鹵莽な計略 身を近づけると、彼は少し後退した。再び接近すると矢張り後退した。 だから距離は縮まらない。 お互い汗に塗れていた。 息も上がっている。 練習の後だからそれも当然だし、此の人の汗に塗れたいと思う。実際此の人の使用済みタオルに顔を埋めたことなど一度限りではない。 練習の肉体的興奮が続いている為か、余計に自分が熟るのを感じる。 僅かずつの追い駆けっこをしていると、10mの後退の末に、彼の背が部室の壁に突き当たった。 「……逃げられませんよ」 呟き、もう彼は逃げられないと言うことに少しだけ安堵して、徐に自分の脣を彼のそれに宛がった。 彼のTシャツには未だメッシュ製の4と大きく数字が書かれたタンクトップが重ねられた儘だった。汗に濡れている。 自分の右手には9が書かれた同じメッシュ製のタンクトップが握られている。少しだけ彼の鼻息が感じられた。 脣が―――――柔らかい。 身を離しての感慨は名残惜しさよりも、過度の緊張感からの解放だった。 手首の脈が変に漠々鳴り響いていることが怖かった。 相手にそれが聞こえそうである。 滴る汗の量が増しただろうか。 彼の膝の上からゆっくりと退く。顔は上げられなかった。腿から足首まで筋肉の筋がはっきりと見て取れる。それは紛うことなく、男性のものだ。薄いとはいえ毛も生えている。普段見慣れた其処に何故今更じっくりと見詰めたいと思うのか。 惚れた弱味だ。 と思う。 「………沢北、それだけピョン?」 「え、」 顔を上げると、平然といつもと違うところの無い様子があった。くっきりした二重と下がります。額も頬もまるで変わらない。唇は乾いていた。身体変化は見受けられず、表情に僅かな曇りも歪みも見たら無かった。何が起こったのか、解っていないのだろうか、と疑問に感じてしまうほどだ。 況して『それだけ』とは何を言うのか。ナケナシの勇気をぶつけたと言うのに。 唐突に背後から笑い声が聞こえた。笑い声も哄笑と言った方が良い。振り返れば、ロッカーの脇から人がわらわらと溢れ出てくる。 「何処から湧くんですか!」 河田の顔を見ると、左手を深津の膝の間の床に、右手を深津の右膝の横の床に着いて、自身の膝を床について全身で項垂れた。 「そんな屁っ放り腰で不味ぃだろ。男として」 また河田はふは、と笑った。 「拍子抜けだな」 松本の声がした。 人が未だ体育館の中に居たのも部室に帰って来なさそうなのも確認した。鍵も掛けた。準備万端だった筈だ。深津に触れることに最大の注意を払ったのに。 「大丈夫かピョン?」 深津の手が伸びてきて短い頭髪を間に頭部を撫でた。 「甘やかすことねえぞ。深津」 無情な河田の声だった。 「何で、皆、鍵掛けたんに入って来れんですかー!!」 「そりゃ俺が鍵持ってるからだろ」 振り返ると河田の指にはMISAWAのロゴが入った真鍮製の鍵が抓まれていた。 「泣くなよー沢北」 男たちの笑い声が聞こえた。一体何人居るのか、沢北の気分は益々沈む。 「沢北、御免ピョン」 深津の謝る声が聞こえた。 「…深津さぁん…」 よろよろと躰が深津に引き寄せられて往くと背後から太い腕が伸びて沢北の肩を掴んだ。 「すまんな、沢北。俺はまあ兎も角、深津は先輩たちのそういう要求の対称にされていたから馴れてんだ」 「そういう要求?」 復唱すると、河田が沢北の肩を叩きながら「運動部を舐めるなよ」と顔の横で笑った。 「先輩たちも練習ばっかで女っ気も無いピョン。だから時々後輩に妙な要求をしたんだピョン」 ポッキー(バナナを使うこともある)チュウは基本として、出来る限り愛のあるキスをしろだとか、時間耐久だとか、舌で歯の本数を数えろだとか妙な試練が科せられたのだ。部員の面前で行われるので誰も次第に違和感を感じなくなるのだった。苛酷な練習に耐え、それらの要求に耐え、その末に深津が此の名門山王工業の主将に任命されたと言っても過言ではなかった。 「お前は此の心ある先輩と自分の才能に感謝するんだな」 自分で心有ると言う辺りが余りに胡散臭い。流石に沢北には深津、河田の上級生も妙な要求を突きつけることは出来なかったのだ。 「深津さん…」 「でも、それまでの緊張感は結構良かったと思うピョン」 深津は沢北の肩を叩きながら、立ち上がる。 「さて、帰るかピョン」 そういう深津の声を自分のタンクトップを見詰めてながら、それでも触れることが出来て良かった、と感触を噛み締める沢北栄治だった。 女子部の先輩の忘れ物だとか言ってたような気がしたがそんなの信じない。 因みにうち(女子部)はポッキーチュウはあった。 |