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お題:  観掛けによらず

タバコ  [煙草]    有毒植物
分類 ナス科 タバコ属
原産地 メキシコ/アメリカ
生薬名 未設定
薬用部分
成分 ニコチン他
適用 粗製硫酸ニコチン(農用殺虫剤)の製造原料とされる
有毒部分
有毒成分 ニコチン(葉の中にリンゴ酸、又はクエン酸の塩として含有)
中毒症状 猛毒で、強烈な作用と中毒の発症が早いことでは青酸に劣らないと云われています。
神経の神経節を一過性に刺激したのち麻痺させます。
喫煙することでアドレナリンの分泌を促進し血糖値を高め疲労時に一時的に元気が出て、また、空腹感を滅退させる。
急性中毒
 軽い場合:悪心、めまい、頭痛、流涎または嘔吐、手のふるえ、下腋の        衰弱感が発症します。
 重い場合:肝臓部の痛み、下痢をきたし、冷汗をかき、脈拍頻数小細と        なり虚脱に陥ります。
 重症の場合:意識が喪失し、痙撃、呼吸および心臓麻痺をきたして死          亡します。
慢性中毒
毎日20本以上のタバコを喫っているとなり、頭痛、食欲不振、不眠、四肢震顫(特に手指)が現れます
名前の由来 英語では「TOBACCO」、フランス語では「TABAC」、ポルトガル語では「TABACO」で日本語でも“たばこ”と書きます。
西インド諸島の“喫煙用のパイプ”を意味する言葉に由来します。
タバコの歴史 <タバコの発見>
世界で最初の喫煙者は、7世紀頃の古代マヤ文明の人達で、パイプによる喫煙は嗜好品としてよりも神聖な儀式用の祭器として部族の首長が持つものとされていて、また、一般のマヤの人達は乾いた葉っぱを筒状に巻き、葉巻のようにして喫煙していたようです。
マヤ文明はやがて滅びますが、胡椒やスパイスを求めインドを目指したコロンブスは、1492年にサンサルバドル諸島に到達し、そこでコロンブス一行が原住民への友好の証として鏡や装飾品を贈ったのに対して、原住民はタバコをプレゼントしたのである。
処が、胡椒やスパイスを求めていたので、コロンブスは葉っぱには興味が無く、実際にたばこをヨーロッパに持ち帰ったのは1497年コロンブスの第2次航海船に乗り込んだ神父パネだと云われています。
<欧州への伝来>
新大陸の存在を知った欧州の人達は、新大陸に続々と渡って行ってジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシやトウガラシと共にタバコを移入していった。
最初は、嗜好品としてではなく観賞用・医療用として持ち込まれたようで、フランスの、駐ポルトガル大使のジャン・ニコが、1559年に新しい医薬としてタバコを王室に献上します。
それをカトリーヌ女王が頭痛薬として用いたことから注目され始めました。
たばこは万能に効く薬、ペストにも罹らない等という噂もたち、各地で急速に広まり始めました。
16世紀以降徐々に嗜好品としても人々の生活に入り込み、タバコを吸うことの楽しみを人々が次第に知るところとなりました。
フランスではパイプ喫煙が普及しますが、やがて貴族が煙を吐くのは見苦しいとされ、上流社会では嗅ぎタバコが用いられるようになります。
イギリスは16世紀後半に新大陸に進出し、ウォルター・ローリー卿らがパイプ喫煙を持ち帰りました。
そして、社交界では乗馬、狩猟などと共にパイプをくゆらすのが紳 士の条件とされるようになったのです。
紙巻タバコの発明は、スペイン人だと云われています。
タバコの葉を巻くものは、原住民は植物の薄い皮でしたが、スペイン人が紙に代えました。
その他に、現在のような紙巻タバコの形態は、エジプト人によって広められたという説もあります。
<日本への伝来>
大航海時代の幕開けで、タバコは世界中に広まり、スペインは太平洋を横断して1557年には、フィリピンにタバコを伝え、栽培を始めていた。
スペインと競合してアジアに進出したポルトガルはヨーロッパで最初にアジアへたどり着いたが、まだ欧州でのタバコ文化が完全に広まっていなかったためアジアへタバコを広めたのは、その後を追ったイギリスやオランダで、そのためアジア諸国にはパイプという形でタバコが広まった。
1543年(天文12年)、鉄砲が日本に伝来したとき、日本人は初めて西洋人のタバコを目撃する事になります。
日本人はその異様な光景に驚き、“南蛮人は腹の中で火を焚いとる”と云ったとか。
タバコが正確に日本に伝来したのはその半世紀後の1601年(慶長6年)フランシスコ会修道士ヘロニモ・デ・ヘスス一行が伏見で徳川家康にタバコの種子を献上したとの記録があり、これが最初と云われています。
当初は自家用として栽培、喫煙されていましたが、瞬く間に全国に広まり、元和年間(1615〜1624年)には生産物取引を目的とした栽培が行われるようになっていました。
しかし、徳川幕府はタバコの栽培によって米の作付けが減少することを恐れ、喫煙の習慣が顕在化してきた1605年(慶長10年)には禁煙令を出し、“・・・その種をうへて、専らその烟を吸ふ事風尚となり天下にあまねし、この事益少く損多きをもて、令をくだし禁ぜらる。”と徳川実紀に記述されるように度々禁煙令が出されました。
喫煙の流行はもはや阻止できなくなり、寛永年間(1624〜1644年)以降はタバコ耕作が一つの産業として発達し始め、各地でタバコ産地の形成が始まりました。
<日本での専売化>
