扇の歴史
飛鳥時代以前の古墳時代の5世紀中頃から6世紀に文字の伝来と共に、記録技術(筆、墨、硯、竹簡、木簡、紙)も伝来し、日本で記録文化が始まると瞬く間に普及して行きますが、紙は高価で日常的に使用されることは、ありませんでした。
記録を残すことの重要さ、便利さを知れば知るほど個人的な記録の必要性も増し、メモ帳を各自持つようになりますが、紙は大変貴重で再利用が出来ないのでメモ帳には不向きでした。
そこで木簡がメモ帳に使われました。
竹簡、木簡が日本に伝来した時点で、使い方として、紐で綴じ合わせて使い、不要になれば記述面を削って再利用をすることも伝わり、当時の宮中ではメモ帳としての木簡を持つことが習慣になりました。
時代が下がり、平安時代(8世紀〜11世紀)の初期頃になると紙の生産も飛躍的に増大し、メモ帳も紙が利用されるようになり、木簡製のメモ帳は形式化して実用性から、形式美を持つようになり、扇の原型が出来上がります。
現存する最古の扇は元慶元年(877年)と記された京都東寺の千手観音像の腕の中から発見されました。
扇の材料は、杉(スギ)、檜(ヒノキ)、椹(サワラ)、翌檜(アスナロ)などの薄板を用い、綴糸には白絹糸が使われていました。
薄板の数は、身分により異なり、親王以下3位まで25枚、5位までは23枚、6位以下12枚を用いた。
男性のものは、柾目の檜の薄板で作られたものを用い、それに、式次第などを書いたりして、メモ帳の余韻を残していた。
また、年少者と老人は、檜や杉の板目の薄板で作り、蓬莱文様、遠山なとの画を描いた横目扇(木目を薄板の横方向に使った)を用い、飾りとして使うようになっていった。
天皇、皇后、皇太子、皇太后は蘇芳染(すおうそめ:蘇芳とは、マメ科の潅木で、幹やさやを煎じて作る、赤色染料)の緋色の扇が用いられた。
老人は、香染(こうそめ:丁子の煮汁で染めた薄赤に黄を帯びた色)の扇が用いられるようになった。
束帯のときは、手に笏(しゃく)を持ったが、直衣(のうし)、衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)のときは、扇を持ちました。
当初は男性が用い、女性は中国から古墳時代に伝わったとされる“翳(さしは・さしば・かざし)”と云う団扇(うちわ)の祖先を持っていましたが、次第に女性も扇を用い初め、宮中では常に手にするようになります。
大儀(十二単が正装)のときに持つ扇は、衵扇(あこめおうぎ)と云い、板に胡粉を塗り、種種の大和絵または唐画(からえ)を描いたりした、非常に豪華なもので、絵具は、胡粉、黄土、金銀の泥、金白、朱、丹、緑青、群青、黒などを使っていました。
薄板の扇にやや遅れて、“蝙蝠扇(かわほりせん:広げた形がコウモリの羽に似ている)”と呼ばれた、扇骨の数も5本の片面に扇面紙を貼った紙扇が作られ、扇面には、物語画、絵画、や和歌、詩文などを書いた。
両者ともに宮中服飾となり、薄板の扇は冬扇、蝙蝠扇は夏扇とも云い、それぞれ10〜3月、4〜9月に用いられた。
“蜻蛉(とんぼ)日記(954年から21年間、藤原道綱の母が書いた日記)”に、当時の様子が書かれている。
『扇ともして参らするに、こと人々は骨に蒔絵をし、或は金銀、沈紫壇の骨になん、筋を入れ彫りものをし、えもいわれぬ紙どもに、人のなべてしらぬ詩歌や、また60余曲の歌枕、名あがりたるところなどを書きつつ人々参らするに、例の上の殿は、骨の漆ばかりをかしげに塗り、黄なるから紙のした絵ほのかにをかしき程なるに、おもての方には楽符を麗しう真にかき、裏には御筆とどめて草にめでたくかき奉り給えり』と有るように、個性や装飾性の追求が自由奔放に行われていたことが、伺える。
蝙蝠扇は平安後期に“歌合わせ”に似た“扇合わせ”の遊びが上流階級社会で行われていたように、扇は朝廷・貴族の遊芸用として、また僧侶・神職間の儀式用として使用されていて、一般の使用は禁止されていた。
薄板の扇は、平安時代末になると、女房扇に、糸田面扇と呼ばれるもの、水扇または鏡表骨扇と呼ばれるものが現れた。
