真夏の宵に、



 此の真夏の夜に男ばかりでとぐろを巻いていたとて腐るだけだ、と誰かが言い出し、外の空気吸いがてら、夏祭りに出かけることになった。
だからと集団で出掛けるわけではなく、三々五々散り散りに気の合った人間と出掛けて行く。バスケットボール部は決して烏合の衆ではないが、個々の自由も尊重されているのだ。
 当初出掛けるかどうかは迷った。酷く眠かったし、今日は珍しく風が吹き込んできていたからだ。うとうとし始めていると、隣室の物音が聞こえた。決して壁が薄いわけではないが、大きな物音を発てれば聞こえてしまう。
人の話すような声が聞こえる。
ドアが閉まる音が聞こえ、人の遠ざかる複数の跫音が聞こえた。
寝台からむくりと起き上がり枕元の時計を確認して、窓の外を見た。
河田と並んで歩くのは、隣人の姿である。
履き古したバスケットシューズにシャツとジーンズ姿だった。ジーンズの尻にはキャップが突っ込んであった。
真夏も宵の八時を過ぎれば真っ暗だ。
電燈も着けていない部屋の寝台で、再び目を閉じてじっとしてみた。気持ちが漫ろだった。
疲れている筈の肉躰は先まで満たしていた眠気を放棄したらしい。
寝台から起き上がり、膝を抱えた。
そして寝台脇に落とした儘だったジーンズを履いて、ティシャツを着込んだ。立ち上がると部屋の隅に置いたビニル袋から靴を取り出し、足早に玄関を抜けた。


