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お題:  奇怪

ホトトギス  [杜鵑草]
分類 ユリ科 ホトトギス属
名前の由来 白地に紫の斑点が、ホトトギス(鳥)の胸〜腹の横縞模様に似ているから名付けられたと云われます。
この種は、大きく“杜鵑斑系・黄花系・上臈系”に分けられ、そのうち上臈系を除き、若葉が展開した頃の葉の表面に油を垂らした模様が入るので、これらの総称として漢名では“油点草”と書きます。
【ホトトギスに因んだ話】
我々の先人達は大層、鳥(カッコウ科ホトトギス属)のホトトギスがお好きと見え、万葉集には153首もの歌が収載されていたり、枕草子(清少納言)には“花より団子”のような“杜鵑より蕨(わらび)”の話が載っております。
また、啼き声は“トッキョキョキャキョク、トッキョキョキャキョク”と繰り返し啼き、最後は“トッキョキョ”で終わるのだそうですが、その聞き表しは
“テッペンカケタカ・オットオッチャケタオオタカチョウ・ホットンブッツァケタ(腹ぶっ裂けた)・ホンゾンカケタカ(本尊かけたか)・オトウトタベタカ(弟食べたか)・オトトコイシ(弟恋しい)・トッキョキョカキョク(特許許可局)”などと色々あるそうです。
ホトトギスに充てる漢字も沢山あり、杜鵑・霍公鳥・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂・郭公・蜀鳥・杜魄・盤鵑などがあります。
このように沢山の漢字が充てられるのは、中国の次の様な故事に因ると云われます。
“蜀の国が衰退して荒れ果てていたのを見かねた杜宇が農耕を指導して蜀を再興し、彼は帝王の座に着き望帝と称した。
望帝杜宇は長江の氾濫に悩まされたが、それを治める男を取り立て宰相にした。やがて、彼は帝位を譲られ叢帝となり、望帝は山中に隠居した。
望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスとなり、生前、得意とした農耕を始める季節(春〜初夏)が来ると、それを民に告げるため、杜宇の魂化身ホトトギスは鋭く鳴くようになったと云う。
時が流れて、蜀は秦に攻め滅ぼされた。
それを知った杜宇ホトトギスは嘆き悲しみ“不如帰去(帰り去くに如かず:帰ることが出来ない)”と鳴きながら血を吐いたので、口が赤く染まった”
ホトトギスを不如帰、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀鳥、杜魄、蜀魄などと表記されるようになったと云われます。
この故事の影響を受けた、日本の文学があります。
“ホトトギス(俳誌・1897年創刊)”を主宰した正岡子規は、本名を正岡常規(松山市新玉町で1867年に誕生)と云い、16歳で上京し帝大国文科に進学、22歳で肺結核を発病し吐血。
この吐血から、中国の故事に因んでホトトギスの表記の一つ“子規”と号するようになった。
その後、俗化した俳句の革新に努め主宰した同人誌にも自分の吐血に因んだ題名を付け、35歳で亡くなるまで多くの俳句や俳論を残した。

“不如帰(徳富蘆花)と金色夜叉(尾崎紅葉)”は明治の大衆小説の双璧です。
その一方の不如帰(国民新聞に明治31〜32年連載)は、蘆花と愛子夫人が逗子に逗留しているときに、病後保養に来ていたある婦人から聞いた、一つの哀しい悲恋の実話(三島通庸の息子弥太郎と大山元帥の娘信子のこと云われる)をもとに書かれたもので“結婚して幸せだった海軍少尉川島武男と、妻浪子であったが、浪子が結核にかかってしまう。
それでも二人はお互いの変わらない愛を確かめ合うのだが、武男が出征中に結核を理由に姑に離縁され、実家に引き取られ療養するのだが、療養の甲斐も無く死期を迎える浪子の「もう婦人(おんな)なんぞに生まれはしない」と云う最後の叫びは、真に“鳴いて血を吐く”思いから小説の題名“不如帰”が付けられました。
この小説が、評判となり“日露談判破裂して、日露戦争始まった...”のメロディで歌う数え歌に、この悲恋が歌い込められました。この歌詞は、幾種類もあるのですが、次のものは、その一つです。
一番初めは一の宮
二は日光の東照宮(とうしょうぐう)
三は佐倉の宗五郎(そうごろう)
四はまた信濃の善光寺
五つ出雲(いずも)の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様(ちんじゅさま)
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮(はちまんぐう)
九つ高野(こうや)の弘法様(こうぼうさま)
十で東京招魂社(しょうこんしゃ)
十一心願掛けたなら
浪子の病は治らぬか
ごうごうごうごうなる汽車は
武雄と浪子の別れ汽車
二度と逢えない汽車の窓
鳴いて血を吐く、ほととぎす

