「考えて下さい」
眼を瞑ると雨音が鮮やかだった。否、実際には篠付く雨に音は無い。けれど静寂に雨が響いている。心は傍に無いのだ、と述懐した。 躰が適度な疲労に気怠くて少し心地好い。此のコートを全力で四十分走り終えた後の疲労感が好きだった。意識と眠気と雨音が混じり合って行く。雨礫が頬に落ちたけれど、眼を開けることがだんだん億劫に感じられ始めていた。 深く眼を閉じた沢北の前では赤い槿が雨に濡れていた。 部室の床に広げられていたのは進路希望調査の質の悪い紙だった。見慣れた手蹟で名前がしたためられていて、思わず窺ったがそれ以外には何も書かれていなかった。将来何になりたいのか、何がしたいのか、どんな学校もしくは就職先を選ぶのか。何も書かれてはいなかった。 「沢北、始まるぞ」 と同輩に声を掛けれて扉が閉まる音を聞くと漸く顔を上げた。既に部室に人の影は無かった。 「やべ」 呟いた。落ちていた紙を拾ってロッカーへ放り込んだ。部室を出て行く。ロッカーにはサワキタと記されていた。 部では皆短く髪を刈っている。別段学校が未だにそういう方針とか言うことでは無く、部内だけでの話しだった。地元入部者は勿論だが越境で入学した部員も秋田弁を使うことは強要された。要は郷に入っては郷に従えだ。仲間意識は強ければ強いほど良いのだ。 「遅えーぞ、沢北」 声を掛けたのは河田だった。屈強な長躯。頭部の後ろに回した右腕の肘を左手で床に向って押している。この人物が入学当時主将より小さかったなど俄には信じ難い。尤も当時の写真を見れば明らかだった。体育館で写された写真の中央には二人の人物がいた。一人は河田雅史、その隣には深津一成がいた。少しだけはにかんだ笑顔で。未だ当時は「ベシ」と言っていたはずだ。此の写真撮影に何があったのか余りに些細過ぎて本人たちに確認も出来ないが、知りたかった。 「すいません」 頭を下げて謝ると頭の上に声が降り注いだ。 「顔上げるピョン。始めるピョン」 掛け声から始まり、円を作っての準備運動に体育館円周200mを20周。練習が終了するのは八時に近い。躰を動かしていると他のことを考えている余地がない。只管前に進むだけだ。高く跳ぶだけだ。だからその反動は酷い。酷く烈しい。昔保健の時間に珍しくも寝ないで「退化」とか「昇華」とかを倣った。けれども欲望を昇華することはない。沸き上がる熱に煽られて益々深刻化の一途だ。それが叶えられると言う保証も無いのに。 「こんな処で眠るなピョン」 幻聴だろう、と思った。彼の声を望み過ぎて夢に出てきたのだろうと。 「沢北、」 少しだけ苛立った声色に震えた。 そして震えについで寒いのかもしれないと認識すると、自然と瞼が持ち上がった。そして不機嫌そうな深津を確認した。 ティーシャツとジャージで手には透明な傘を持っていた。天から降り注ぐ灰色の雨水が傘の弧をなぞって落下する。その撥ねが四方へ飛散していた。 「また逃げ出したかと思ったピョン」 大仰に深津は溜息を吐くとジャージから携帯電話を取り出し、誰かに掛けた。短く、素っ気無い応対に相手は気心が知れた相手だと知れた。それも同学年だ。実力の世界だが、それでも学校と云う枠組みの中で学年の境界はとても大きい。相手は恐らく河田だろう。少しだけあの豪放な先輩が羨ましかった。 「もう逃げ出しませんよ」 拗ねたような顔に成ってしまったのかもしれない。不機嫌そうだった深津の顔が緩んだ。 「深津さんだって人のこと言えないでしょう?」 「先輩だからいいんだピョン」 「酷い」 「帰るピョン。合宿所は最早『サワキタエージ捜索本部』状態ピョン」 「え、そんな大きなことになってるんですか!?」 流石に其処まで大きな問題になっているとは思わなかった。 「あのな今何時だと思ってるピョン」 呆れた声音に辺りを見渡した。 そもそも昼間からずっと時間の感覚が取れないほど暗かった。雨の所為だ。雲が重苦しいほど低く上空を覆っていて、此処に座った時と今の状態が然程に違うようにも感じられない。少しだけ暗くなっている程度だ。 「何時ですか?」 「十一時」 携帯を突きつけられた。日時が表示される待受けにはアイバーソンがいた。 「アイバーソン好きでしたっけ?」 「別に」 深津の傘を差す手とは別のもう一方の手には同じ傘が下がっていた。なんでそれを持ってきてしまうのか、察してもらうことは出来ない話なのだろうか。 「帰るピョン。明日は堂本先生の叱責会だピョン」 「怒られるのは厭だなあ」 「この時期にこういうことをするから、起こられるんだピョン。