風 花



 孕み女にかじを見せてはならない



 関口巽は夜中に眼を覚ますと寝着の襟を掴み、下方へ降ろした。背を見せたくない。背後に人の寝息が聞こえる。心臓が別の生き物のように脈動しているのをゆっくりと自分のものだと云う認識に引き戻す。
一瞬此処が何処なのか判らなかった。
背にある人の気配はまるであの頃の続きのようで。
「否、違う」
小さく小さく呟く。
どのくらい眠ったのだろうか。傍に置かれた時計を見れば、短針が午前二時をさしている。未だ夜明けまではある。 上肢を起こすと上掛けが少し持ち上がって、寒いという抗議なのだろうか小さく漏らす声が上がった。慌てて隣の人物の肩まで上掛けを戻す。
象牙で出来た精緻な人形。
窓罹の隙間から侵入してくる冬の夜月の沫い光が人の大きさをしたその人形を照らし出している。
此処で髪を触ったら起こしてしまうだろうか。柔らかそうな、その月明かりに今は金糸に見えるそれに指を鼻先を埋めたい。匂いを嗅ぎたい。躰を撫で回したい。
もし、もし、此処が一寸も尽かぬ闇の中で、もしこんな寝て起きた時に髭の感触が出来るようでなければ。
きっとたぶん。
下肢が重いように熱くなる。
床に膝を着き、寝台へ顔を埋める。前身ごろを掻き分けて、下着の中へ手を差し入れる。
「…っふぁ、」
寝台の敷布の中へ吸い込まれる忍ぶ声。
「…ん、んんんふ、んん」
扱いて先走りが滲む。
「ぁ、ん……ふ…ん…」
口端から漏れるそれを敷布に懸命に埋める。
睾丸から迫り上がって行く。
「んん…ん…!」
掌が泥りと濡れる。肩が呼吸に荒く持ち上がっている。呼吸を整えて処理しに行かなくては。
寝台に眠る人を窺うと穏やかな顔だ。寝穢いと言うのか、一度眠ると早々には起きない彼の習性を有り難いと思う。関口はゆっくりと立ち上がった。
廊下に出ると流石に冬のこの時間に廊下に人影は無い。幾度こんなことを繰り返せばいいのだろう。嫌悪が満ちた。
 昼に風花が舞った。けれど今はその気配もなく、ただ墨流しの夜が広がっていた。




「せきくん!」
衆目を集めるに値する大きな声。そして声を発する人物。関口は僅かに戦き、近くの人間の背に隠れる。
小柄な関口は人の影にすっぽりと収まる。彼の声に動きを止めた人々と一緒に其儘暫し過せばいいのだ。
だが、彼にそれが通用するはずもなく────
「何をしているんだ!そんなところで首をすくめて亀の心算か猿だのに」
人影から引き摺り出され、長い腕が関口の肩を捉えた。
僅かに躰が跳ねる。
左手が伸びて関口の顎を持ち上げた。
「余り目立たないが、髭剃ったほうがいい。僕がやってやろう」
あてやかな鳶色の眸子が迫り、関口は思わずその柔らかな顔面を両手で押さえつけた。
「……………あ」
日頃もしかして象牙や磁器なのではないだろうかと訝しむほどなのだが、触ってみれば柔らかく滑らかな膚だ。そして温かい。
関口は奇妙な音を上げて唾液を嚥下すると、恐る恐ると彼の顔面から手を退ける。
艶然とした、見蕩れる笑み。
人を揶揄うのでもなく、まるで僥倖に巡りあった様な────
「昨日寒いと思って目を開ければ君はいなくて、朝は颯々と言ってしまうし湯湯婆ゆたんぽの自覚も無い!」
関口の獣のような悲鳴が四辺あたりに満つる。
「その罰も与えず髭剃りで許してやろうと言ういと優しい僕の温情を」
「や…めれ、ええのはぁっ…ん」
悲鳴は続き、関口は既に床に臥している。その上に馬乗りになった榎木津が関口の腹やら脇やら頸からを擽っているのだ。
「こしょこしょの計だ!」
「や…ぁ」
静止の声も関口の悲鳴とも笑い声とも尽かぬそれに掻き消される。
「僕の云う通りにするね」
抵抗する手を掻い潜って榎木津は関口の躰を擽り捲くる。
「お願い、榎さっ」
「────何をやっているんだ」
冷静沈着な、否冷ややかな声が降り注ぐ。
「こんな白昼堂々と衆人環視の中で、」
「ちゅ、ちゅぜ…ん…じ、はふけて」
関口は顔を上げて其処に居るだろう級友を拝んだ。生理的に零れる涙で視界が覚束ないのだ。
ふうと言う溜息が聞こえた。
「榎さん、関くんを解放してあげて下さい」
関口の悲鳴は続く。
「君が関くんを納得させれば、解放してやってもいい」
「納得?」
中禅寺は携帯する本を持ち直して、関口を見た。
「髭が生えているだろう?」
「生えてますね。目立たないけれど。それがどうかしましたか」
「剃ってやろうと云うのに拒否したんだ」
「当、然でしょう」
誰がそんなこと出来ると云うのか。
「譲歩する気は無いんですね」
「トーゼンだ!」
「だそうだよ、関口くん」
どうする、と問われ関口は悲鳴を上げつつ頷くしかなかった。
止められる手に、関口は力なく床に突っ伏した。涙も涎もで出て酷い疲労感があった。
凍り付いていた校内が動き出して行くのを、朦りと他人事のように聞いていた。
何でよりにもよって榎木津にそんなものを剃られなくてはならないのか。未だ最近生え始めたばかりで薄いそれに億劫がって放置していたのが悪いのだろうか。
榎木津に青年期を迎えようとする男を認知させてしまうことになるのだ。
もう少し早く、もっと若い…幼い時期に逢っていればよかったのか。
「全く世話の焼ける猿だ」
笑うように云って力なく倒れる関口を榎木津は肩に抱え上げるのをされるが儘に居るしかなかった。



