日本の化粧の歴史
《古代(古墳時代:3〜7世紀)》
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習であり日本の化粧の始まりで、魔除けのために顔に紅殻(ベンガラ:酸化鉄)を塗る“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていました。

《飛鳥・奈良時代(6世紀末〜8世紀)》
6世紀初頭に始まった遣隋使(3回派遣)、遣唐使(894年によって持たされた第18次遣唐使の大使に任命された菅原道真が遣唐使の廃止を建言で廃止までに通算15回派遣)、や中国や朝鮮からの渡来人などにより文字を筆頭に種々の文化、文物の伝来と共に、身だしなみ、化粧品、化粧法なども伝えられ、魔除けから日本の伝統化粧の始まりとなりました。
伝来したけしょうは“化粧・仮粧”と書き“けわい・けそう・おつくり”などといい、化粧・髪型・服装・態度などを含めた身だしなみ、と云う広い意味に使われていました。
この時代の美的感覚は正倉院の“鳥下立女屏風”や薬師寺の“吉祥天女蔵”に見られるように当時の先進国、中国での流行を意識したものが主流で、唇を濃い赤で染めあげ額と口元には鮮緑色の花鈿(かでん)、靨鈿(ようでん)を付ける様式が宮廷を中心にして流行しました。
その後の変化は高松塚古墳の壁画に描かれた美人画のように本来の眉毛を抜いて細長く眉墨で描いた眉が当時の流行を表しています。
それまで輸入に頼っていた白粉は692年に沙門勧成が国産初の鉛で出来た鉛白(ハフニ:塩基性炭酸鉛 2PbCO3・Pb(OH)2)を完成し、続いて713年には水銀で出来た軽粉(ハラヤ:塩化第一水銀Hg2Cl2)も国産化します。
お歯黒は、聖徳太子がしていたと云われており、虫歯予防に行われていたようです。
753年に渡日した鑑真和尚が、鉄漿水(かねみづ:酢酸第一鉄:液体)の換わりに緑バン(硫酸第一鉄:粉末)を使う方法を伝え、悪臭がなく、付きもよいものだったが高価であったがので、あまり普及しなっかたようです。
また、騰脂(えんじ:紅花のこと)も渡来し、これで明治初期までの基礎的な化粧品が揃いました。
*参考
お歯黒の材料はは、鉄奨水(かねみず:酢酸第一鉄)と五倍子紛(ふしこ:タンニン酸)からなっていて、化学反応によってタンニン酸第二鉄が出来、それが歯のエナメル質に滲み込んで歯を黒く染める。
鉄奨水の作り方は、お茶五合を沸騰させ、そこに焼いた古釘20〜30本を入れ、更に飴を五匁、麹を五勺、砂糖を一勺と少々の酒を入れて2〜3ヶ月密封して冷暗所に保存します。
飴・砂糖・麹が発酵して酢(酢酸)が出来、古釘の鉄との化学反応により酢酸第一鉄(鉄奨水)が出来上がります。
また強烈な一種独特の悪臭があるそうで、姑から嫁への伝授で少しづつ作り方が違っていたようです。
五倍子はウルシ科ヌルデの若芽や葉にヌルデノミミフシアブラムシが寄生し、その刺激によって組織が膨れ上がり虫こぶが形成されたヌルデミミフシが充分に成長する10月頃に採取し、火で焙って70度位で中のアブラムシを殺し乾燥させたもので、多量のタンニンを含んでいます。

《平安時代(9〜12世紀)》
遣唐使の廃止と前後して中国の真似ではなく衣冠束帯や十二単といった日本独自の習慣や風習が芽生えます。
源氏物語絵巻に描かれているように長髪をそのまま下ろし白く白粉を塗った顔に、眉毛を全部抜いて眉墨で描いた眉(引き方は男女、年齢、身分、階級によって描き方が多数あった)と、下唇だけにちょこっと唇に紅を差す化粧と変化し、鳳仙花を使って“爪紅(マニキュア)”もするようになります。
髪が長ぃので手入れが大変で、米のとぎ汁で丹念にブラツシング、洗髪は年に1回、臭い対策として香枕を使い白檀などの香りを髪にしみこませた。これらが香りの文化も生み出し、男も女性と同じような化粧をするようになり、お歯黒(鉄漿水と五倍子粉(ふしのこ)を混ぜて作った)文化も復活しています。
平安時代後期となると、武士団が台頭しますが、宮廷文化に憧れ、白塗りの顔に置き眉、口紅を塗りお歯黒もするといった貴族の習慣を取り入れた平家が繁栄した時期になります。
その頃、流行した白拍子達に依って化粧が広められてゆきました。

《鎌倉時代(13〜14世紀初頭)》
源氏は、平家に対する反動からか質実剛健を旨とし、平安貴族風の化粧は女性だけのものに戻りました。
また、赤化粧が復活して、地肌の色を強調しあまり白粉を塗らない化粧法へと変化しますが、眉化粧が貴族中心から一般的な化粧法となり、新しい化粧法のほお紅の使用が始まります。

