airport


受話器の向うは煩瑣で騒音としてしか聞こえなかった。思わず受話器を降ろそうとすると、その煩瑣の中で、声が突出して届いた。鮮明ではない。殆ど聞き取れなかった。
「……津さん……じゅ…ちじの………きこえ………」
何処で返事をすべきなのかも解らない。だから何となく朦りと耄と聞いていることしかできない。間抜けな光景である。
「あ…搭……よ………じまったん………ぁ…!」
終いには怒鳴り散らすようだったが矢張り明瞭ではなく、正確に言葉を取ることができなかった。受話器を置いて枕元に置いた腕時計を、カーテンを薄く開けて外界の街灯に照らして見れば、時計の針は一時を廻っていた。
「……何時だと思ってるんだピョン」
カーテンから手を外すと、再び室内は深い闇に変じ、外界を往く車のエンジン音が耳に着いた。普段生活音が大きい隣人から今日は物音もしない。薄い壁向うの隣人宅の時計の音さえ耳が拾いそうだった。何故だろうか。酷く感覚が鋭敏さを増しているようだ。何を戸惑っているのだろうか。と深津は自らを分析しようと試みた。外国からの電話。……向うへ往く前まで彼は隣室にいたでは無いか。
此の儘では睡魔は去ってしまう。そうすれば明日早朝から始まる練習には着いて行けないだろう。自己管理が出来ないことなど以ての外だった。
「寝るピョン」
呟く声は睡魔に蕩けていた。


貰った自転車は春先に盗まれた。公共交通機関を使う程の距離があるわけではないが、それでも歩きではある。寮から大学の体育館までの距離は目を覚ますに格好な時間だ。大学の正門を入り西に向うとその道筋には染井吉野桜が並び、地面は無数の葉が影を落として、その合間が僅かに明るさを見せている。木漏れ日を踏みつつ歩を進めた。
その先に見える建物が体育館である。大学バスケットボール界の雄を自負する大学にしては些か古ぼけた体育館で、その外観は灰色の壁と深い緑色をした屋根をしていた。混凝土製の階段を五段ほど上ると玄関がありそこを外履きの儘入って往く。ロッカールームまでは靴を履き代える必要は無いのだ。部活用のジャージ姿で寮を出た為、ロッカーが並んだだけの簡素なロッカールームに荷物だけを置きシューズを代え体育館へ往く。すると、高校時代の後輩が近付いてきた。
「深津さん」
高校時代を抜けると大抵その姿かたちは様変わりを見せる。此の後輩も例に漏れない。髪は明るい茶色に変じていた。
「何だピョン」
「今度行きますか?学校、」
互いの間で学校と言えばそれは大学ではなく、高校を指す。
「諾、そろそろ夏の大会かピョン」
インターハイへ通じる地区大会が始まる時期である。あれほど当時夢中になり他に何も見えなかった日々であるのに卒業してしまえばそれはただの追憶に過ぎず意識に上ることも無かった。元々感傷に浸るような性質でもない。
「深津さん、卒業してから一度も来ないじゃないですか。皆寂しがってますよ。河田さんは来てるのに」
「河田とかには時々会ってるピョン」
その多くは態々約束を取り付けて遊んだり食事をするのではなく、概ね何処かの体育館である。互いが対戦相手や合同練習で一緒になると云うことは、同じく大学でバスケットボールを生業とする身には間々あることだ。その折りに食事をしたり話をしたりと云うことは勿論ある。
「俺たちの時だって来てくれないし」
「故意じゃないピョン。授業と部活で手がいっぱいだったんだピョン」
「諾、工学部って大変そうですもんね」
後輩は肯きながらそれでも何処か不服そうだった。そうでなくとも母校は卒業後も先輩後輩の関係が密なのだ。
山の様に詰まれた籠いっぱいの茶色のボール。部員は思い思いにボールを手にして弄んでいる光景が体育館いっぱいに広がっていた。
それに倣って深津もボールを取り、数度自分の手と磨かれた床の間にボールを行き来させた。 不図顔を上げると細い鉄格子に囲われたアナログの時計が視界に入った。練習が始まるまであと二十分残されている。跳ぶとボールは手を離れ、高く綺麗な弧を描く。試合でも常にこんな綺麗な弧が描かなくてはならないのに現実は中々そうも往かない。ゴールの網をボールが通過すると白い網は持ち上がりボールは床に向って落下した。リバウンドを取りに往くこともせず、深津は隣の後輩に訊いた。
「パソコン、持ってるかピョン?」
勝手知ったる学部の校舎に往けば常時使うことのできるパソコンもあるのだが、工学部はこの体育館から些か遠い。到底部活が始まるまでには戻って来れないだろう。
「持ってないです」
と後輩が応えるとほかの人間から声が上がった。
「俺ノート持ってますよ」
そう言って手を上げたのは矢張り後輩だった。
ロッカールームへ戻り、パソコンの使用時間は五分も掛からなかった。
「アリガトピョン」
礼を陳べると深津は体育館に颯颯と戻って往く。練習開始までに十五分。
その間に五回シュートを放って二回失敗した。
人からのパスを三回取り損ねた。
ドリブルを一度蹴った。
「どうした、深津?」
と先輩に尋ねられるほどそれは最低だったのだ。


駆け込むと額に薄らと汗が浮かんでいることに気が付いた。流石に息も切れている。少し呼吸を整えるとナイキのに明らかに荷物が少なそう鞄を横に胡坐を掻いていた男が立ち上がって近付いてきた。 髪は黒く手で掻き上げることが出来るほどには伸びていて、サングラスを掛けていた。
「……すっげェ待ちましたよ、」
「誰だ、お前は?ピョン」
何故空港内でサングラスをしたままでいるのか。暗に「取れ、」と言っているのだ。
「此処で寝てるのに丁度良かったんですよ。…誰かさんが遅いし」
唇が尖っている。
「来るなんて言って無いピョン」
目線を少し反らして深津は言った。……素直でない……。サングラスを外してシャツの胸ポケットに押し込めると少し大人になった沢北栄治の眼が現れた。沢北は其儘腕を伸ばし抱き寄せようとすると顎に盛大なパンチを喰らった。吹っ飛ぶ沢北。
「ってー!いいじゃないスか。ハグくらい!」
「却下ピョン」
「酷い。偶になのに」
「偶にしかいない奴に言われたくないピョン」
「………すみません、」
沢北は形こそ謝りはしたが、どうにも不謹慎な表情をしている。小憎たらしい。引っ叩きなる程それは憎たらしい。
「何笑ってるピョン」
「それ、俺に増長しろって言ってますよね?」
思わず沢北の頬を抓った。悲鳴を上げ、すぐにその眼に涙が滲んだ。こんなにすぐ泣く男がどうやって向こうでやって行けているのか不思議でならなかった。
「………今度は何日間ピョン?」
「三日間」
親指と小指を折り曲げて三のジェスチャーを作った。余りに短い。三日など微睡んで居ればあっと言う間に過ぎてしまうではないか。何をしに戻ってきているのだろう。
「あ、ちょっと…待ってよ。置いてかないで!深津さっん!」
颯颯と深津が沢北を置いて去って行ってしまっている。それでは共に母校を訪ねる閑などないではないか。腹に怒りが沸沸と涌く。
「足腰立たなくなるまで尽くしますからっ!ねっっ!」
「いらないピョン」


出来上がってる二人です。