 ────お前は私と能く似ているよ、
 叔母の声が谺する。
会ったことも無い彼女の声が。 母には妹があった。
蓮っ葉な…淫蕩な性質で、街の中で誰彼となく関係があって父親の判らない子を産んだのは関口が生まれる前の話だった。
彼女が死んだのは関口が未だ世の光を浴びる前、未だずっと母の胎内で小さかった頃のことだ。
寧ろ関口をそう評したのは叔母ではなく────




 冬の雨の日だった。土曜日の半ドンで学校は放課となり関口は寮にいた。
榎木津の部屋は相方が無くって一人部屋だ。その寝台で関口は榎木津の按摩に励んでいた。何故か榎木津は関口にばかり躰を揉ませる。
如何やら上手いのらしいのだが、能く判らない。
気持ち良さそうに瞑目する榎木津に両膝を跨るように彼の脇に尽き、手を這わせていると「入りますよ」と言う声が聞こえた。
眠っているのか判別の尽かない唸り声を榎木津が上げると、部屋の扉は開いた。
見れば親しい間柄ではないが、見知っている関口と同学年の人物だった。
寮内自治を司る全寮委員會の面子の一人だ。
「関口に電報だ」
緑字で電報送達紙と右から書かれた淡黄土色の紙。緑の枠線囲まれた右端には名宛とありセキクチタツミとあった。左下の大きな枠線内にはイトコシス一字開けてソウキと有り式の日取りが書かれていた。電報の濁点は略される。ソウキは葬儀だ。
「従兄弟?」
榎木津は関口の肩越しに電報を覗き込んで云った。
「あ、ええ」
「明日じゃないか」
柔らかな榎木津の髪が項を擽る。
「行くのかい?」
関口は窓の外を窺った。雨の銀糸が窓枠の内側を埋めている。冬の雨は冷たくしめやかだ。身震いを一つもよおした。
「………」
迷う素振りを見せる関口を榎木津は如何思うだろう。窓に映る二人の像を関口は注視した。肩越しに覗き込む榎木津が不意に顔を挙げ、硝子を通して二人の目が合う。
「僕喪服は実家だぞ。朝一で実家経由でだな」
「え、」
窓越しの視線の交歓が破綻した。関口は耳に入った言葉に思わず隣に居る一学年先輩を見上げたのだ。
「最近着る機会が無かったから樟脳臭いかな?嫌だなそんなの。和寅に連絡するか」
榎木津は一人合点したように手を打ち、襯衣を勢い良く羽織った。毎度思うのだが何故彼は上肢を脱いで関口に按摩をさせるのか。
「そんな僕は制服の心算で。第一榎さんのじゃ着衣の丈が合わないし、」
学生の身に冠婚葬祭に制服は礼服である。
「莫迦者」
榎木津が振り返った。釦をその長い指で器用にとめている。
「誰が君に貸すと云ったのだ!尺とか丈とか合わないだろう」
「だって」
呆れるように溜息を落とす麗人の像に関口は困惑の目線を投げかける。一つだけ思い浮かぶこともあるのだが、いやまさかと打ち消す。
そんな事態になったら眼も当てられない。
「僕が着るに決まっているだろうが。此の猿め」
両頬を掴んで横に引き伸ばす。
「まさか、榎さん」
「僕も行くよぅ」
莞爾とわらった。




 涙雨と言うのだろうか。小糠のように静かに雨が降っていた。
どうやら榎木津の元を迂回した所為で、葬式は既に終り、着いた時は既に蟻の行列が見えていた。否、それは蟻ではなく、黒色こくしょくの凶服が雨に濡れた人々の群れ、野辺送りの行列だった。家の周りには南無阿弥陀仏と墨で書かれた和紙が廻らされている。墨が滲んでいた。
ぶるり、と身が震えた。
冬の雨の日は殊に寒い。
列の衆から聞こえる声明は経文ではない。
野辺を送る為の和讃である。

きめうてふらひおさなこはむせふのかせにさそはれてつひにむなしくなりたまふせうめかはれはおやもこもいちやのやともかさすしてすくにそのはてのへしたくしもにはひんがししらこそてうわにはけふのしらこそてきんしもやうのおひをしめ

前駆のウマは既に姿が見えなかった。
長く伸びた列の遠く先頭には弓がいる。その後ろを故人の名旗が続く。紅いささら上で火を模した松明の次には龍頭の白布が棚引き、花の詰められた籠が運ばれ、故人が未だ若人故に手花はない。続く遺影は覆った硝子が小さな雨飛礫で濡れて能く見えなかった。
近年の彼はどんな顔をしていたのだろうか。
咳の病だときいていた。
病に臥してからの彼の顔は知らない。彼処にあるのは病み疲れたものだろうか。それともあの頃の、関口の記憶の中と変わらぬ……

たまむしいろなるたひをはきよつしのわらしにけふははきしろかねおうきにひからかさしはうとりえのこしにのせいつかもんしかまねかれてはたやてんかいさしかけておんかくおせふのみちひきでとらめうはちうちならしのへへのへへといそかれる

隣から目線が注がれていることに気が付き、関口は脇に立つ人を少しばかり窺った。
関口を見ているのではない。その頭の少し上。榎木津は時々こんな猫みたいな眼をする。何が見えているのか。関口は目線を反らし跫を薦めた。
香箱が過ぎ、膳が並び、位牌は粛々と、杖が地を打ちつつ、亡骸を納めた風呂桶のような柩と、それを四方から担ぐ人々が進む。本来の目的其儘に柩に翳された天蓋はすぐ後ろにある。そして石塔が用意される前に土饅頭の上に建てられる墓標。
野辺送りの列に近付くと、関口は無言で、恐らく親戚と思しき女性に墓標を持つよう指示された。
関口の父母や弟はもっと前にいるのかもしれない。しかし是が非と顔を合わせる気にもならなかった。
少しづつ、雨が重くなっているようだ。傘も無くやってきたので関口と榎木津の肩は既にぐっしょりと濡れている。榎木津の仕立ての良い喪服の上の外套が濡れる。と、もう一度振り仰げば、まるで気にした様子も雨を苦にしている様子もなかった。
見れば野辺送りに連なる衆人は誰一人として傘を差す者は無い。ただ柩だけが天蓋を傾けられている。
土手を行く其処から眼下に松と家並みの瓦があってそのずっと向うが灰色をしている。
都下育ちの榎木津にしてみれば此処は如何にも田舎だろう。
「汐の匂いがするな、」
横で榎木津は呟いた。海が近いのだ。
「…そう、ですね」
関口にしても久しく嗅がぬ汐だった。磯の香りはそれでも夏に比べればずっと薄い。
けれども汐の香りなど云われるまで気が付かなかった。ただ関口はずっと自分の背に意識が集中していてそれを打ち消すことでいっぱいだったのだ。
この列に連なった時から、榎木津は背に手を当ててくれていた。

