるだろうに、自分からもう1曲背負うなんて…

大体、何度も伴奏を経験したことがあるような3年生ですら、
2人で1曲ずつ担当してるって乾先輩も言ってたくらいなのに。

だが、俺はその時、ちょっとだけを見直した。

こいつ、案外度胸があるな、と思って。

今も俺はそう思っている。


まあ、言うまでもないと思うが、が自ら負担を背負うことを
宣言したものの話は簡単じゃなかった。

というのもの伴奏は課題曲と自由曲とではあまりに差があった。

が課題曲の伴奏を始めた時期とクラス委員があいつに
自由曲の依頼をした時期とのブランクが大きかったんだから当然だ。
どうしたって後から練習を始めた方が後れを取ってしまう。

そんなこと、音楽がよくわからない俺にだって見当は付く。

しかし…いざ練習が始まるとなるとそういう言い分は通用しない。

は課題曲の伴奏はほとんど問題なくこなしたが、
自由曲の伴奏はしょっちゅうつっかえた。

不運なことに俺達のクラスの自由曲は全クラス中でも難しい部類に入るやつだった。
加えて練習量が課題曲に比べて少ないとなると、がそうなるのも無理はない。

だが、伴奏がつっかえてしまえば歌う方も困るのも事実だった。

クラスの奴らは、がつっかえる度に辛く当たった。

その度には何も言わずに、申し訳なさそうに俯いた。

俺はを責めるつもりはなかった。が、責め立てる奴らを注意することも出来ず、
耳障りな騒ぎの中でただ口を噤んで立っているだけだった。
指揮者が止めているにも関わらず、益々ひどくなっていく罵詈雑言の中、
はただ黙ってピアノ、あるいはオルガンの前に座っていた。

クラスの奴らを止めようとしなかった俺は…馬鹿だろうか?