万葉集(600〜759年を収載)には植物のホトトギスは、一首も詠われていません。何故でしょうか?
判りませんが。
現在でも使われている“霍公鳥”が用いられ、その読み(万葉仮名)も“保等登藝須、冨等登藝須”と書き
“ホトトギス”と読むことも、奈良時代に確定していました。
【皆人之 待師宇能花 雖落 奈久霍公鳥 吾将忘哉】 作者:大伴清縄
“皆人の、待ちし卯の花、散りぬとも、鳴く霍公鳥、我れ忘れめや”
【敷治奈美能 佐伎由久見礼婆 保等登藝須 奈久倍吉登伎尓 知可豆伎尓家里】 作者:田辺福麻呂
“藤波の、咲き行く見れば、ほととぎす、鳴くべき時に、近づきにけり”
【冨等登藝須 奈保毛奈賀那牟 母等都比等 可氣都々母等奈 安乎祢之奈久母】 作者:元正天皇
“ほととぎす、なほも鳴かなむ、本(もと)つ人、かけつつもとな、我(あ)を音(ね)し泣くも”

“春はあけぼの”で始まる枕草子は一条天皇の中宮・定子(ていし)に仕えた清少納言が書いた随筆で、紫式部の“源氏物語”と並ぶ平安時代の女流文学の双璧をなします。
全部で三百二十三編ありますが、ホトトギスより蕨(わらび)の話は、宮廷生活を書いた数少ない作品の一つです。
『五月のある日(今の六月中〜下旬)、清少納言は中宮にホトトギスの声を聞いて歌を詠みたいと願い出て許しを得、他の女官たちと牛車に乗って都の北賀茂川上流へ出かけました。
遥々来た甲斐あって、ホトトギスが鳴きながら飛ぶ姿を見ることができました。
御所に帰る途中、中宮の叔父・高階明順の別荘に立ち寄り、ここに咲いていた卯の花を頂戴し、皆でホトトギスの歌を詠もうとしていたところに、明順が「これは私が自分で摘んだ蕨ですよ」と云って、春に摘んでおいたワラビの煮物を出され、これが大変美味しかったので、つい長居してしまい。
五月といえば、梅雨の真っ盛り。
梅雨空の中を出かけたので、空が次第に暗くなり雨が降りそうなので、急いで御所に帰りました。
それから二日ほど過ぎても、女房たちがホトトギスの歌を披露せず、ワラビの美味しかった話ばかりしているので、中宮はあきれて手元にあった紙に“下蕨こそ恋しかりけれ”と下の句を書いて、清少納言に「上の句を付けなさい」と云いました。
清少納言は即座に“杜鵑たずねて聞きし声よりも”と書き加えて差し出しました。
これを見た中宮は「よくもまあぬけぬけと言ったものですね」とお笑いになりました。』
この話は長徳四年(998年)の出来事と云われています。
このように先人達はホトトギスの啼き声に魅せられていたようですが、それだけではなく鋭い観察眼をも持ち合わせていました。
万葉集には
“うぐいすの 卵の中に ほととぎす ひとり生まれて 汝が父に 似ては鳴かず 汝が母に 似ては鳴かず 卯の花の咲きたる野辺ゆ ...”作者:高橋虫麻呂 (巻9−1755)
と詠っているように、ホトトギスがウグイスに託卵しホトトギスのヒナがウグイスの卵やヒナを巣の外に排除して、ホトトギスのヒナが仮親のウグイスに育てられている様子を詠っています。
また、漢名の霍公鳥の意は“雨の中を飛ぶ鳥”だそうですが、実際の雨でなく、胸の斑点が雨粒に見えることに由来しているようです。

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