口の動き



 練習は大抵八時に終了になるので、夕食は九時に始まる。大抵一時間を夕食時に充てているがそれが守られることは無い。躰を動かすことを生業とした成長期の少年たちは飯三膳に八品の夕食を十五分と罹らず食べ終える。驚異的なスピードとそれを消化する胃袋を持っていた。


 深津一成は不審に思っていた。
後輩の沢北のことである。
人の視界は二百七十度あり、真後ろで無い限り大抵のものが目に入っているといっても良い。無論視力や物事への関心、または周囲への配慮によって見るものは変る。
沢北が目を合わせないのだ。
四席離れた斜め前方に沢北はいる。そして此方を見ているのだが、目線を後輩へ差し向けると其処に沢北の目は無いのだ。
食べることに勤しんでいたり、周囲の人間と話をしていたり、様々である。
初めは勘違いかと思ったのだが、どうやらそれも違う。
沢北は此方が目を向けると同時に目を逸らしているのだ。
何かしただろうか、と疑念に陥るが、食事を終え、話しかければ後輩の対応は余りにも普段と変らず生意気である。


 沢北栄治の夕食は半分も済んでいなかった。食べるスピードが次第次第に落ちて、途中で完全に手が止まっているのを隣席にいた一之倉聡は横目で確認していた。
酷く熱心に何かを見ているのは解った。左斜め前方方面を見ているようだったが、其処に目をやってもいるのは河田と深津くらいである。
少し首を傾げて、自分の食事を続けていると、終には箸を置いて沢北が立ち上がった。
そして相向かいの席にいた野辺に声を掛けた。
「野辺さん、食欲あります?」
「もう喰わないのか?」
周囲が色めきたった。獲物に集るハイエナである。それも当然で、今食欲を満たしても十一時を過ぎる頃には皆な空腹を憶えるのだった。栄養管理までされる合宿所では基本的に間食は許されない。それでも一回の食事は無制限の供給ではないから、食べられるだけ食べて置くことを忘れてはならなかった。
「便所行ってきます」
「腹でも痛いのか?」
「や。抜いてきます」
「おお」
周囲にいた人間たちは沢北の膳から食品を奪い合いつつ手だけをひらひらと振って見せた。
「頑張れよー」
と声を掛けて。


「大変だなあ」
河田雅史が呟くのを聞いて深津は飯茶碗の最後の一口を咀嚼した。
見れば既に隣席の河田は茶を啜るばかりで、皿の上は空に変じていた。
「深津、あとで沢北におにぎりでも差し入れしてやれよ」
「何でピョン」
「あれじゃあ腹が減って仕方ねえだろ」
箸を置くと、河田が半分にまで減っていた湯呑茶碗に茶を継ぎ足してくれた。それに礼を述べ、啜ると漸く一息ついた。
「飯も自己管理ピョン」
「でもお前主将だろ。おにぎり差し入れてやって注意を促すのも勤めだと思うぞ」
「おにぎりはお前のほうが得意だピョン」
「まあそうだけどもな」
ふは、と笑ってまた茶を啜った。
「いやに拒絶するな、深津」
「そんなことは無いピョン。ただあいつが何か怪訝しいだけだピョン」
テーブルに肘を着き、眼前に湯呑を翳しながら河田は横目で深津を覗き見た。垂れ眉の間が少しだけ狭まっている。
「あいつは分別が無いわけじゃねえし襲われることはねえだろうよ。それにそんな簡単に伸されることもねえだろ」
「河田?」
「や、別に。意味が解んねえならいいんだ」
左手に膳を持って立ち上がった。
「ごっそさん。先行くぞ」
「あ、待った。俺も行くピョン」
続いて深津も立ち上がり河田に並んだ。
「飯残ってるかピョン」
「微妙だな」
不図河田は振り返り怒鳴り上げた。
「美紀男!好き嫌いすんじゃねえぞ!」
「ふぁふぁい兄ちゃんっ」
背後に河田の大きな弟の声を聞くと深津は僅かに笑う。後輩に甘いのは部の体質なのかも知れないと考察していた。





07/05/05

別に何って話しじゃなくて、深津の物喰ってるところを想像していただけです。



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