Enokidu/Sekiguchi-Chuzenji

「いっだ─────っっっ!!!!」

怒声…悲鳴と言うには余りにも色気の無い…が轟き渡った。
『京極堂』の主が店から酷い顔で戻ってきた。
そして関口が上肢を縁側に伸ばしているのを見て、
尚顔はどす黒い渦を巻いた。
「何をしているんだい?」
常ならば相して睡っているのは榎木津の専売だったはずだ。
「君が変な声を上げるからお客が酷く怖がっていたよ」
「客?」
「ちょっと頼まれごとをしていてね」
「ああ、此間仕入れたとか言っていた…」
そうだ、と答えて室内へ入ると、榎木津が関口の足許に座り、卓に突っ伏していた。
入ってきた主人をみて「早いな、京極」と宣った。

「然し人の家に来て、あの怒声は頂けないな、関口くん」

「だって京極。榎さんが、僕が口内炎が出来て痛くて敵わないと言ったら─────」

へらへら笑う榎木津を関口は睨めつけた。ぴくりと京極の眉が動く。

「榎さん酷いんだぜ。厭だ痛いって言うのに、人の口内炎を抉っ…」

世界を滅ぼそうとするアンゴルモアはこんな顔をしているのかもしれない。
遥かに遠い、1999年を関口は憂いた。

それほどに─────凶悪だったのだ。京極堂主人中禅寺秋彦の顔は。

「人の家で何をやっていたのか、訊いても…」
関口は逃げ腰になる。
咽喉の渇きを潤そうとする人体の機能か。唾液が分泌され音を上げて嚥下した。
脂汗が─────

「い・い・か・い?」

スタッカートでも附されたようなその口調に、関口は声無き悲鳴を、榎木津は高らかな笑い声を上げた。


榎関+中禅寺
アンゴルモアって使用法あってますでしょうか?
『主の居ぬ間に関口へ接吻くちづけをし、舌で散々口内炎を弄んぶ榎木津in京極堂』でした。





Aoki/(Sekiguchi)

地取りに来たビルヂングの上で夕日を見ると余りの眩しさに目を眇めた。

もう何週間連絡を取っていないだろう。
会ってないのはそれ以上だ。
最初は少しだけ意地悪をする心算だった。
そのうち向こうから連絡がはいるだろうと。
然し一週間たち二週間、三週間………
………求められてみたかったのだ。
切迫した声で、向こうに奥さんの声が聞こえるような状況下で、何処かで(概ね古書肆の処ではあるが)会って「物のついで」ではなく─────

外套を弄り、煙草を取り出す。

燦燦と照りつける西日。やがて夕間暮れとなる。今日も一日が終わる。それでも仕事は昼も夜もない。今のところ連絡をしても会えない。
それでも連絡が欲しい。
会えないといった時の悲しがるような声が聞きたい。残念だという声が聞きたい。

「人の欲望って果てしない…」

呟くと煙を肺いっぱいに吸い込んで、白煙を吐き出した。
少し頭がすっきりとする。
一体何時間連続労働だろうか。
背後で名前を呼ばれた。
振り向くと後輩が扉から顔を覗かせた。
「青木さん、何黄昏てんですか。もう行きますよ」
「あ、うん」
煙草を足で踏み潰す。
階段を下りてゆく後輩の背を追いかけ訊いてみた。
「お前さ、恋人にちゃんと会ってるか?」
後ろから見る後輩の耳朶が一気に赤味を増した。



青関
青木はちゃんと関口を恋人だと思ってます。





Chuzenji/Sekiguchi

「君は本当にいつでも惰眠を貪っているね」
夢か現か声が聞こえる。

よく知った声だと思うが、わが身を襲う睡魔にはっきりとしない。

「全く……子から頼まれ…………置い……ぜ」
何を言っているのかはっきりしない。
睡りの淵はもう其処にある。

「…ん…」

唸ったのかと思ったが相変わらずな、小動物の風情で長年の知人は丸くなって睡っていた。
夕暮れの時分である。
妻から作りすぎたからと夕食を託されたのだ。
尤も、これは知人の細君が留守にすると聞いていた妻が気を利かせたのかもしれない。
訪れてみれば、鍵は開いていて、家の主人は寝扱けている。
名前を呼びかけても、起きる気配は無かった。
既に午睡とは言わない時間だ。
宵の惰眠…
夕惑いとでも言っただろうか。

知人は能く睡っている。

その横に膝を着く。
前髪を押しのけ、額を上げた。
白い額。
そして、眼球を覆う血管の透いて見える薄い皮膜、に顔を寄せた。


─────触れる


人の家のことだが鍵が何処にあるのかわかっている。それを使い鍵を閉めて、知人宅を後にした。門の内側の家人が丹精を籠める植木鉢の下へそれを隠した。
書置きも残してきた。
外界はとっぷりと暮れている。
墨の中に世界を浸したようだ。