そんなある日のことだった。

俺は忘れ物をしたことを思い出して部活に行く前に音楽室に向かっていた。

今日も終礼の後は合唱コンクールのクラス練習があって、
勿論また伴奏をつっかえたは槍玉にあげられていた。

ここ連日のようにそれを見ているせいだろう、
俺はストレスが溜まっていて少しイライラしながら廊下を歩いていたのだが…。

♪〜♪♪〜…♪♪〜♪〜

まだちょっと遠くにある音楽室からかすかに聞き覚えのある
メロディが聞こえてきて俺は一瞬、足を止めた。

これは…2年7組の自由曲…一体誰が…

とは言うものの、普通に考えれば今これを弾かねばならない理由がある奴は
学校中でたった一人だ。

どういう訳か自分でもよくわからないままに、俺は思わず音楽室まで走って
その扉をガラッと開けた。

そこには思ったとおりの奴がいた。

だが、ある意味では俺の知らない奴だった。
何故なら、そいつは今まで見たことないような必死の形相で
グランドピアノの前に座って鍵盤に指を走らせていたから。

俺は、こんな顔の奴を知らない。

そのせいだろうか、忘れ物を取りに中に入ろうとしたのだが、足が止まってしまった。

邪魔できねぇ。

そう思った。

…どれくらい俺はそこに突っ立っていただろうか、
伴奏は何度もあちこちでつっかえながら、終わった。

「…入るぞ。」

いい加減いいだろう、と俺が声をかけると、がびっくりしたようにこっちを見た。
多分、俺がいたことに全然気がついていなかったんだろう。

「忘れもんだ。」

何も言わないに俺はちょっと言い訳臭い呟きを漏らしながら、ピアノの前を横切る。

は幽かな声でああ、そう、と答えるとグタッと
グランドピアノにもたれかかってしまった。

かなり消耗しているのか、ハアハアと荒い息遣いが聞こえる。

「…いつもなのか。」
「え…?」

机からリコーダーを引っ張り出しながら呟いた俺に、はやや間抜けな反応をした。
まるでそう問われるのが意外そのものであるかのように。

「いつもそーやって練習してんのかって聞いている。」
「うん…他のクラスの人も使うから、あんまし長いこと出来ないけど…」

水泳をしている時みたいに息継ぎをしながら答える
俺はそうだったのか、と思った。

「家でも…その、何だ…練習してんのか?」

一瞬の沈黙の後、俺は我ながら聞かんでもいいことを聞いた。

「あ…う、うん。ここんとこずっと。」

ハアァァァァー、スゥゥゥゥゥゥゥーと大きく呼吸をしながらはヨロヨロと体を起こす。

「そうか。」

俺は一体何が聞きたかったんだろう。

「…おい。」

勝手に閉じてしまった楽譜を開きながら、もう一度練習しようとする
俺はまた声をかける。
は俺が話しかけてくると思わなかったのか、キョトンとした目をしている。

「負けんじゃねーぞ。」

何でそんなことを口走ってしまったのか、自分でもわからない。
相手は別に友達でも何でもねー奴なのに。

「海堂…?」

そら見ろ、だって不審そーじゃねぇか。
気恥ずかしくなって俺はリコーダーを引っ掴んで音楽室を飛び出した。

「海堂!!」

廊下の突き当りまでダッシュした時、背中からまるで爆発したかのような
大きな声が聞こえた。

「有り難う!!」

別に礼を言われるよーなことなんざしてねぇ。

内心で呟くと俺は一瞬だけ足を止め、また一気にテニスコートまですっ飛んでいった。


多分、それからじゃないだろうか。
俺がもうちょっとだけ、合唱コンクールの練習に積極的になったのは。

は相変わらず、自由曲の伴奏ではあっちこっちつっかえていた。

よくよく聞いたらちゃんと直っているところもあるのだが
そんな小せぇ変化、多分気に留めてる奴はいない。
いつものように罵詈雑言を浴びせる奴の方がほとんどだ。

元はと言えば、俺達がに何もかんも押しつけたというのに。

それでもはやっぱり何も言わない。泣きもしなければ怒りもしない。
本当は言いたいことは沢山あるだろうに…

だから俺は俺なりに合唱の練習に懸命に取り組んだ。

が、あれだけ伴奏の練習を頑張っているのに、俺がやる気なくてどーすんだ。

終礼の後のクラス練習が終わって部活をやっている時も
俺は時々はどうしているだろうかと考えるようになっていた。

上の音楽室の方からあの伴奏が幽かに聞こえてきたら、
ああ今日もやってんな、と思うし、
聞こえてこなかったら今日は家で練習してんのか、と思う。

挙句の果てには、時々部活の前に音楽室に寄って
の様子を伺いに行くようになっていた。

妙な話だが。

「…何だって引き受けた。」

今日も音楽室で、息を切らしながら練習に励むに俺は言った。

は意味がわからなかったのか、訝しげに俺の目を見る。
俺は言葉を続ける。

「何だって2曲も伴奏引き受けた。経験ある先輩でも2人で分担してるって話なのに。
 お前伴奏初めてなんだろが。」
「だって…誰かがやらなきゃ仕方がないでしょ?」

は控えめな笑みを浮かべた。

「だからってお前がやることねーだろが。お前の他にも1人や2人くらい
 ピアノが出来る奴はいる。自分が面倒くせぇから言わねぇだけだ。
 そんな連中の為に何でお前が犠牲になる。」
「いいの。」

は言った。

「私が見栄張ってるだけだから。」

嘘だ。俺は即座にそう思った。
見栄張るとか、こいつにそんな芸当が出来るはずねぇ。
つーか、見栄だけでここまで頑張れるハズがねぇ。

「私はね、」

は続ける。

「一遍だけでいいから、自分だって何か出来るんだって証明したいの。
 いつも引っ込んでばかりで自分から何も出来ないから…
 ちょっとだけ、勇気を出してみたかったの。だから…」
「…もういい。」