のへまてあまたにおくられてのへからさきはたたひとりみちひきたまへよかんせおんなむあみたふつなむあみたふつ


和讃を詠う低い声は繰り返される。生憎関口は憶えても居ない。
殿の関口が墓場に着くと、既に柩を納める穴が掘られていた。皆手を合わせ棺がその中へ柩が入って行くのを注視めている。
魔を寄せ付けぬ為の弓の蟇目が鳴らされる。そしていつしか和讃は已んでいて、菩提寺の和尚の読経に取って換わられていた。
背が熱い。 荒縄が墓穴の上で揺すられる。しかし中々縁切りは訪れない。現世に未練があるのだろうか。
「大丈夫か、関くん」
寒いか?と聞かれる。どうやら気遣われているようだ。関口は眼を瞑って頸を振った。
荒縄が切れた。
「漸うだ」と言う男衆の声が聞こえる。
皆湿った一握の土を掛けてゆく。最後に土饅頭が作られ「墓標を、」と云われた。関口が跫を踏み出し衆人の前に出た。自然榎木津の手から離れることになった。
幾多の視線が身を刺のを感じる。
瞬間に明滅するように過去が横切る。
朝髭を剃るのでは無かった。
いっそ蛮カラ学生のように豪々と髭を伸ばせばよかったのだ。最も未だ最近生え始めたばかりで、到底生え揃わないのだが。

────あれは誰だったのだろうか。

結局、最期まで明かされなかった。闇の中で従兄に知らされない儘、誰かに抱かれたのだ。
彼がこの寺院に葬られるのも何かの因縁だろう。否、何もかもがこの因縁に終始しているのだ。従兄の母、関口の叔母は此の寺院で十数年前に焼け死んだのだ。
今見える御堂は再建されたものだった。再建後、小さな御堂になってしまったが、嘗てはもっと大きくて彫刻も豊かな寺院だった。
 嘗ては仲の良い従兄弟だったのだと思う。背にある紅い痣さえ「痛そうだ」と哀れんでいてくれたのに。
誰かが彼を唆したのか。
今となってはもう判らない。
最期まで互いに会わずに、逝ってしまったのだから。

孕み女に火を見せるな。火を見ると産児に赤痣が出来る────

そんな話を聞いたのは何時のことだったのか。憶えていない。もしかしたら従兄に教えられたのかもしれない。
事ある毎に彼は云ったのだ。
「お前の母親は俺の母を見捨てたのだ」と。
初めて抱かれたのは、従兄だった。
男同士の行為に殆ど知識の無かった彼はただ関口の排泄器官を穿ち、傷付いたその血の滑りを借りてまるで一人戯びのように使った。
暫くして関口は従兄に就寝する直前に風呂を使うようにと指示され、時にはその窄まりを解すように命令された。理由は一回で理解できた。
彼は、関口を未だ髭も生えず体形も華奢で声も変わらぬ頃────売ったのだ。男に。
文目も尽かぬ無明の闇に男の生臭い口臭と精液を嗅ぐようになっていた。たぶん複数居たのだと、関口は思う。一度として顔も見なかったし、口も利かなかった。
母を恨んだことはない。
彼女の口ぶりから泉下の叔母を快く思っていないことは判る。けれど、仮令叔母が当時の寺院の住職と懇ろだったろうと、燃える寺院と共に妹を見捨てたことと、関口の背にある赤痣に因果があるのかどうかさえ、判らない。 だのに関口は従兄に逆らうことは無かった。
 関口は俯いて脣を噛んだ。
不意に背に当てられていただけだった榎木津の手が関口の腰を擁いた。
思わず、振り仰ぐと剣呑な顔が其処にあった。そんな表情をした榎木津を初めて見た。雲が重く重なり暗く雨の降るので彼の眸も髪も深い色に見える。眇めた眼の奥は嫌悪に満ちていた。
思わず息を詰める。冷水を浴びせられただった。
────見透かされた。
関口は俄かに混乱し、周章した。
散々ならされ襞を伸ばされた其処は将に淫門で、情けないまでに悶えたのだ。胸乳を腫らせて、涎を垂らして、汗を滴らせて、先走りを零して。
「ぁ、」
身動ぎ、榎木津から離れようとすると、腰を抱く腕にそれを許さないというように力が籠もった。
もう一度、振り仰ぐ。
誰彼無く睨ね付けている。
「榎さ、」
呼びかける声に、冷たい眼が雷神の斧のように振り下ろされた。

「彼奴も此奴も鄙俗いやらしい────」

蔑む、冷めた声色。
もし此の世で雷に打たれるような罰とは如何なるものなのか。北野天神絵巻を見た時に思ったものだ。雷神に打たれて時平は清涼殿で死ぬ。
天罰覿面の場面なのだろうか、些か不安になりながらもそう思った。けれど、果たしてそれが覿面の罰なのかは殊に関口のような身には判らなかった。
けれど、今ならば────
瘧のように寒さと震えが躰を席巻する。
「せき、」
名を呼ばれた。
「大丈夫か」
顔を覗きこまれそうになるのと同時に盛土辺りにいた男衆の一人から水呑団子を振舞われる旨が告げられた。
「すいません、取って来ますね」
榎木津の手を外し、関口は人の環の中へ入って行く。
男の元へ行くと、懐紙を渡された。
其処に二つ水呑団子を貰おうと声を掛けると、
「随分綺麗な野郎じゃないか」
と言われる。
顔を上げると、男の顔には見覚えがあった。だけれど、誰なのかは思い出せない。ただ向けられるその目線が嫌だった。
粟立つような危機感。
もしかして────
団子を抓んで関口の手の中の懐紙に置く。そして男の手が関口の手を握るように撫ぜた。
その温もりを知っているような気がするのは何故だろうか。
躰中を撫で回される。逃げる腰を強く抱く指の感触。背に腕を回され胴を抱き合わされるその温もりが黄泉還る。互いの尖った胸乳が摺り寄せられる。
闇の中で行われた行為。
従兄のものであるのか、他人のものであるのかは知れない。
ただ、あれからもう何年も発つのに。
関口は東京に行き、従兄は病の後、もう亡いのに。
鮮々と思い出せる。

