幽邃に沈む魚







帰郷に深津を誘ったのは、本當に氣紛れだった。家人が家を留守にする間、己一人で居るのもひどく退屈に思えたのだ。
寮の、常に人が居る状態に慣れてしまったから余計に感じるのかも知れなかった。
そして彼に訊いてみたい事もあった。



寮の昇降口から荷物を持って出て行こうとしていて靴を履いていると、すぐ其処の自販機コーナーから五百ミリリットルのペットボトルを携えた深津一成と出会でくわした。
「何やってるピョン?」
ティシャツに短パンの深津に対して、河田雅史は上下揃いのスポーツジャージであった。
「帰るんだ」
「何処にピョン」
「家。呼び出しが掛った」
「いつ迄?」
「…明後日…かな?」
「結構長いピョン」
「親が旅行行くんだってよ。其の留守番だ」
河田は靴を履き終えると、爪先を三和土に數度押し付けた。
「……一緒に行くか?」
うん
少し驚いた。
気紛れで云っただけだった。そんなに素直に頸肯くとは思わ無かったのだ。鳥渡ちょっと待つピョン、と今買ったばかりのペットボトルを河田に手渡し、自室の方向へ戻って行った。手渡されたペットボトルの水滴が掌を濡らした。
不圖、最近深津と二人きりの状況は無かったことを思い起こす。
何故そんなことを思うのか、次の瞬間には不思議に思うのだけれど、其の不思議な感覚はすぐに薄らぎ、淘汰される。
此の夏に入って深津は後輩に獨占されていたのだ。
「行けるぞ」
すぐ傍で声が聞こえ、顔を上げると靴を履いたジーンズ姿の深津が居た。



外界へ出ると、蝉の音が大音聲で聞こえた。
暑さを増幅している。あれは公害だ、と思ったが口にはし無かった。
「お前の実家って何処だピョン?」
駅で深津が当然の事を訊いた。暑かった。代わる代わる深津の買った、既に温み始めた、ペットボトルを口にした。
温んだ液躰は殆ど飮物の感覚は無く、人の躰液と変わらないような気がして、不意に妙な感覚に陥る。
深津から手渡されるペットボトル。
口を着けると、何故か深津に唇を吸っているような気がした。
「もう、いい」
飮み込め無かった。
「ピョン?」
「お前飲んでいいよ、アリガトな」
深津は不審にも思わなかったようで、少し肩を竦め(外人の様に)底から3p程の液躰を綺麗に飮み干した。
拾分程して電車が駅舎ホームに入って来たが、車内は数人の頭が見えるだけだった。灰と藍の細かな格子柄の座席シートに腰を降ろす。ボックス席の相向かいに、喰い違いに座った。躰が大きいのだ。
「掛かるピョン」
「ん?」
「時間、」
ああ
問答は短く、発車した電車の揺れが互いの口を止めた。
「美紀男は帰らないピョン?」
「家に彼奴と二人で居ても面白くねえ」
兄弟は得てしてそんな物だ。
家並みは遠くへ消え、その内に窓の外は広大に拡がる田園が見えた。新緑色が一面を埋めて居た。其の半程なかほどに集落が見える。蒼い山は遥かな向うで、此処が有名な米処の平野だと言う事を思い出させた。
着いた駅は小さかったが、モダンで天井はドーム型で在ったし、駅の出入り口にはステンドグラスが嵌め込まれ、壁の細部には植物の曲線が描かれたアールヌーヴォー調だった。
矢張り外界には蝉の絶唱が満ちて居た。
「少し歩くぞ」
「…ピョン」
夏の陽に曝された土瀝青アスファルトからは陽炎が揺らいで居た。 珠のような汗がぬかを滑ってほほを辿り、おとがいを滑り堕ちた。
噫……
暑い―――――