江戸時代に、庶民の間で習慣として広まっていたタバコが、明治以降その習慣性や依存性を利用し、税を徴収する手段となってゆきます。
1894〜95年(明治27〜28年)に、日清戦争が起こり、その戦争に多額の予算を費やした政府は、財政収入を増加させるために、1896年“葉たばこ専売法”を公布しました。
これにより政府は、民営であったたばこ産業の上流部分の葉たばこを農家から独占的に買い上げ、製造業者に売るようにしました。
更に、1904年(明治37年)日露戦争が勃発し、この時も軍事費を調達する一手段として“たばこ専売法”を公布して、製造までも国営(大蔵省専売局)になりました。
たばこによる収益は、年間の国家収入の10%を占め、国家の重要な収入源となったのです。
同時期にもう一つタバコに関わる重要な法案が成立しています。それは日清、日露戦争の合間の明治33年に成立した“未成年者喫煙禁止法”で、当初は幼者喫煙禁止法案として18歳未満の喫煙を禁じる法案として提出されましたが、国威発ようの盛んな折、徴兵年齢に達する20歳までは喫煙を禁ずるように修正され可決されました。
諸外国で徴兵検査不合格者に喫煙者が多く、当時でも既に喫煙が害悪との認識があったようです。
1949年(昭和24年)、日本専売公社が発足しましたが、たばこ専売の形はそのままでした。
しかし、健康問題で販売量が伸びないなどの理由から、1985年(昭和60年)4月、専売公社は“日本たばこ産業株式会杜”という名前に変わり、民営化されることになりました。
けれども、政府が3分の2の株式を持っていて、多くの制度は、それまでとあまり変わっていません。
変わった点は、輸入販売が自由化されたこと、健康に対する注意表示を義務づけたこと、広告に対して、未成年者の喫煙防止と健康への配慮の義務をもうけたことなどです。
<梅毒の流行>
コロンブスの帰還後、新大陸で感染した遠征の船員から広まってバルセロナで流行した。
その後、1494年にフランス王シャルル八世がイタリアに侵入したさい、兵士の中に梅毒に感染していたスペインの雇用兵が混じっていて、ナポリから忽ちヨーロッパ中に広まって行った。
更に、十六世紀の初めにヨーロッパ人によって海路、広東にもたらされ、日本への伝来は1512年(永正9年)で、翌年には関東まで及んだ。
コロンブスのもたらした悪魔の土産は、ヨーロッパへ持ち込まれてから、煙草の方は日本へ到達するまでに約90年、梅毒にいたっては約20年足らずで日本中を駆け巡ったのです。
<喫煙の弊害の認識と禁煙運動>
喫煙の弊害については、意外と古くから知られていたようで、例えば
英国のジェームズ一世の“タバコ排撃論”(1603年)“眼や鼻にいとわしく、脳に有害で肺に危険な風習である。何よりもその悪臭ふんぷんたる煙は、まるで地獄から立ち上る業火の煙のようである。”
貝原益軒(1630〜1714年)の養生訓 “少しは益があるといっても損が多く病になることあり。また火災の心配もある。
習えばくせになり止めがたい。初めから吸わぬにこしたことはない。貧民には費用がかさむ。
この様に、1600年代には、既に弊害が認識されていたようですが、疫学的な調査検討がなされ始めたのは、数十年前にに過ぎません。
英国は欧州で最も早く喫煙が流行した国で、80年前から急激に肺がんの死亡率が高まったために、オックスフォード大学のドール博士は4万人の医師にアン ケートを送り、10年の追跡調査をした。
その結果、肺がん発生は、1日に35本吸う 人は全く吸わない人の45倍の罹患率であり、男性の95%は喫煙が原因であると報告した。
喫煙関連疾患が全死亡に占める割合がピークの34%にも達したのは25年前であ るという。
その後テレビでの広告禁止や禁煙運動で喫煙率は20%台に減少した。
1963年はアメリカ医師会が先頭に立ってタバコ追放に踏み出した年で、タバコ対策を柱にしたがん対策が効を奏し、全がんの死亡率が10年前から 減少し始めている。
日本では、昭和41年(1966年)から、平山雄(たけし)医学博士の26.5万人を対象 にした17年間に及ぶ追跡調査が開始され、結果が出た頃からタバコの害が広く知られるようになった。
わが国は財務省管轄のたばこ産業の健全育成を図る“たばこ事業法”がネ ックとなり今もって高い喫煙率にあり今後も肺がんは増え続けると思われる。
<未成年者喫煙禁止法の話>
1899年(明治32年)12月7日付で根元正は賛同する4人の議員らと共に18歳未満に適用する“幼者喫煙禁止法案”を共同提案した。
当時は10歳にも満たない子供が父親と喫煙する姿が彼方此方で見られ、小中学校の校内で堂々と喫煙するものまで居て社会問題となっていた。
真さに日本は、たばこの専売制度を敷き、依存性の強いたばこに税収を見込んで居たところであった。
根元正は煙草官業は非なりとの演説も行なって居る。
根元正は国会での議論の論理の展開上、徴兵するときに強い兵隊がとれない、という富国強兵を論拠の柱とした。
しかし、根元正の本心は皆の健康、特に未来を担う子供の健康と健全な育成を、心から望んでいたようです。
翌年の1900年1月25日、20歳未満の喫煙を禁止すると対象年齢を引き上げて提出された“未成年者喫煙禁止法案”は衆議院を通過し、同2月20日には貴族院でも可決となり、3月8日に未成年者喫煙禁止法は発布され4月1日から施行となった。

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