否、躰に、ぬくもりが残っている────

まるで呪いのように。
関口が手を撫ぜられる儘に茫然としていると、上腕を掴まれて引かれた。背後へ。
「え、」
懐紙に引っ付いた団子が、濡れて色を濃くしている土の上に落ちた。
振り返ると、榎木津が立っていた。
榎木津が衆目を集めているのを感じる。見れば、関口の手を撫ぜていた男も白痴のように惚けていた。否見蕩れているのか。
白皙の端整な、如何にも端整な相貌。表情さえ違えば可憐にさえ見える。色素の薄い眸子や毛髪は陽の強い日には琥珀色にも。嫣然としたあてなる美丈夫は、鄙には眩過ぎたようだ。
仏僧の読経さえ弱弱しく聞こえた。
「団子が」
落ちたよ。
「いいよ、そんなの」
榎木津を見ると、何か彼を不快にすることが起こったのだろうか。常には上に向いた脣の端が、今は下降している。美しい彼の丹花くちびるが。
関口は何が彼を怒らせたのか判らず、目線を彼の相貌から肩辺りに移した。濡れているだけだったその細いけれど、関口と違って広い肩には薄らと半透明な物質が見えた。
雨は霙になったのだ。
通りで寒い。吐いた息が眼前に薄白い煙幕を張った。
関口は空を仰ぐ。と同時に視界が揺れた。
「もう、いいだろう。行くよ、関くん」
腕は其儘榎木津に引き寄せられた。
「え、」
「タツミくん、」
男に名を呼ばれる。親戚だっただろうか。あんな人が親類にいただろうか。思い出そうとも親戚付き合いの薄かった関口には俄かに思い出せない。
関口は名を呼んだ男の顔を直視した。対人恐怖症による赤面症と失語症を持つ身には、それはとても珍しいことだった。
「あ…」
声が震えた。
顔を伏せる。失語した。しかし赤面症は訪れない。ただ、酷く冷えていることに気が付いた。
誰にも内緒で従兄に男を迎えさせられていた。
逆らえなかった。
母が叔母を見殺しにしたと云う従兄の言を信じていた訳でもない。
ただ、逆らえなかったのだ。
ただ、鬱屈していた。

嫌だったのだ。

それを救おうとしてくれた男がいた。関口のことは或る男たちの口の端に上っていたからだ。此処から連れ出してやると云ってくれた大人がいたのだ。
然し、余所から流れてきたその男は麗しい寡婦と結婚し、関口とは次第疎遠になった。
その後、関口は自力で此処を出なくてはいけないことを自覚した。学校の成績だけは良かったから、東京の高等学校へ行くことを決めたのだ。
眼の前にいるその男は────彼だった。
寝たことは無かった。ただ手を握ったことがあっただけだ。
呼吸が浅く、早くなる。
「セキ、大丈夫か?顔が、」
紙みたいだ。
関口が榎木津を振り仰ぐと、頭の上辺りを見た榎木津は眉根を寄せた。西施の顰みも此れ程美しかっただろうか。
「行くぞ、」
「榎さんっ」
「もういいだろう。帰るよ」
嘗て男が触った関口の手を榎木津は強く掴んで引っ張った。
榎木津の労働を必要としないその掌は柔らかくて、磁器のようなその質感に関わらず酷く暖かかった。




 霙の降る中を傘も無く駅まで歩いた。榎木津はいつもの歩調を少しだけ緩めてくれていた。けれど何も話そうとはせずただ無言で歩いた。
榎木津は関口の中にある劣情を知らない。そんなことがあるとも思わないだろう。同じ寝台で湯湯婆代わりに共に眠っているのに、その背を向けた此方で股間を触っているなぞ。
榎木津が好きだ。
東京に行って自分の業の深さを知ることになった。もっと性差の無い頃に知り合いたかった。髭なんか生えない、男たちに抱かれていたあの頃に。あの頃の関口はもっと華奢で、少女のように嫋やかだったのだ。
 背筋が震える。
否、判っている。あの頃ではないから、榎木津が好きなのだ。決して彼が此方を振り返らないからこそ。
 駅に着いたのは午后五時を廻っていて既に四辺は暮れていた。
列車は三十分ほど待った処でやってきた。それに乗って十駅ほど過ぎたところで、列車は停止した。もう動かないらしい。理由は外界を望めばすぐに了解した。
冬の夜だのに、仄か朦りと明るい。霙が雪に変わったのだ。列車に乗ってすぐに目を閉じた榎木津の瞼が緩慢に開かれる。
深い鳶色をした眸子が関口を真直ぐに見て「降りよう」と告げた。
海はもう遠い。
駅舎の周りも四辺も皆白かった。
白い沫い物体が間断無く降り注いでいる。頬が切れるように冷たい。
 降り立った駅の前には宿屋があって、其処で夜を明かすことにした。
流行っていないのか部屋数はあるようで関口と榎木津は続き部屋を取った。欄間と襖一枚で隔てている。夕餉を「もそもそ」すると云いながら平らげた榎木津は早々に風呂を使い、宿の人間を待たず関口に布団を敷かせると颯々と寝床に着いた。
部屋の暖房器具は火鉢ばかりだ。
布団に入った榎木津を見ると関口は襖を閉じた。
「関口、」
襖の向こうから声が聞こえた。そして久方ぶりに彼は関口を「関口」と呼んだ。
「君の故郷は嫌だね────」