腹を蹴られた。
薄く瞼を開ける。
外界の日差しは益々増長の一途を辿り、屋内の陰影を増増こまやかにした。
故に眼前の上空に覗き込む黒い影はまるで、逆さまの幽霊―――――
「深津、寝んな」
かりそめに像が結ばれる。
頬に冷たいものが零れ落ち、澱のように深く沈んでいた意識が俄に浮上した。
「河田?」
「応。…寝惚けてんな」
蝉の声が酷く煩瑣い。先迄、耳にも入らなかったのに。両肘を突いて上肢を起こした。肘にささくれた物の感覚があった。見れば畳が敷かれている。
「あれ、此処…何処ピョン?」
「寝惚けんな、」
河田が深津の横へ腰を降ろし、胡坐を掻いた。そして深津の頬に碗を押し付けた。汗の代わりに水滴が深津の頬を濡らした。
「茶だ、飮めよ」
青味を佩びた白い、涼やかな磁器。茶色い液躰を孕んで居た。
河田は手にした盆も畳に下ろした。花嫁御料のような華やかな蒔絵。其処に乗る深津が手にするものと同じ青磁の碗。液躰は半分に減っていた。
「居間に戻ったらお前いねえし。捜したぞ」
高い天井。緑青の土壁。紫壇の床柱と框。縁側の硝子が一枚だけ開いていた。その向うの暗い庭。否、森である。
「噫、此処、お前ん家だピョン」
「俺ん家に来たんだ当たり前だろ。あんま勝手に動くなよ。解り辛い家なんだからよ」
殆ど朦朧の態で此処まで遣って来たのだと言うことを、朧気に思い出す。青磁の中身は烏龍茶で、鈍磨した意識をゆっくりと冴えさせ、日常へ導いて往く。
 道の先に見えたのは何処までも続く黒い板塀だった。その上に数多の木々の先が見え、家の屋根瓦が見え、その先には森があった。
壁に沿って歩くと、板塀は窪み其処に冠木を渡す門が在って、「河田」の表札が見えていた。車が優に一台通れる門の幅と其処に布かれた石畳。両端と蛇行する石畳の先を隠す数多の前栽。
着いた先に見えたのは二間の玄関だった。細い桟の入った四枚の戸が埋めていた。
河田はジャージの臀から鍵を取り出し、玄関を開けた。
「ほら入れよ」
手の甲で汗を拭うと、深津は黙ったまま家屋に入り込んだ。
飴色の框を上がり屏風二双の向うには畳敷きの長い廊下が続いていた。先は何処まで続くのか。先鋒は暗く距離が測れなかった。
「大丈夫か?深津」
河田は深津の顔を覗きこんだ。様子が怪訝しかった。電車を降りて以降、深津の言葉は少なくなっていた。
「大丈夫だ…」
鎖された家屋の中は深閑として、物音がしない。外界と隔絶されたように。
「お邪魔します…ピョン」
「居間に行くか。取り敢えず其処は冷房入てがら」
廊下を往く庭が見えた。坪庭と云うにも大きい。軒からは簾が低く垂れ込め、砌の向うには鑓水が廻り、棟の下を通過している。
細い竹林に、その周囲を萩が弧を描くように垂れしだっている。燈籠が一基生えていた。六角柱の火袋、雌雄の鹿と雲形の日月、掘りぬかれた二面。石台は無い。春日燈籠である。その相向かいの房が居間と河田が称した部屋だった。
高い天井から吊るされた乳白色の磨硝子の電笠。薄らと埃を被ってはいたがよく見れば、花の柄が刻まれていた。其処は広い室だった。畳一畳分の大きな座卓に乗ったリモコンで、河田は天井を示した。天井に埋め込まれるように設置された冷房が稼動を始めた。
「家の者、居ねがら気兼すんな、」
荷物を下ろすと河田は「ちょっと待ってろ」と告げて、居間を後にした。その背を見ていたのは憶えている。


いつの間にか、家の中を彷徨ったのだろうか。


瞭然とし無い。ただ朦りと、家の中を迷い込んだのを憶えて居る。沢山の座敷を渡った筈だ。数多の唐紙を開け放って、先へ進んだ。
「お前の家、一体、何なんだピョン」
茶を飲み干して蒔絵の盆に載せると、深津は横に居る徐に訊いた。二人の膝が触れていた。
「何ってなんだ?」
「普通の家には見えないピョン」
「別に。普通の家だぜ。ただ此の家が旧いだけだ」
慥かに年季ものに見えた。窓枠は凡て木製なのだから。
「お前が好い所の坊だったとは知らなかったピョン」
「俺の祖父ひいひいじいさんがまあ何て言うか、大百姓で、財を為したらしいんだ。明治の頃に。地租改正がなんたらとか親戚からよく聞くし。此の辺りは米所だろ?そう言うんで儲けて、その金に飽かせて此の家を作ったんだ。白神から材木切り出して、南方から樹を集めて、日本中から職人呼んで」その柱は桂だと河田は指差した。「戦前は河田も結構羽振りが良かったらしいんだが、戦後の占領軍の財閥解体とか農地解放とかで大打撃。そっから簡単に財産無くしたらしい。残ってんのは此の家だけだ。俺の親父は銀行員だしなあ」
暢気な口調で河田は高い天井へ目線を上げた。鴨居の六葉が見えた。
音がする、と深津は立ち上がって、縁側の硝子戸から外を覗いた。
家屋は水に浮いていた。暗い水の中を、魚の朱が束の間見えてすぐに消えた。
そして対岸は森が口を空けていた。
夏の陽光を無視して、森の中は暗い。
「然しお前いいとこに来たな」
「何でだピョン」
「此処窓開けておけば、冷房が無くても涼しいんだよ。その水、森の湧き水だしな」
幽翠はとても冷たく見えた。
「そうだな、蚊帳釣るか。慥か納戸…土蔵かな?あった筈だから」
鴨居の四方の隅に金具があってそれが蚊帳を吊る為のものだった。
居間に戻るに結構な時間を要した。
「此処何処だピョン」と幾度と無く深津は訊いた。
「未だもう少し先だ。お前が勝手に歩いて行ったんだろう?」
「余り憶えてないんだピョン」
どうにも深津は此処に来てから快活さも切れなく、何処か胡乱だった。
 バスケに明け暮れる男子生が料理なども出来よう筈が無く、夕食は素麺だった。奈良県桜井市が名産のそれは中元の貰い物である。説明書を丹念に讀んで、時計持参で河田が茹でた。茗荷と浅葱。胡麻と山椒に七味。薬味は不断ふんだんだったが御菜は何も無かった。



