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お題:  素朴

フタバアオイ  [双葉葵]
別名 カモアオイ(賀茂葵)
分類 ウマノスズクサ科 カンアオイ属
名前の由来 同科同属のカンアオイに似ていて葉が二枚対生することによります。
別名のカモアオイは、京都の賀茂神社の祭礼に使われるためです。
漢字の“葵”は中国ではヒマワリのことを指し、漢字の誤用です。
徳川将軍家
     の紋
元々、葵紋は加茂神社の神紋(双葉葵)でしたが、加茂信仰の広がりと共に武将達の家紋の図柄として取り入れられていったと思われます。
三ツ葉葵の家紋は、このフタバアオイの葉を3枚組み合わせてデザインしたものと云われていて、どの様な経緯で生まれたのでしょうか。
徳川(松平)家の家紋は代々三ツ葉葵で無かった可能性があり、浄久寺(愛知県豊田市)の三代・信光の墓所や松応寺(愛知県岡崎市)の家康の父広忠の墓所には剣銀杏紋が刻まれています。
室町時代の“見聞諸家紋”によれば三河国の松平・本多・伊奈・島田氏らが戦国時代前期ころから葵紋を用いていたともありますが、その図案は不明です。
また、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがあり、これは三代・信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に“願主加茂朝臣信光生年二十六歳”とあるので、このことから、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた可能性もあるが、その葵紋は二葉か三葉かは分からないし三代・信光の墓所の剣銀杏紋とも矛盾します。
更に、松平氏が清和源氏の末裔で新田氏を祖とするというのが真実ならば、家紋は大中黒または一引両であるはずで、 何故1566年に家康は朝廷に願い出て、松平から徳川に復姓した時に、三ツ葉葵に変えたのか、家紋の謎は、そのまま出自の謎にもなります。
こういったことから、私見ですが家康が天下を取れる状況が定まった頃から、家紋や徳川姓についての構想を持っていたのではないかと思うのです。
いくら家康と云っても縁も所縁もない家紋を使うはずは無いので、松平家が過去に葵紋を家紋とした可能性の由来として次の説があります。 
その一、家康の祖父・清康が三河田城主の戸田氏を攻めた時の戦勝祝いを伊奈城主の本多正忠が行った際に、祝いの趣向として庭に生えてた水葵を敷いて肴を清康に差し出したところ、清康が大層喜びし、この後、
本多家の三ツ葉の立葵紋(先祖中務光秀が京都加茂神社の社職であったことから家紋にしたと伝えられています)を家紋とした。
随念寺(愛知県岡崎市)にある清康の肖像画には立葵の紋が描かれています。(これが最も広まっている説です)
その二、酒井家は松平氏の祖・親氏が最初に婿入りした家であると云われていて、酒井家は代々加茂氏族であることから元々は酒井家の家紋が葵紋であったものを松平氏が流用し、主家に遠慮した酒井家が剣片喰紋に変えた。
その三、先にも触れたように、三代・信光が加茂朝臣を称していたことから、松平氏自体が加茂氏族で、もともと葵紋を使用していた。
<三ツ葉葵紋の使用制限>
家康は使用を厳しく制限していたと思いがちですが、そうでもなかったようで、法度として制限を明文化したのは、吉宗の時代(享保8年1723年)のことです。
この制限を明文化したのも正徳3(1713)年の武田掃部助や享保8(1723)年の山名左内による“三ツ葉葵”紋付きの衣類を着用しての取り込み詐欺事件が有ったからと云われています。
むしろ、武家の棟梁たる徳川将軍家にゆかりがあると云う証である“三ツ葉葵”の紋の使用を避けるのは当時の大名等の武士の常識として当然であり、幕府が使用制限するまでも無かったようです。
葵祭り 上賀茂、下鴨両神社の例祭で、祇園祭、時代祭とともに京都の三大祭に数えられています。
平安時代には、祭りと云えば葵祭と云われるくらいに盛況だったようで、源氏物語や枕草子など平安文学にもたびたび登場します。
<起源>
古墳時代後期の欽明天皇(540〜571年)のとき、凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延したため、天皇が上賀茂神社と下鴨神社に勅使を遣わし“鴨の神”の祭礼を行ったのが始まりとされています。
<名前の由来>
内裏神殿の御簾、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵(フタバアオイ ウマノスズクサ科カンアオイ属)の葉と桂の小枝で飾ることに由来します。
<祭の内容>
“宮中の儀、社頭の儀、路頭の儀”の三つの儀式からなりたっていましたが、現在は“宮中の儀”が省かれており“社頭の儀”がもっとも神聖な儀式で、下鴨神社、上賀茂神社の前で、勅使の御祭文の奉納、東遊舞の奉納などが神前で行われます。
“路頭の儀”と云うのは、京都御所を出発した勅使一行が下鴨神社、上賀茂神社に奉物をもって行列することを指します。
葵祭一番の見どころの儀式で、平安装束の着付けのほか、牛車や諸調度品など当時の風俗を忠実に再現した行列が、京都御所から丸太町通、河原町通を抜け、下鴨神社を経て鴨川沿いの加茂街道を北上し、上賀茂神社まで練り歩き、平安の王朝絵巻が艶やかに再現されます。
その行列の構成は四列から構成されていて、
第一列は、京都の警備や司法に当たる“検非違使(けびいし)”、山城国を治める文官の“山城使(やましろづかい)”と従者達です。
第二列は、御幣物を担ぎ供奉する官人“内蔵寮史生(くらりょうししょう)”や走場に関わる“馬寮使(めりょうづかい)”、その後に紫の藤の房とカキツバタの花で飾りつけた“牛車”続いて雅やかさを演出しています。
第三列は、天皇の使いで行列中の最高位者である“勅使”と勅使に従う“舞人(まいうど)”が続きます。
第四列は音楽を奏する“陪従(ばいじゅう)、内蔵使(くらづかい)”、花々で装う“風流傘”が続き、最後に、行列の一番の目玉である斎王列に十二単姿で腰輿(およよ)にのる斎王代に女人がつき従います。
行列の総勢は500名、馬36頭、牛4頭にもなり、列の長さは1Kmにも及ぶようで、豪華絢爛なものです。
<祭りの盛衰>
平安時代中期には、祭りと云えば葵祭を指すほど隆盛を極めたのですが、鎌倉、室町時代には衰退が始まり、応仁の乱以降は行われなくなってしまいました。
江戸時代の元禄期に再興され、その後続いたが、明治2年の東京遷都で行列は中止となり、京都活性化策として明治17年に復活されたが、第2次大戦で中止され社頭の儀だけが続けられていまた。
戦後、行列が巡行するようになったのは昭和28年からで、斎王代の登場は昭和31年からで、現在に至ります。

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