の声が涙声になりかかってきた気がして、俺はそれ以上喋るのをやめさせた。
これ以上聞いたら俺もキツい。

「わかったから。もういい。」
「海堂?」
「俺はもう、行く。」
「部活?いってらっしゃい。」

俺は、ああ、と答えてに背を向け音楽室を出た。
俺が出た途端、また聞きなれた音が流れ出した。

一生懸命なのが嫌というほど伝わってくる音が。


それでも、の努力はなかなか報われない。

クラスの奴らは相変わらずの伴奏に不服を示し、しまい目には音楽の教師に

『このクラスは伴奏が歌に合わせようという努力も、
 歌が伴奏に合わそうという努力もしている様子がない。』

と苦言を呈された。

思わずウルセェ、と言いたくなってしまう。
がいつも必死なのはアンタだって知らないはずはないんじゃねーのか。

寧ろ、悪いのは俺達歌っている方だ。
があれだけやってるのにフォローしてやれないのだから。

そして、そんな中、事は起こった。



その時学校は昼休みで、俺は教室の騒がしさに耐え切れず
屋上に避難していたのだが、そろそろ時間なので教室に戻ってきたところだった。

いつもならそのままさっさと自分の席に戻っているところだ。
が、この時は違った。

「何でそんなこと言われなきゃならないの?!」

教室の真ん中で騒ぎが勃発していた。
の声だ。あんなに声を荒げるなんて、珍しいにも程がある。

相手が相手だけに一体どうしたのか、と気になって
俺は輪になってる野次馬共をかき分ける。

輪の真ん中にはと、いつもクラス練習の度に率先して
を責め立ててるクラスのヤロウが対峙していた。

「ウルセーな、喋んなよ、キモい癖に!」
「アンタにそこまで言われる筋合いないわよっ。
 自分だっていっつも嫌なことばっか言って、大したことないじゃない!!」

生憎、の言い分は尤もだった。
そいつはいつも自分が目をつけた奴に嫌がらせをするような人種だったから。

多分、本人も痛いところを突かれたのだろう、一瞬だけグッと言葉に詰まる。
だが次の瞬間、こいつはとんでもないことを口にした。

「何だよ、お前なんかいつも伴奏者の癖に間違えてばっかじゃねーか!!
 この下手くそ!!疫病神!!」

…辺りの空気が凍った。
騒がしかった周りがいっぺんに静かになった。

俺は思わず、を見た。

の顔は蒼白だった。
唇は震え、何か言おうとしているのにうまくいっていないのは明白だ。

しばし沈黙が続く。

バシイッ!!!!

やがてその沈黙を破ったのは、が相手の頬をしたたかにはり飛ばした音だった。

かなり勢いよくやったせいで、はり飛ばされた方はすっ飛んで後ろの机に激突する。

ガラガラッドンッガンッと机が倒れる音が教室中に響いた。

「何すんだよっ!図星さされたからって叩くこたーねーだろっ、この暴力女!!」

飛ばされた方が抗議すると、

「うるさいっ!!」

はあらん限りの声で怒鳴った。…いや、絶叫した。

「だったらお前が自由曲の伴奏引き受けりゃよかっただろ!!!
 お前なんかいっつも喋ってばっかで練習の邪魔ばっかしてる癖に!!
 ふざけてばっかで真面目に練習してない癖に!!
 許さないっ、絶対に許さないっ!!」

バキイッ!!

がもう一発相手を殴る音が響いた。
起き上がりかけていた相手はまたもんどりうってひっくり返る。

そして、はあっけに取られる一同を押しのける。

っ…」

それまで硬直していた俺は思わず呼び止めたが、
は教室を飛び出して、行ってしまった。

「っ!」

何だってこーなっちまうんだ!!
俺は舌打ちをして輪の真ん中に歩を進めた。
一体何事かと周りが騒ぐが、知ったこっちゃねぇ。

「おい。」

言ってに殴られた奴の胸倉を引っ掴んで起こす。

「!! 海堂?!」

向こうの目が俺を見た瞬間に一発で恐怖に染まった。

に謝れ。」

努めて静かに、俺は言った。
向こうは何のことかあまりわかっていないようだ、目が泳いでいる。

に謝れ。」

俺はもう一度言う。

「何で俺が。あいつ…叩いてきたんだぜ?」

この期に及んで馬鹿なことを言う奴を、俺は一睨みした。

「ふざけんな、てめぇがそこまで傷つけたんだろーが。
 自分の不始末くらいてめぇで何とかしろ。」

ちょっと薬が効いたか向こうはコクコクと肯いたので、
俺は掴んでいた胸倉を離してやった。
奴は力が抜けたのかヘナヘナと座り込む。

…情けねぇ野郎だ。

それよりは…どこへ行った?

