子供の瞳 後編

どうしてそんな気になったのか自分でもよくわからぬが、
昼飯の後、俺はを自分の部屋に上げていた。
友からの大事な預かりものだ、やはり目の届くところに、というのは
己に対する言い訳にすぎない。
何だかよくわからぬがを近くに置いておきたい気がしたのだ。
はというと変に遠慮してまた萎縮するだろうかと思ったが、
先の会話で少しは打ち解けたのか存外適応は早かった。
部屋に入って開口一番、は言った。

「いいお部屋ですね。」

それを聞いて俺は驚いた。
今まで他人の俺の部屋に対する評価と言えば、赤也の
『うわー、おっかたい部屋っスねー。持ち主そっくり!』
ぐらいしかなかったからだ。
どうにもこの娘と居るとささやかながらも色々驚かされることが多い。

「大したことはないが、まぁ、くつろいでくれたらいい。」

俺はとりあえずそう言って、に座布団をすすめた。
はちょこんと正座すると一体何が面白いのか、庭に居た時のように
俺の部屋を興味深く眺め回す。
本棚、机、箪笥と視線を一周させたところで、彼女は俺が机の上を指さした。

「それは何ですか?」

が指したのは昼飯前まで俺が読んでいた本だった。
やはり本には興味を惹かれるタチらしい。

「『我輩は猫である』、夏目漱石の本だ。」
「わがはいはねこである。なまえはまだないっていうのですね。」
「ほう、その歳で読んだことがあるのか。」
「いえ、お母さんや蓮二お兄ちゃんから聞きました。あの、これ読んでもいいですか?」

俺は逡巡した。俺の持っている本は父から貰った古いもので、
仮名遣いが昔のままだ。
言っては悪いとは思うのだがこの娘にはとても読めるとは思えない。
だがしかし駄目だという理由もなく、俺は好きにするといい、と言った。
は嬉しそうに本を手にとって、声に出して読み始めた。

「わがはいはちかごろうんどうをはじめた…あれ、これ途中だ。」
「それは下巻だ、生憎上巻は今見当たらなくてな。」

書物に関してはうるさいと自負すらある俺としては非常に情けない話ではあるのだが、
いつだったか部屋の大掃除をして以来どこかへやってしまったのだ。

「そうですか…えーと、ねこのくせにうんどうなんてきいたふうだといちがいに…
『利いた風』?ってなんだろ…」
「知ったかぶりで生意気、という意味だ。」
「そうなんだ。」

は納得して次を音読する。
俺はというと、娘が読んでいる間書き物でもしようと―丁度書きかけの手紙が
あることを思い出したので― 机に向かう。
しばらくは静かな部屋に娘の声と俺が字を書く音だけが響いた。
はそう馬鹿ではないようで、仮名遣いが自分の馴染みのものとは違っていても
まあまあ順調に読んでいる。
それに時折面白いと思ったらしいところではクスクス笑っている。
とは言うものの、つっかえたり言葉の意味がわからずに首をかしげたりすることも
多かった。

「……みるとなくのとねこにとられるより、そとに…?」

そら、まただ。
俺の記憶が正しければこれで10遍以上はつっかえている。

「とられるよりほかに、だ。」
「あ、言われてみれば…。」

そうしては間違ったところを読み直してまた続けるが、読んではつっかえが
激しくてどうも見過ごしには出来ない。 俺はとうとう腰を上げての後ろに回った。

「あの…」
「続けてみろ。」

は一瞬とまどった顔をしたが、何も言わずまた読み始めた。
俺はというと、読んでいるの後ろから本を覗き込みつつ、漢字の読み方を教えてやったり、注釈を入れてやったりする。

