花冷えに還るひとの名





関口巽が黒い長着を形見分けされたことは知っていた。
黒い、只只黒い、黒橡のその衣は慥かに彼の印象ではない。和服を着ることさえ滅多なことではなかった。だけれど、いつしか彼はそれを常用し次第に彼の物に成っていた。
皆がそうみていることを榎木津は知っていた。



「面白くねえ」
事務所には誰も居ない。
和寅を使いに出し、たった一人残された室内で、榎木津らしくない口調で呟いた。
卑猥なカストリ誌を眺め遣っていたがそれも漫ろで、遂には応客用の長椅子へ放り投げた。
革張りの椅子に凭れかかる。
そして凝乎っと天井を見上げた。
いつまで、関口はあの着物を身に着けているのか。
忌々しい。
まるで未亡人宜しく黒い着物を纏いまるで脱ぐ様子は無かった。
これは契約不履行ではないか、とも思うが、思い返せば確たる約束ではなかったので詰ることも出来ない。
然しそれでも関口は慥かに受け入れようとしていたのだ。
「もう少し、待って下さい」
と慥かにいったのだから。
幾たびか旅に出ようと誘ったが、その度毎に関口はいつの間にか身に着けた温和で優しい様子を見せて、やんわりと誘いを断った。
関口が喪に服し出して、既に二年になる。
あの、黒い着物を脱がしてしまいたい。
榎木津は深く嘆息した。



中禅寺秋彦が死んで満二年になる。
あの古書肆を殆ど人外だと思っていた関口は酷く驚き狼狽し、混迷し、苦しみ、その喪失に埋没した。
それももう二年になるのだ。
関口は羽織を纏い、家を出る。
「お迎えに上がりました」
腰程に低い壁から続く門扉に凭れかかった黒服の青年が関口を見止めると少し笑んで、門柱から離れた。
「鳥口くん」
少しだけ驚いた。
「あれー、忘れてたんですか?お迎えに上がるって云ったでしょう。ほら、榎木津さんと、」
「榎木津?」
「車の中でお待ちですよ」
深緑色のフォードの中には確かに人影があった。
「さあさ、早く乗って下さいよ。遅れちゃいけない」
鳥口が後部座席のドアーを開けたので、言うなりに乗り込んだが、其処に此方を一瞥だにしない榎木津を見つけ少しだけ気不味かった。
否、気不味いのはそれだけではない──────
「僕の顔に何か付いているかい?関くん」
そう声を掛けられて俄に現に戻った。
また、見蕩れていたらしい。
黒い背広に身を包んだ榎木津はいつもに益して端整で、少しだけ不機嫌そうな容貌は実に美しかったのだ。
「否、えっと…あの…なんて言うか…エノさんの背広姿って…」
過去に呆とした髭の濃い男の顔など見たくないとも云われた関口は素直に見蕩れていたなど言えず、しどろもどろに抗言していると運転席に乗り込んだ鳥口に「何気持ち悪いことしているんですか、出発しますよ」と窘められた。
榎木津の横に赤面し黙って座った関口の手を、人の手が握った。
関口はその手から腕を辿って、持ち主を見たが、彼は窓の外を流れる景色を見るばかりで此方なぞ見向きもしなかった。