「おい、海堂!どこ行くんだよ?」

誰かが言った。

…探してくる…」

俺はそれだけ言って教室を出た。


は案外簡単に見つかった。

校舎を出てすぐ近くの植え込みの中で体操座りをし、顔をうずめて泣いていた。

。」

俺は声をかけたがは返事をしない。
猶もすすり泣くばかりで、俺はどうしてやればいいのかわからず
ただを見下ろして突っ立ってるしかない。

泣くな、とでも言うべきなのか?つってもあんなことがあったのに
泣くなっつーのは無理な相談じゃねぇか。
そこまでわからないほど俺は鈍感じゃねぇ。

クソ、何て言ってやればいいんだよ。

とりあえず、俺はの横に座ってみることにした。

座ってみると、顔をうずめているのスカートに染みが広がっているのが見える。
相当辛いのか。無理もねぇ。
普段あれだけやってるのに、ああ言われてしまえば…

、」

俺は呟いた。
は返事をしないが、俺はこいつなら聞いてるだろう、と独り決めする。

「とりあえずあの野郎は俺がとっちめた。だから…心配すんな。」
「…有り難う。」

はやっと口を開いた。泣きながらだったから聞き取りづらかったが。

「でも、私もやり過ぎたから…人のこと言えないよ…」
「人が好すぎんじゃねーのか。お前は追い詰められちまっただけだろが。」

しかし、は首を横に振る。

「後で…謝らないと…ね…」
「フン。」

優しすぎんだよ、テメーは。

俺は内心で呟く。

「海堂…」

が言った。

「先教室戻って…私…後から行くから…」
「断る。」

俺は言った。

「でも…海堂まで巻き込んだら…」
「どうでもいい。」

言って俺はそっぽを向く。
どーも。こーゆーのは苦手だ。

「お前、その…」
「何?」
「言うときゃ言うんだな。もっと…何だ、大人しいかと思ってた…」
「キレるとああなっちゃうの…いつもはホントに…何も言えない…でもアレだけは…」

