baby,boy



もう少しで声を上げそうだった。 しとどに汗を掻いていた。二三深呼吸をする。適当に掴んだ、未だ畳んでもいない清潔なティシャツが指に触れるとそれを握り引き寄せ、頭部から頸に掛けての汗を拭った。
衝動を恐れていた。
感情が剥き出しになって、鋭利な刃物のように現実を切り裂く時を想像してはおぞましさに身震いしていた。
自分の感情が制御できないことほど恐いことは無い。
一挙手一投足。其処に意思が無いことなど信じられなかった。
出来ることなら夜に視る夢も、条件付けによって生じた脊髄反応までも意識下に置きたい。 制御不能な躰など壊れた人形に他ならない。




寝台を発って、東側の壁に寄り添い耳を当てた。
物音はしない。
声を上げることはなかったようだ。
小さく吐息して、壁を離れた。
隣室の男は自分の上げた声を聞き漏らすことはないだろうから、こうして静かに睡っていると云うことは、声を上げなかったということだろう。



奇妙な夢を見たものだ。
寝着の儘、部屋を出た。玄関へ赴いた。合宿所は九時が門限であったから、鍵が掛かっている。勿論玄関に用があるわけではなく、そのホール内にある自販機に用があったのだ。
冷たい物が欲しかった。
髄を一瞬凍らせるほどに冷たいものが。水呑場の水道水では役に立たないのだ。
薄闇に浩々と発行する自販機の前に立ち、朦りとディスプレイを見遣った。眩くて、目が少し痛い。瞼を少し擦り、陳列した商品のレプリカを睨んだ。
薄い飲物が良かった。
然し水ではインパクトが無さ過ぎる。
迷ったが結局烏龍茶と相成った。
口にすると、乾いた土に水をやるようなものだった。
吸引する音でも聞こえればいいものを。と益も無いことを考え、その場に崩れるように座り込んだ。
廊下は少し涼しい。
それに気が着いて、漸うと自分が混乱していたことに気が着いた。
「修行がたりないピョン」
まるで修験者のようなことを陳賜った。
深津は自分を意思の人間だと思っていた。自分本来の性質や、与えられる刺激に従順になることは無いと。
喜びも悔いも意思である、と。



夢も世の中には深層心理だとか難しいことを言う人間もいるが、大凡に置いて夢などは現実の反映であると思っていた。
殆どそれを制御することが出来たからだ。否、それには少し語弊があり、良きも悪しきも今現在自分が最も気にしていることが夢に出ていたからだ。
微々たるものは掠りもしない。
だのに――――――



「深津、どうした?」
廊下の奥の闇から声が届いた。此方からは見えなくても、光源を前に座る深津の姿は闇の中からは見えるのだろう。
次第に現した姿は
「河田、」
だった。
「ちょっと不慮のことがあってピョン」
「なんだよ、不慮って」
「お前こそ、どうしたピョン」
「トイレに立ったんだよ。そしたら、なんか咽喉乾いてんなあって思って」
寝着の短パンにティシャツ姿は皆同じだ。
筋肉の浮かんだ太い跫が剥き出しになっている今片側から明かりを受けて、深い陰影が着いて見えた。太い腕が伸びて百二十円を投入した。
「何飲むかな」
「選んでやろうかピョン」
「俺が飲むんだから、俺が選ぶ」
と言って押したのはCCレモンだった。
「子供がいる夫婦が離婚したピョン」
「あ?」
「お互いに親権なんかいらなくて子供を押し付け合いピョン。さて、子供の親権はどっちに行ったかピョン?」
「んなのってケースバイケースだろ」
「お前がそれ買ったピョン」深津は河田の手にした黄色い缶を指差した。「それはお前のものか、自販機のものか」
「…俺だな」
「じゃあ、子供の親権は父親のもんだピョン」
百二十円たねを入れたのは河田ちちおやなのだから。
「なんだよ、くだらねえな」
猥談にもならない。
「昔、本で読んだピョン。なんか思い出した」
「どうした、深津。夢見でも悪かったか、」
プルトップを押し開けて、河田は向き直り座る深津を見下ろした。
「今日は疲れて夢もみないとか言ってなかったか?夕飯ん時」
「…そのつもりだったピョン…」
深津は目を反らした。
憮然とした、そして少し憔悴して見える表情。自販機の燈が奇妙な陰影を深津の面に刻ませ益々それを濃くした。
「予期せぬことを夢に視るかピョン?」
「そんなんいつもだぞ」
そういうもんかピョンと嘯いて、頸を傾げた。
「変な夢を見たんだピョン」
「はあ。それが?」
「今まで思いもしなかったものだピョン」
神妙な顔をしつつ小刻みに河田が頷く。
「沢北にキスされた」
沢北の自分に向けての恋心など気にもしていないのに何故こんな夢を見たのか不思議でならなかった。
「ふはっ」
それは河田の驚愕の反応だったのだろう。
「…深津?」
「勿論、夢の中ピョン。夢に沢北が出てきて…場所は部室ピョン。壁との間合いを詰められて、膝の間に沢北の膝が入って、キスされて、躰を撫で回されたピョン」
憮然としていた。どうしてそんな夢を視るのか解らないと言った表情だった。
「背にした壁が、凄く冷たかったピョン」
「お前、」
「なんだピョン」
「それ、」
普通に話していいのか?と訊こうとして口を開いたが寸でで噤んだ。
深津は慥かに憮然としている。後輩にキスされて躰撫で回される夢など、人には口が裂けても言うことはできないだろう。
「深津、」
「ん?」
「してみるかあ?」
「何をピョン?」
「キス。俺たち同じチームで、まあ俺は同輩で彼奴は後輩の差はあるけど。立ち位置ポジションは一緒だろう」
深津は河田の言葉に少し思案げな表情を見せた。暫し其の儘でいると、
河田が屈み込んだ。
そして深津の両肩を獲り、壁に押し付け先に聞いた夢と同じことを為した。
唇を舐め、吸い、口内を荒らし、舌を搦め、また唇を吸い、その最中に手が腹も背も胸も撫でた。そして音を発てて唇を離した。
「どうだ?」
「もう…一回って言ったら怒るピョン?」
それが答えだった。つまりはもう一度と言えるほどに強請れるほどに、河田に対して、深津は冷静だと言うことである。
河田は深津でさえ自覚しないそれに気が付き、一人苦笑した。
「馬鹿。其処まで甘くねえんだよ」
まるで平然とする深津に河田はこれ以上は相手にしないと言う意味も込めて背を向けた。自室への進行方向である。
「ちゃんと寝ろよ」
「おやすみピョン」
気軽な声である。
「それと沢北には言うなよっていうか、皆に言うなよ」
背中越しに顔だけ向けて言った。肯く深津を視ると、肩を揺すって、闇に消えていった。
河田が消えた闇を暫し眺め遣って、ゆっくりと深津は立ち上がる。
夜明けまであと三時間はあるはずだ。
今度こそゆっくりと夢も見ずに眠れるはずだ。
何故かそう安堵して、深津は自身も闇に消える。
沢北の隣室へ。







10/07/05





意味が解らない…



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