家路を歩みながら不図思う。


夕暮れに惑ったのは誰だったのかと─────。



中禅寺→関口
こんなので、すみません。





Enokidu/Sekiguchi-Jun

「何がなんでも 添わねばならぬ 添うて苦労が してみたい」
どういう風情か、女が唄った。
「そういう思いがあったのかい?」
目を細める男は美しい。女は笑った。
「私じゃあないわよ」
頸を傾げると「ぬしさんのことですよ」と一昔前の遊郭の女郎のように言った。
「貴方にはそんなこともあったんでしょう?時々とても優しい目をして…見ているから」
女が顎で示した先には疾うの昔に潰れた小柄な男がいた。
そして男は苦笑する。
「色に出にけり、か」
「なんです?古風な」
常にはそういう文句を言うようには見えない。
「それは雪ちゃんのことだね。彼女は実際その都都逸のようにして、そのようになった。…僕はなれなかった」
悔恨を語る口調ではなく、懐かしいと云うような調子だった。だが女の目は逃さない。
「そんなぎらぎらしてちゃ、嘘くさいですよ。隙を狙っているくせに」
鷹か鷲のようだ。男と女は声を上げて笑った。
「さて勘定してくれるかな」
言われた金額を男は財布から取り出す。
「俥、呼びましょうか?」
「いいよ、外で捕まえるさ」
「でもその子、酔ってて」
ひょいと男は担ぎ上げた。実に軽々と。
「問題は無いだろう?」
そうして扉を出て行く。実にあっさりと。意中がいる者にとって(それもすぐ傍に)酒場の女なぞそんなものだ。
「何処か連れ込んじゃえー!」
後姿に野次のような声をかけると、男は手を上げた。笑っている風情だった。






お潤さん 榎 関口 でした。。。




蘇州夜曲 Enokidu/sekiguchi





風に起こされる小さな漣。
蓮の密生する辺りをゆっくりと過ぎ、湖水の周囲を廻る柳がその影を水面に映し舟が進む度に歪んだ。
見上げれば中天には暈の掛った月があり、朧気だった。
春に成ったとは云え未だ膚寒い。
だのに湖に出ようなどと。
顎が掴まれ、下唇を弄られ、そっと口を開かされる。薄く開いた口を前歯を掠めて甘い汁が滴り、白色半透明の実がと白く長い指が押し込められる。唇と果実の多汁と長い指の狭間でぢゅと言うはしたない音が聞かれた。
「旨いか?関くん」
耳朶に囁かれた。
そして鼻先と唇が触れた。
「甘いよ…」
「楊の小娘になったようだろう?未だ季節に早い」
その儘背後から肩に顔を埋められる。
柔らかな髪が頸筋に触わり、其の感触に肩を竦める。
「でも、あの娘のように肉置きが豊じゃあないな」
「エノさん、もう戻りましょう」
「何故?」
「寒いでしょうに」
「全然。温かい」
そういって関口の胸の前で腕を交差させた。きつく。
「え…エノさん」
身動ぐと、舟は揺れた。
「静かにしないと落ちるよ、関くん」
然し此んなの宵に舟遊びをしようなどと云う榎木津は矢張り榎木津であった。しかも関口は此の小さな舟に寝転がった榎木津の腿の間に臀を置いてその胸に頭を乗せて────謂わば榎木津を敷布のように背にして其の上に寝転がっているのだ。
湖の上は白く霞み、遠くに見える堤が墨で描いたように仄ぼんやりと浮かび上がっていた。 遠くに見える山並みは月の眩さと反対に黒く塗潰されていた。


「しようか────?」


漣に紛れてささめく声に蕩けそうである。
思わず諾と返してしまいそうなほど、榎木津の声は力がある。それは関口にとって魔力である。
「……エノ…さん…!」
「厭?」
声に意地悪な笑いが滲んでいる。
「こんな処で何を言うんですか!」
「こんな処だから云ったのに」
「だって…」
「関くんが自分から積極的に成ってくれれば問題は無いよ」
「え────」
「そう、」
榎木津は関口の左耳を甘く啄ばんだ。
「君が僕の上に騎って、舟を両腕でしっかりと抑えてくれれば」
その労働をしない美しい手が関口の下腹を撫でた。
ふふ、と笑う声があった。
「大丈夫。鳥渡舟が揺れているように見え────」
言葉尻を遮るように関口は思い切り榎木津の手の甲を摘んだ。
「エノさん!」 声が上擦って、大きくなった。 「なんだい?」 「…こ…此処では…厭です」
「此処では?」
「諾」
関口の前髪を上げてその額に榎木津は唇を落とした。子供にするように音を上げた接吻を。
「解ったよ、仰せの儘に。陸に戻ろうか。そして、此処で断ったんだ。手加減はしないぞ、関くん」
榎木津は傍にいた船頭の男に指示を出す。
そして緩やかに流れる水が儘にその上を航行していた舟が俄に速度を増す。
「手加減て…あの…」
「そう脅えることはないよ。ただここ数日君に触っていなかったから、ね」
関口の顔がかっと朱に染まる。
朧月が舟上の榎木津と関口をその柔らかな光に包み込んで水の上で歪んでいた。



大尽と小蜜
ただ今西條八十に夢中
22/04/06








馬鹿につける薬は、enokidu/sekiguchi




「あなた」
千鶴子が呼びかける。細の顔を見るために紙面から顔を上げる。
「榎木津さんが結婚される以前関口さんの谷町だったって本当ですか?」
「なんだ藪から棒に。そんなこと誰に訊いたんだ?」
鳥渡だけ千鶴子は笑った。誤魔化している。情報ソースは秘匿する心算でいるらしい。彼女の夫は軽く息を着いた。
「あら、本当ですのね?」
「何ともいえないね。僕からは」
「何故ですか?あなたは常日頃知人だって仰っているじゃないですか」
「榎木津は辛うじて友人だ」
千鶴子は夙、息を付き、茶を換えてきます、と座敷を立った。
 慥かに関口がその妻女雪絵との婚姻を決めるまで榎木津礼二郎が彼の凡てを援助した。千鶴子が何を知っているのかは知れないが、関口は榎木津の情人と称しても何ら問題無い状態にあったのだ。
そして経済的な援助を覗き、今現在に至るまでも変わらぬ状況下にある。
京極堂は溜息を着いた。
「馬鹿につける薬が欲しい、」
と―――――。