少し心が浮いていることに気が着いた。


学校から8km先に神社があることなど、今回の夏祭りを聞いて初めて知った。ロードワークの最中にも気が着くことはなかった。
一学年上の人たちに聞いても、地元以外の人は矢張り知らなかった。曰く、「小さな神社だからだろ」と云うことだ。
それにも況して理由はある。
去年沢北は八月の上旬には此処にいなかったのだ。
何か有ってもいいではないか、と思う。ほんの些細なことで好いのだ。本当に些細なことで。
商店街や家並みとは反対の方向、人家が少なく田圃と森が見える其処に神社はある。街灯と月に照らされたなだらかな道を行く。辺りは薄暗く、虫や蛙の声が聞こえた。橋を渡って、暫くすると人と行き違った。一人かと思ったが彼背には疲れて眠り込んだ小さな女の子がいた。手には杏飴を握り絞めて居る。次第に遠くへ雷音が微かに聞こえて空を見上げたが、何処にも怪しい雲はなく、空は霽れていた。周囲には人の影が増えた。闇の中に揺れる火を数多に視ると、それが祭の神社であることが解った。雷音だと思ったものは社で打ち鳴らす太鼓の音であったらしい。
「おう、沢北。お前寝てたんじゃねえの?」
明るさと人波の中へ入り込むと声を掛けられた。電気の機動音と賑々しい雑踏に紛れて知った顔がいた。
「腹減ったんだろ?」
烏賊焼に食いつきながら坊主頭が言う。
「河田さん見なかったか?」
疚しさがあると、何故それを隠してしまう修正が人には備わっているのか。
「なんだよ、約束してんのか?」
「ちょっとな」
「河田さんならもっと奥に行ったぜ。深津さんも一緒に」
「わかった」
手を上げて、沢北は人波の中へ進んでいく。色んな臭いが混じり合っていて、目に見える色彩も鮮やかだが、何故かその中に溶け込める気分ではなかった。
太鼓の音が近付いていて、もうすぐ社であることが解った。
その時背後から襟首を掴まれた。
「何やってんだ、沢北。おめえ寝てたんじゃねえのかよ」
河田だった。
「目、覚めたんですよ」
「ほーら、だから声かけりゃ好いっていたんだよ」
河田は自分の背後に向って声を上げた。
窓から見たのは二人の姿だ。ならば其処に居るのは、
「人の親切を無にするなピョン」
深津だった。キャップを被っている。
「二年の連中に聞いたらお前寝るって公言してたって言うから親切に河田を止めたのに。気遣い甲斐の無い奴だピョン」
そういって咽喉を反らした。手にしているのは500mlの緑茶ペットボトルである。
「沢北閑か?」
「閑も何も、」
此処にきているのだ、言わずもがなである。
「河田、来いよ。イチノ出来たぞ」
遠くから野辺が声を掛けた。 「おう、」
「削る奴やってんだよ」
「諾。俺、パスです。ああいうのって苦手で」
「全くお前らは。俺行くぞ」
「程ほどにしろピョン」
河田の背に深津がひらひらと手を振った。
残されたのは深津と沢北の二人きりであった。
「何か喰べるかピョン?」
「別に食欲はないです」
「ふぅん」
また深津はペットボトルの臀を上げる。そして呑み口を沢北に差し向けた。
「飲むかピョン?」
「否…」
その飲み口を凝視してまた目を反らした。
「いいです…氷、喰う心算ですから」
二人で来た道を戻り、沢北は氷屋の屋台の前で大きな瓶を見詰めていた。黄色に紅、緑に青色、並んでは居ないが、品書きに練乳。
「沢北、レモンと苺と練乳却下な」
「二つしか選べないじゃないすか!」
「ピョン。先輩の命令だピョン」
深津が綺麗に笑った。少し悔しくて下唇を噛む。
「………じゃあ…ブルーハワイで」
へい、と声を上げて氷屋の親爺は山盛りの掻氷に青色の液体をしとどに浴びせた。
「いい子だピョン、沢北」
頭を撫でられる。
「………嬉しく無いです………」
「髪伸ばすピョン?」
「はい?」
「向う行ったらピョン。もう部の決まりに従うことはないし」
「諾、そっか」
不意に沢北は米国行きを思い出した。
「たぶん…」
「中学時代は伸ばしてたしな」
「取り敢えず、規則も無かったし」
「結構可愛かったピョン」
「見たんですか?」
卒業アルバムも持ってきていなかったし、昔の写真など実際実家の何処にあるのかも知らなかった。余り写真に興味は無い。
あるとすればエロ本くらいだ。
「雑誌」
「諾、」
合点が行った。
「まさか自分の後輩になるとは思わなかったけど、結構お前の特集とかやってて。多分とって有るピョン」
「深津さん」
「お前何かそれ以外、食べないのかピョン?」
終点が見えてきたからだ。
「氷買っちゃたしなあ。あ、やば。アイスクリーム頭痛が、」
「それアイスじゃないピョン」
至極もっともな突っ込みが入る。
「どうでもいいじゃないすか!」
「掻氷頭痛ピョン」
カップの氷は既に終わりを迎えようとしていた。最後の2pほどを飲み込む。
「元々食欲ないし。深津さんは?」
「俺も同じピョン」
参道入り口の鳥居に立って、脇にあった即席塵入にカップとストローを捨てる。
「河田もハマっちゃたし、帰ろうピョン」
鳥居を出て道路を渡る。喧騒はあっと云う間に遠ざかって行く。そして沢北は提案した。
「松林の方通って行きませんか?」
「松林?」
海沿いの道路に沿って植えてある防風林のことである。
「合宿所まで遠いピョン」
通常の道筋の倍は架かるだろう。
「どうせ、戻っても閑でしょう?」
偶にはいいか、と云う呟きで沢北の提案は受け入れられた。風の強い此の宵は松の枝も啼いて、波の音も混じり合い、気持ちが良かった。霽れた空に、未だ満ち切らない月が浮かんでいた。
並んで歩いた。
「沢北、舌見せてみろピョン」
少し弾んだ深津の声に僅かに逡巡して、沢北は舌を出した。
「蜥蜴みたいだピョン」
藍い舌に深津は声を上げて笑った。こんな道化のようなことは他の人間には決してしない、と沢北は思う。
「ブルーハワイなんか喰べるから」
「他の却下したのあんたじゃないすか」
「面白い方が好いピョン」
所詮色の着いた掻氷など皆甘いだけで子供騙しなのだから。
波の音がする。
深津はきっと知らないだろう。この藍い舌を深津の赤い舌と擦り合わせたいなど考えていることなど。
どうしてこうして一緒に遠回りなどしたいかなど。
「深津さん、」
沢北は自分の右隣の人物に声を掛けた。その向うに松林があり、更に向うには海があるはずだ。
「なんだピョン」
ペットボトルは深津の右手に握られていた。
「手、繋いでいいですか?」
深津は一瞬表情が停まって、すぐに目線を自分の左手に遣り、その横がぶらぶらしている沢北の右手を見て、再び沢北を見た。
後輩の顔色は複雑な様相を呈していた。
「ど…どうせ、人も…車…もいないし…」
そう言う沢北の横をトラックが轟音を発てて走り去った。
「手、繋ぎたいピョン?」
沢北は深津から目を反らしてじっと自分の足許を見ている。
「………はい……」
「なんで?」
「………深津さんて…意地、悪いですよね………」
「否、此の歳になって男と手繋ぐことなんて考えたことないから」
ピョン、と深津は自分を見ない沢北を見詰めつつ言った。
「いいです、」
「いいピョン」
二人の声が重なった。ほぼ同じ科白だったが、その意味する処は正反対だった。
前言を撤回する「いい」と提案に同意する「いい」。日本語は難しい。この「いい」は裁判の論争の議題にもなる複雑さだ。
思わず、沢北は顔を挙げ、
「いいんですか?」
「いいのか?」
とまた声は重なった。
目線が重なった。
「沢北、ほら」
まるで犬にやるかのように、深津は左手を開いたり結んだりした。沢北はまた俯いて、今度は酷く顔を紅く染めて、自分のジーンズに掌を擦り、怖怖と深津の手を取った。
互いにバスケットボールを片手で掴めるほどに大きい手である。
沢北の掌はそれでも湿っていた。
「沢北、」
呼びかけに今度は前方から来た車の走行音が重なった。
「未だ、俺のこと好きかピョン」
その問いに胸が疼き、酷く重くなる。
罪悪にも似て。
「………はい………」
すみませんと謝りたくなる。
「それってどんな感じかピョン」
「どんなって――――――」
「概念は理解できないでもない。でも、やっぱりよく解らないピョン。お前が解ってないって俺に言ったみたいに」
あれを告げたのは、インターハイ敗戦直後のことだ。日数はそれほど経過していないが。
「深津さん…」
深津は考えてくれていた、と云うのだろうか。
「お前は大事なチームだし、後輩だし、もうすぐ向こう行っちゃうし、出来るだけお前のことを解ってやりたいとは思うんだけど、ピョン」
心が震えた―――――
「こうやって、手を繋ぎたいって言うのがそうなら………」
深津は頸を振る。
「やっぱり、解らないピョン」
解らないのは、当然だ。
想いを解らないのも当然だ。
それは沢北にとってだけ残酷なのであって、深津が惨いのではない。
十代を過ぎて、手を繋ぐことに躊躇がない人間はいないだろう。何が楽しいのかと思うだろう。
そこに感情がなければ、それは当然なのだ。
そして其処に意義を見出せなく手を繋ぐことができてしまう深津は矢張り特異なのだ。
「ただ、」
深津は続けた。
「俺たちは隣同士だピョン」
合宿所の部屋の並びは何の因果か、隣室同士だった。
「前より静かに生活するようになった。だから今日、お前が起きてしまうなんて想定外だったピョン」
深津は俯いてキャップの庇で顔を隠した。顔はその唇しか見えない。どうやらお見通しだったようだ。
「深津さん」
「隣が俺って居心地悪くないかピョン?」
「全然、です。………寧ろ深津さんの方が、俺聞き耳発てているかもしれませんよ………」
「それはいいピョン。どうでも、」
そう言えてしまうところが矢張り深津の惨い点だった。
沢北のことを何とも思っていない証左だからだ。