それが夢なのか、現なのか、判らない。
関口は嫌な汗の浮かんだ顔を両手で覆った。襖に寄ると未だ榎木津の微かな寝息が聞こえている。雪見障子の向うで何かが動いた。明るい。関口は膝を着いて雪見障子を薄く開いた。
真白な外界が広がっていた。鈍色をした空は小康状態であるようだ。
庭には竹藪があり、雪の重みに撓っていて、見ていると音を上げて竹が雪を落とした。
もう昼に近いのだろうか。
火鉢の中は殆ど灰になりかけていた。
 榎木津は、鋭い。頭がいいのだ。失せもの探しとかも得意だ。時々関口が無くして、無くしたことさえ忘れているもののことや場所を言い当てたりする。
好い加減のようで、見ているだろう。
「君の故郷は嫌だね────」
寝入り端に聞いた言葉が関口の夢の産物なのか、実際の出来事なのかは知れない。だけれど耳から離れない。
現だとしたら、あの葬儀の中で榎木津は何に気付いたのだろう。
 嘗て網元をしていた祖父の残した土蔵があった。関口の密事は殆ど其処で行われた。厚い壁と重い扉。閉ざしてしまえば外に漏れることはない。同時に外から光が刺すことも無い。
関口は土蔵の中で男達の体に淫れたのだ。
何故従兄の手を振り払わなかったのか。
「お前の母親が殺したんだ」
そんな罵声を何故受け入れたのか。
関口は咽喉を鳴らして息を吸った。
故郷を出てからどれだけして咳の病を患ったのだろうか。
ずっと帰らなかった。
帰りたくなかったのだ。けれど、帰れば彼の病状を知ることも出来ただろうか。病み疲れたその顔を一目でも見ることは出来ただろうか。
もう二度と、会えないのだ。
死んだ彼はどんな顔をしていたのだろうか。
遺影さえ、雨に邪魔されてみることが出来なかった。
ずっとずっと幼い頃、優しかった従兄。孕み女に火を見せるな。火を見ると産児に赤痣が出来ると知って、豹変した彼。それでも関口は────
「彼の気の済むようにさせてやりたかったんだ」
呟いた。
優しかった彼を忘れることが出来なかったのだ。
「お前は俺の母そっくりだな」
そう言ったのは他でもない従兄だった。
「誰にでも脚を開く」と嘲う声。
もう────二度と聞くことは無いのだ。




 眠りの淵から意識が浮上すると同時に布団の中を弄った。いつもなら其処にある筈のものが、無い。
「寒い!」
重く閉じる瞼を抉じ開けると、見覚えの無い天井があった。障子の向うが微かに明るい。夜が明けているのだろう。反対を望めば、襖は閉ざされた儘だった。
慥かに双間続きの部屋は取ったが、まさか関口が布団に入ってこないとは思わなかった。それ程、彼の湯湯婆化が常態化していた。
眼前を覆っていた髪を掻き上げるとその儘伸びをして大きな欠伸をした。
一緒に眠らなかったのは、葬儀の所為だろうか。
不図、心うちに過るそれは、嫌な感覚に満ちている。
「セキ、」
未だ寝ているのだろうか。
己が起きたのに不逞野郎だ、と毒気付く。
「関、」
もう一度呼んだ。
けれど物音もせず、寝息もしない。
榎木津は不快な顔をして乱れた寝巻きを直そうともせず、襖を開けた。
布団が畳まれて黄色い畳の敷き詰められた部屋の端に寄せられていた。。
脱いだ寝着の浴衣は不器用に畳まれて、取り上げてみると冷たかった。
部屋の中の小さな青色の火鉢を見れば既に置き火となって久しいらしく、白く成り掛けている。不意に自分が使っていた部屋に戻り其処に置かれた火鉢を見れば、黒い炭の内側が赤い。
新たな炭に換えられたのだ。
見回すと昨夜衣桁に掛けられていた筈の関口の制服が見えない。あるのは榎木津の外套と喪服ばかりだ。既に乾いているそれを着て、部屋を出て帳場へ行く。
帳面と火鉢を抱え込んだ、宿の親爺がいた。益子の狸に似ている。
「起きなさいましたか、お客さん。食事になさいますかね」
丁寧な口調で聞かれ、怪訝にすると少し親爺は笑った。
「お連れさんが、起きたら食事にして欲しいと言付けて往きましてね」
「行った?」
「はいな、」
「何処にだ?狸さん、」
親爺が頸を傾げた。
「猿だよ、猿」
「サル?」
榎木津は要領を得ない親爺の頭の上辺りを不快そうに凝乎っと見て、「ふぅん」と頷いた。そして玄関の方向を向いて左側にその長い人差指の先を向けた。
「あっちだね」
そういうと懐から財布を出した。
「ああ、否御代は出てったお客さんに」
榎木津は少し眼を瞠ったようだった。が鼻白んだように、鼻から一息勢い良く呼気を漏らした。 関口は決して裕福ではない。それ処か赤貧を流すが如くと云った懐事情だ。そんな男が榎木津の分さえ払って姿を晦ましたのだ。
それが何を指し示すのか────
玄関の上がり框を下りると勝手に下足箱から自分の靴を出した。
「お客さん、何処にっ」
慌てたように親爺は立ち上がった。
「雪が引切り無しですよぅ」
懇願するような口調だった。
「傘を貰い受けるぞ。出て行ったサルを捕獲するのは僕の仕事じゃないんだが、あの本馬鹿はいないしいても動こうとしないから、仕方ない」
榎木津は傘を持って外界へ出る。
円い破風の下の丸電球が燈されていた。
空を仰ぎながら傘を開く。円舞曲のように雪が円く巡りながら濃灰の穹から零っている。忙しないほどだ。
蛇目の傘を肩に掛けて、関口の向かった方向へ歩みだした。
空も景色も青とも灰とも尽かぬ鈍い色の中に埋没している。
昨晩から降り続いていた雪は踝ほどまでを埋めていた。
履いて来た革靴の中へ雪が侵入して来る。跫先が冷たい。息を吐くと一瞬眼前に煙幕が張って、すぐに消えた。
 駅前から少し経つと、一つの靴跡を見つけた。革靴の底だ。
横に自分の跫を並べてみると、それが誰のものであるのか知れた。歩幅も慥かだ。先へ目線を転ずれば、一対の靴跡が何処までも山を登る道へ伸びている
こんな日に山へ革靴で行く近隣の者は、居ないだろう。
傘の内側から顔を上げる。今はただ黒く見える木々の上上に綿のように雪が掛っていて、時折音を上げて枝の先から雪を振り払っていた。
関口は傘を持って出掛けただろうか。何故こんな心配をしなくてはならないのか。こんなに不快にならなければいけないのか。
 榎木津は靴底を共に歩みだした。