「熱っ」
「大丈夫ですかい?小説家の先生、」
安和が頬を腫らした関口の顔を覗きこんだ。
「心配無いよ。熱さと苦味で段々頭が冷めてきた」
「しかしうちの先生もあんなに怒んなきゃ好いのに」
「…仕方ないよ。僕が他の男と、だもの。榎木津としたら噴飯ものだろうね」
「撲んなくても好いじゃないスカねえ」
暢気に益田が言った。
「益田くん、君が言うことじゃないぞ」
安和が嗜めた。
「酔わせといて、剰え小説家の先生とキッスを企むなんざ」
「いやあ…ねえ関口さん、」
へらへらと笑いながら益田は関口の肩を抱いた。
「まあ気持ち良かったし」
「然しその所為で撲られたんじゃないですか、」
「馴れてるし。それにこれもこれで気持ちいいし」
沁みる沁みると呟きながら、また珈琲を啜った。
辺りが深閑と静謐が満ちたことにも気付きもしないで。
「な…馴れてるんですか?」
「うん、」
「気持ち好いって…」
「撲られるのって、好くないかい?」
「否…僕はちょっと…」
「自分も…」
肩に回された腕が怖ず怖ずと退いて行った。
「あ、でも誰でもいいってわけじゃないよ。榎木津だからかな?」
酷い惚気に聞こえた。
益田の肩が落ちた。
「関!」
衝立の向うから怒鳴る声が聞こえた。
「いつまで僕を一人にする心算だ!君には反省の気持ちは無いのかっっ」
「はいはい、」
ゆっくりと関口は腰を上げた。
「え、え、え、え、え…関口さん、行っちゃうんですかあ!?」
媚を含む声を発し、益田は縋った。
「だって呼び出されてるし、」
「だって、撲ったんですよ?」
「あのね、そう簡単に撲るような男じゃないことは知ってるだろう?だからこれは手違いと云うか」
「だって先刻、慣れてるって!」
「なんで信じるかなあ?嘘だよ」
はにかんだように困ったように関口は小さく笑った。
それを見て、呆れ、眼を見合わせる安和と益田だった。


これは余りにも、酷いだろう―――――


腫れた頬を手で被いながら関口は、長椅子から立ち上がって榎木津の私室に消えた。
互いに許容しあっているのなら初めにそう言って欲しいものだ。
「どうしましょうか?」
長椅子の横に立った儘の安和に益田が訊く。
「甘味屋にでも行くかい?先日ちょっと気の利いたとこみつけたんだよ」
「和寅さんとですか?」
「言っておくが此処にいると莫迦をみるぞ」
盆をくるくると指先で回しつつ、神妙な顔で言った。関口は仲直りに榎木津の私室に行ったのだから。
「噫…馬鹿ね、」
項垂れる。
「そうそう」
「馬鹿に着ける薬って…無いんでしたっけ」
「お医者さまも草津の湯も無駄だしね、」
からん、と扉を出て往く二人の男がいた。


厭味なほど見場の良い男である。眼の覚めるような美貌。困惑させられる性格。それらの主が今は関口の胸の上に顎を乗せていた。
胸の突起を時折弄びながら。
窓罹の掛った、室内に燈はなく、人工的に作られた薄闇は仄朦りと互いを浮かび上がらせるが、此処では視覚は殆ど必要ない。
互いの触感と聴覚と嗅覚と味覚と。
「髭の濃い猿男は遠慮するって言ったじゃないですか。舌の根も乾かぬ内に…」
こんなことに成っている。
「そうだ!髭の濃い猿男なんか冗談じゃないぞ!だがしかーし!関口巽なら話は別なのだよ。関くん、」
長い指先で唇を突付かれた。
「訳が判りませんよ、榎さん」
「非常に判りやすいと思うんだけどな」
榎木津が嘯く。
「痛い?」
「とても…ね」
「そう拗ねるなよ」
赤く腫れた頬に榎木津の優しく唇が触れた。
「痛っっ」
叫び声が、榎木津の大きな寝床で上がる。
嬉しそうな笑い声が木霊した。





