左膝と左脛



 うつらうつらと頭部が揺れていることを夢現に感じた。
瞼の向こうが眩しくて、目を開けると車内は鷲子色に満たされていた。ぼんやりとした白とも黄とも付かない淡い幕間のような半頃の色合い。不図睡る深津一成のボックス席の相向かいに人が座っていることに気が付いた。眼を抉じ開けると、見慣れた顔があった。
「何だ…?」
寝惚けた擦れた声が自分の口から発せられることに気が付いた。相向かいに座っていた後輩は声を聞くと顔を顰めて笑った。
「寝惚けてますね、」
「…お前…何してんの…?」
相手の片眉が怪訝に持ち上がった。何かが足りない、と頭を掻いた。
「…ピョン」
と付け加えた。するとと、
「無理矢理使わなくてもいいんですよ?」
と言われた。
「そんなこと無いピョン」 嘯き、窓の外を少し眺めやって未だ目的地はないことを確認した。抱えていた儘睡っていたる黒色のデイバッグを脇に置いた。車内を見渡せば人は疎らだった。
その僅かの人たちも電車の揺れに轉寝ていた。
大きく電車が揺れると、深津の左と右の跫の間に、向かいに座る後輩の左跫が割り込んできた。
「さーわーきーたーあ」
「何ですか?」
惚けるようだ。河田にこういうことをすればすぐに泣かされるだろうに、と沢北を見れば、後輩はにっこりと笑った。
ゲームの最中に見せる挑発的なものではなく、穏やではにかんでいる。
ならば沢北は自分に甘えているのだろうか、と思うと此の一学年年少の後輩が少しだけ可愛く感じられた。
如何にバスケに於いて天才と言われようと人に甘えるたくなることがあるのだ。
沢北の膝が、深津の左脛に触れた。
それを指摘すべく口を開こうとすると沢北は別の話題を提示した。
「実家帰ってたんですね?」
「そうだピョン」
昨夜実家に呼び出されて鞄一つ持って合宿所に寄ることも無く学校から其儘帰宅した。
「どうでしたか?」
「何が、ピョン」
「家」
「別にいつもと同じピョン」
実際家に大事なことが合ったわけではないのだ。高校三年に差し当ってのその先の進路などを相談しに行っただけだった。
深津はこれから先もバスケを続けることを望んでいるし、家人もそれは了承の上だった。
「深津さん、」
「どうしたピョン」
沢北は不意に深津から目線を外し、社外を眺め遣った。その目線を辿って車外を見るが家並みが続き、子供を幼稚園バスの停留所に迎えに来た母親たちや、居並ぶ車を踏み切りが停める極有りふれた風景があるばかりだった。
目線を戻すと沢北も此方を凝視めていた。
「深津さん、」
「ん」
「俺、」
「何だピョン」
「………」
迷っている風に見えた。
見詰め返していると、やがて眼を反らされた。沢北は顔を赤らめ、息を吸い込んだ。何かを言おうとしているのだが、それでも言い澱んで、彼の手が頭を抱えたかと思うと、次に顔が先刻の紅さが虚偽のような紙のような白さで出現した。
また、恐る恐ると言った風情で、それでもじっと凝視される。
そして―――――
「…あ…あの…俺………深津さんのこと、好きです」
沢北が何を言ったのか能く解らなかった。唐突に何を言い出したのか。解らなかった。
此の後輩はフェイクもフェイントも旨いのだ。
そして生憎と深津は沢北のフェイントにもフェイクにも慣れていた。
深津は数回目を瞬いた。
次に来るリアクションを待ったがいつまでもそれは訪れない。
沢北の眼差しが余りにも真剣味を佩びていて、巫山戯ている様子は見えなかった。
ならば僅かに笑んで言うべき言葉は
「ありがと、ピョン」
であるべきだ。
此の才気溢れる年少の男からの好意に純粋に礼を陳べた。
だのに、沢北は何故か困った顔を見せた。
「…や、そうじゃなくて…」
落ち着かない様子だった。
「あの…本気ですから」
「何がピョン?」
怪訝に後輩を注視していると、次第次第に沢北の顔が疲弊し切っていっているように見えた。額にはじっとりと汗を浮かばせて。素破、夏風邪かと顔を覗きこんだが、邪険に顔を反らされた。
「………米国むこうに行く前に言わなくちゃと思って」
「沢北?」
名前を呼ぶと後輩は俯いた。
「お前の好きって…」
「そういう、こと…です…」
電車が大きく揺れた。
互いの膝と脛が擦れる。思わず跫を引こうとして遮られた。
よく見れば、沢北は深津と同じ制服姿だ。今日は休日であるのに何故か沢北は制服姿で一緒の電車に乗っている。
「ちょっと、次で、降りませんか?」
「午前中の練習で無かったのかピョン?」
訝しげに訊くと沢北は俯いて口を噤んだままだった。
此の後輩が練習をサボるなど、有り得ないことだった。兎角バスケは何よりも優先されるべきだったからだ。
「いいピョン」
沢北が顔を上げた。縋るような眼をしていた。それは後輩を甘やかすには充分だった。仮にも『先輩』で部内では『主将』なのだから。