「ねこのつめはどっちへむいてはえているとおもう。みんなうしろへおれている。
おっとだから…」
「それだから、だ。寧ろおっと(夫)と読む方が難しいと思うが。」

それは非常に穏やかで満ち足りた時間であった。
いつのまにやら、も俺も緊張がすっかりと消えていた。


それからどれくらい時が経っただろうか。

「はふぅぅ。」
「疲れたか。」
「はい、ちょっと…」
「あれだけ声に出して読めば無理もあるまい。」

机に向かいながら俺は呟いた。
何とも言えぬ話だが、この娘はあれから下巻しかない『我輩は猫である』を
10ページ分くらい音読していたのだ。 どうやら夢中になると見境がないらしい。
ついつい止めずに相手をしてやっていた俺も俺であるが。
そうして一段落ついた今、俺は書きかけの手紙の続きを書いていた。
はというと俺の傍ら、手を伸ばせばすぐ届くところにいる。
仰向けにコロンと寝転がっていてくつろいでいる様子だ。
何ともおかしな娘だと思う。数時間前までアレほど緊張していたくせに
今はすっかり俺になついたかのように 側を離れようとしない。
いや、なつかれるのは構わないが何故俺に、というところが気になる。
俺は子供には好かれないタチのはずだのにの瞳にはそうは映らないのか。

「どうかしたのか。」

筆を一旦止めて俺は言った。
いつのまに近づいたのか、が俺の手元を覗き込んでいたのだ。

「あまり近づくと顔に墨がつくぞ。そんなことになれば蓮二に申し開きが出来ん。」
「真田さんは字がお上手ですね。」

唐突な発言もここまでくればいい加減俺でも慣れるというものである。

「取り立てて言うほどのことはない。そういうお前はどうなのだ。」
「全然自信ないです…」
「ならばお前も練習するといい。なんならこちらに居る間蓮二のついでに
俺が見てやろうか。」
「いいんですか、嬉しいです。是非お願いします。」

言うの目は本当に無邪気で、今度こそ俺の顔が緩んだ。

「よかろう。」

その小さな頭に手を置くと、は控えめにしかし嬉しそうに微笑んで
俺の手に触れた。


蓮二が従妹を迎えに来たのは、日が沈んで辺りが薄暗くなってきた頃だった。

「悪かったな、弦一郎、急に頼んで。」
「問題ない。」

蓮二はそうか、と言って俺の傍らに立つを見る。
は片方の手に布製の手提げを持ち、もう片方は大人しく俺の手を握っていた。

「すっかりお前になついたみたいだな。」
「そうなのか。」
「苦手な相手の手を握ってられるほどこいつは器用じゃない。」

友の台詞に俺は少なからず動揺して冗談はよせ、と呟く。
横でが不思議そうにこちらを見ているのが余計に俺の羞恥を煽る。
耐えられないので早々に彼女を蓮二に引き渡したら、
本人に少々不満げな顔をされた。
蓮二はそんな従妹の頭をなでてやりながら、ちゃんと行儀よくしていたかとか
虫歯が酷くなるような真似はしていないかなどと話しかけている。
もそれに笑顔で答えていて、とても俺には真似できることではないと思うと
柄にもなく少し寂しい気がした。
ひとしきり蓮二と話していたはふと俺の方を向いて深々と頭を下げた。

「今日は有り難う御座います。お世話になりました。」
「うむ、気をつけて帰れ。まぁ、蓮二がいるから心配はないが。」
「あの…」
「何だ。」

尋ねるとは少しモジモジしてから言った。

「もし次お邪魔することがあったら、また本読んでるの見ててくれますか?」

それに対する俺の答えは一つしかなかった。

「勿論だ。」

はニッコリと笑った。
そして、蓮二に手を引かれて去っていった。


次の日、俺は蓮二と共に川べりを歩いていた。

「昨日は本当に済まなかったな。」
「構わん、こちらもなかなか楽しませてもらった。」
「そうか、それじゃあお前にもっと子守の経験を積んでもらっても問題ないな。」

俺は何を馬鹿なことを、と呟いてキャップのつばを指で下ろす。
これ以上子供の世話などさせられてたまるものか。
大体、子供がみなのように大人しいとは限らんだろうに。

「しかし、お前の従妹はなかなか不思議な娘だな。」

話を逸らす意味も含めて俺は言った。
横を歩きながら流れる川に目を向けていた蓮二はほう、と呟いてこちらを向く。

「どう不思議なのか、是非具体的に聞いてみたいな。」
「そうだな、」

俺はしばし思案してから言った。

「何と言うか、あの娘の目を通すとそれまで自分が何とも思っていなかったものが
違ってくるような気がする。庭の花一つにしても俺自身のことにしても、
の目で見ると 何か特別なものに変わっていくように思えてしまう。
そもそも俺の手があったかそうだなどと言ったのはあの娘が初めてだ。」