 蜿蜒とした山道に、一対の靴跡が続いている。 如何程に歩いただろうか。生憎時計は忘れてきてしまっている。辺りは鬱蒼色を増していた。昏く蒼いのだ。それは雪の夕闇の色だ。
 登っている道程に時折ささくれるように、下降する道があった。川辺へ降りるものだろう。靴跡はずっとそれを無視していたのに、ある処で下降する道を選んでいた。
その坂への入口辺りに腿の丈程の、頭頂が三角をした道標があることに気付いた。頭頂にも其処に掘られた文字の溝にも雪が積もっていた。指先で雪を払うと、
『こひそのふち 至 壱里』
とあった。
「こいぞのふち、」
口に出して読むと、何処かで雪が降ろされた。
山の中は森閑と静謐に満ちて、時折響くのは、雪の降ろされる音が経つばかりだ。冬の、雪の日だからなのだろうか。都下に育った榎木津には馴染みの無いことだった。
そして靴跡を追って、坂を下り始めた。
靴の主が何を考えているのかは知れない。だけれど────
あの葬儀に行かなければ良かった。
悔いている己がいることを榎木津は知っている。
何もかもが情欲に塗れていた。
彼奴も此奴も鄙俗らしい。
ただ、ただ不快だった。
あれでは、関口が逃げ出したのも。
────。
不図顔を上げる。
音が聞こえたような気がする。
気配なのか、音なのか。
水音だ────

 黒い水溜りがあった。左手から水が流れ込んでいる。
氷る様子は無いようだ。ただあたりは雪に埋められて、いつしか周囲は雪の日特有の仄明るい夜の帳が落ちていた。 前に人が立っている。黒い服を着て。
────否、あれは

「猿だから山が恋しいか?」

声をその背に浴びせると、驚いたのか怯気りと躰を小さく震わせた。
そして緩慢に振り返った。
「榎さん…」
その顔は実に驚きを隠せないと言った風情だったが生憎榎木津の気に入っているものではなかった。不快がまた内腑に落ちる。積もる。ずっとずっと不快が降り続いていた。
「何処に行く心算だ」
関口は困ったように、たぶん、笑った。
ゆっくりと頸を振って、何処にもと応えた。
「じゃあ、其処から上がるんだね」
関口の両肢は水溜り────とても大きなものだった────に臑まで浸っていたのだ。それが『恋ぞの淵』だと云うのだろうか。
榎木津の声に関口は少しだけ身動いだが、その儘停止した。
「榎さん、」
「なんだい?」
「尋常の頃僕と、彼…従兄とで来たことがあったんです。此処に。夏で。山の中は里よりは涼しかったけど長い道程を歩むには充分暑かった。そして泳いだ。ぼぼ僕の背には赤い爛れた火傷のような痣がある」
関口の躰が不意に震えだした。
そんな水に浸かっているからだ。
「母は────叔母を見捨てたんだろうか」
ずっと不安だった。
「叔母は昨日行ったあの寺で焼け死んだんです。淫蕩な性質の人で、その頃は寺の住職と懇ろだったと長じて聞きました。そして母が、身重だった母があの寺を焼けるのを見て、叔母も助けることもせず────生まれた僕の背に、」
燃え盛る寺の光景。
榎木津はその柳眉を顰めた。
「僕の故郷では身重の女性に火事を見せてはいけないって云われていて。見ると、子供に赤痣が、」
視界が滲んでいる。頬が濡れて温かい。
関口は脣が塩辛いことに気がついた。
しゃくり上げる。
泣いているのだ。
「従兄は、彼は、僕を土蔵に押し込めて────」
両の上腕を掴まれた。
「いいよ、そんな話は」
すぐ傍で声が聞こえる。
「でも、ぼ僕は、それでも彼のことが────」
好きだったんだ。
「そんなことをされても、それでも。逆らえなかった」
好きだった。
逆らえなかった。
彼の云うことを聞いていれば何れ受け入れられるかと思っていた。
けれど、矢張り耐えられなくて、家を出たのだ。
「だのに、同じことを繰り返している」
しゃくり上げた。
関口は俯いた。嗚咽が止まらなかった。
水音を上げて、関口は榎木津によって水の中から引き上げられた。
「えの…さん…ごめんなさい、ごめんなさい」
しゃくり上げる中で関口は謝った。
そしてぶるりと躰を震わせた。関口は外套も着ていないことに榎木津は気がついた。何処にやったのか。
関口の脣は青味を帯びている。
「えのさん、ぼくは…えのさんが、」
肩が持ち上がって胸を震わせながら呼吸を吐き出した。顎を持ち上げられる。
「脣が紫だよ」
そして温かで滑らかなものに脣を塞がれた。食むように動いて、関口の脣を吸った。
榎木津の舌が関口の脣を静かに叩いて、関口はそっと受け入れた。
貪るようだった。
互いの口内で交じり合った熱い吐息を外界に放出させると、榎木津は関口を抱き寄せてその髪の中へ鼻先を埋めた。
「もう泣くな、セキ」
髪は冷気に曝されて甚く冷たかった。
頬を両掌を包むと、榎木津の拇指が関口の下瞼を押し上げて、鬱蒼と長いその睫毛に脣を当てて吸った。
「な、なんですか?」
「雪が、積もっていた」
そっと囁粧かれ、関口の瞼には柔らかな脣が降った。




