<兄弟二人忘れ草思い草の話(今昔物語:1120年〜1150年成立)> 今は昔、仲のよい二人の兄弟がいました。親が病気で死ぬと、二人は毎日お墓参りをしていました。 数年後、兄は「わたしはこのままでは思い慰められそうにもない。萱草(かんぞう)という草は、人がこれを見ると、思いを忘れてしまうということだ。だから、その萱草を墓のほとりに植えてみよう」と思って植え、お墓参りもやめました。 兄はもう忘れてしまったが、自分だけは決して親を恋しく思う心を失うまいと思って「紫苑という草は、人がこれを見ると、心に思うことは忘れないということだ」と思いつき、紫苑を墓のほとりに植えて、常に行っては見ていたので、いよいよ忘れることがなく、お墓参りを続けました。 ある夜、弟の夢の中に墓守の鬼が現れて「お前の親を思う心に感心したので、明日起こることがわかるようにしてやろう。」と云いました。 弟は夢のお告げ通り翌日起こることを予知出来るようになり、幸せに暮らしました。 <万葉集(600年位〜759年の歌を収録)> 今昔物語に出てくる“思い草”と同じ言葉を、用いた歌は一種ありますが、 これは”南蛮煙管(ナンバンギセル)”であると、云われています。 『道邊之 乎花我下之 思草 今更尓 何物可将念』 作者: 不明 “道の辺(へ)の、乎花(をばな)が下の、思ひ草、今さらさらに、何をか思はむ” をばな(ススキ)の根本に生えるのは、南蛮煙管なので歌の情景から、思ひ草はこれに当てはまると思います。 処が、萱草(忘れ草)と紫苑(鬼の醜草)を詠ったものに、次のものがあり、この時代には、既に今昔物語の忘れ草思い草の物語は知られていたようです。 *『萱草 吾下紐尓 著有跡 鬼乃志許草 事二思安利家理』 作者: 大伴家持 “忘れ草、我が下紐に、付けたれど、鬼の醜草(しこくさ)、言(こと)にしありけり” *『萱草 垣毛繁森 雖殖有 鬼之志許草 猶戀尓家利』 作者: 不明 “ 忘れ草、垣もしみみに、植えたれど、鬼の醜草、なほ恋ひにけり” *『萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為』 作者:大伴旅人 “忘れ草、我が紐に付く、香具山の、古(ふ)りにし里を、忘れむがため” *『我屋戸 甍子太草 雖生 戀忘草 見未生』 作者: 不明 “我が宿の、軒(のき)にしだ草、生ひたれど、恋忘れ草、見れどいまだ生ひず” *『萱草 吾紐尓著 時常無 念度者 生跡文奈思』 作者: 不明 “ 忘れ草、我が紐(ひも)に付く、時となく、思ひわたれば、生けりともなし” 萱草=忘れ草は、和名抄(934年)に萱草の漢名をあげ、一名“忘憂(ぼうゆう)”和名を“和須礼久佐(わすれぐさ)”から知られていたようですが、紫苑は鬼との関係の鬼の醜草(しこくさ)で呼ばれ、兄の植えた忘れ草との対で、弟の親を思う心に目を向けた“思い草”と呼ばれるようになるのは、かなり時代が下がってからのことと思います。 <源氏物語(1010年頃)> 紫苑色 “野分” 「中宮の町の秋の庭は、盛りの花の色が美しい。・・・・鴨跖草(つきくさ:ツユクサの事)の ように青く点々と見えるのは、紫苑(しおん)の一群。・・・・虫の篭を提げ持った女童達が階を下りてくる。紫苑(しおん)なり撫子(なでしこ)なり、その色目を淡く濃く染め分けた衵(あこめ=内着の事)。」から、紫苑が庭の花として植えられ、着物の色の名前としても定着していたことが分ります。 *野分:秋なら台風の事で、冬なら木枯らしの事を指す古称です。 萱草色(喪服の袴) “葵” ほどなき袙(あこめ)、人よりは黒う染めて、黒き汗衫(かざみ)、萱草の袴など着たるも、をかしき姿なり。 “まぼろし” 赤くなっている顔を恥じて隠しているが、少し癖づいてふくれた髪の横に見えるのがはなやかに見えた。 紅の黄がちな色の袴をはき、単衣も萱草色を着て、濃い鈍(にび)色に黒を重ねた喪服に、裳(も)や唐衣(からぎぬ)も脱いでいたのを、中将はにわかに上へ引き掛けたりしていた。 “椎が本” 濃い鈍色の単衣に、萱草色の喪の袴の鮮明な色をしたのを着けているのが、派手な趣のあるものであると感じられたのも着ている人によってのことに違いない。 帯は仮なように結び、袖口に引き入れて見せない用意をしながら数珠を手へ掛けていた。 |