 その内に長い松林も終わりを向え、合宿所が見えると、二人の手は自然と離れた。
柔らかくは無い。深津の掌はとても堅い。
それでも、沢北は酷く愛しくて、離れてから自分の指と平を擦り合わせた。
そして気が着いた。
「深津さん、」
「ん?」
「お茶、飲めませんでしたね」
「ああ、」
「すみませんでした。咽喉渇いたでしょう?」
「まあお前が可愛かったからいいピョン」
嘯いて深津は笑った。
その言葉に故意は無い。だからこそ口にできる。
ペットボトルを咥えながら合宿所の中に深津の背が消えるのを確認して、沢北は自分の掌に唇を押し付けた。


あの人の心が欲しい、


風が凪いだ。
少し躰が震えた。夏の暑い宵に―――――







08/07/05





「可愛い男の子たちの話」がコンセプトの山王。
なんだかキャラが変わってしまいそうで、テキストを読み直してみたけど、
既に捉え方を間違えていることに気が付き、突っ走ることにしました。
これは手を繋いだ男の子って可愛いよなあ、
と夢想した結果です。
一応自設定で深津と沢北は合宿所が隣室って決めてます。
聞き耳立ててますよ。そんで自分の触ってますよ。
当然でしょう!
当然の権利です。隣室の。
少しずつ片思いから恋愛を進めて行く話を書くのは初めてで、実際戸惑ってます。
こんな感じでいいんですかね…?
困った。
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