「降りようピョン」
降りたからといって其処に何が在るわけでもない。こんな時に浜辺でも歩いたならば…と考えて少し沢北は口角に笑みを刻んで自嘲した。余りにもロマンチズムに過ぎる…。
「そういえばお前、自転車どうしたピョン?」
疎らに人の降りる駅の改札を出ると深津は駐輪場を眼にして訊いた。沢北の最大の交通手段は自転車だったからだ。足腰を鍛えるためにどんなに遠くへ移動するときでも極力自転車を使っていた。
「置いてきました」
背後から少しぎこちない沢北の声が届いた。その応えに更に沢北の行動が理解不能になっていった。彼は制服姿で何処に行ってきたのか。剰え練習さえ休んで、鞄さえ持っていない。駅前のロータリーを廻って、去っていった電車の進行方向と同じ方面に跫を向けた。
会話は中々始まらなかった。
1km進んだ辺りで漸く口を開いたのは深津だった。
「沢北、インターハイ、余り気にするなピョン」
「え?」
「ふぁ」なのか「え」なのか区別の尽かない発音だった。
「あ、あの…深津さん?なにか…勘違いしてませんか?」
不安になったのか、訝しげな声色で沢北は訊いた。立ち止まって深津は背後を振り返った。項に汗が浮かんでいた。
「俺、深津さんのことが好きだって話してたんですよ?」
少しだけ深津は首を傾げた。
矢張り沢北の言っている意味が能く解らなかった。
「解ってないんでしょう?」
「俺もお前、好きだピョン」
見る見るうちに顔に悲愴感が溢れた。
「…ほら、そういうふうに言えちゃう辺りが…」
落ち込むように沢北は項垂れた。まるで深津は理解していないのだ。
「インターハイとかそういうの全然関係ないですから。…ああ…もうっ」
呻いて頭を抱えて沢北は座り込んだ。
「何の為に俺深津さん尾行るような真似してんだか…解ってますか?」
「尾行る?」
「そうですよ」
後輩の目は少し滲んでいた。
「部活サボって、小銭だけ持って、深津さん家の前で張って…電車の中で眠ってる深津さんずっと見たり…」
それだけ聞くとまるでストーカーの手口のようだった。
「チャリだって鍵掛け忘れたし」
ぼやいた。
深津は自分の膝に手をつくと軽く腰を曲げ、沢北の顔を覗きこんだ。
「泣いてるピョン?」
「泣いてませんよ!」
声は潤んでいた。
「なのに深津さんスルーだし…」
「向こう行きに不安でもあるのかピョン?」
大きく溜息が聞こえて、それにつられて見れば、沢北は自分の腕に顔を沈めた。
「もう…ほんっとうに…」
解ってない、と続けようとして、深津の声が被った。
「一ヶ月前に言うことじゃないピョン。そういうことって」
「…深津さん?」
「人を好きになったことないから解らないけど、自分の気持ちだけを言い捨てて何処かに行ってしまうのって何か怪訝しいピョン」
沢北が濡れた顔を上げると深津は不可解だと言わんばかりの顔をしていた。
「やっぱり泣いてるピョン」と言われて慌てて沢北は自分の顔を袖で拭った。
「立つピョン。好い加減寮戻んないと、不味いピョン」
夏の日は未だ傾かない。呵責に降り注ぎ、空気は風も凪いで停滞を見せている。
電車を降りてから休息に浮かぶ汗を感じて、後輩に向けて手を差し出した。沢北はそれを五秒程見詰めたが、結局無視して自力で立ち上がった。
立ち上がると沢北は深津よりも僅かに背が高い。
「歩いて帰るんですか?」
「電車降りようって行ったのはお前だピョン」
「そうだけど…」
沢北が笑った。泣いた子が笑う、そんな幼子への修辞を思い出し、深津は苦笑した。
「深津さん…」
「何だピョン、」
「人好きになったこと無いんですか?」
「無いピョン」
恥じることも誇ることも無い、本当に大したことではないのだ、と認識しているようだった。 思えば深津は猥談には参加していたが、今までそういう話に乗ってくることは無かった。
「本当ですか?」
「嘘吐いてどうなるぴょん。ただし、それが河田とかお前を好きと云う「好き」では無い場合だピョン。お前は?」
「有りますよ」
深津を目の前にして何故かそういうことを言うことは気が引けた。
「女の子ピョン?」
「先輩が初めてです、男は」
そんなもんかピョン、と深津は首を傾いで先に立って歩き出した。白い襟から後頭部へ伸びる首筋に筋肉が盛り上がり骨が覗いていた。
其処にじっとりと汗が浮かんでいるのを見つけ、酷くむしゃぶりつきたい衝動に駆られた。
「あっつ…」
咽喉を逸らした。
「早く帰るピョン」
そう言って振り向いた深津の顔の向こうに、白く発光する太陽があってそれは深津の輪郭を融かしていた。
眩しい、と沢北は目を細めた。





06/05/05





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