12/11/05





榎関。漸く真っ当に。






京極 in CSI enokidu/sekiguchi

「にぃ〜っく」
キャサリンは髪を振り払いつつ、前を行く同僚のニック・ストークスを呼んだ。何?と問い返すが振り返りは無しない。
「何号室だったかしら?」
「此のフロアはスウィート一室」
ニックは100m先の豪奢な扉を指差した。
「此処に被害者は宿泊していたわけね」
「そうみたい」
「ふぅん…。蜜月旅行?」
「そうみたい」
「東アジアからの旅行者の蜜月旅行ね」
鞄を足許に置いて徐に腕を組んだ。
「何か含む処があるように聞こえるのは俺の気の所為?」
「当然でしょ」
扉を押し開けると、其処は荒果てた世界だった。散乱するタオルと敷布。テーブルの上の花瓶は倒れ床へ水が滴っていた。花は幾度も踏み拉かれた痕跡が見えた。
カーテンは引き千切られ、部屋に備え付けられていた電話は破壊されている。
眉を潜めつつ二人は二手に分かれて部屋の探索を開始する。二部屋ある寝室の一つへ足を踏み入れると、齧りかけのロールパンが転がっていた。
サラダもその先で巻かれていた。
「乱闘でもあったのかしら?」
キャサリンは呟いた。
そして大きな寝台の上は本当に滅茶苦茶だった。
鞄の中からキャサリンはライトを取り出し、専用のサングラスを掛ける。スイッチをオンにし、敷布を捲り上げた。
夥しい精液の痕跡。
此の様子ならば此のスウィートルーム全室で精液が見つかるだろう。
然しすぐにキャサリンは頸を傾げた。
「ニーック!!」
「なぁに?」
寝室へニックが顔を出す。
「被害者は慥か東洋人の新婚旅行だったわね」
「そうだよ」
「おかしいわ」
「何が?」
「蛋白質の痕跡が全然無いのよ」
寝台の上をライトで照らした。
「……」
ニックは頸を捻る。
「ちょっと連絡入れてみましょう。フロントに。此の部屋には新婚夫婦の他に人がいたのかも」
自分の鞄から携帯を取り出しキャサリンはフロントへ電話を掛ける。
「此処?73階の…ええそうよ。え、此の部屋の昨夜の宿泊者は…エノキヅレイジロとセキグチタツミ…?日本人?御免なさい、私、東洋人の性別は名前じゃ判別出来ないんだけど、どちらが夫なのかしら?」
キャサリンは携帯越しに頷いている。
「両方とも男性……」
ニックが不可思議な表情をした。
「本当に被害者が泊まっていたのは此の部屋なの!?…え…違う?部屋は72階…?だったら早く鍵を持って来なさい!」
眼を丸く見開いてニックを熟視め、唇を噛んで電話を切った。
「ニック…」
恨めしげにキャサリンの目が半眼と成る。
「俺は此処の宿泊者も気にあるけど…階を降りようよ。キャサリン」
鞄を閉じて、ニックはキャサリンの肩を抱いて、部屋を出て行った。

parody×parody。
榎関ですみません。






黒船屋 masuda/sekiguchi

紺青から沫碧へ色が変化を繰り返す帯締めだった。

益田がゆっくりと関口の両手首からその高価そうな帯締めを解いた。年少の彼の指先は酷く繊細に見えて、到底嘗て警官の職にあったとは思えない。
長い前髪が眼前で揺れ、少しだけ益田の汗の匂いがした。
「痕、着いちゃいましたね」
手首にも脇腹にも腰にも帯締めの組紐の紋様が鮮明に刻印されていた。
「それよりも、その写真、見せないでくれよ。誰にも」
関口は額の汗を拭った。
けけけと益田は笑う。
「見せませんよ、安心してください」
「痕って冷やせば直りますかね?」
「さぁ…。時間が経つのを待たなくちゃ、じゃないかな?」
「じゃあそれまで関口さんは長袖暮らしだ」
関口は項垂れた。未だ未だ暑い日々は続く筈だ。外界では真青な空が広がっている。
「僕は…帰るよ」
「次は、貴方がやってくださいね。お縛り。憶えたでしょう?」
「……うん…。上手く出来るか解らないけど」
貸し座敷を関口は出て行く。
紅色の腰巻と帯締めと帯揚げを益田は適当に自分の鞄に詰めた。フィルムは鞄の底である。

益田には妙な性癖があった。
それは快楽とは苦痛を薄めたもの。と言う言葉を体現している。
彼は情事の相手を縛った。
それも綿密な状況設定の下、縛り上げ、それをフィルムに収めるのだ。時には自分が縛られることも希む。
今日は伊藤晴雨の絵図を手本に関口に女物の腰巻と荒縄と、自分の好みの帯締めで縛り上げた。本気で縛り上げたときに見せる苦悶の表情が益田を滾らせるのだ。
その姿のまま交わり、羞恥の残る様に震えた。
当初は頑なだった関口も今は困ったようにはするけれど、次第に深みに嵌りつつあるようだった。

益田は颯々と貸し座敷を出て、一路赤井書房へ赴いた。
編集室には妹尾が一人いるだけだった。
「あ、どうも、こんにちは。あれ鳥口くんは?」
「向こうですよ」
と一枚の扉を指差した。
益田はその扉を叩く。
「鳥口くん、いいかい?」
と言う問いかけと共に扉を開けると「うへぇ」と云う惨憺たる声が聞こえた。黒張りがされた室内は赤い。そして酷く暑い。
「印画紙が駄目になった。益田くん、閉めてくれる?」
益田は暗室に入ると、扉を後ろ手で閉めた。
「御免御免」
酷く軽く謝った。
「また?」
「またです」
そして益田は鳥口の前にフィルムを差し出す。
「また鬼畜な真似をさせているんでしょ?益田くん」
益田はけけけと笑った。
「僻まない。僻まない。いいじゃない。こうして見せて上げるんだからさ」
「先生、知らないの?」
「当然」
そうして青年二人はフィルムを引き伸ばし始めた。

益田は状況設定嗜好者だと云うので、結構好き勝手にしてしまいます。
益田関口。これは…御題【06脱いだ理由】の前に当たる感じか?
SMとはちと違う感じで。






許容殺人、愛しい人へ masuda/sekiguchi

薄青色をしたタイルが規律正しく並んでいた。
貧弱な肢体がだらりとその上に横たわっている。油っぽい髪質は黒光りを見せ、瞳孔も開いた目はただただ空ろに其処にあった。
睫毛も震わせない。
益田は彼が浸水するのを凝乎っと熟視めていた。
シャワーから沛然とした放水を漸うと留めたのは、一体幾時間経った後のことなのかそれすら解らなかった。
髭も当たっていた。爪も短くて、髪も整えられていた。
その凡てが己に会う為の仕度だった。それはぼうとするような幸福だった。
だのに何故今こんなことになっているのか。
彼の頬はその薄青色のタイルに接吻していた。
先まで微笑んでいた柔らかな貌。
凡てを解っているようだった。
恣意を許容している笑みだった。
自分に妻があることさえ、彼は問題にしていなかった、あの瞬間。

