一掴みの藁のウィリアム



 厳冬の冷徹な空気の聖堂の中を兀り々々と靴音が響いていた。石造りの灰色の聖堂は仄暗い。関口は椅子の間にそっと身を潜める。如何なる暖房器具も無い此処では呼吸が白い煙幕を張る。だから息を潜めた。
 今日は賛助会員の人々が来るからと小綺麗な格好をさせられて、無理に履かされた革靴は跫に合っていなかった。
日頃温和しい癖に時折酷く大胆な関口は賛助会の集まりに出たくないと、講堂へ集合を掛けられた処で逃げ出した。あれだけ同じ歳頃の子供がいたのだから自分一人がいなくなっても誰も気付かないと思ったのだ。
だのに――跫音が聞こえる。
その音が関口を追い詰める。次第次第に近くなるその音に耳を塞いで、更に息を殺した。指の先が冷たい。
恐らくは酷い叱責を受けるのだ。怖くて堪らない。此処の修道女たちは兎角厳しい。嗚呼何故こんなことに。ただいつもと違うことは跫音が修道女たちのものではなく聞こえるように聞こえる。もっと重みのある音だ。その音の主の体重も、靴自体の質量も。
森閑とした聖堂。司教が朗々と響くその空間に響き渡る靴音。そして心臓が瀑り瀑りと大きく動いて聞こえていた。耳の後ろの血管が肥大したかのようにも思えた。
やがてその音が已んだーー


 何故此処で暮らしているのか解らない。が解らないなりに他に道が無いことも解っているので、関口は出来るだけ従順に過ごしている。繊い雨が音も無く外界を埋めていた。殆ど白く、それは烟るようだった。
関口は緘黙とした秋霖の中、榎木津邸の図書室で本を読んでいる。正方形をした部屋には四方に天井まで届く書架が壁を埋め、部屋の中央に書き物机と相向かうように革張りの長椅子に跫許には毛の長い絨毯が敷かれている。書架を刻むように窓と出入り口、暖炉が設置されていた。
少し寒いと思うのだが、暖炉には火は無い。未だ十月も半ばを過ぎたばかりなので当然のことだろう。襯衣に半袴にズボン吊り、長靴下と紐の無い革靴は彼の飼い主が好む姿で殆どの場合同様の恰好で関口は過ごしていた。
頁を捲る手が震える。そして口腔に溜まった唾液をゆっくりと嚥下すると、面白いかな、と声が降ってきた。
優しい声音だとは思うのだが、いつも緊張するし、彼に対して誠実でなければならないと思ってしまう。関口は紙面から顔を上げ、振り仰ごうとして跫が浮いて声を上げた。
「うわあっ」
快活で明朗な笑い声に、関口の頬が紅潮した。
「そ、総一郎さん!」
見ればその洋猿のような大きな目には水滴が溜まって滲んでいる。
「おやおや赤らザルだ、」
すわ怪我でもしたかと彼の全身を眺めやったが瑕は無い様子だった。
「な、なんでもないのです。ただおどろいただけで、」
視界が滲み、その腕に抱え上げられると、関口は恐々と幼い腕を自分の庇護者の肩へ掴まった。背広の肩部は外界の空気を吸って冷たかった。鼻を擽る香辛料な艶めかしい芳香がする。それは総一郎の纏う薫香だった。
あれあれ、そう言って総一郎の大きくて柔らかな手が関口の手を撫で下ろした。官能を誘うそれに関口はジンと躰の痺れを憶える。それを抑制するように脣を噛んだが眸子は潤んだ儘だった。
次いで、総一郎は屈み床から先刻まで関口が耽っていた書籍を取り上げた。
「真夏の夜乃夢」
様々に関口と言う幼児は概ね鈍重な反応だったが、物事への理解は寧ろ平均よりも良いようで、書いてあるものがあれば読解して行っていた。
「未だ読んでいたんだね」
と訊くと前髪に表情を隠すように関口が頷いた。
 榎木津総一郎は華族の嫡子として成人して久しく、一族の総帥である父の社会的名誉の幾つかを肩代わりしている。耶蘇教会が運営する孤児院の賛助会に列席することもその一つだったが、毎回異教の司教の説教なぞ退屈でしかなった。
 半年前の冬、賛助会の会合で、講堂に集められた子供たちの賛美歌を前に脱兎と逃げ出した仔猿を見たときには天啓であるかと思った程だった。
