一貫種とは、アルカロイドを多く含むように、大正時代の中頃までにに日本で改良された品種で、生阿片が一反(300坪)の畑から一貫目(3.75Kg)弱のの生アヘンがとれるとされる事から一貫種と名付けられた。 何故、日本で品種改良を進める必要が有ったのでしょうか。 阿片戦争後の清の国力の衰亡と、それに乗じた欧州列強による清の領土割譲競争により、日本を取り巻く環境は厳しいものがあり、その危機感が討幕運動と開国・近代化を推し進めるエネルギーとなり、また江戸城の無血開城による穏便な政権移譲を成し遂げさせた。 その後、明治政府は近代化と富国強兵策を取り、欧州列強の立ち入る隙を与えなかったのみならず、欧州列強の仲間入りを果たすべく、朝鮮半島への侵略を目論み始めていたとき、朝鮮半島で起こった東学党の乱(甲午農民戦争:李王朝の政治の乱れや圧政に反抗した韓国全土を規模とした農民一揆)鎮圧のために韓国政府の依頼で清が出兵したのに対し、日本も居留民保護などを名目に出兵し鎮圧後、日本は朝鮮内政共同改革を清国に提案して拒否される。 これが切っ掛けとなり、日清戦争[1894(明治27)年〜1895(明治28)年]に突入する。 下関条約の締結で 清が朝鮮の独立を認める 遼東半島、台湾、澎湖島の日本への割譲 清は日本に対し、賠償金の支払い により、日本は大陸への足掛かりを得た。遼東半島の支配権をめぐり、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉の結果、日本は遼東半島を放棄する。 ところがロシアは遼東半島租借の権利を清との条約締結1898年(明治31年)し、ロシアとの利害が対立する事になり、日露戦争の素地ができた。 この結果、清朝の弱体ぶりを世界中に示す結果となり、清は国論を二分し、外国人の排斥運動が発生、ドイツ大使の殺害が契機とし、北清事変(義和団の乱:1901年/明治34年)が勃発した。 清朝が義和団の行動を支持したたため、この鎮圧は、欧州列強+日本対清朝の戦争となった。 北清事変での日本の活躍は、日本の強さを欧州列強に強く印象付けることになり、後の日英同盟成立にこの事は大きく貢献した。 方やロシアは北清事変(義和団事件)を機に満州に15万の兵を送り、事件後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出をもくろみ、その次は日本かと危機感を持った日本は、ロシアとの外交的解決を求め交渉したが、ことごとく無視され一触即発の状態になった。 この様な状況下で、日英同盟が1902年(明治35年)に締結され、日露関係は大きく変化した。 日本はロシアに対して”協商案”を提出した。その概要は”日本は朝鮮に権益をもち、ロシアは満州に権益を持ち、互いに犯しあわない”と言うものであったが、ロシアは”朝鮮の39度線以北を中立地帯にしたい”と、要するに朝鮮の北半分は、ロシアの主権下に置くと返事してきたのです。 これに絶望した日本は、1904年(明治37年)年2月に国交を断絶し宣戦布告した。 旅順や日本海海戦などで勝利し1905年(明治38年)年9月にアメリカの仲介でポーツマス条約を締結し、朝鮮における日本の政治・軍事・経済的優越権、ロシアの遼東半島租借権、北緯50度以南の樺太の日本への割譲などで、朝鮮半島、大陸への足掛かりを得、また、ロシアの南下政策を阻止したのです。 清国は、日清戦争、北清事変の相次ぐ敗北によって多額の賠償負担や長期に渡る外国軍の駐留権を承認することになり、弱体を極めた清朝は孫文による辛亥革命により1912年(大正元年)に268年に及ぶ中国支配の歴史を閉じたのです。 日本は、1905年のポーツマス条約にもとづき、日本軍を守備隊として朝鮮や中国に派遣し大陸での利権を拡大していったが、清朝の崩壊による中国の混乱に乗じて益々干渉を深めた日本は、政府内部や軍部内部での大陸経営の主導権争いで、幾多の組織変更が行われ、1919年(大正8年)に関東都督府(かんとうとうていふ)の廃止と関東庁創設にともない関東軍司令部が新設され、在中国陸軍全部隊を統率し、関東州の防衛および南満州鉄道の警備にあたることとなり、ここに関東軍が誕生した。 中国での利権漁りに傾斜していった日本は、関東軍の暴走を制御できず、中国での諜報・謀略に膨大な裏資金が必要となり、また、日本の民間人による一獲千金を狙った進出で、政府・軍隊・民間が阿片やモルヒネの密輸・密売に手を染めて行ったのです。 当初、阿片は東アジアからの密輸入にて賄っていたが販路が確立するに従い、日本国内での生産もされた。生産効率を上げるため品種改良が行われ、その結果生まれたのが”一貫種”です。 その後、中国大陸での支配力を強めていった日本は、それに合わせる様に朝鮮・満州・北支へと”一貫種”の栽培地を拡大していきました。これは第二次世界大戦終了まで続いた、日本軍国主義の醜い裏面史の一つなのです。 その後も”一貫種”は、不幸な道をたどります。 北朝鮮で大規模なケシ栽培が行われ、阿片の密輸出や日本への密売疑惑の、報道がなされましたが、テレビ報道などで紹介されたケシ畑で栽培される品種は、わが国で開発された”一貫種”であった。 皮肉なものですが、”一貫種”の牙は、旧日本軍国主義の遺産として、現在の日本に向いていたのです。 |