何故こんなことになっているのか。

益田は自分の頬を滑り落ちるそれを拭う。
心の狭間に付け込んだ魔物が愛しくも恨めしい。

「関口さん」

屍が笑んだような気がした。




彼岸を憧憬しつつ生を渇望する関口がこんな風に柔らかく笑って殺人を許容する筈無いのです。





君、臣下を引き連れ虎を見に行く話 enokidu/sekiguchi

未だ手足にはミソハギの染料で描かれた紋様が残っている。
蔦は手足の指先から衣の中まで絢爛と絡まり乱れている。数多の鱗で覆い尽くされているようにも見える。
「未だ消えないか、」
隣に座るエノキヅが手を取った。
日差しが濃い陰影を作り二人はその影の中にいた。
「そりゃあ、指甲花だから。早々には消えないよ」
「ふぅん、何だか、忌々しいな」
「そうかな?」
セキグチは腕を伸ばして手を頭上に翳した。綾なすかいなは酷く美しい。自分の持ち物ではないようにさえ見える。
「こんなに綺麗なのに」
「だってそれ、あのアイツが描いたんだろう?」
「アイツ?」
「─────チュウゼン…ジ」
憮然として友の名を口にした。チュウゼンジはエノキヅの特に親しい友人の一人でもある。だのに何故こんなに煙たがるのかセキグチには理解できない。
「諾、そうだよ。此れを描くのはチュウゼンジの役目だからね」
「君の手をぎゅっと握って?」
「握らなくても好いんだけれど、筆がくすぐったくて。思わず身をよじっちゃうんだよ。だから」
「君は唯々諾々と手を握られ、その生白い足首を抑えられ、染料に塗れた筆が躰の上を這い回るのを恍惚と感受していた、と────」
セキグチは顔を顰めて、首を傾いだ。
「なんだか…表現がいやらしいし…棘があるように聞こえる」
「そりゃああるさ」
エノキヅの大きな眼が半眼となりセキグチを睨め付ける。
「棘もびっしり。否、みっしりかな?セキくん、好きだろう?」
「好きじゃないよ」
「そんな膝を開いて、腿の内側まで曝しているんだからね」
「………っノさん!そんな」
「見えたんだよ。アイツに」
エノキヅの腕が伸びてセキグチの項を掴んだ。
「腹立たしい─────」
そう云われても、それが儀式の一環なのだから仕方ないのだ。セキグチとて好き好んでそうしたわけではない。あれは幾ら友人だとは言え酷く恥ずかしかった。勿論腰には布を巻いたし、チュウゼンジだとて酷く淡々と作業を熟していた。
「セキくん、」
エノキヅの顔が極々近くにあり、自分の顔が熱くなることが解る。
幾度も長い夜を過したのに、未だに馴れない。
況してこんな昼日中は。
「なんですか?」
「謝らないのか?」
「は?」
顔の熱りも一気に冷めるような唐突な一言だった。
「ほら、御免なさいって」
「え、何を…」
エノキヅが益益顔を近づける。睫毛が触れ合うほどに。
金の粉を散らしたような睫毛。
その下の色素の薄い眸。
有無を言わせない。
「君は僕の物だろう?だのに他人にそんな風に自分を曝して。勝手に扱うんじゃない」
眼を瞠いた。
「そうだろ?」
「…うん…」
そして少しだけ顔を動かした。
眼前の沼では、ヌマジカをベンガルトラが仕留め、淋漓とした赤血の肉を骨から引き剥がし、喰らいついていた。

夜ごとの白コウモリに入れようと思っていてすっかり失念していた、ベンガルトラを見に行くエノキヅとセキグチ。
因みに大きな輿に二人乗っています。
王様と巫だから。






ああ、ジョニー! enokidu/sekiguchi

「関くん!」

転寝をする文机の前の窓が勢い能く開いた。
「うわぁ!」
「相変わらず好い声だ!素晴らしいぞ、関くん。褒めて遣わそう。流石我が下僕。感嘆に余りあるね」
「えええのさん!吃驚するじゃないか」
「大丈夫。吃驚するのは君であって僕じゃない」
長い人差し指が関口の眼前で揺れる。
「僕は今、仕事中で」
「涎を原稿用紙に垂らしながら何を云うんだ。地図でも書いたか?」
「あのね、オネショじゃないよ!」
「ふぅん、オネショじゃなければ…夢精?」
「僕は……貴方の一学年年下ですよ?思春期の少年じゃないんだ」
脱力した。
「なんだ、夜の相談かい?」
「違う!」
「だったら…今?君も好き者だなぁ。さあて颯々と、」
榎木津の大きな手が関口の顎を掴んだ。
「違うって云ってるでしょう!」
「声が大きいよ、雪ちゃんにバ・レ・る」
「雪絵は今いませんよ…」
「じゃいいじゃないか」
「って違う!僕は明明後日までに仕上げなくちゃいけないんですよ」
「ふぅん、でそれが僕と何の関係が?」
「榎さんには関係ないけど…」
「じゃあいいや。ほら関くん、雪が降ってるだろう?」
「あんた言ってることが滅茶苦茶だ!」
怒声が轟いた。
「はははは、関くん、咽喉が渇いた。茶を所望する」
「ああ!もうっ」
関口は立ち上がり、文机を横へ避けた。
「取り敢えず上がってください」
「ふふっふー」
莞爾と榎木津は笑った。
そして窓の前に立つ関口へ腕を伸ばすと、その脇へ腕を入れ、関口を持ち上げた。
「えのさっん!お茶が欲しいんじゃないのか!ちょっ、下ろしてよっ」
「こんな寒い日は温め合うのが必然だよ関くん」
「あんた榎木津かと思ったら、ただの酔っ払いだなあぁー!?」
抱き上げられて強烈な酒の臭気。
「関口、僕はずっと、学生時代から…」

