花冷えに還るひとの名・零 「この頃、夢を視るんです」 久々にに訪れた木場の下宿でついと関口は口を開いた。 「何のだ?」 と水を向けると、関口は少しだけ頬を緩ませて、掌中の丈の短い円柱形の酒碗を右へ左へ傾けた。指の先が白い。寒いのかもしれない。不意にその指先を握りたくなって、腕を動かしかけたが、同時にそれを押し留めた。 それは有っては為らない行為だ。 「懐かしい夢、」 訥訥と言葉がその乾いた唇から漏れ出てくる。 「未だ僕が学生で………撲られて、蹴られて…」 解るだろう、と云う自嘲に似た苦く笑う目線が木場へ向けられた。ついとその目線を外しつつ木場は軽く幾度か頷き、酒碗を仰いだ。 関口はどう云う謂れか人の『的』に為り易い。人の加虐心を誘うのだ。集団の中に居れば尚更だろう。 それは木場も能く知っていた。 否、それどころか木場でさえ時々そそられる。 「学校の近くの高台の神社でね。その社殿裏には大きな桜の樹があったんだ。夢の中で、僕は襤褸襤褸で、樹の根元に転がっている。桜は盛りを少し過ぎた処で…僕は仰向けになって花びらが散ってくるのを熟視めているんだ。でも…近付いて見るとそれは僕ではなくて…」 言葉を濁した。 関口は酒に酔ったのか、少しだけ泥のような眼をしていた。 「お前じゃなくて、誰なんだ?」 碗を持つ関口の白い指先は、夜に見る桜の花弁のようだった。 指から目線を動かすと、関口と眼が合う。珍しい。これほど真直ぐ彼が人を見ることはそう有ることではない。 そして、口が動いた。 乾いた唇だ、と先に思った。 然し今見る関口の唇は、濡れていた。 淫らに。 彼が淫らな唇で口にしたのは、久しく聞かぬ者の名だった。 「……そろそろ、暇します」 黒い衣に身を包んだ関口は以前に増して瘠せて見えた。立ち上がって玄関に向うその肩を掴んだ。 細い。 「旦那?」 驚いた顔をしていた。そして驚きはすぐに怪訝なものに改められる。木場の顔が強張っていたからだろう。手を離した。 「お前さん、いつまで…」 「え?」 困惑が滲む顔をした。 「否……いい。気を着けて帰れよ。車でも呼ぶか?」 すぐに受けられるように卓子に置いた黒電話を木場は親指で差し示す。緩緩と関口は頸を振った。 「表に出て掴まえるよ。じゃ。あ、ご馳走様」 関口の面は酒精に少し紅潮して見えた。関口は弱いのだ。だけれど、木場は引き止めることはできなかった。引き止めてしまえば、その後は保証出来ない。 扉の向うに消えた関口の残像を木場はいつまでも凝視していた。 「畜生」 何故かそんな言葉口から零れた。 店が閉まった表通りで横を過ぎる車を見遣りつつ、関口は歩を進めた。車の燈が関口の一瞬照らし出しては消えて往く。 幾度か目に背後を振り返ると向ってきたタクシーがあった。それに向けて関口は手を上げた。 車の後部座席に座ったところで、「あれ?」と運転手に声を架けられた。 「お客さん、一人ですか?」 「ええ。そうですけど…」 「怪訝しいな」 「どうしましたか?」 「慥かに二人立っていたと思ったんだけど…。夜目に見間違えたかな。あ、どちらまで?」 関口は家の住所を告げた。そして道中、仕切りに運転手は頸を捻った。目的地に着き、関口は料金を支払って、車を降りた。 そして「どんな人でした?」と声を架けた。 「私と一緒に立っていた人」 「え?あ…うん…あんたより上背のある…同じ和服だったな。で、こう腕を組んで、遠目だったから顔までは…」 「そうですか。…有難うございます」 関口は頭を下げると、車の扉を閉めた。 