《戦国時代(14〜16世紀)》
女性の化粧は、あまり変化せずに、戦に臨む武士達が化粧をする風潮が生まれ、敵に首を取られても醜くないように、眉墨を引き、白粉を塗った。
中には口紅やお歯黒をつける者もいたと云われています。
戦国武将であった今川義元は、宮廷の生活用式を好み桶狭間の戦いで討たれたとき、お歯黒をしていたことは、有名な話です。
“バサラ”と呼ばれ、若い男が、派手派手な着物を身にまとい、時には傍若無人な行動を取ったり、奇抜な化粧をしたりすることが流行りました。
織田信長、前田慶次、伊達正宗などは有名です。
戦国時代の後半となると眉墨で描いた眉から自分の眉に戻り、白粉に紅色を混ぜた“小西白粉(紅色白粉)”が作られ、後に千姫、淀君も愛用したと云われ、ここに白一辺倒でない白粉が生まれました。

《江戸時代(17〜19世紀) 1603年〜1867年》
最も古い女性の教養書の一つである“女鏡秘伝書(1650年)”によると、江戸初期の化粧の仕方、特に白粉の塗り方について“おしろいをぬりて、そのおしろい、すこしものこり侍れは、見くるしきものなり、よくよくのごひとりてよし”と薄化粧をすすめている。
また、“女重宝記(1692年)”でも“紅などもうすうすとあるべし”と書かれており、濃くぬるのは卑しいこととさとしている。
江戸の中盤以降になると町人文化の繁栄が化粧をする層の裾野が広げ発達させますが、その流行を主導していたのが歌舞伎役者や遊女達でした。
延宝(1673〜1681年)ころの歌舞伎俳優上村吉弥は、吉弥結びという帯結びや吉弥帽子、吉弥笠などの流行を生んだ、引退後に京都四条通りに白粉店を開き吉弥白粉を発売して大いに繁盛したとの事です。
その他、中村数馬や二代目瀬川菊之丞など数多くの俳優が新しい化粧法や化粧品の開発・宣伝に大きな役割をはたしました。
化粧(けわい)に関しての総合的な知識をまとめた、“女子愛敬都風俗化粧傅(みやこふうぞくけわいでん:1813年)”があり、その後、大正時代に廃刊になるまでのロングセラーとなって日本の伝統的化粧の指導書の役割を担った。
実際に化粧を視覚的に伝えたのは浮世絵版画であり、実際に伝えたのは、幕末の江戸市中1400余人いたという女髪結達であった。
しかし当時流行の化粧はいわゆる白塗りであって、それが日本の伝統化粧であったとは云えないようで江戸末期の“守貞漫稿(1853年)”によると、一般に京都・大坂の化粧は濃く、江戸は薄く、素顔も多かった。
中でも京都の官女は濃く、遊女・芸著なども上方は濃いが江戸は薄化粧か素顔もあった。
一般の庶民は普段は素顔で、晴れの日には薄化粧をした程度だったようで、薄化粧もしくは素顔でいられたのは、ぬか袋や生薬類を使った肌の手入れ法が普及していたからだと云われています。
その化粧法も、薄青色を混ぜた白粉を鼻すじの両側や上瞼に塗つてシャドーを作って鼻を高く見せたり、また、当時の紅花は最高級の口紅用材料として珍重されて、非常に高価にも関らず、紅を濃く塗って黒に近い暗緑赤色にする“笹紅”が流行したり、下唇に墨を塗った後に紅を塗って、笹紅と同じ効果出す化粧法も考え出されたりした。
また、ペディキュアなども行われていたようです。
白粉はまだまだ鉛や水銀製だったのですが、反復使用するうちに慢性毒が体内に蓄積され一種の職業病(鉛中毒、水銀中毒)として幾多の悲劇が生まれています。
日本固有の化粧として伝えられてきたお歯黒は古代から男女ともに成年式などの通過儀礼として行われてきたが、結婚と同時に歯を染めるようになり、また出産と同時に眉を剃るようになり既婚者の証とする風習も生まれた。

《明治時代以降(19世紀中期以降)》
1870年(明治3)のお歯黒は旧習であるとして、禁止令の太政官布告を契機として、次第に白歯が増えて、お歯黒をする者は減ったが、明治初期に即席のお歯黒ができるようになり再び増えたが、日露戦争の大勝以後、女性風俗も近代化の途をたどり、お歯黒人口も再び減少した。
同時に無鉛白粉の開発と舶来化粧品の輸入増、それに新聞・雑誌などによる広告・宣伝の活発化によって、化粧は一般化し、化粧品産業も基礎が固まった。
大正時代には化粧水・化粧液・乳液などの基礎化粧品を始め、香水・石鹸・歯磨など洋風化粧品がその種類を増し、大衆化した。
昭和に入るとクリームやルージュが種類をまし、更に第二次世界大戦後は、メーキャップファウンデーション・アイメーキャップ類・フレグランス(芳香製品)類・男性化粧品と、化粧品も化粧法もまったく世界共通のものとなりました。