関口の耳許で何かを榎木津は囁き始めた。
「あ…」
両手で榎木津の口を塞ぐ。

「待って、その先は言わないで…未だ…」

小雪が舞う中、榎木津と関口は抱き締めあった。

何なんだ!此の終わり方。(掻けば白頭更に短く)





白雨 ゆふだち aoki/sekiguchi

もっと早く出会っていれば────と刑事である青年は私を掻き抱いた。

何も言わない。何も囁かない。呼吸さえ聞こえない。

何処まで行けば私たちの道は交わるのか。
たぶんそれは反比例のような曲線を描いて、私たちの関係は、終わるのだ。眩暈がするほどのそれは、確信─────。

じっと黙って抱き合っているのに、思いは脹らみ、互いの身の内から滲み出づる。
その心は傍にある。
触れ合う躰のその中に、慥かに、確実に其処にある。

だのに─────

寂しくて堪らない。

どうしたらよいのか。
わからない。
ただその躰を私も抱いて、じっと目を閉じた。
温かな身体。

此の夜を共に過すことがその見えざる運命への、僅かな、ほんの微量の抗いだった。

夕立は暗く、雨音が耳を覆った。


青関





chou a la creme aoki/sekiguchi

昨年、砂糖統制が撤廃された。
よく見ていると何処かキャベツにも似ていて、調べてみるとchouはキャベツのことだった。
上品な婦人方に混じってそれを求めている男など自分一人だった。

玄関へ出てみると、鼠色の腕がついと向けられ、白い箱を両手で受け取った。甘い香りがしたわけでは無いが、それがシュークリームだと云うことは瞭然だった。
「あ、今日は…」
「時間給を貰いました。……今日奥さん居ないって言うから」
幼顔の此の青年は目を合わせようとしない。
「寒かっただろう。…中に入って」
関口巽は少し笑って見せた。
玄関で鼠色の外套を取ると刑事らしく草臥れた背広姿だった。少しだけネクタイの結び目は緩んでいる。そして革靴を脱ぐと、それを丁寧に揃えて青木文蔵は框を上がった。
居間へ通され、すぐに「紅茶でも淹れるよ」と関口は姿を消す。
卓の真中に置かれた白い箱。
青木はそれを眺めつつ、胡坐を掻いた。
寒風に窓硝子が音を発てていた。
 香ばしい湯気を上げた白い碗を関口は運び、卓の角を挟んで青木の隣に座る。
前髪が撥ねていた。
それを指摘すると、「君が来るまで眠っていた」と答えた。原稿は少しも進んでいないらしい。
関口は有楽町にある有名菓子店のシュークリームに口を着けた。
此の年長の小説家は物を食べる行為が酷く下手だ。兎角物の食し方に厳しく躾けられた青木などは少しだけ眉を顰めざるを得ない。
頬にカスタードクリームが着いている。
然しその関口の顔に笑みが無くて、青木は少しだけ解せなかった。
以前、関口が「シュークリーム好きなんだ」と言ったことがあった。それまで青木には古風な言い方をすれば『舶来の菓子』と言う認識しかなかった。食べたことも無い。
「前に榎木津の処に行ったとき、お客が持ってきたそうで相伴に預かったんだけど」
そう云った関口の顔には笑みがあった。
青木はシュークリームなど食べたことが無かった。
あれから関口と共に幾つか食べたが、彼のようにシュークリームを美味しいとは思えなかった。喰えない物でもなかったが。
関口がシュークリームを一つ食べ終えると、青木は彼の後頭部を掴み引き寄せ、唇を吸った。
砂糖の味がした。
 知り合った当初既に彼は結婚していた。
幾度か躰を重ね、
気がつくと好きになっていた。
………何処から修正していいのか最早解らない状態だ。
中野に行く時にはシュークリームを買って行くことが習性になっていた。

「あ、」
先に此の家を訪れてから一ヶ月少々。関口の細君は不在である。
「なんです?」
「いつもの処じゃ無い」
「あー…」
青木は卓に肘を突いて、目の前の碗の湯気を眺めていた。
「事務の女の子がそういうの詳しくて…下宿の近くのを聞いたんです」
「今日は非番?」
「はい」
「今日は雪絵、帰って来ないんだ」
関口は少しだけ笑った。
燈もない夜の帳の中で、青木と関口は互いの暖かさだけがその存在証明だった。