 夜に飲み込まれた山中は雪の夜とはいえ、暗い。
榎木津と関口はこひそのふち入り口とあった坂を上り、山道へ出た。辺りはもうただ墨を刷いたように暗い。歩いてきた道は一本道だ。迷うことは無いだろうが、昨夜泊まった宿に戻るには時間が掛かるだろう。
不図暗闇の中に燈が見えた。
薄黄色い。
「榎さん、」
関口が呼びかけると、榎木津も同じものを見ていた。
 せめて一夜の宿を頼めればいいのだと思っていたが、山道をまた少し登った処にみえた燈は近寄ってみれば、屋号が掲げられた一軒だけの温泉宿だった。
出迎えたのは四十辺りの宿の主人だった。
 雪に塗れ濡れ、遭難者然とした二人と見ると何やら合点したように頷いた。
「どうぞどうぞ、今日は客が全く無いので何も用意しておりませんが、部屋と風呂はありますから」
そう云って手拭いを差し出してくれた。
宿の主人何処かの僧侶のような作務衣に屋号の染め抜かれた藍の綿入りの丹前を着ている。
玄関の脇に囲炉裏が切られていて、温かい番茶と握りを出され、上衣と外套を脱いで暫し其処で待つようにと告げられた。
「突然ですみません」
と胡乱に関口が申し訳なく云うと、主人は莞爾と笑った。
「まあ、時々、そう、こんな日に、お客さんたちのような人たちが見えることがあるんです」
「え?」
主人の言に声を上げたのは関口だった。
榎木津は米から作った甘酒を口にしている。麹滓が舌に残るのが気になっているようだ。
「まあ男同士で世知辛いこともありましょうし、慥かにあの淵は蠱惑的でしょう?『こひそのふち』だなんてねぇ。でも世を果敢無むなんて」
何を主人は云っているのか。囲炉裏のが弾けた。
「こひそのふち?」
主人の言葉をなぞるように繰り返した。
「おや、知りませんでしたか?みねよりおつるみなのかわこひそつもりてふちとなりぬる────なんて」
主人はそう云い置いて姿を消した。
囲炉裏の火の弾ける音がする。
「関くん、」
「はい?」
「黙っていなくなるのは無しだよ」
そう云って濡れた前髪を払われた。




 主人が現れて、どうぞと廊下を促される。板葺きでは此の山中では冷たいのか、畳敷きの廊下だった。廊下の所々に小さな火が燈されている。
道々、主人は宿内の説明をしてくれた。
風呂は突き当たった処に露天があるとか、客は他には居ないとか食事は先ので飯が終わってしまっただとか。
部屋の前に着くと、主人は戸を開けて「どうぞごゆっくり」と告げて引き返していった。
次の間を経て主部屋に行くと既に布団が敷かれていた。

一つだけ────

一つの掻巻布団に双つの枕が並んでいたのだ。
無言が双人から発せられた。
関口はあの主人が度々引っ掛かることを云っていたのに漸く気が付いた。
お客さんたちのような人たちが見えることがある、とも、男同士で世知辛いこともありましょう、とも云っていた。
あれは、そういう風に見られていたのだ。
内心、慌てふためいたが、躰が硬直して幸運にも同様を外に示すことにはならなかったようだ。
…慥かに、こひそのふちで榎木津は口付けをしてはくれたけれど。
 関口は横目でそっと榎木津を窺うが、榎木津は布団に不満も見せず況して主人の勘違いにさえ気付いた様子も無く衣桁に外套を掛けた。
「風呂、行ってくるよ」
 此処は宿屋で況して風呂は露天だと云うのに、二人は別々に風呂を使った。
関口が部屋に戻ったとき、既に部屋の燈は落とされていた。榎木津は掻巻布団に下半身を浸して、雪見障子を開けて黒い外界を見詰めていた。
どくり、と心の臓が脈音を上げた。
思えば、寮生活だと云うのに関口は人と一緒に風呂に入るという概念が無かった。それは自分の背を気にしすぎる故だとも判っている。高等学校では誰も関口の母の罪をそれと気付くものは居無いと言うのに。
「榎さん、やっぱりもう一個布団を用意して貰おうか」
「何でだ」
榎木津が頸を傾げた。
一緒に眠る背を向けた此方側で何をしていたのかも判らぬからこその反応だろう。榎木津にとって関口は湯湯婆の何ものでもない。
部屋には火鉢もない。主人が用意し忘れたのだろうか。榎木津は寒くなかったか。
「おいで、寒いんだよ」
矢張り湯湯婆なのだろう。
「駄目だよ、やっぱりもう一式用意して貰おう」
「何故だい?」
寒いじゃないか、と云った。なんと言う分からず屋なのか。むずがる子供のように見える。彼の顔が美麗なだけに尚悪い。
関口が、眠る榎木津の横でやっていたことを知ればきっとその子供のように緩められた天衣無縫な態度もその今は柔らかな表情も一遍するだろうに。
後ろ手に戸を閉めて関口は布団の足許辺りに膝を着いた。
「榎さん、」
躰から熱が奪われてゆく。
此処は寒い。
関口は榎木津に背を向けた。
そして丹前を脱ぎ捨て、襟を抜いて背中で撓んだ処をぐっと下方へ引っ張った。
以前よりは多少色も薄まっただろうか。其処には広範囲に赤い痣があるのだ。
身重の母が叔母を見殺しにした証左が。
従兄がまるで暴力の手段のように用いた論拠だった。