仔猿を追って、聖堂へ跫を踏み入れると石造りの床は靴音を能く響かせた。椅子の並ぶ身廊を円形大屋根を持つ内陣へ緩やかな歩調で進む。酷く震えているようで、その僅かな振動を聴覚が捉え、何処に手負いの獣がいるかなぞ明白だった。
小動物が椅子の下で横たわり丸まっているのを掬い上げると、蒼白な顔をした手負いの猿は、くったりと気を失った。
 抱え上げて講堂とは別室で修道女から話を聞くに、此処に籍を置くのは親を亡くした子供やと育てきれないと手放された子供など一つの場合に当て嵌まらないと言う話だった。関口巽と云う男児はその例で上げられた後者の類だ。膝に抱く彼を更に寄せて、孤児院の講堂に戻る頃には彼の庇護者になることで気持ちが決まっていた。
 あれから関口巽と言う幼児は総一郎の養い児ではあるが、仕事で留守にする時には実家に預けていた。自然、総一郎と共にあるよりも榎木津の家にいる事が多く、総一郎と歳の離れた弟とは年齢が一学年分違うだけである為随分と親しくなったようで、気が付けば関口は礼二郎を「エノさん」とよんだ。
近くの長椅子に腰を下ろすと、肩を掴んでいた手を関口は外した。だけれど膝の上から中々下ろされないことに周章しているようだった。
「あの、おろしてください」
「厭だよ。久々の逢瀬じゃないか」
そう言って関口の下睫毛に溜まった涙を指の腹で拭った。
「それよりも帰宅を喜んでは呉れないのか」
「あ、」
漸うと気付いたようで関口の顔は朱に染まり、額に小さな汗が浮かんだ。
「ごめんなさい」
「いいよ。他の事に気を取られて蔑ろにされたとは思わない」
「あの、あのっ、」
恨み言のような総一郎の言に関口は周章しきつく目を閉じて、「おかえりなさい」と蚊の鳴くような声で告げた。 「うんただいま。恨み言ばかりを並べていたら嫌われてしまだろうね此処までにしよう」
関口は頭を振る。
常に迷う。総一郎は関口を手元に置いて養育をしてくれている。感謝もあるし、多分に親愛の情もある。だけれど、何処までそれを表現して良いものなのか。恐らくは総一郎に取って関口なぞ愛玩動物にも似たものに他ならないだろう。
つまりは、寂しかった――。と、それを言葉にして良いものなのか、解らない。
関口が逡巡を重ねていると、総一郎は関口の額から前髪を掻き上げるように頭を撫ぜた。
「お土産があるよ」
関口を再び抱き上げて、総一郎は図書室を出た。連続する硝子窓から望む外界は木立が並び、或いは色付き或いは葉を落とし秋の色を濃くし始めていた。
次第次第と総一郎の目地まで手入れの行き届いた光沢のある革靴が邸の奥にまで進んで行く。常ならば主家の人々が目にすることの無い領域だった。 「総一郎さん、こっち入っては駄目だとおしゃったではないですかぁ」
そう家政を取り仕切る安和に聞いていた。
「僕の入ってはいけない場処が此の邸内にあるとは思えないけれど」
関口の周章を一笑に伏して突き当たりの戸を開ける。整然とした台所が其処にはあった。広い部屋だ。竈と洗い場と作業台。大きく区分すればその三箇所となるだろうが戸棚も数多にあり、調理器具が壁に掛けられてもいた。
嘗て関口が一度だけ調理現場を見学した折には沢山の人が行き交っていたが、今は誰も居ない。
部屋の端に簡素な正方形の卓子と椅子が四脚あった。賄いをする場所なのだと安和が教えてくれた。
総一郎に抱えられたまま、関口は一声鳴いた。
「――蕪菁、」
卓子の上には白く丸い蕪菁があった。緑の葉を伸ばし真白く横皺を持ち、所々髭が生えていた。その周囲には包丁や蚤、木槌と言った些か物騒なものがまるで神への供物の如く備えられていた。
「お土産だよ」
東京についてすぐに神田須田町の市場に行ったのだと総一郎は関口に告げた。
「おぼえていてくれたのですね――」
「当たり前だろう」
背広の上衣を脱ぎ襯衣の袖を捲る。細いのに筋張った白い皮膚をした腕が現れる。
「しかしお竈さんに来たのは初めてだな。関口くんのお陰だね」
