秘中の花



午后の練習に体育館の中はまるで熱帯だった。
上背のある殆ど半裸の男が躍動しているのだ。熱くもなるだろう。顎から床へ滴るものが汗なのか唾液なのか果たして判然としない。唇を舐めると塩辛かった。
肘から手の甲に掛けて額を拭ったが、汗で汗を洗うようなもので到底拭えたものではない。
腰に手を当てて、不図上を向き左手にしたペットボトルを口に宛がう。
後ろから声を掛けられた。
「深津、それ、残ってるか?」
「ピョン?」
「それ、」
野辺はとうにシャツを脱ぎ捨て、筋の浮き彫りと為った肢体を曝していた。
胸の二つの突起が目に入って、眉間に皺を寄せる。
何の感慨もない。
「深津?」
「………残ってるピョン」
咽喉を鳴らし、躰内に注ぎ込み、腕を伸ばして野辺に渡した。
「出ないか?此処暑ぃわ」
大きく口を開けた体育館横っ腹の出入り口を指差した。夏の呵責な日差しに外界に見える校庭の砂が白くハレーションを起こしていた。
眩しい。
「暑そうだピョン」
「此処よりはマシだろう」
四辺を見渡せど、既に人は居なかった。
監督も同様である。
「暑ぃ、」
野辺は一つ呻き声を上げた。
流石にこのまま此処に居ては熱中症でも起こすかもしれない。軟な鍛え方などしていないが、矢張り禧雄耐える鍛えないでは補え切れない、人としての限界はある。
「出るピョン」
飲物を分かち合いながら野辺と深津は石段を下った。
汗に濡れたバスケットシューズを脱いで石段に立掛ける。
「脱がないのか?」
「うん?」
「それ、」
汗にぐったりと重いティシャツを野辺は指差した。
「そうだな…」
何故か逡巡する深津だった。
不図見れば、校門から校庭の陽炎に人影が揺れていた。誰かが此方に向ってきている。
シャツを脱ぎ捨てて、それでも左の腕には黒いバンドが見えた。
陽炎の人影は時折、額を拭う。
「痛、」
静かに深津は声を上げた。
焼けるような砂の上を裸足で歩いていた。
跫を上げると、血が滴った。
「誰だよ、こんなとこに。大丈夫か?」
「結構…ざっくり行ったピョン」
割れた瓶の曲線の欠片が強い日差しを弾かせていた。その鋭角の先端が紅く染まっていた。
「深津さん!」
遠くから声を聞こえた。深津が右足で立ち、右手で左足首を掴んだ時だった。
兎角深津はバランス感覚が良い。
声のする方向を見遣れば、陽炎の中の人影が段々と像を結び、それは次第に後輩である沢北の姿に変化した。
沢北は此方に向けて駆け出した。
「どうしたんすか?」
並ぶと野辺も沢北も深津より背が高い。
「切ったみたいなんだよ」
野辺が応えた。
「お前何処行ってたぴょん」
少し苛立つような様子に、眼は何処か冷ややかに、野辺には見えた。
尤も、その目線が野辺に向けられるわけではない。
「あ、飲物が切れたんで、其処の自販機に」
校門横にはビニル屋根を張った五台自販機が並ぶ一角があるのだ。流石にアルコール類はない。沢北は『其処』と言ったが、体育館から校門外までは優に1km近い距離がある。
そして手にしているものはコーラである。
「練習明けに炭酸かよ?」
「いいじゃないすか。好きなんだから」
スポーツドリンクばかりでは飽きる、と年少の男は嘯いた。
「器用なのは好いが、医務室行くぞ深津」
「ああ、そうだピョン。沢北、もしかしたら遅くなるかもしれないから、監督に言って置いてピョン」
「手貸そうか」
「大丈夫ピョン」
「野辺さんも、ですか?」
「ん?」
深津も野辺も顔を沢北に向けた。
「俺が行きます」
「何処に?」
「深津さんと医務室」
その間ずっと深津は片足だけで立っていた。しかも些少の労苦も深津には見えない。
「おおい!時間だぞっ」
体育館から河田の怒鳴り上げる声が聞こえた。野辺と深津と沢北は顔を見合わせる。
「野辺さんは戻って下さい」
沢北は少し俯いた。そして野辺は少し吐息した。
「深津じゃあ…俺練習に戻るわ、」
「ピョン?」
「監督には伝えておくから」
野辺は身を翻して足早に去って行く。その間も深津は一本立ちだ。「あ」と沢北が声を上げた。
「野辺さんっ」
振り返った顔にアンダーで沢北は手にしていたものを投げた。
「あげますっ」
「阿保おっ、炭酸投げんな!」
難なく掴み、野辺はまた駆けて行った。
深津は片足立ちを辞めて、校庭から一段高くなった混凝土の上に腰掛けた。
「深津さん、痛いですか?」
「痛いピョン」
「じゃあ、」
沢北の大きな手が、掌に柔らか味などまるで見当たらない、深津の上腕を掴んだ。
「お前に頭が痛いピョン」
「なんでですか?」
「莫迦みたいだピョン」
「何が?」
「誰がお前のものになったピョン?」
一瞬虚を突かれたように沢北は眸を見開き、少し目線を彷徨わせ、深津から手を離し、少し項垂れた。
頭を掻いた。
「………すみません………」
小さく小さく沢北は言葉を吐き出した。
深津の目は変わらない。冷やかに沢北に向けられている。

深津は厳しい。
それは彼のプレイにも、人に対する態度にも、起こり得る事象の全てへの構えにも表れている。
他者に関しても、己に対しても厳しい。
其処に初心がないことを、己惚れが入ることを、僅かにも赦さない。
「絶対はない、」と常々堂本は言うがそれを誰よりも理解しているのは他ならぬ主将たる此の深津だろう。
仮令如何なる理由があろうとも、増長は許容しない。


深津は血に濡れた足を、疵を熱せられた砂の上に降ろした。
「あっ」
声を上げるのは沢北だった。
「何するんですかっ、疵口に砂入りますよ!」
そしてもう一度、深津は跫を持ち上げる。
冷ややかな目線。何処か苛立つような焦燥にも見える。その表情の中で唇が不意に釣りあがる。


「舐めろピョン」


跫が差し向けられ、沢北は逡巡もせずその跫を獲った。
野球部のバットが球を打つ快音が響き渡った。抜けるような蒼穹に。



04/07/05



一瞬野辺の乳首に眼が引き寄せられる深津。(野辺に対しては如何なる感慨は無いが)
ティシャツを脱げない深津。(汗で重いと云うのに)
跫の疵を舐めろと命令する深津。(校庭には他の部活もいる)
何があったか、わかりますね?
秘すれば花なり。秘さずは花べからず。
では。


↑previous