香港巴士鐵路旅遊協會 HONG KONG PUBLIC TRANSPORT TOURISM ASSOCIATION
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旅遊香港の旅 旅のエッセイ
 
 団地を巡るバスの旅 [2005.11.12/001]

 2005年11月12日、私は香港密集市街地九龍の北の端にいた。何故北端かというと、ここに獅子山という岩山があってこれ以上市街地は拡がりようがなく、何故ここにいるかというと、朝食後に乗った路線バスの終点がたまたま竹園邨というここにある団地だったからだ。バスはゴチャゴチャした九龍市街地を走りながら北上し、やがて正面に獅子山のギラリとした岩肌が見えてきた。途中で降りる用もないので終点まで来てしまったのだ。
 今回の旅は仕事のトラブルのため出発日に日程を1日短縮し、出発便が午後発だったために結局2泊2日。その貴重な唯一の丸々1日あるこの日、終点がどこだか定かでないバスの旅をしている。少なくとも出発地には意味があった。今晩のサンディ・ラムのコンサートチケットを友人から受取るため、ホンハム駅のそばで待ち合わせて飲茶をした。それがバス出発地がホンハムだった理由。駅前のバスターミナルにはあちこち色々な行先のバスが並ぶ。その中の早めに発車しそうなバスがこの竹園邨行きだったのだが、竹園邨がどこにあるのか正確なところは判らないままに乗り込んでいた。運賃の安さから、それ程遠くに行くのではないことは確かだった。香港の旅はいつもこんな風に過ぎてゆく。

 竹園邨は岩山を背にした大団地だった。似たようなコンクリートの巨大住宅ビルがいくつも並び、バスターミナル近くにはレストランや商店が集まっている。香港のどこにでもある公共団地の風景で、そして僅かな特色といえばここには低所得者団地の雰囲気があることぐらいだろうか。そういえば冷房バスが多い香港にして、さっきのバスはオンボロの非冷房車だった。この街では冷房の有無でバス代が違う。
 香港中どこにでもあるスタイルの食堂で昼食とする。サテー味の幅広炒め麺。テーブルにはバス運転手の姿も見える。昼食を済ますと、当然ながらもうすることがいない。ここに来た理由がたまたま乗ったバスの行先であった、というきわめて希薄なものであった以上しかたがない。住宅ビルに囲まれたバスターミナルで次の行先を探す。実はこの先の行先はあるにはあった。石z尾という古い団地へ行きたいのだ。それならホンハムから直接そちらへ向かえばよさそうなのだが、石z尾に行かなければならないという程の理由も決意もある訳ではなかった。ただ、九龍の北の方に来たのだからまあ行ってみようかな、という程度の気持ちに過ぎない。
 石z尾は数多ある香港の団地の中で現在まで難民アパートの姿を残すところなのだ。1949年に共産党政権が中国に成立した前後から、北に隣接する中国から香港へ大量の難民が流入した。世界中どこでも同じようなものだが、難民を喜んで受け入れる政府はなく、ここ香港でも放置された難民によりあちらこちらにバラックのスラムが乱立したという。ところがその後の香港は少し違った。香港政庁(英国香港植民地政府)は公共住宅を建設して難民を収容し始めるのだ。そして1953年に石z尾のスラムで大火が発生したことで、その難民アパート建設が促進された。ただ、それは公共住宅とかアパートという語で想像するものとはかなり異なるモノであった。粗製乱造というコトバがピッタリの、スラムよりはマシだろうという程度のもので、7階程の高さの細長いコンクリート棚に壁とドアを付けただけといっても言い過ぎでない。既に20世紀後半には1人当たりGDPが英国を抜いていた香港に、いまだ残っている難民アパートを見てみたくなった。