は一瞬、言葉を切る。

「アレだけは…言われたくなかった…だから…」
「よせ。もう言うな。」

をこれ以上泣かせたくなくて俺は皆まで言わせない。

「海堂…何で…そんなに…私に…?」

が尋ねてきた。

それは、俺にとっては答えるのがかなり照れくさい質問だったから困った。
だが、答えないわけにもいかないだろう。

「……………………努力してる奴は………嫌いじゃねぇ。」

俺はやっとのことでそう呟いて、これ以上聞くな、と付け加えた。

返事がなくてそっと振り返ってみたら、はまだ涙の跡が残る顔で
小さく笑ってたもんだから俺は慌ててまたそっぽを向いた。


それから俺は泣き止んだと一緒に教室に戻った。

心配だったので大丈夫か、と聞いたらは平気だ、と答えた。

俺はここでは結構強い奴らしい、ということを知った。

一緒に教室に戻った時の一同の目はあまり好ましくなかったが、俺はそれを無視した。
どう思われようが、知ったことじゃない。

ちなみに、その日の終礼後のクラス練習では誰一人として
のことをどうこう言わなかった。

…昼にあれだけのことがあれば、当然だと思う。


そして、時間はどんどん過ぎてく。

はあれから今まで以上に練習し続けていた。

部活中に音楽室から聞こえてくる音は、日に日につっかえる箇所が減っていく。

様子を見に行けば、消耗し切って額に汗さえ浮かべているがいる。

「よく…やれるな…」
「大したことないよ。」

俺が言えば、は当然のことのように応える。

「俺も頑張って歌うから…その…諦めんじゃねーぞ。」
「うん。」

息を切らしながらも再びピアノの鍵盤に指を置くは、誰よりも格好いいと俺は思う。


そうしてはどんどん成長していった。

まだたまにつっかえるところはあったが最早誰も何も言わない。
正直、クラス中の誰もががここまでやるとは思ってなかっただろう。

それほど、後れを取っていた自由曲の伴奏は
もう課題曲と匹敵するくらいに綺麗になっていた。

とてもじゃないが、1人でやったなんて思えない。

そう言ったらは海堂が応援してくれてるから、とクソ恥ずかしいことを言った。

「…もうすぐか。」

とある日、音楽室でテニスバッグのストラップを弄りながら俺は言った。

「うん。」

楽譜を立て直しながらが肯く。

「あともうちょい。そしたら私の仕事は終わり。」
「油断すんなよ。」
「わかってる。私にだって意地があるもの。」

は言ってピアノの椅子に座りなおした。

「ここで…落っこちてなんかいられないよ。」

ピアノの音が響く。
合唱コンクールの日はもうそこまで近づいていた。



そんなこんなで迎えたコンクールの当日は何だか妙に厳粛だった。

別に学校行事ごときにそう真剣に考えすぎることもないハズだが
うちのクラスの場合、他のクラスよりも一波乱あったせいだろう
やっとこの日が、と皆感慨深い思いなのかもしれない。

。」

教室で待機している時、俺は後ろの席のに振り返ることなく言った。

「大丈夫か。」
「すっごく緊張する。でも、やれる。やる。」
「…そうか。」

思ったとおりの返事に俺は、1人満足した。

それから体育館に移動した。

人口密度は半端じゃなかった。
生徒は1年生から3年生まで、当然だが先生も全員集まってるし、
加えて生徒の保護者も観覧してると来ている。

こんな中で俺達が歌うのかと思うと、毎年ちょっと何かの圧力を感じるが
今年はこんな中でが1人2曲も弾くのかと思うと
余計に落ち着かない心持だった。

だけど、はやる、と言った。
俺達はそれを信じて歌うだけだ。

…それでももどかしい気分を味わいながら、他のクラスの合唱に
耳を傾けているうちに2年7組の番は回ってきた。


『プログラム11番は2年7組、課題曲:川、伴奏:
自由曲:未来、伴奏:でお送りします。』

放送が流れた時、ステージから見下ろす観覧席は拍手の音と、
少なからぬ動揺で揺れていた。

生徒の中にも保護者の中にも、顔を見合わせている奴がいたから多分、
課題曲と自由曲の伴奏者が同一人物であることに何か思うところでもあるんだろう。

でも、そんなことはどーでもいい。



俺は横目でこっそり一番端っこのグランドピアノに座るあいつを見た。

自信持って行け!!

