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 新華社に泊まる [2005.11.11/001]

 ハッピーバレー競馬場の北西側に新しいホテルができていた。コスモポリタンホテルという、まあ香港にありそうな名前だ。英領香港から中国の一部となった今もクイーンズ・ロードなる植民地風の名を持つ道路がそのまま残っていて、その東端にこのホテルがある。交通の便はいまひとつだが、料金の安さと新しさに引かれてここに泊まった。
 19世紀中葉、植民地香港が始動したころの英国はビクトリア女王時代。そのため、香港に最も早く造られた大通りはQueen's Road/皇后大道と命名されたのだが、その東の端であるここまで来ると、今でも丘が迫り、繁華街からは少し外れた感じが漂う。近くには広大な競馬場と外人墓地が連なり、19世紀に極東で果てたヨーロッパやペルシャ、インドから来た人々の微かな跡を留めている。
 ホテルから街への行き来には、目の前を走る二階建て路面電車の支線に乗り、帰りはタクシーで戻ることの繰り返しとなった。ホテルは角地にあって、道路に沿って緩く曲がった壁面が直立している。その形が、どこかで見た気がする。緩くカーブする歩道に溢れる人々、大きな木の扉、窓の無い1階の壁、そんなモノクロ写真が記憶に残っている。
 実は日本を出る前からその場所が少し気になっていたのだ。ただ、出発前の慌ただしさの中で、この記憶のことは消えていた。「麗都酒店」と広東語でもホテル名が通じるようになった何回目かのタクシーでホテルに向い、正面に緩い曲面の建物が見えてきたとき、再びあの微かな記憶が甦ってきた。ここは、新華社ビルの場所ではないか。ホテルになっているので華やかさを装っていて判りにくいが、形だけを見れば確かにあの新華社だ。
 新華社、とは中国の通信社である。ロイターとかAFP、共同通信といった会社と同じく、自らの媒体を持たずに世界中で取材して、新聞社やテレビなどのメディアにニュース配信する企業である。新華社は中国の通信社であって、世界中でそのような活動をしているのだが、香港では違っていた。この説明では新華社香港支社の半分にしかならない。私の記憶にあるモノクロ写真の1枚は多数の香港人がこの建物の前に集まっているものだった。デモか抗議集会をするためなのだが、通信社にわざわざデモをすることは普通、ない。香港での特殊な残り半分の機能によるのだが、その半分とは大使館なのだ。そのため、中国北京の政策や行動に対する意思表明に新華社前に香港の人々が集まった。
 香港は1841年にイギリス軍が占領して以来、1997年6月まで英国植民地だった。その間、第二次世界大戦後の民族自決、植民地解放の流れの中にあっても、英国は香港を手放そうとはしなかった。大戦中数年間香港を占領していた日本が降伏したとき、日本軍から香港を回収したのは蒋介石の軍でも毛沢東でもなく、香港一番乗りを果たしたイギリス軍だった。1949年の人民中国成立後も紅軍は香港の領域には入らなかった。中国指導者は香港の経済的利用価値を認識し、香港問題を長期的に考えて解決していくとして香港を現状に留めた。ただ、香港を植民地と認めるのはカッコ悪いのか、建前として中国不可分の領土であると主張し、1972年には国連の植民地リストから除外させている。そうはいっても、英国香港政庁が施政権を行使する香港に中国の行政は及ぶはずがなく、かといって大使館や領事を香港に置くと「外国領土」であると認めてしまうこととなる。この矛盾を回避するために、通信社である新華社香港支社に実質的な大使館機能を持たせたという。大陸では共産党員でさえこの事実はあまり知られておらず、1983年に支社長として赴任した許家屯などは、江蘇省第一書記まで務めた大物であるのに左遷されたと噂がたったほどである。その反面、香港では新華社に大陸政府出先機関の機能があることはよく知られていたようで、1970、80年代にはここ新華社前にデモが集まったりした。
 中国の特別行政区となった今、新華社は普通の通信社となり、何故か中国外務省の巨大ビルが中心市街地に堂々と聳え立っている。新華社は2000年頃にはこの場所からも移転し、ホンコンの記憶からも消えかかっていた。
 2泊目の晩だったろうか、やはりタクシーでホテルに戻ると、部屋にあった資料に目が留まった。そこには、かつてここが新華社であった旨が簡単に記されていた。間違いなかったのだ。私は缶ビールの酔いも手伝って少し感傷的な気分に陥った。この街で、かつて外国支配下にありながら巨大で難しい母国政府に対してこの土地の人々が何かを訴えようとした、そのビルの内側に居ることに妙な気がした。旅行者である自分には義務も利権もなく、既にこの街の若者たちの記憶リストには載っていないであろうことに動揺しても仕方がないだろう。それは、中年の自分らが「いちご白書をもう一度」のカラオケ画面に現れる安保闘争時の新宿騒乱白黒フィルムを目にして感傷に耽っても、それは既に四半世紀以上が経っている「歴史」でしかないのと同じようなことだろう。だから、ホテルの部屋に短い文でここが新華社ビルだった、とだけ記してあるくらいがちょうどよいのだ。近くに連なる外人墓地が荒々しかった植民地香港前半の歴史を静かに記録しているのと同じようにだ。


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