鎌倉時代になると、横目扇、女房扇に飾糸、付花ができ、室町時代にはきわめて大形となって、単に装飾の為だけになり、これ以後、重要な儀式以外は、使うことがなくなった。
一方、蝙蝠扇は、皆彫骨扇(みなえりぼねおうぎ)または透扇(すかしおうぎ)といって扇骨に透かし彫りのある扇ができ、鎌倉時代に“倭扇”として禅宗等の留学僧によって土産として中国に渡り、扇骨の数も5本から12本位に、また片面に扇面紙を貼ったものが両面に、改良されて、室町時代に“唐扇”として逆輸入された、蝙蝠扇は様式が大きく変化してゆきます。
単に、扇と呼ばれていたが、中国からの輸入の唐扇は漢名を“扇子”と書き、“せんす”と呼ぶようになり、檜の薄板の扇を“桧扇・檜扇(ひおうぎ)”と呼んで区別するように成ったのは、この時代から始まり、様式と共に現代に伝えられています。
蝙蝠扇から発展した扇子は、室町時代に種々の様式が生み出されます。
基本的な様式として、扇を閉じた時に先が
・イチョウ葉のように左右に開く形:中啓(ちゅうけい 別名 末広;すえひろ)
・左右から先端が閉じた形:鎮折(しずめおり)【現在最も多く作られている形】
・両者の中間の形:雪洞(ぼんぼり)
以後、今日までこれら三様式に日本の扇子の形態は、属することになりました。
更に、公家の各家々はそれぞれ五摂家の一つに所属することになり、五門流が生じ、扇も五門流の様式に分かれることになり、その差異は、主に、扇骨上の透彫りの形の違いによります。
また、室町時代には、庶民にも使用が許可され、また、武家文化の影響で、能・演劇・茶道などにも取り入れられるようになりました。
このように、近代の諸遊芸発生の時期で、それらに用いられる扇も、この頃から、その様式が定まり始めた。
江戸時代には、武家の服装制度の規範を公家の制度に求めたので、自然に、扇もまた公家の制度のものと類似の制度が設けられ、社寺は、それぞれ仕来りを主張し、特別な決りのある扇を用いることになりました。
扇子作りは、冠、烏帽子作りと共に“京の三職”として、幕府のの保護を受けるほどの重要な産業となり、扇売りや地紙売りの行商人も出現し、扇子は広く庶民の日常生活に普及し必需品となりました。
京扇子はその後も発展を続け、江戸後期には海外市場を確立するまで拡がり、種々の扇ができ、朝鮮扇、唐扇の輸入品や、その模造品も用いられた。
明治時代以後になると16世紀に中国扇がスペインに伝わり、欧州で扇の製作が始まり、独自の進歩を遂げ、扇骨に象牙を用いたもの、扇骨数が数十本の扇やレース、絹地を貼った洋扇が逆輸入され、これを基とした外国輸出用の扇が作られるようになりました。
大正年間に、輸出用の洋扇が国内用となり、現在も用いられる夏の涼を取るための一般用の地紙の扇子や絹地の絹扇、白檀を扇骨に使った白檀扇が完成し、古来からの形式のものは、儀式や芸能などに使用が限られるようになりました。
扇の輸出は、大正時代中期まで盛んでしたが、現在はほとんど国内での市場に限られ、その生産の約9割を京扇子が占めています。
<団扇と扇子の関係>
中国で発明された団扇(うちわ)の祖先は朝鮮半島を経由して古墳時代に伝わったとされるが、その用途は二つ有ったと云われています。
その一、“翳(さしは・さしば)”と云って、高松塚古墳の壁画に描かれている飛鳥時代の     女性が持っているように、高貴な方の顔を翳す(かざす:隠すこと)ためや、悪い病    魔などを「追い払う」魔除的な意味もあり、儀式に使う。
そのニ、“扇(おうぎ・あふぎ)”と云って、バタバタあおいで涼しい風を送ったり、虫を叩い    て虫除けになどに使う。
恐らく、字が違うので別物と思われますが類似の物が、伝わった訳です。
その後、小型の”翳”を“団扇”と呼ぶようになります。
平安時代中期に作られた漢和辞典の“和名抄(934年)”には、“翳:うちは”として“扇:あふぎ”と区別されているので、正しく日本には伝わったものと思われます。
しかし、団扇は、あおいで風を送る用途の方は定着せず、主に公家・役人・僧侶の間で威厳を正すために顔を隠したり、虫を払う道具として使われました。
