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小森永キョロの「キョロちゃん旅行社」

沙田の河辺にて

沙田の地図 沙田は、新界にある、いわゆるベッドタウンです。ある時、私は、およそ観光地とは言えないこの街を訪ねてみることにしました。理由は、当時、大好きだったアーティストがそこに住んでいると聞いたから。その辺をウロウロしていたら、彼とバッタリ会えるかも知れない…、と思っただけで幸せになれる、イカれたファンだったのです。(笑)
 KCRの沙田駅から改札を出て、そのまま真っ直ぐショッピング・センターを通り抜けると、沙田大會堂や婚姻登記處があります。 さらにその先、城門河という運河と、後方のKCRの線路とに挟まれて、左右に伸びているのが沙田公園。 思いの他大きく、陽光に照らされた眩しいほどの緑にあふれた風景は、摩天楼に切り取られた幾何学的な空を見慣れた目には、広やかに、また新鮮に写りました。
 ゆったりと流れる運河の手前に開けている公園とは対照的に、対岸には目を見張るようなマンション群が建ち並んでいました。 私は圧倒されてしまい、どれほどとも知れないその居住建築の連なりを呆然と眺めていましたが、やがて、ふと気が付きました。 沙田には、これだけの数の 「日常の生活」 があるのだということに。
 その瞬間、不思議なことに、心の底から、「ああ、遠くに来たんだなあ」 と思ったのです。 こんなにもたくさんの窓に、それぞれ住まう人々がいて、それぞれの人生があります。 しかし、私のための窓は、ここにはただの一つも無い。異国情緒溢れる景色や耳に入ってくる外国語は、確かに自分がいつもとは違う場所にいることを意識させてくれます。 けれども、他の人の日常を見ることで、私自身が非日常の中に在ることを、また、本来自分がいるべき場所から遠く離れていることを、痛切に感じたのは、正にこの時が初めてでした。そして、この孤独感こそが、旅に在ることの醍醐味なのだと思いました。
 自分が異邦人であることのおかしみと自由さ、帰るべき場所があることの安堵とノスタルジー、このどちらもを同時に楽しむために、この時から私は、沙田やその他のベッドタウンを好んで訪れるようになりました。 そして沙田の風景は、私の、根源的且つ重要な 「香港の旅の記憶」 となったのです。

 夕暮れ時、人気の少なくなった沙田公園の、運河を見下ろすベンチに座り、横の売店で買った、少し煮詰まったコーヒーを飲みながら、対岸のマンションを眺めます。 どこかの窓に灯が点り、どこかの窓の灯が消えます。 姿は見えなくとも、人々の暮らしが、確かにそこに在るのが感じられます。 私の好きなアーティストの彼もまた、一日の仕事を終えると、この街へ帰ってきて、この風景の一部になるのでしょう。 ここに住むたくさんの人々と同じように。もちろん彼に会う事はかないませんでしたが、「偶像」ではない「人間」としての彼の一部分を知ることができた気がして、私は幸せでした。
 運河は緩やかに、ほの暗い水面に柔らかい街の灯を映しながら流れていきます。 旅人である私の、心地良い孤独感をもたゆたせながら…。

 今から、10年近くも前のお話です。劇的に変って行く香港の中にありながら、けれども沙田は、きっと今日も、あの頃と同じように 「人々の日常」 を抱いていることでしょう。


【「香港へ行クェ!!−ツアーコード002−」より】


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