そう言って雄雛が艶然とした笑みを刻んだ。恐らくは関口の無謀な懇願さえなければ、次代の惣領たる総一郎は此の家の台所なぞに跫を踏み入れることさえなかっただろう。


 出国前日に総一郎は関口を連れて榎木津本邸へ遣ってきた。長期の仕事や用事がある間は関口は実家へ預ける手筈になっていた。総一郎が実家で用事がある場合関口は一人で図書室に置かれている。
榎木津はその殆どが大人で構成されているため、家内は人がいるにも関わらず静謐が保たれていた。
 十月を迎え、雨の降る日が多くなっている。鈍色をした外界とを隔てる細長い窓の硝子には数多の雨垂れがあった。先月まで茹だる暑さに閉口していたのに、今では僅かに膚寒ささえ感じるのだから季節の移ろいは残酷だ。
関口は総一郎の弟が来ないか怯気怯気していた。否、期待であるのかもしれない。彼は関口を掻き乱す――。あれほど美しい子供に出会ったことなぞ無かった。雑多に人が入り乱れる孤児院にさえ居なかった。凡百の中に無い顔貌。恐らくは成長するに連れ、益益精悍となり、更に己れを掻き乱すことは予想できた。
 雨滴を聞きながら、関口は胸の辺りの襯衣を握りしめた。
「関口くん、」
優しい声音が降り注ぐ。いつのまにか紙面から目を離し、関口は朦りと雨許りを眺めやっていたらしい。
「外がどうしたんだい」
いいえ、と弱々しく応え俯くと紙面に円い染みが出来た。
時々この子供は情緒が不安定になる。だからそうしたときに総一郎が出来ることは抱き寄せることだった。引き取った当初、否、現在も関口巽が嫌がったことは、触れ合いだった。握手も手を繋いで歩くことも、抱き寄せることなぞ論外だ。大凡、子供の時分に肉親から受ける多くのことを彼は拒否していた。それはつまりは、棄去された子供に他ならないのだろう。関口は孤児院に預けられたが、その下の弟は親の庇護下で育っていると言うのだから。
「総一郎さん……どうしようエノさんが……エノさんが、」
言葉尻が滲んだ。瞬きに寸暇目を閉じると斑々と涕泣した。
「あれあれ、」
混乱する関口の意図を紐解こうと総一郎は手を伸べ其の儘革張りの長椅子に腰掛け膝の上に引き上げた。あれほど嫌がっていた触れ合いを少しずつ受け入れるようになって来ている。それを見る度に総一郎の脣には笑みが刷かれた。
「礼二郎がどうしたのだい?」
声音が甘く関口の耳朶に触る。
「エノさんを……か、かくさないと……」
 彼は――、最初に会った時から弟に夢中だった。見蕩れたあの様は何度思い返しても愉悦に入るものであるし、時々自然と再現されているのを目撃しては笑みが已まない事象であった。
総一郎は人が恋に落ちる瞬間を見たのは初めてだった。
弟も何くれと関口に悪戯を仕掛けたり、意地悪をしたりして面白がっている。総一郎の養い児に夢中になっていると言い換えも可能だろう。弟自身に何処までの自覚があるのかは知れないが、惹かれているのだ。
 初めて関口巽を目にした時に総一郎は彼の資質に気が付いた。関口巽と言う少年と言うにも未だ幼い男児は、人の加虐性を呼び覚ます。馨しいまでの被虐性を備えていて、対峙する者は庇護するか殴りつけるか。いずれにしても呼び覚ますのだ、己ですら未だ出会った事の無い、未知の属性を。
実弟も幼くして気付いている。総一郎は北叟笑んだ。
「隠す、とはどういうこと?」
「こ、今月の終わりが何であるのか知っていますか」
「十月の終わり……。晦日か。観月会も終わっているし、さて天長節のことでは無いね」
しかし此の幼児と天長節に何の因果があるものか、総一郎は関口の顔を覗き込む。凝乎っと熟視めていると、次第次第と顔が再び紅潮したので、思わず笑いを吹き出して、それを霧散させた。
「えと……あのぅ、せいようのおまつりがあるとここのほんでよみました。ようせいやあくまがこちらにやってくるって」
「嗚呼……幽世と現世が曖昧になると言う、慥か――ハロウィーンだね」
諾、と神妙に関口は頷いた。
「エノさんを隠してください。おねがいします」