処が“扇”の発達に伴い、同様の使い方であった“団扇”は、廃れてしまいますが、戦国時代には武将の“軍配”として形を変えて用いられました。現在でも相撲の行司が使ってますよね。
室町時代になると、唐扇の影響を受けて“蝙蝠扇”が大きく変貌を遂げるように、団扇も竹と和紙で作られるようになり、送風の能力が大幅に改良されたものが室町時代末期になると製造が始まりました。
江戸時代になると、あおいで暑さをしのいだり、特に渋団扇の発明で一方向に強い風を出し易くなり、釜戸の火越しなどに、庶民の間で広く普及します。
一方、浮世絵を印刷したものが量産されることで、見て楽しむという使い方も加わり、また、古くからの使い方の威厳を正す用途でも使われ、高名な絵師によって絵が描かれた芸術品も多く生まれています。
風を起こす道具として普及した団扇は丸亀団扇、奈良団扇、都団扇(京団扇)など各地に特産地が生まれた。
昭和に入って、ガスが普及し始める35年位までは、江戸時代と変わらない使い方が続きました。
<漢字・名前の由来>
翳・扇・団扇・扇子・桧扇
“翳(さしは・さしば)”は、柄の長いうちわ状のものに薄絹を張ったもので、高貴な人の顔を覆って隠し、見え難くすると云う意味は、現在でも“かすみ・かざ-す・かす-む・かげ-り”と読み、同じような語意に使われています。
人の顔に差し掛けて使う羽から“さしかけは(差掛羽)”が短縮や転訛して“さしは・さしば”と呼ばれた。
“扇(あふぎ・おうぎ)”と云う漢字が出来た時の意味は“門の扉”を表す字で、中国の漢字の字典“説文解字(後漢の許慎(きょしん)が編纂:100年頃に成立)”によると“扇は扉なり”また“扉は戸扇なり”と解説されています。
それでは“扇”が、どうしてパタパタとあおぐ物を指す字と成ったのでしょうか?
“扇”と云う字は“戸と羽”の合成文字で、当時の中国の門扉は“観音扉”なのです。
その“観音扉”を開け閉めする時の様子は、パタパタと前後に羽が羽ばたく様に見えることから、“戸が羽のようだ”から、この二つを合成して、文字を作ったのです。
“あおぐ”意味を表す動詞“あふぐ”から生じた名詞“あふぎ”ですから、これには初めから、風を送って涼を取るための道具という意味が込められています。
名詞の“あふぎ”は、“あうぎ”から“あおぎ”を経て、現在の“おうぎ(おーぎ)”と云う長音の形に転訛しました。
どうして、中国では既に、翳・扇の言葉を持っていたのに、扇に関る扇子・団扇と云う言葉を生み出したのでしょうか?
日本から中国に伝わった蝙蝠扇を、あおぐ物として改良を加えたので、“扇”がニ種類になり区別する必要が生じたのではないかと思われます。
中国古来の扇を“団扇”としたのは、形が丸いものであったので“丸い”という意味の“団”の字を付加して“団扇”とした。『団栗(どんぐり)や団子(だんご)と同じ用法です』
悪い病魔などを“追い払う”魔除け的な使い方や、儀式に使われり、蚊やハエなどを追い払うためにも“うちわ”が使われていました。
“追い払う”=“打ち払う”が、更に“撃ち羽らう”道具なので“うちは(撃ち羽)”が転訛して“うちわ”と云う言葉が生まれ当初“翳”が充てられていたが、後に“団扇”の字が充てられたと思われます。
“蝙蝠扇”に付けた“扇子”の“子(す)”は、広辞苑によりますと、“子(呉音はジ。唐音はス)”は物の名の下に添える助辞で、“扇子(せんす)・様子(ようす)・金子(きんす)・種子(しゅし)・帽子(ぼうし)のように、モノの名前の後につけて、漢字2文字の熟語を構成する接尾語で特に意味がありません。
“せんす”で、漢字の音読みをそのまま使い、以降、中国で改良された“蝙蝠扇(唐扇)”を指す言葉となり、現在に至っています。
ここで、日本では少し困ったことが起こりました。
従来の日本では“檜の薄板の扇”も“紙の蝙蝠扇”も“扇”と呼んでいたのですが、“紙の蝙蝠扇”に“扇子”と名付けられ、しかも中国では、“団扇”と“扇子”の総称を“扇”と呼ぶようになってしまったのです。
そこで、“ひのきのあふぎ(檜の扇)”のような言葉が生まれ、それが短縮化と転訛して“ひおおぎ(檜扇)”と和製の2文字熟語が出来たと思われます。