青木は襤褸襤褸の様子で関口家へ現れた。
頬と額に擦り傷があって、少しだけ血も浮いていた。
そして「どうぞ」と白い箱を関口に渡した。
「青木くんっ!」
関口は眼を瞠いた。
「此れ、死守しましたから」
外套の肘の部分が擦り切れていた。
駅の階段で少しだけぼんやりしてたと青木は言った。その時踏み外したらしい。そしてそのまま、降りる階段を一番したまで転がり落ちた。
「何しているんだ!そんな怪我までして…。いいよ、シュークリームなんか!」
青木は少し視線を泳がせた。
「…でも…」
「なんだよ、」
「関口さん、結婚しているじゃないですか、」
出会った時に既に関口には妻があった。
「だから…」
「…だから?」
「此れが無いと、会いにきちゃいけないような気がして」
青木は玄関の三和土に屈み込み、項垂れた。
砂糖の統制が配されたとはいえ、甘い、特に砂糖をふんだんに使用した菓子自体が高価だ。安月給の青木の財布から簡単に大枚が出て行く。
三和土に小さくなった青木を関口は何も云わず抱き締めた。
シュークリームは和製語で、その大抵はシューアラクリームと言うらしい。仏蘭西語だ。
誰かが菓子を作る最中に間違えて出来上がった菓子であるらしい。
間違えた末に膨らんで、クリームが入った。関口も青木もシュークリームのことを少しずつ学んでいた。

「僕らも膨らむかな?」

関口は青木を抱き締めて、小さく呟いた。

parody×parody
伊藤理佐著「おい ピータン」2巻で青関。






十六夜の enokidu/sekiguchi

関口巽は十六夜の光を浴びつつ、疑念を再びとしていた。
外界の欠け始めたそれは白く輝いて眩しいほどだった。
「昨晩の雨が嘘みたいだ」
呟いた。
いまもこうして室内の明かりさえないのに、皓々と照らして、水面を煌めかせている。
「何が嘘だって?」
「なっ…」
扉を開ける音と声が聞こえた。関口への伺う声さえ無く、だ。
「榎さん!なんであんたは僕が入っているといつもいつもいつもいつも」
「僕の住処なんだから誰の許諾もいらないだろう」
そう云ってタイルが張られた風呂釜の淵に腰掛けた。
「濡れますよ」
「じゃあ入ろうかな」
そういって着ていた服を脱ぎだした。
「榎さん、」
「月見風呂だな」
榎木津は関口の言葉を遮ってそう嘯いた。
「これ、どうしたんですか?」
壁を指差した。指先からは雫が落ちて、浴槽の大海に混じる。
「ん?」
「此の間来た時には無かったでしょう。此の、富士…山…?」
白い壁には恐らく山であろう青い幾何学が描かれていたのだ。
「ああ此の間自称前衛画家と言うペンキ職人を拾ってね。お礼にって描いて行ったんだよ」
「そんな」
「泥酔していて良く憶えてないけど」
二人は湯に浸かりながら白い月光を浴びる富士山を眺めた。
「此の風呂を見たら、富士山が必要だろうとかいっていたらしい。和寅によると」
関口は少し呆れたが慥かに此処には富士山が良く似合うと感慨を改めた。
何せ此の榎木津の住処たるビルヂングは三階にも関わらず、銭湯のようなタイルを張り巡らせた巨大な浴槽と洗い場があるのだった。
よって長身の榎木津も跫を伸ばせて、仮令関口と入浴しようと物質的余裕が余りあったのだ。
「でも関くんと入るときはもっと狭い風呂にすればよかったといつも思うよ」
榎木津は濡れた手で自分の前髪を救い上げ後方へ撫で付けた。
「もっと傍においで」
そういって関口の二の腕を掴んだ。



とても眩く美しい十六夜に捧ぐ。





幸いの在り処を、 aoki/sekigchi


額に浮かぶ珠のような汗も其の儘にしていた。眼前が揺らいで見える。陽炎である。跫許で左右に伸びる軌条は温度の変化に伸縮する。ならば今は伸びているのだろうか。
風雨に曝された所為なのか、それともその上を滑車する車輪に鍛えられた所為なのか、その鋼は赤黒く見えた。
顎から滴った汗は軌条の上に落下し、小さく飛散した。
油蝉の鳴く声が周囲を埋めている。煩わしい。
額を拭った。
息を吐いた。
呼ぶ声がして顔を上げると、況して苛烈な白い陽が目に入って思わず瞼を伏せた。
閉じた瞼に残像があって少し煩わしかった。
冬ならば既に夜の帳が落ちている時刻である。
鐘の音が聞こえた。
煩わしかった。
「暑い…」
目の前が朦朧としていた。夕暮れの時刻にそれでも陽は高くその強かさを誇っている。
雨は降らないのだろうか。
小さく呟いて、顔を上げるのと躰が後方へ傾くのと同時だった。
「危ないですよ!聞こえてないんですか」
耳許で聞こえた声に振り返ると、襟首が少し汚れた襯衣を着た幼顔の男が居た。その鼻の頭に小さな汗の粒が浮かんでいた。
次の瞬間には生暖かい風が頬を掠めた。
轟音を伴って。
「あ、」
電車が際どい距離を擦り抜けていった。
「青木くん」
「其処に立ち飲み屋があったから麦酒の一杯も貰いましょう」
「君弱いだろう?」
「関口さんも同じでしょう。流石に一杯くらいで潰れたりはしませんよ」
未だ暮れても居ないのに青木は関口の手を引いた。
 人家の表に庇と暖簾を設けた立ち飲み屋で壜を受け取って咽喉を潤した。
関口には酷く苦いだけに感じたが、それでも冷えた液体を摂取する心地よさに飲み干していた。軒先に掛った銅製風鈴の舌が僅かに揺れていたが、ささめくよな声しか終には上げなかった。風が無い。
小銭を払って並んで歩き出した。
「蝉も能く鳴きますよね」
「それが生まれてきた目的なんだろう」
関口は口を噤んで、街路に面した木々を見上げた。道に翳を落とすその下は蝉の声による時雨である。
「でも、夏らしい。とても」
不意におかしな感覚だと思う。先刻は煩わしいと思っていたのに。此の蝉時雨も苛烈な陽光も。
要因は何なのか。
先刻との差異は。
「関口さん、川だ。降りられますよ」
隣の声に指差した先を見る。
水面の千々とした光の反射…煌きが酷く美しい。
「跫でも浸して往きましょうか」
先は長いのだ。
「そうだね」
その提案は酷く魅力的だ。 橋の横を河原に降りてゆくと関口の腰程までしかない子供たちが岸辺で戯れていた。
「もう時分、夕食だろうに」
「そうですね」
不意に川上をみれば先刻まで白く無色だった世界は、金色を帯はじめていた。
「日が暮れますね」
「…うん…」
二人は履物の裾を膝まで捲り上げ、素足を水の中へ浸して空を振り仰いだが其処には求めるものは無かった。
同じ会話をしたのは一体いつだったのか。
既に一週間にもなろうか。
能く思い出せなかった。
「雨が降りませんね」
「…うん、降らないね…」
昼間に逢ったその帰りに驟雨が二人の帰路を襲った。それはとても幸福な出来事だった。民家の軒先を借りて、肩を寄せて已むのを待った。
擁した時間は長いものではなかった。
とても短くてそれだけでは足りなかったのだ。どうしても。