蓮二は肯きながら俺の話を聞いていたが、聞き終わるとふとこう漏らした。

「庭の花はどうか知らないが、お前自身に関してはにとって特別だと思うぞ。」

友の発言に俺は異を唱えようとして、しかし何故かむせて咳き込んでしまう。

「本当さ。」

俺の咳が治まるのを待たずに蓮二は続けた。

「あいつが他人相手にああも楽しそうにしていたことはなかったからな。」
「ゴホッ、慣れればすぐああなるのではないのか。」

何とか咳が治まったところで俺は言うが蓮二はかぶりを振る。

「あいつはいくら時間が経とうが、自分と合わないと判断した人間には
絶対なつかない。 何せ学校ではうまくいっていないらしくてな、
あの引っ込み思案で疎まれることが多くて なかなか
他人を信じることが出来ないそうだ。」
「何と…」

『また本読んでるの見ててくれますか?』

蓮二の話を聞きながら俺は昨日そう言った時のの笑顔を思い出した。
あの時は裏にそんな事情を隠していることなど思いもつかなかったが、そうか、
だからあの娘は…。

「あれほどよい娘なのに、不憫なことだな。」

俺が呟くと蓮二はまた川の流れに目を向けた。

は無邪気だ、だがその分あまりに傷つきやすい。これからも大変だろうが、
少しずつでも乗り越えていってくれればと思うよ。」
「うむ。」

俺は肯いて、ふと気がついた。

「ところで蓮二、昨日は急に用事がと言っていたが一体何事だったんだ。」
「例によって敵情視察だ、急に他校で気になる情報が入ってな。」

さらりという蓮二に俺はちょっと待て、と思った。

「そんなことでの子守を探していたのか。」
「情報は速度が命だ。それにまさか子連れでは行けまい。」

それはそうなのだが、ならば何故あんな半分騙しうちのような真似をしてを俺に
預けたのか解せない。

「次は絶対ないぞ。」
「そいつは次第だな。」

蓮二は笑いながら言った。
一方の俺は苦笑せざるを得なかった。


とはその後一度だけ蓮二の家を訪れた時に会った。
従兄の家で過ごす彼女は前と同じように穏やかで楽しそうにしており、
日頃人間関係に悩んでいるとは思えないほどであった。
前に約束―は大げさかもしれんが―してあったので蓮二の書道を見てやるついでに
の字も見てやり、更には本を読むのも見てやることになった。
は思いのほか喜んだので、こっちは少々戸惑ったくらいである。
つくづく面妖な話だが、蓮二の言うようにやはりこの娘の目には俺が
他とは違う存在として映っているのは間違いないようだ。

そうして春休みが3分の1ほど過ぎた頃、彼女は大阪へと帰っていった。
今頃どうしているのかとんと見当がつかないが、蓮二の代わりに
面倒を見てやっていたあの時 俺を見つめていた子供の瞳を思い出す度に、
不憫な思いをしてなければいいがと思っている。

  


作者の後書き(戯言とも言う)

撃鉄シグ初の真田夢、如何でしたでしょうか。
この作品は相互リンクサイトCobalt Blackの秋月小夜様に合格&ご卒業祝いとして捧げた物です。
秋月様、この度はおめでとう御座います。
これからも当サイトを宜しくお願いします。ここまで読んでくださった方も有り難う御座いました。

 ・今回の実話
  旧仮名遣い、そして上巻が見当たらない『我輩は猫である』。
  冗談抜きで未だにどこにあるんだかわからない…

参考文献 夏目漱石:『我輩は猫である』(角川書店,1952)

2005/3/4


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