 竹園邨バスターミナルからは数路線のバスがあった。その中に2Bという番号のバスが石z尾を通るのが判った。さっそくオンボロバスの2階席に座る。低所得者向け団地から難民アパート地区を経て九龍西北部の下町へ向かうこのバスも、また冷房の無い古い車体だった。どうもこのバス会社は合理的というか露骨というか、路線の特徴を良く弁えているらしい。竹園邨を出発したバスは四角いコンクリートの森の中を巡りながら徐々に南下する。幹線道路を越えると樂富という団地地区を走る。土地が狭く人口が多い香港では平らな所は悉く利用し尽されているのだ。団地が充満した空間を走り続けると、突然左手に異様な景色が出現した。広い敷地にカマボコ形の建物が整然と並んでいる。米軍横田基地や厚木基地を眺めているようだ。それもそのはずで、そこは中国人民解放軍の九龍東軍營なる兵舎なのだ。1997年6月30日以前は香港駐留イギリス軍基地であったところだ。香港返還時の外国マスコミの騒ぎの中で人民解放軍香港駐留の是非という奇妙なギロンがあった。植民地宗主国イギリスが156年間も香港に軍をおいたことは忘れられたかのように、中国軍が来るのをイケナイことのように語ることに違和感を覚えたものだった。まあ、米軍が自国内に駐留し続ける国のマスコミの論調だから無理からぬものかもしれない。軍營を過ぎるとまたまた見慣れぬ風景となる。左側に戸建て住宅が見えるではないか。ここは九龍塘、香港の高級住宅街だ。なにしろ香港は狭い、相当な大金持ちでもマンション住まいで、一戸建てに済むとなると超が付く大金持ちとなる。ただしこのバスは貧乏路線だからか、高級住宅街には入り込まずに左車窓に映すだけであっという間に走り抜けた。
 大きくカーブを切って坂を下りると、白田邨団地。石z尾の中心地はもうすぐだ。明らかに他地域の建物とは違う、周囲がそんな雰囲気になってきたところで下車。バス停は石z尾商場という。確かにパッとしない、日用品を商う大型店舗がそこにあった。歩道に立って首をぐるりと回して周りを見る。コンクリート棚型のアパートは何回も何回もペイントされたようで、白とくすんだオレンジ色がカサカサした感じで塗られ、所々は塗装面が剥離しそうになっている。直角に交わる街路を歩いて街見物を始める。人は多く、窓に突き出た竿には洗濯物がはためいている。コンクリート棚に見える難民アパート型の建物はほとんどが同じ形の細長い7階建て。「棚」が床と天井、そして建物の周囲を四角く囲う回廊式の廊下兼ベランダ。整然と7枚の棚板を上下に並べた構造物に見える。長手方向に部屋が二列に並ぶ構造なので、ドアとたったひとつの窓は部屋の1面にしかない。板棚建物群の南側街区は10階を超えるカマボコ板を横に立てたような住宅が並ぶ。こちらは多分難民アパート以後、1960、70年代頃のややマシな構造なのだろう。この様式なら、香港各地でかなり目にすることができる。さらに南寄には4階建ての非常に不規則な形をした建物が連なる。一応ひと塊の建物なのだが上下左右次々と壁の色形が変化していく。黄、白、灰色が全て煤けて渾然とし、その壁面にクーラーや看板や庇がバラバラに突き出し、アルミサッシあり錆びた鉄窓枠ありで、1階は柱間毎に多種多様な店が入居している。生き物みたいな建物だ。こちらは政府建造団地に隣接した民間雑居ビルというところだろう。北東側の街区は広大な更地だ。たくさんのコンクリート棚型アパートが壊された跡で、再開発は既に始動しているのが判る。

 コンクリート製の歩道橋がそのままアパートの2階部分に繋がっている箇所がある。道路に下りるのも面倒なのでアパートに入る。2階廊下とも小さな広場ともどちらともつかない空間だ。ふと掲示板が目に留まる。数字がギッシリ詰まった表が貼ってある。美如樓とか美映樓などの文字があり、団地の部屋毎の家賃表のようだ。1,000〜4,000香港ドルくらいの金額なのだが、単位の期間も広さもよく判らないので高いのか安いのか判然としない。と、隣に初老の男性が現れた。同じように表を眺めている。意を決してこの表の示す建物はどれなのか訊ねてみる。オッサンは広東語の下手な、外人かもしれない見知らぬ男からの質問に驚きもせず、一生懸命に教えてくれる。が、よく判らない。それはこちらの言語能力のせいなのだが、どうやらこれから造られる新しい団地の部屋別料金表のようだ。
 表のやりとりが一段落すると、オッサンは僕がどこから来たのか訊ねてきた。この展開は充分予想できた。う〜ん、ちょっと困った。旺角だの湾仔だのといった香港の地名を答えてもこんなに広東語の下手な香港人はいなかろうし、台湾と答えてもし北京語で返されたらバンザイである。「日本からです」と答えるしかなかった。この間ほんの数秒である。ここは難民アパートの残る地区で、観光客やスーツのビジネスマンの行き交う煌びやかな中心街ではない。老人独居世帯も多く、事実目の前に立つこの人も初老と見える。香港でこのシチュエイションは少しヤバイ。日本という語の響きはSONYやキムタクであるより、広東から攻め込んできた第二次大戦の記憶に連なるかもしれないのだ。21世紀の今日でも僕の歳だとそちらの方にも意識がゆき、楽しい香港旅行に微かな影を差している。
 幸か不幸か、「ああ、日本ね」といった気のない返事を耳にしただけで、この会話は終了した。
 さっきの「民間建物エリア」にまた入り込む。耀東街という立派な名の、広いがゴチャゴチャした道では食堂が目に付く。大型屋台なのか、建物1階からそのまま路上にはみ出ているのか判別しにくい。店のニイサンに缶ビールを出してもらい、路上のイスで飲む。8香港ドル、約110円。少し高いかもしれない。これは休憩兼時間調整。というのも、2時にコンクリート棚型の18号棟に行くのだ。