虹が出ていた。

その跫を探しに出たと云ったら皆どんな顔をするだろう。少なくとも能弁家な友人には蔑まれるだろう。
虹の跫になど辿り着けないのだから。

そんなことは青木も関口も知っているのだ。
だのに虹を求めて、虹の要因となる雨を求めて行脚する此の道程は、二人でいることの言い訳にしかないのだから。
子供たちが遠くの山並みに日が沈むのを見て水から上がった。
「気をつけて帰れよ」
青木が声を掛けた。
そうだ。彼は警官なのだ。
そうしてその言葉を吐き終わると川の中で青木は関口を抱き締めた。互いの汗の匂いがした。



??/04/07



青関。逃避行とかがすきなんだと思う。





少年願望症候群 A.chuzenji/sekigchi


大学に進学と言う名目で上京した。既に兄は結婚していて、幾度か上京していたので、東京は気心の知れた場処であった。 未だ髪が長かった頃だ。
中禅寺敦子は髪に櫛を入れながら、今朝方に見た夢────それは実際には現実にあったことなのだが────を思い出していた。
その頃、兄以外の知人は居なくて付き合うのは大抵兄の友人か義姉の知り合いばかりだった。
自分とそう違わない目線。はにかんだような表情。猫背の薄い背中に、中々合わせてくれない眸。
彼に「敦っちゃん」と呼ばれることが仮令ようもなく嬉しかった。

何の用事だっただろうか。
それは憶えていない。彼と共に駅舎に立っていた。
駅には旅行の大きな広告が掲示されていた。
山間の紅葉の図だった。
「行きたいな。そう思わないか?」
と問われて、思わず言葉が出なかった。
すぐに彼はそれに気付いたらしく「女の子に言う話じゃなかったね」っと苦笑しつつ、言葉を撤回した。
「君の兄さんにでも誘ってみるよ」
「でも……私も行きたいです、此処」
言い澱みながらそう口にすると、少しだけはにかんだように笑った。
「君が────男の子だったら此の儘行ってしまうのにね」
恐らく彼は何の思惑も無く口にしたのだと思う。
けれどその言葉に眩暈がした。
火照る顔を俯けた。



「中禅寺さん、お客様がお見えよ?」
小泉女史が更衣室に顔を覘かせた。
「あ、誰ですか?」
「鳥口さん。今日、一緒の取材なんでしょう?」
「あ、そうでした。少し耄としちゃいました」
敦子は自分の物入の扉を閉じた。



量子論の研究をしている大学の先生へ話しを聞きに行くのだが、その教授のポートレートを鳥口に撮って貰うのだ。矢張り彼の写真は敦子が撮ったものと自ずと質が違った。
大学へ行く道筋の商店街を二人で歩きながら鳥口は相変わらず軽口を叩いている。
とても軽快で、楽しい。
けれども彼の話の中で一番好きなものは、彼の作る雑誌の記事を書く先生の話だった。
時折敦子は文芸部に転身願いを出そうかとも思うのだが、それでは距離が近くなりすぎる。近付きすぎたら屹度愚かしいほどに保てない。
溜息をついた。
「あ、すみません。何か気に障ること云いましたか?」
鳥口が気遣った。
「いいえ、すみません。ああ…これから会う先生が少し難しいというので、鳥渡…」
「やあ敦子さんの聡明をもってすれば菩薩に金棒ですよ」
これは間違えたわけではなさそうだった。けれども敦子は気付かないふりをする。
「あ、あんな服敦子さんに似合いそうですね」
「え?」
鳥口は店の中に飾られた服を窓越しに指差した。
膝丈のワンピースだ。一見して可愛らしい。
「嫌だ、鳥口さん。私には似合いませんよ」
「そうですかあ?ほら敦子さん、いつも活発そうな恰好ばかりだから」
「ふふ」
敦子は歩を進めながら笑った。
この人は何も解らないのだ。
その本質的な嫉ましさなど。
「この方が少年みたいでしょう?」
あの時駅舎で傍らに立っていた者が鳥口だったらあの人は其儘行ってしまっただろうか。

「私が少年だったら────」

呟いて口を噤んだ。
少年だったら、それでもあの人に恋をして、ずっと傍にいるのに────。
そうしたら、あのような現実の反復を幾度も夢に視ずともすむのに。
敦子は唇を噛んだ。