「醜いでしょう?」

人の動く気配がした。
そして
「彼奴等はこれを見てはいないんだね」
耳の後ろで声がした。
「え、」
何かが背に触った。
触っては離れる。その度に僅かな音がして、そして生温かいものが這わされるに至って、漸うとそれが榎木津の脣だと云うことに気がついた。
「榎さんっ」
腕が脇から肌蹴ていた前身に回された。
そして肩越しに脣を貪りあった。
柔らかな指の腹が胸の飾りのような其処へ触れた。微かな反応があるのを見ると、榎木津はそれを指で押し潰してみた。舌が絡み合い、関口が少し呻くと指で胸乳を抓んだ。
「んっ」
混ざり合った唾液が零れた。
榎木津の指がその零れた唾液を拭い指を湿らせてまた胸に触った。
ぷっくりと起ってきたそれを転がすようにすると関口は躰を前傾させた。脣は離れたが関口の腹と腿に挟まれてしまった榎木津の腕は未だ不埒な動きを続けている。
指が顎を掴み口内に指を侵入させる。
「榎さっ、」
背に口付けが落ちた。
「ただの痣だよ」
「え…」
指が口を掻き回される。舌と頬の肉を蹂躙されて抜かれると、両手が胸を触った。
抓んで転がされる。乳輪から腫れるように持ち上がって、胸乳が勃ち上がった。
「ただの鳥渡不運な痣だろう。あの中に誰も火事を見た人間なんていなかった」
あの中?
「葬式だよ。君の家族も居たんだろう?」
居た筈だ。だけれど結局父母とも弟とも顔を合わせる、瞥見する暇さえ無く帰ってきてしまった。否、今は会わなかったことに安堵さえしているのだ。あの場には居たくなかったのだ。
「誰も火事なんて見ていないのだよ、関くん」
背をきつく吸われた。
「ん、」
「でもこれじゃ全然目立たないな」
「…っん」
きつく吸われる。けれど徴が其処に浮かび上がることは無い。痣の所為なのだ。少し疎ましかった。
手が帯の結び目を解いた。廻された帯の狭間に手を入れて、完全に関口の躰から落とした。
手繰り寄せた裾の中へ手を侵入させると、関口の背が戦いた。
「榎さんっ、や…」
下着を背から手を入れてその儘膝へ下ろした。腿を撫ぜて、項へ脣を押し付けた。
「ん、」
漸く其処にくっきりと痕が浮かび上がる。
腿の後ろ側に手が回り内側を指を掛けられる。
「嫌だじゃないだろ?なんで僕に背中を見せたんだ、」
漸くできるんじゃないか。
「え、」
腹と腰から腿を撫で回される。
ぞくぞくと躰が粟立ち、腰が震えた。
指が茂みを荒らして雄芯に触れた。
「感じ易い、」
そう榎木津が呟いたのには、既に勃ち、先端が濡れていたからだ。
「ん…ぁ」
榎木津が腰を押し付ける。
「君が何をしていたかなんて知っているよ、」
「え、」
「我慢比べだ」
囁かれて耳朶を噛まれた。




 はあ、と漏らされる吐息が煙幕を張った。
火鉢も無い室内に個体が双つ、熱を発している。汗さえ滲ませて。
手首を掴みぐっと引く。
「んっん、ん、」
関口の両腿が榎木津の腰腿を挟み込んでいた。臀部の薄い肉が榎木津の腰に乗っている。雄芯を奥まで咥え自重で沈み込ませた儘、背を撓らせて伸び上がっている。頤を上げてそのまま呻いて震えている。
「ん…ぁ…ぁ」
性感が高まっている。
また腕を引くと、腸壁が蠢いて榎木津を締め付けた。きつく。
「ぁ、ぁ、あ、あ、あ…」
声とも呼気とも吐かぬ音を漏らして矢庭大きく震えた。
両手をつかまれていた関口は、白濁を掻巻の上に振りまいた。
「や、ぁ…」
榎木津は腰を動かして性感の極みを更に使った。
極まる────
関口の手を解放するとその腰を両手で掴み持ち上げ、自身から離そうとした。流石に中へ放出すれば辛いのは関口なのだ。
だが、その意を知ったのだろうに、関口は己の腰に掛った榎木津の両手をその上から覆い、尚も深く沈みこませた。
重心を落としてきつく締め付ける。
榎木津は埒を明けた。
荒い呼吸の二重奏がただ室内に響く。呼吸が白い。
「…ごめんなさい…」
冬だのに蚊の鳴くような声を上げて関口は躰を前方に倒し、膝と手を掻巻に着いて、引き抜こうとした。
けれど引き抜かれることは無く、手膝を着いた関口の背にその儘圧し掛かった。もう一度中へ入るそれは音を上げた。
「なんで謝る?」
「だって…」
中で出させてしまった。
榎木津は外に出そうとしてくれたのに。
けれど、そんな気遣いは無用だった。精を下肢に呑み込んで後で辛くなるのは充分承知だ。
散々それは味わった。
けれど、
けれど────榎木津にその辛さまで与えて欲しかったのだ。
「…え、榎さん」
肩を押されて関口の視界が半回し横向きになる。着いた右肩と背が掻巻から食み出てささくれた畳に触れた。ちくちくする。
関口は両膝を胸に抱えるようになってた。
「ちょっと…」
榎木津のものが中で大きくなった。
「顔が見たかったのだよ、そんな泣いているなんてさ」
「え、」
左腿の裏を胸に押さえられる。そして膝から下が移動され、関口は完全に背を畳に着けられることになった。
榎木津の表情が精悍さを帯びる。
ぐっと腰が持ち上げられ、柔軟に耐えない関口には少し辛い体勢だったが、「ほら」と促された。両腕を榎木津の肩に掛けられたのだ。
関口は榎木津の頸に腕を廻して抱きついた。
熱い。
闇の中の誰とも知れぬ男のぬくもりは消えている。何もかも真新だ。あるのはただ榎木津と己の躰だけだ。 涙が出てきた。
弔いを。
従兄が過去を何もかも持って行ったようだった。
弔いを────
関口は絡める腕を少しだけ緩めると、榎木津の脣を求めた。




 廊下を歩んでいると名を呼ばれた。
「関口くん、」
振り向けば中禅寺が居た。丸二日関口と榎木津は姿を消していて学校にさえ出てこなかったので、酷く心配されていた。素破遭難かとも囁かれていたらしい。
「ご苦労様、大変だったね」
「え、」
驚いたように、中禅寺の顔を赤くなりながらみれば、彼は呆れたような顔をした。
「葬式だったんだろうに」
「ああ、うん。そう」
胡乱なのは常態なので余り不思議にの思われないだろう。
「従兄だったって?」
「諾…色々思うことがあった人だったけど、今はちゃんと悲しい」
そういうこともあるんだね、と関口は呟いた。
「処で、君と榎木津は」
予鈴が鳴った。
「あっ、授業だ」
関口は身を翻らせた。

 その黒髪の襟足、制服の詰襟のはざまに、未だ春早い花辯はなびらが見えた。















beniさまに関口の従兄設定を頂きました。ご使用許可有難うございました。
27/feb/09