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横浜開港とアメリカ領事館 のこと
 


 其の一
 横浜開港にあたっての本覺寺





江戸幕府は、1858年にアメリカと貿易開始を約束する日米修好通商条約を結び、更に同内容の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ぶこととなりました。これにより日本の鎖国は事実上解かれ、日本は翌年の1859年より5つの港を開港する運びとなりました。




その5港とは
神奈川、長崎、函館、新潟、兵庫
実際には、神奈川ではなく、その横の
横浜が開港されておりますが、神奈川宿にあった本覺寺も横浜開港の影響を大いに受けました。
横浜港の図(奥が神奈川宿、手前は横浜村)





横浜開港にあたり、神奈川宿にある寺院の多くは、政治上の駆け引きか、大きな建物の利便性と宿場町としての簡便さ、はたまた美しい神奈川湊と横浜を見渡す事が出来る為か、
各国の領事館として接収されてゆきました。




アメリカは神奈川奉行が横浜に用意した領事館を断り、渡船場が近く、湊が見渡せる高台の本覺寺を領事館としました。



領事館の期間は
約3年程で、後に横浜へ移動となるその間、寺僧は退去させられ、御本尊さまは板囲いで覆われ、一般人の立ち入りは禁止されていました。




また、アメリカ側は本覺寺を領事館とするにあたって、一ヶ月
15両(10両とも)の賃貸料を支払うことになっておりましたが、それがなかなか支払われず、寺側が「ことのほか迷惑」しているという噂もあったようです。
 

  
下側の各国の国旗が各領事館を表わす
当時の本覺寺写真(横浜開港資料館蔵)





其の二 アメリカ領事館接収の日


横浜開港の日は、旧暦の1859年7月1日(新暦6月2日)でありますが、本覺寺が正式に領事館に接収された日は開港より三日後、7月4日(新暦6月5日)でありました。

アメリカにとっては
、アメリカの独立記念日であるこの日が正式に港を開くと決めた日でありました。

当日は、墓地の
松の木に星条旗を掲げ、合衆国国家を合唱し、シャンペンを抜き、お祝いをしたと言われております。

 
この事は、明治41年に刊行された物事の起源を紹介している「
明治事物起源」においては、これを「横浜開港記念日の始め」としています。


以上の様子は領事館通訳
ジョセフ・ヒコの自伝に子細に書かれていることですので、以下掲載させて頂きます。

     
  

   以下、ジョセフ・ヒコの「
アメリカ彦蔵自伝」より

1859年7月4日

この日はいよいよ上陸して、わが公館を収め、正式に貿易港を開くと決められた日である。
夜は快晴に明けそめた。
早朝、湾内を林立するすべてのマストに、にぎにぎしく旗がかかげられていた。
十時ごろ、われわれは神奈川側に上陸し、本覺寺まで歩いていった。
寺の墓地に大木があったので、そのてっぺんの枝に棒を結びつけて旗ざおにした。
正午すこし前に、アメリカ公使ハリス、領事ドール、ミシシッピー号艦長ならびに士官ヴァン・リードと私はどっとこの墓地に乗り込んだ。
十二時丁度、この旗ざおにアメリカの国旗を高くかかげた。
そうしてシャンペンをぬき、合衆国国家を合唱して、「われらの繁栄のために、星条旗よ永遠なれ」と乾盃した。
この地に外国の国旗のひるがえったのは史上はじめてのことであった。



 
ジョセフ・ヒコ


尚、ジョセフ・ヒコの日記中にある、国旗の旗ざおとした墓地の大木は、松の木と言われておりますが、今は残念ながら現存はしておりません。


日記の著者
ジョセフ・ヒコは本名は彦蔵(彦太郎とも言う)と言い、13歳の時に江戸見物の帰りに乗った船が遠州灘で遭難し、漂流の末にアメリカ船に助けられました。
その後、彦蔵はアメリカで教育を受け、市民権を得てジョセフ・ヒコと名乗り、日本に
通訳として帰ってきたという訳であります。







其の三 日本で初めてペンキが塗られた山門


当時の面影を残す本覺寺山門


当時の領事館員達は、当時日本には存在していなかった西洋塗装法(ペンキ)で、寺の建物を塗装していきました。
そのほとんどは戦火で焼失をしてしまいましたが、本覺寺の山門と鐘楼堂だけは戦火を免れ、今でも
山門の蛙股や唐獅子などに黒や赤、緑、白などペンキ塗装の跡を見ることが出来ます。
 

そしてこの領事館員達がペンキ塗装を施した山門は、
日本で初めてペンキが塗られた純日本建築物であると言われており、大変貴重な建築物として考えられております。
   
山門の唐獅子 うっすらとペンキの跡が残る
全国塗装業者組合合同慰霊碑


 

そして現在では、そのような縁から全国塗装業者組合建立の合同慰霊碑が、山門のすぐ近くに建てられ、毎年七月には全国塗装業者組合の合同慰霊祭も営まれております。

 
 






其の四
 生麦事件

事件の起こった生麦村の写真


1862年、薩摩藩の行列に乱入したイギリス人が殺傷された生麦事件が近所の生麦村でおこります。 

藩士に斬られ負傷した
イギリス人、マーシャルとクラーク2人が本覺寺へ逃げ込み、アメリカ人医師のヘボン博士に手当を受けております。

その際、負傷したイギリス人を追ってきた薩摩藩士が、あと一歩のところで本覺寺に逃げ込まれた悔しさの余り、閉ざされた本覺寺の山門を刀で傷つけたと言われているようですが、その跡ははっきりとしておりません。








  



月桂樹(奥の木)
其の五 領事館員が植えた月桂樹の子


山門向かって左側に、お寺には少し似つかわしくない月桂樹という西洋の木が一本植えられています。
これはアメリカ領事館時代に領事館員達(ハリス?)が植えた月桂樹の子供と言われております。
 
しかし、植えられた月桂樹は1945年の横浜大空襲により木の幹を焼失してしまいましたが、生き残った根から
芽が出、再び山門の脇でその姿を表わしているという訳であります。