 石z尾地区東寄りの18号棟1階には石z尾人文館という施設があった。さっきそこに見物に行ったら入れなかったのだ。中庭舗装地面に人文館とペイントしてあるので、場所の間違いはない。キョロキョロ見回すと、イスに腰掛けているオバサンの服装がちょっと制服くさい。近づいて訊いてみると、開館は土曜日の午後2時だけだという。幸い今日は土曜だが、まだ1時間以上もある。オバサンは気楽なもので「昼でも食べてからおいで」などと宣う。昼は竹園邨でサテー味の麺を食べてしまっていたので、再び街を歩いて時間潰しをするしかない。おかげで、住民退去済で閉ざされた取壊し直前の棚型アパートも見られたし、それを記録しようと写真に撮っている香港人カップルも目にした。そしてこのビールで時間潰しはおしまい。
 2時に人文館に着くと、何組もの香港人が集まっている。見学料5ドルを払うと、適当に5、6人ずつのグループに分けられた。グループ毎にボランティアの若者といった感じの説明者が付くのだ。さっそく見学開始。18号棟と17号棟の1階の部屋そのものを使って1950年代、70、80、90年代のここの暮らしの様子を再現してある。部屋のサイズはどれも同じ。実際のアパートの一部だから当然ではある。時代の流れにあわせて、アパートの設備や利用方法を若者が説明してくれる。何よりも目を見張るのはその狭さだ。120平方フィートの面積は、一辺3.3mの正方形に近い。これが1戸分の全てなのだ。しかも50年代には1戸に2、3家族が住んだという。ということは一辺3m強の住居に10人前後が住んでいた訳だ。「小さな檻」と呼ばれていたというのも納得がいく。70年代は少しマシで、部屋の真中を板で仕切りハッキリ2家族の区別がつく。17号棟との間の中庭ではオバサン達が手作りクッキーをくださる。これも、5ドル、約70円の見学料に入っているらしい。何十年かタイムスリップした部屋の見物にあわせた昔菓子ということのようだ。地域の人達が週末に昔の様子を展示・説明しているという感じで和やかな光景だ。香港のあちこちから来たであろう見学者も、興味深そうにこの都市の歴史に想いを馳せているかのようだ。香港はアジアでもう充分に豊かな地域になっている。明るい市街地では大陸中国の子ども向けの寄付を、中学生たちが市民に呼びかける。ただ、僕にはちょっとだけ引っかかるものがあった。さっき出会ったカメラのカップルのせいもあろう。この人文館は実際に使われているアパートの一部なのだ。僕たちが感心して見ている狭い展示室のすぐ隣には、まったく同じサイズの部屋で暮らしている人達がいるではないか。一緒に見ている香港の若者たちも僕も、みなここでは旅行者のまなざしになっている。昔の劣悪だった暮らしを見物しながら、そのすぐ隣にそれから大して改善されていない今に残る難民アパートでの貧しい暮らしをも見物しているのだ。
 博物館的な展示と同居する、その展示と直線的に連続する現在の暮らしをも見るという、なかなか得がたい体験の旅となった。が、この現実にアレコレ言うのは旅行者の一線を越えると思う。ただ、僕と一緒に地元の人までがこの「ライブ」を体験するという状態に少し目眩を感じたのも事実だった。ちょっと収まりのよくない気持ちを持って地下鉄の駅に向かった。今晩は香港コロシアムでのコンサートが待っている。


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