そう叫んでやりたい気持ちで。

指揮者の手が上がった。

その手が振られた瞬間、が演奏を始め、俺達は歌い始める。

何せ協調性に問題あり、と評判のうちのクラスだ、他のクラスに比べて
明らかに合唱の精度は劣ってたと思う。

別に優勝なんざしなくっていい。

願うのは、が最後まで止まらずに弾ききってくれること。
終わったら、拍手は1人でここまでやってくれたに向けてほしいこと。

俺達が歌っている間、は止まることなく引き続けた。
これで課題曲はクリアー。

次は自由曲。

やはり伴奏者が入れ替わった様子がないことに、観客は少しざわめく。

ちょっと心配になっての方をまた横目で見たが、
はあまり緊張した様子もなく静かな顔をしていた。
ただ、いつでも伴奏に入れる体勢で待機していた。

また指揮者の手が上がる。が弾き始める。

やはり大勢の前で弾くのは容易じゃないのか、少し危なっかしい気がした。

しかし、は止まらない。

一遍、は誰が聞いても間違った音を出した。

観客はまたざわめき、俺達も一瞬ギクリとする。

それでもは止まらなかった。

次には、左手の伴奏が一小節分飛んだ。
あろうことか、はそこを右手だけで弾いて後を繋げた。

まるで、止まってたまるか、と言わんばかりに。

だから俺達は歌い続けることが出来た。

はその後も、一度弾き間違えた。
でも止まらなかった。

そうして曲はクライマックス。

いつのまにやら聞いている方もが間違えようが動揺することなく、
静かに聞いていた。生徒も、先生も、保護者も。

最後の数小節、歌は止まり、ピアノの演奏だけが続く。

そして、演奏は止まり、の手は静かにピアノを離れ、その膝の上にのせられた。

瞬間、体育館中が爆発みたいな拍手に包まれた。

やった。

俺は思った。

はやった。最後の締めの音、半音ほど(だと思う)間違えていたが、
それでもは1人で2曲弾ききったのだ。

自分が止まって、歌う側を困らせないように。
練習してきた全てを叩き込んだのだ。

観客からの拍手にクラス全員が包まれる中、俺は自分もこっそり手を叩いた。
それは肩で息をしながらピアノから立ち上がったのために。

今、拍手している奴らは誰に向けて手を叩いているだろうか。

出来れば…俺はそれをに向けてほしいと思う。

馬鹿みてぇな思いだ、とはわかっていても。

そうして2年7組はステージを降りる。

「…よかったぞ。」

ステージを降り、グランドピアノの後ろを通って退場する時、
俺は楽譜を抱えてまだ少し肩で息をしているに言った。

は笑った。

今までの控えめな笑い方じゃなくて、本当に嬉しそうに。


……後でわかったことだが、やはり伴奏を2曲いっぺんに弾いたのは
全学年の中でもうちのだけだった。

しかも、課題曲の伴奏はともかく、自由曲の伴奏は
レベルを2周りくらい上回っていたそうだ。

「馬鹿か、お前。」

本人からその話を聞いた時、俺はそうコメントした。

「それで出来なかったらどうするつもりだった。」

俺が言ったらはニッと笑ってこう言った。

「出来るように練習したんだよ。出来ないなんてことにならないように。」

思わず俺はフ、と笑ってしまった。

やるじゃねぇか。

やっぱお前には拍手したい。

誰よりも盛大な拍手を

無謀な挑戦に諦めなかったお前に

努力し続けたお前だけの為に





俺は…お前を尊敬する。

The End


作者の後書き(戯言とも言う)

これは私の中2の頃の実体験を元にした作品です。

中2の頃、私は(当時のピアノのレベルを考えると)無謀にも合唱コンクール
(母校では何故か音楽コンクールというやや仰々しい名称だった)の
課題曲の伴奏に立候補しました。

でも困ったことに自由曲の伴奏はクラスの誰もやろうとせず、
結局お人好しな私は両方担当することになって…
(押し付けられたとも言います)課題曲より明らかに
自分のレベルを超えている自由曲の伴奏を必死でやりました。

生憎私には海堂少年のような存在はなく、クラスの嫌われ者だったので
つっかえる度にそれはもうえらい言われようで
泣いたことなんか一度や二度ではない3ヶ月間だったです。(←夏休み込み)

尤も、私とてこの作品の海堂少年のような人はいなかったものの、
家族やピアノの先生や、一部のクラスの人達に支えてもらってましたが
当時は親友、と言える人もいなかったんでやっぱりすぐ側で励ましてくれる人が
ほしい、と思ってましたですね。

全学年の中でたった一人だけ2曲いっぺんに弾いた、というのも実話です。
当時、コンクールの本番で唯一課題曲・自由曲共に伴奏者の名前が
同じことに吃驚した、と後々に友人が言ってました。
私も事が終わった後で知って吃驚したんですが。

『伴奏者の癖に間違えて』云々と言われたのは、実際にはその1年後、
帰りの塾バスの中で中2の時同じクラスだった当時の天敵に言われました。
正直殺してやる、と思ってしまったくらい腹が立ちました。
そんなことを言ってきた彼は歌の練習中、ろくにクラスに協力しようとしなかったタイプだったもので。

そういうお前は何なんだ、という気持ちでいっぱいでしたね。

だからこそこの作品を書きました。

あの時の自分の思いを乗せて。

もし貴方が同じような人―この作品のヒロインのような―を見かけたら応援して
盛大に拍手してあげてください。

それは、その人にとってきっと大きな支えになりますから…


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