彼は一昨年の桜の夜に死んだ。 春めいた日の続いた、酷く寒い日だった。 病院の桜の樹が窓の外に見える部屋で、あの日見下ろしていたのは自分ではなく、彼だった、と述懐した。 未だ少年であった日。 関口は酷い虐めに合うことが儘あった。虐めと云うよりも暴力行為だ。ぼんやりしているくせに酷く強情なことが悪いのか、関口は度々人の『的』にされた。 余り人の来ない神社の裏手で伸びていた。 躰中が軋んで、痛くて起き上がれなかったのだ。 そして起き上がりたくなかった。 目の前で振ってくる白い花びらが美しかった所為もあるのかもしれない。 夜の寒気の中、自分の体躯をゆっくりと少しづつ埋めて往く花びらを熟視めていた。 「こんな処にいたね。花見の場所とりか?」 彼の能く通る声がして、視界にその肺病患者の如き顔が現れた。 「全く…一言声を架けてから出てくれよ」 小言である。 「おい、君。大丈夫か?」 余りに口を開かない関口に見下ろすその眸が心配そうな光を孕んだ。 「…桜の」 「なんだい?」 「桜の匂いに酔ったんだ…」 「そんなに強い匂いなんかしないぜ」 「そうかな…?噎せ返るようなのに。これだけ臭うと犯されている気分になる。」 「何に?」 「桜に、だよ」 中禅寺は呆れたように溜息を落とした。 「兎も角、帰るぞ。寮監にばれたらどうなると思う。叱責は僕たちにまで及ぶんだからな。第一春とは言え未だ寒いんだ。凍死するぞ」 誇大な表現に関口は再び目を閉じた。 「もう、動けない。此処で桜の栄養になるのならそれでもいい」 蛸のような根に搦み取られ、地中のバクテリアに侵蝕されて分解され腐った関口を汲汲と吸い上げ、また桜が美しく咲くのなら。 不意に唇が覆われ、薄く開いていた口内を舌が侵入した。関口は驚いて目を開けると、悪戯に笑った目が至近距離にあった。 そして唇を離す。 「血の味がするよ、関口くん。肩を貸すから、好い加減起きてくれないか?桜は綺麗でも此処は寒くていけない」 桜の根元で自らの死を夢想したのに、実際に桜の下で死んだのは、とても大切な友人だった。 幾度も夢の中で反復する友の死。 関口は酔いの醒めた頭で、夜の闇を熟視めた。 窓の外を何処から運ばれたのか、桜の花が一枚過っていった。 妻女が席を外した病室で、彼はより細くなった骨のような腕を伸ばして、関口の耳へ囁いた。 「これだけは憶えておいてくれ」 「京極堂…」 「僕は此の花冷えの頃君の許へ戻って行くから」 まるで金色夜叉の貫一ようなことを云った。 「約束だよ」 関口は最早殆ど屍骸に成り掛けた男の躰を抱いて、その唇に口付けをした。 目を開けると、其処に彼の唇があって貪った。 彼の手は既に躰のあちらことらを這いずり回る。その手や唇は生前と同じように冷たかった。背に身を寄せられ、胸の突起を押し潰しては引っ張り、弄り回す。もう一方の手で関口の雄芯をしごいた。 指先の動きに自分が刻々と変化する。 関口の臀部に冷たい雄芯が当たった。 死んでいても夜毎に現れては生前と同じように関口と交媾う。 彼の妄執のようなそれに関口は身を任せて、正体を無くした。 酷くやつれた関口に会い、その頭上を半眼で睨み『なんだ、それは…』と絶句するのは、桜の最後の一枚が散った、葉桜の日のことだった。 08/06/06 花冷え〜から切り離した『花冷えに還るひとの名・零』です。 幽霊(しかも色情霊)中禅寺×関口。 現在と過去が交じり合って解り難いと思いますが。すみません。 あ、梶井好きです! では。 タイトルはオペラアリスさまからお借りしました。 |