そうでなければ、皆な口を噤んでいたピョン」 こういう時期と云うのはつまり、 「向こう行きまで一ヶ月を切った奴が誰に言わなくて消えたら、周りも不安に思うのをお前も少しは考えろ。この我侭め」 「別に消えてませんよ。此処で寝ていただけです。…堂本先生に電話したのって、深津さんですか?」 「だピョン」 「先生、怒ってました?」 「…怖かったピョン」 堂本は未だ若い教師だった。それでも迫力は抜群だ。 「消えたわけじゃないから電話なんかしなくても良かったのに」 「携帯切っておいて何を言う」 「あ…切れてましたか」 部活中の儘にしておいたのだ。鞄から携帯を取り出し、電源を入れると不在13と云う数字が表示されていた。 「うわあぁ…不吉だ」 「帰るピョン」 「深津さん、此処座りませんか?」 沢北は自分の横のスペースを指差した。どうにも会話がちぐはぐな感が否めない。それは沢北が先刻から深津の言葉に正直でない為だ。 「あのな、」 「少しだけ」 懇願のような目を抜けられて深津は大仰に溜息を吐いて「少しだけな」沢北の座る横へ腰掛けた。 「俺も話があるピョン」 「なんですか?」 距離が縮まった。互いの呼吸さえ感じられる距離だ。手を伸ばせは簡単に抱き込めることも可能な距離。 「……お前、俺の進路調査の紙持ってるピョン?」 咎めるような目線だった。 「ああ、これですか?」 臀のポケットから折り畳んだそれを取り出すと深津の前に差し出した空中で広げて見せた。折り目がついた紙面に深津一成の名前が記されていた。 「人のものを勝手に持って行くなピョン」 「なんで俺が持っていったと思いました?」 ついと深津の目が反らされた。 「何となくピョン」 「…そー…ですか」 はぐらかされたのだろうか、沢北も深津から目線を外し礫が潦に作る無数の斑紋を見詰めた。 夏の雨は心地好い。暑さから解放される。 「深津さん、そういえば建築科でしたね」 二人の間に広げられた進路調査票には「建築科 三年F組 深津一成」とあった。 「今更言うなピョン」 「いいなあ…」 「何がピョン」 「女の子いっぱいいるじゃないですか」 「普通科の奴が言うなピョン」 「…理系だったんですよね、そういえば」 「数学の御恩を忘れたのかピョン」 「御恩とか自分で言わないで下さい。…でもなんで建築科に、行ったんですか」 「先のことを考えていたんだピョン。受験の時に」 バスケをしに山王工業へ行こうと考えた。然し、仮にも山王は工業高校で、どうせならば手に職がつくようなものが良いと。 「生憎と数学が得意だったんだピョン」 「なんであんなもんが」 「俺には解らないほうが不思議ピョン」 数学の数式を思い出し、うんざりしていると、不意に顎を掴まれた。捕まれ首を廻らされた。強い力で。間近に深津の顔が迫る。手が顎から頬へ遷る。両頬が温かい。深津の熱が傾れ込む。熱が上がる。少しだけ匂いがする。石鹸の匂いに似る。もしかしたら合宿所を出る前には風呂に浸かっていたのかも知れない。 真正面に見詰められて、少しだけ沢北は目を伏せた。下方に深津一成の文字が見えた。 「沢北」 声が耳に触る。 顔が熱い。 「お前、冷たいピョン」 「え、」 頬の深津の手に力が籠った。 「ほら、冷たい。こんな処で寝るからピョン」 額を撫でられ、深津の声が笑った。 そして離れる。 離れても、顔を上げられなかった。 「合宿所戻ったら皆に謝れピョン」 「……深津さん…」 搾り出すような声が聞こえた。 「どうした?」 「なんで俺が此処で寝てたと思います?」 「沢北?」 目を上げられない。 「少しだけ、考えて下さい」 何故こんな風に簡単に触れられるのか。 「ピョン?」 沢北が立ち上がる。叢雲に月は無い。雨が赤い槿を細やかに打ち据えている。闇の中に雨音だけが響いて、沢北も深津も仄青い。 「傘、有難う御座います」 手を出すと深津は二本あるうちの一本を手渡した。 「帰りましょう」 「沢北?」 「……です…」 項垂れて呟いた。 どんな将来を彼が生きるのか。進路調査の紙が酷く悔しくて、憎かった。 彼の将来を見たかった。 傍で。共に歩んで。 心が重い。 それはあと一ヶ月で彼の人生に自分がまるで関係がなくなるからだ。そうして体育館脇の階段で、生まれて初めて、バスケットボールを迷っていることを自覚した。 同時に篠付く雨の静寂の中で立ち尽くしながら、知る。 彼の、彼の心は傍に無いのだ。 06/05/05 ↑previous |