此の大きな家屋では電燈を消すと全く闇くなった。
 蚊帳は紺青に染められ、裾には水の藻や色取々の魚が織り込まれていた。穂の出た薄や萩が蚊帳の下部を埋め、宛ら水に溺れているよう心持に為った。
家の西端に続く土蔵の中の其の蚊帳を撰んだのは深津だった。
中に二つの布団を敷いた。


夜の静謐に、水の涌く音が聞こえた。


「深津――――」
呼び掛けた。声が返るとは思わなかった。
 風呂を使うと、貸した浴衣に着替えた早々と微睡んだのか、互いに口をそれから利かなかったのだ。月の明かりがあったから、電燈は着けなかった。だがいつしか月には暈が被り、幽翠の渦中の如く世界を閉ざした。
 暗に反して「なんだピョン」と鮮明な声が返った。
起きていたと言うのだろうか。
互いに闇の中、背を向けて、ただ口を鎖していたと言うのだろうか。
それは如何にも奇妙だ。
不自然である。
手を伸ばせば触れ合える距離であるのに。
あれほど普段親しくしていると言うのに。
「………昔、猫を拾ったらしい。祖父ひいひいじいさんが」
唐突に河田は語り出した。
「猫ピョン?」
「此の蚊帳で一緒に睡っていたんだとよ。毎夜。此の蚊帳は其の猫の為に態々作らせたって言うんだ。猫は魚が好きだろ?」
水が撥ねる。
「凄え溺れきっていたんだ」
「猫にかピョン?」
「猫にだよ。雄猫。ただ――――、」
河田は寝返りを打った。双人の眼が闇の中で判然とした。
「ただ、何だピョン?」
「他の家人にはそれが猫には見えてなかったんだ」
「じゃあなんだピョン?犬とかか?」
「否、人間ひとだ」
「人間――――?」
「諾。他の家人から見れば、猫は人間だったんだ…」
それは―――――。
何故此の様な話をするのか、されるのか互いに判らなかった。
思えば何故深津を実家に誘ってしまったのか、河田は解らないで居た。共に出掛けることも久々だったのは慥かだ。
あの後輩と此の同輩がどうなろうとそれは知ったことではない。
共に親しい、仲間チームメイトであったし、どうであろうと自分は変わらないだろうから。
ずっとそう思っている。ずっとそう思っていた。
だが――――――


水の中を漂う。
水の中は暗く冷たく、何処までが自分で何処までが水なのか、判然としない。わからなかった。何処までが自分で、何処までが相手なのか――――――


冷たい雫が口唇に触れた。


然し冷たいと感じたのは瞬間だけで、雫が触れた箇所は、佛が歩んだ跡に蓮が咲くように、漸うと、温んで往く。
それは昼間の温んだペットボトルの液躰の如く――――


「彼奴のことを、如何思っているんだ――――?」自分に好意を寄せている人間を傍に置いて居る感情はどんなものなのか。


静寂しじまを、声が犯す。


「別に…ああ…」頸を振った。「…解らない…ピョン…」
「解らない、」
「噫…」
以前の彼であれば、もっと別の物云いをしたであろう。だのに――――
「…噫っ、」
嘆息にも似た吐息を漏らした。


この幽晦に沈む水の中で、悦楽は俄に満つる。みだらに――――


幽翠の中を魚が二匹、溺れていた。



そして猫が哭く声を聞く。空耳であるやもしれぬけれど――――







08/08/05







意味が解らないのはいつものことです。
捏造が過ぎるのもいつものことです。
河田×深津。
拍手に置くものじゃないつことは慥かで