余りに必死な様子に、総一郎は頸を傾いだ。
「何故礼二郎を隠さなくては為らないのか教えてくれないか」
総一郎が長椅子の座面に置いた沙翁物語十種を関口は指さした。
「ウイリヤム・セキスピアだ」
「おやしきに来てからずっとセキスピアをよんでいたのですが、」関口は榎木津の本邸をおやしきと呼んでいた。「ようせいはうつくしいこどもをとりかえてしまうんです!」
それは記憶にあった。夏の夜の夢の一部分の筈だ。
「諾……あの戯曲か。しかし物語の季節が」
違わないだろうか、そう続けようと思った処で酷い音を起てて図書室の扉が開いた。
「セキくんっ! むかえにきてやったぞ」
「エノさん」
怯気りと関口の躰が竦んだ。その幼くも秀麗な顔が呆れたものに変わっていた。
大股で傍へ寄ってくると、関口の腕を引いた。膝の上からずり落ちそうになるのを、総一郎は引き留めた。すると丸く薄紅色の頬をした幼い弟が総一郎を睨み付けた。
「セキをはなせ」
小さな身なりから滑稽なほど威圧的な態度を取る。
「乱暴だね。関口くんに嫌われるよ」
「僕を嫌うなんて有り得ない。セキくんは僕のげぼくなんだぞ。第一勉強が終わったら遊ぼうと約束をしていたんだ。ここで待っていろとも。だから、あんたがセキをはなすべきだ」
「久闊を除すに最適な言葉ではない気がするよ。それに『あんた』ではなく『あにさま』だろう?」
礼二郎は眼を眇める。幼くとも迫力があった。
「あんたなんかあんたで充分だ」
セキ、と礼二郎が手を伸べる。先ほどの総一郎のように。だけれど、一瞬総一郎の顔を伺った関口の目は揺れていた。
彼は弟に惹かれていることを恐れている――
総一郎は関口を抱える手を解いた。そして行って来いと頷いた。二人が図書室の扉の向こうへ消えるのを眺めやっていた。
「礼二郎は僕に関心を向けてくれても良いのじゃないかな。明日には出国してしまうのに」
そう嘯いて笑みを隠す。庇護すべき二つの存在が睦まじくしているのは望外の悦びだった。第一、関口を自分の下僕であると宣言する弟は『取り替え児』と言うよりも妖精の王たちのような傲慢さではないか。


 白い襯衣にウェストコートとスラックス姿に黒革の手袋を填めて、蚤を握った総一郎は実に器用に蕪菁の中を伽藍洞に刳り貫き、扁桃形の眸子を持たない眼と歯を持つ口を造形して見せた。跫許や卓子の上には削られた白い剥片が多量に散らばっていた。
それは大きさと言い、鼻を削ぎ落とされた人の生首に良く似ていた。
「さあ、これを護符のように持って宵待ちをすると良い。そうすれば悪魔も妖精も近づかないだろう」
礼二郎が盗られることはないよ――
そう囁くと関口の頬に薄紅色の喜悦が拡がった。
「総一郎さん!」
「今日は私の処に帰らずに此の家に泊まろう。君は礼二郎と一緒に居ると良い」
それを聞くと関口は人の生首に近似したその角燈に頬を寄せた。
「ありがとうございます」
狗を払うように手を振ると関口が頭を下げて台所を出て行った。自分以外が居なくなった台所を眺めやる。森閑と整然としていた。清潔感がある。跫許のタイル張りの床は良く乾かされ今は白茶けて見えた。
 手袋を脱ぐと、上衣を探りシャルル・ジャコーのシガレットケースと燐寸を取り出す。拇指でケースを開けて居並ぶ紙巻きを引き出して口に咥え、燐寸の火を近付けた。紙巻きと葉が焦げる芳しさが鼻腔を擽る。何かを成し遂げた後の一服は殊更に美味い気がする。関口の笑顔を思い出すと脣が緩み、やがてゆっくりと紫煙を吐き出した。


「エノさん」
「んー」
呼び掛けると将棋盤を睨んだ礼二郎が生返事をした。総一郎の帰還を心待ちにし浮ついていた関口に、礼二郎はずっと不機嫌だった。不機嫌な儘、勉強の時間を過ごし、漸うと解放されて、今は三人で打つ将棋の開発に余念がないようだった。
そうした遊び事が得意でない関口は膝を両脇に崩して膝の上に角燈を置いたまま、礼二郎の反応を凝乎っと待っていた。