中禅寺家の縁者であると言う神主が祝詞を上げ、参列者は榊を捧げてしめやかに亡魂を弔った。其処に顔を出した面々は実に多種多様で、関口は屍者の一面しか知り得なかった思いを強くした。
馴染みが久々に集ったことで、近くの料亭に上がりこむこととなった。精進落としである。
仕出もする料理屋で昔は旅館もしていたという。
「然しお前さんもそれ、板に着き出したな」
皆の酩酊が深まった頃、当然酒に弱い関口も限界に近くただ白湯を飲んでいと木場が隣に来て陳給わった。
「旦那、」
「初めの頃はどうにもいけないと思ったが」
猪口を口に運びつつ、小さく笑った。
「そんなに、似合わないかな?」
「似合ねえって言うかよ…」
余りにも痛々しかったとは口に出来なかった。
関口が己の一部を中禅寺預け、中禅寺もそれを受け止め、互いが相愛の間柄であるのは衆知であったのだ。その相手が亡くなり、己の一部を無くしたに等しい関口は目も当てられないほどに痛ましかった。
「まあ呑め」
「もう無理だよ、旦那。これ以上いったら僕は動けなくなる」
「弱えな、相変わらず」
関口の物言いに破願する。
「動けなくたっていいじゃないか!呑め。関くん」
「礼二郎…」
益田や河原崎と騒いでいた榎木津が唐突に現れ、木場は徐に項垂れた。
関口の持つ白湯の中に自分の蕎麦猪口内の酒を注ぎ込んだ。猪口でちびりちびり呑むのが面倒になった榎木津は蕎麦猪口を使い出したのだった。
「エノさん!」
「ほうら、鼻を摘めば此の通り」
長く白い指が関口の鼻を摘み上げ、苦しくなって思わず口を開けたその口へ浪波とした酒を注ぎ込んだのだった。
「礼二郎!手前っっ関口大丈夫かー!関…関口…おいっセキグチー関口タイチョー」
タイチョーと云う声が遠い遠くに、薄らと聞こえた。



柔らかい日差しが縁側の廊下に注いでいた。
猫が丸くなって日向ぼっこをし、卓に腕を着いてそれを見遣っていた関口に家主は皮肉を漏らす。
「猫に戦いを挑むのはもう已めた方がいいぜ」
「戦ったことはないよ」
「まあいつも負け戦だね」
「だから戦ってないよ」
「此の間、ちょっかい出し過ぎて顔を引掻かれたのは誰だったのかな?」
未だ薄く残る爪あとに、不意に本から顔を上げた家主は、そっと手を添えた。
「余り深くなくて良かった」
軽く血が滲んだ程度だったのだ。
「初期治療が利いたかな」
独り言の様に言って、また目線を紙面へ戻した。
横で顔に朱を滲ませる関口のことなぞ、実際に目にしないまでも充分認識の範疇だろう。彼は実際関口の凡てを知っていると云っても過言ではないのだ。
そう、関口は思っていた。
頬に触れる。
指先に感じる薄い瘡蓋。
「また、舐めてやろうか」
不機嫌そうな常態の顔に唇が笑みの形に歪んだ。
「京極堂!」
困った顔をする関口を家主は目線だけで確認した。



