a day off







手を膝丈のパンツに突っ込み、その左腕に小さなビニル袋が下げられて足早に歩道を鮎類手居ると、車道反対側から声を掛けられた。
「沢北くん!」
女性の声である。
声の方向を見れば、数人の見知らぬ女の子が此方に向って手を振っていた。
山王工業高校の夏季長期休暇の風物詩であった。
数年に渡り此の列島に王朝を啓く山王工高は兎角熱心な応援者ファンが多いのだ。
更に河田から沢北目当ての女性客が多いことから「客寄せパンダ」と有り難くない称号を頂戴した沢北だった。
小さく相手に気付かれないように吐息して、覚悟を決めて手を振り返す。歓声に近い声が上がった。こういうことは、余り好きではない。もっと有態にいえば苦手なのだ。
その直後車道をトラックが数台轟音を上げて続けて通り、その間に沢北は歩を進めた。
出来るだけ彼女たちから遠退くように。然し逃げ走り出すような露骨は見せては為らない。
それは主に上級生から厳命されていた。
トラックが通り過ぎると、追い縋るような声が背に聞こえたがもう振り返ることは出来ない。
待ってる人がいるのだ。
口を引き結んで沢北は前進する。



「戻りましたー」
声を掛けると、呻くような声が聞こえた。
寝台に人が横になっていた。筋張った脚が覗いて、顰められた顔が見えた。腹に薄掛けが纏わりついているだけだった。
薄様の白いカーテンが微風に翻っている。
額に乗せていた濡れたタオルは床に落ちていた。飲み散らかした薬とペットボトルが散乱している。
暫しその光景を眺め遣って後手に扉を閉じた。クローゼットからはみ出した衣類、乱雑に教科書や帳面や工具が広がる机、椅子の上には休暇に入った日から動かされた形跡も無い登校用の鞄が鎮座していた。寝台の足許には各種スポーツ雑誌が重ねられ、崩れていた。
近付くと、人の気配を察したのか、咳を上げて、眼中の人は薄らと目を開けた。
「どうですか、」
また咳をした。
夏の暑さと、自身の熱さに顔が紅かった。
「最悪…だピョン」
躰を起こそうとしたので「寝てて下さいよ」と留めた。寝台の端、足元の辺りに腰掛けた。すると眼前には扇風機があった。動いていない。みれば、タイマーが切れていたのだ。腕を伸ばして最小の風力でファンを回した。
「買ってきましたよ」
ビニル袋を少し掲げてみせる。
ポカリスエットと栄養剤と冷ピタとレトルトの粥だった。談話室に行けば電子レンジが置いて在るのだ。
「良かったですね。今日が休みで」
今日明日と部活は休みである。帰省や短い休暇の活用に皆出掛け、合宿所には人が少ない。先に会った女の子たちはそうした情報は知らないようだった。
「気が抜けたかな、」
苦しそうにぜえと音を上げながら深津は一人語ちた。
「夏風邪なんて…お前じゃあるまいしピョン」
「なんで俺なんですか?」
「馬鹿が引くピョン」
「深っさん…口、減りませんねぇ」
怒りが一瞬湧く。
そもそも最後に風邪を引いたのはいつだったかそれさえ思い出せない。市内の河田兄弟は実家に戻っているし、野辺も一之倉もいない。
「栄養剤、くれピョン」
深津が手を伸ばした。その手に蓋をあけた茶色の小瓶を渡す。少し指が震えていた。
軽く身を起こして深津は唇を突き出して、独特の匂いと味のする栄養剤を飲み干した。
「小さい頃飲んだ風邪薬の味がするピョン」
空になった瓶を深津は床に転がした。普段ならこんな乱雑な真似をする人ではない。辛いのだろうか。
小瓶は転がって落ちていたタオルに当って止まった。
仰向けになって、深呼吸をした。
「お前は」
「はい?」
「帰らないピョン?」
「家ですか?」
頷いた。
流石に苦笑した。誰がこんな状態の深津を置いて帰れると言うのか。況してもう日数も無いのだ。きっと深津はそんなことに思い至りもしないのだろう。
「時間喰うだけですよ、今から俺が帰ったら。実家の滞在時間ほんとになんか少なくて。それじゃ睡って終わりだ」
「お前一人っ子ピョン。家族が寂しがらないか?」
「試合とかに会いますから」
そうか、と深津は呟いて苦しそうな口を閉じた。颯颯と睡ればよいのに、と沢北は思う。そうすれば楽になれるだろう。
帰省の話など持ち出して。
不図思い到った。
「深津さん、」
「…何だピョン」
薄く深津の瞼が開く。
「もしかして、心細いんですか?」
「さーわーきーたー」
自覚はないようで、深津は自分の腕で目を塞ぎつつ、声は沢北を非難していた。
「もうお前帰れピョン、部屋」
「深津さんも睡ったほうがいいですよ」
「うん…」
薬が効いているのか、先からうつらうつらとしてはいるのだ。然し本格的な睡りへの導入では成っていない。
「俺、もう少しいますから」
「う…ん。…………と…ピョン」
すぐに寝息は聞こえだした。
インターハイの湘北戦で疲弊していたのは皆同じだ。主に精神的な面で。仕方ないのだ、と云う思考に本当にシフトするには矢張り時間が架かる。勝てる自負がありそれに見合うだけの練習をこなして来たのだから。
其の結論に到るまでの過程で気を抜かないように、心身を張って部を引き締め続けたのは他ならぬ此の主将深津一成なのである。
己惚れに違いないが、自分が抜けた後此の部はどうなるのか時折考える。
エースとしての自負があるからだ。
健やかな寝息が聞こえた。カーテンが微風に舞う。夏の鈍角の日差しに少しだけ感謝する。外界から車の走行音や子供の甲高い声が聞こえた。
いつもならば体育館にいる時間帯である。
僅かな違和感は拭えない。
小瓶とタオルを拾い上げて、部屋の隅にあるワンドアの冷蔵庫にポカリスエットと粥を放り込む。案の定冷蔵庫は空洞である。
そして冷ピタを箱から取り出した。
深津の額に唇を宛てると、「熱い」と呟いた。そして湿布に似たジェルの塗られた白いシートを深津の額に押し当てながら少しだけ、と沢北は願望する。



少しだけでも此の夏風邪を引く原因に自分が入っていると好い、と。











11/07/05





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