どれほど時間が経ったのか、礼二郎は関口の膝の上のものに気が付き秀麗な眉を顰めた。
「なんだそれは」
徐に手に取り蕪菁だと言うことに気が付くと礼二郎は喜んだ。
「これ、被れるンじゃないのか。セキ被ってみろ」
「え、」
「丁度良い仮面だな」
「ちょ、ま待ってください。エノさん、これ角燈なんです」
十月の晦日である今日の説明を関口は辿々しく伝えた。故に今日は此れに燈を入れて一日中起きているのだ。庚申待の夜のように。
エノさんが取り替えられないように、総一郎に頼んだのだと続ければ礼二郎の顔色が一変した。
幼いくも美しい白皙の額に薄らと筋が浮かんで見える。
勢いよく立ち上がると将棋盤が引っ繰り返った。
「え!エノさん、将棋盤が」
棋譜は泡沫に帰してしまった。そう関口が慌てると
「憶えているからそんなのどうでもいい」それよりも来い――、と手を伸ばして関口の腿の上に乗った蕪菁の角燈を取り上げ脇に抱え、もう一方の手で関口の手首を取った。
 手を握られるもの、心身の何処かに触れられるのも苦手だった。漸く総一郎との触れ合いにも馴れた来た許りなのだ。だが、逃げようとする手を礼二郎は更に強く握って引いた。
「なんて莫迦莫迦しいんだ君は! 僕が取り替えられるわけ無いだろう!」
「でもエノさんが何処かに行ってしまったら」
誰かと取り替えられてしまったら――
「いいか。セキ、良くきけ。僕は此処に居るし何処にも行かない。僕が何処かへ行きたくなったら行ってしまうかもしれないがその時は君も一緒だ。なあんにも問題はないのだ!」
こんなもの! と声を荒げて両手で角燈を振り上げると、関口が悲鳴を上げた。
「やめてください! それはおみやげなんです。総一郎さんからぼくへの」
礼二郎が歯噛みする。
歯噛みして怒りに躰を震わせると、関口の手を強く引いた。礼二郎は房室を出て、廊下を進む。幾何文様とレリーフに彩られた邸内を進み、日頃近づかない部屋の扉を先触れもなく礼二郎は開いた。  余りに大きな音を起てて戸を開いたものだから室内にいた大人の目線が此方に向けられていた。美しい部屋の中で椅子に座って寛ぐ二人の男性。一人は雄雛顔をして、もう一人は細面の額に黶があって、座っていたが長身であることは伺い知れた。
「あんたなあ!こんなものでセキの気を惹こうとするな!」
雄雛顔へ一喝するとすぐに扉を閉めて、来いと命令し礼二郎は違う廊下を歩み始めた。
「え、エノさん今のはもしかして」
「なんだい?」
「今のお部屋にいたのは……」
「僕のぐけいとばかちちだ」
嗚呼矢張り――
あれが安和が「御前さま」と敬愛を込めて呼ぶ総一郎と礼二郎の父御だったのだ。初めて顔を合わせるには相応しい状況ではなかった。関口は頻りに頭を振った。
 赴いた其処は数時間前の台所とは趣が変わっていた。何人もの白衣を着た大人が男女ともに忙しなく働き、白い湯気が立ち籠めて見えた。
「礼二郎さま」
そう呼ぶ声の主を見れば安和だった。
今日の献立を訊き、礼二郎は火に掛かった鍋に近づく。寸胴の鍋の口には未だ礼二郎や関口の背丈では届かなかった。 腰掛けのような足台を持って来させると、鍋の中を覗いた。
馬鈴薯や人参玉葱が白濁とした粘性の液体の中に浮かんでいる。 「うんシチューだな」
そう確認すると礼二郎は腕に持った角燈、一掴みの藁のウィリアムを鍋の中へ放り込んだ。
「これで蕩々に煮込めば美味いシチューの出来上がりだ」
角燈に白い汁が内部の空洞へ流れ込み、緩慢と沈んでいった。
「嗚呼、」
名残惜しいように関口の感嘆が漏れた。
「心配するな、きっと美味しいゾ」
そう言って顔を綻ばせる礼二郎に見蕩れる。薄紅色の艶やかな頬を緩ませて、葩のような脣が弧を描いた。礼二郎の所業を恨めしく思うが、憎める筈もない。礼二郎は天に向かって伸びる青竹であって隠花植物である関口は焦がれる他に無いのだ。関口はややあって頷き、楽しみですねと囁いた。




(2018/03/30)