脳髄の血管が肥大したようだった。獨々と音を上げて血の循環が聞こえる。
天井から釣り下がる照明が眩しかった。それも頭痛を増強させた。
ゆっくりと関口は躰を持ち上げた。
銚子や皿が畳みに転がっているのが見えた。暴れ回った、と云う形容が正しい座敷は実に混沌としていた。
「諾、そうか…」
此れは弔い酒なのだ。
皆、これほどに故人の喪失を悲しんでいるのだ。
然しその暴れ回った人たちの形跡はあれども人影は何処にも見えなかった。今は何時なのだろうと頸を左右の振った。
床の間の掛け軸は破れ、其処に一緒に置かれていた時計は針は七時で止まっていた。
躰が震えた。
腕を摩る。
寒いのだ。
春だというのに不意の花の気紛れに立ち返る寒さ。花冷えの時分になってしまった。あれから三度目の季節だ。
「関口、」
背後から声が掛けられ、思わず背筋が伸びて、緊張した。
「関口、」
再び呼ばれ、関口は乾いた咽喉に唾液を嚥下させた。不自然な嚥下は奇妙な音を上げた。
「関口、」
三度呼ばれ、背後に人の気配を感じた。
そして両の脇から腕が伸びて、関口を腕に収めた。
思わず瞠目して息を詰める。顔が強張る。
「なんで此方を見ない?」
耳許に口を着けられ、囁かれる。
その幽かな感触に目をきつく閉じた。
逃げ出したい─────
腕を外そうと身を捩った。然し到底その強い腕に勝てる筈も無く、関口は腕の中を反転させ垂れただけだった。
そして、その至近距離で見る秀麗な容貌。
何故これほど美しい人物から望まれそれを受け入れることが出来ていないのか、未だに関口は自身が解らないで居た。
「エノさん…離して下さい…」
「嫌だ」
「だってこんな…こんなとこ…人に見られたら…」
「皆、もう帰ったよ」
榎木津は一層関口を引き寄せて抱き締めた。
その側頭に頬を寄せる。
「関、」
関口の後頭部を撫でながら、榎木津は名前を呼んだ。
耳に触る、彼の優しい声。
嘗て、榎木津の姿も声もその言動も凡てが慕わしいものだった。関口は榎木津の性格を厄介だと思いつつも惹かれていた。
だから、榎木津の申し出にも、「もう少しだけ待って下さい」と応えたのだ。
あの時はただただ心の整理が尽かなかったのだ。中禅寺に抱かれたその生々しさが残る身で体も心も榎木津に鞍替えするなぞ。
榎木津は関口を尊重し、無理を強いることもなかった。
けれどあれから、月日が経っても、榎木津の腕にいることは多大な違和感があった。
絶対的な──────違和感。
榎木津の大きな手が関口の顎を掴む。
そして、唇が触れた。
長い茶色い睫毛に思わず見入ってしまった。
やがて啄ばむようにされ、関口の唇がゆっくりと解かれると舌が搦みあった。舌と舌の表層を合わせまた絡ませ、互いの唾液が絡み合った。
榎木津がゆっくりと体勢を移動する。
関口の膝を崩し、畳の上に背を押し付けた。
「エノ…さ…」
口付けの狭間に関口は榎木津を呼んだ。
指が帯を絡げ取る。男帯なぞこれ以上もなく簡素で最も易いのだ。結び目の輪に指を差しいれ、扱けばあっという間に解けてしまう。
「エノさっっ…!」
関口が叫んだ。


黒い着物だと思っていた。
形見分けされた黒い、只の黒い、黒橡の衣だと。
此の黒さこそ、関口の恋人を失った悼みを表しているのだと。


然し──────


露になった白い膝と腿。関口の下に布かれた衣は、黒くなぞ無かった。
其処には
「御免…御免なさい…エノさん…御免なさい…」
関口は顔を覆って、謝った。幾度と無く謝った。


騙された──────。


榎木津は関口の両脇に両腕を突きながら、それを見ることとなった。
顔が強張る。
唇を噛んだ。
関口は顔を覆い、榎木津を見ない。
そしてそんな関口の下にあるものは、

黒色などではなかった。


濃い橙赤色の六弁の花。鮮やかな緑の葉の中に撓に咲き、また実る数多の石榴だった。


嘗て中禅寺家には石榴と云う猫がいた。主人が愛育していた金華猫である。然し主人が亡くなるといつしかその猫も姿を消したらしい。
その石榴を関口は、黒い衣の内に潜ませていたのだ。
余りに鮮やかで、華やかなその裏地。
橙赤色や橙黄色の花。
それは、悼むそれではない。
そう、それは今も連綿と続く恋慕のそれだった。

騙された──────


ただただ謝る関口に榎木津は顔を顰め、その石榴を見詰めていた。
撓に実る石榴を。










04/04/06


京関と言い張ります。
そして、御免なさい。
着物の先生から未亡人の出で立ちの話を聞き、即座に浮かんだのが京極の黒い着物を形見分けで貰いそれに裏地をつけて常用する関口と、到頭押し倒したのは良いけど其処に鮮やかな花を見て未だに故人を思い続けるのを目の当たりにしちゃった榎木津でした。(長い)(し其儘)

タイトルはオペラアリスさまからお借りしました。