いま僕がいる場所さえも忘れて






「知ってるよ、君の歌声みたいな処だろう?」
土産を持って薔薇十字探偵社を訪うと榎木津はそう茶化した。
「僕の歌声?」
ちょうしっぱずれ。
そう答えて、笑った。




 日頃余り意識しないことだが、時々榎木津は白地な行動に出ることがある。
余りにその為人と懸け離れていて酷く驚くのだが、不図嬉しくなってしまうのは決して本人には言えないことだ。
海鮮が食べたいとか温泉もあるらしいじゃないかとか色々なことを給わったが、「君は日に焼けたほうが不健康そうだな」と笑われ僅かに日に焼けた項を撫でられた。
然程皮膚の色が濃くなった訳ではないのだが、ひりひりと痛い肌を榎木津の寝台に曝した。夜の間中たっぷりと唾液を擦り着けられ舐め回されたその昼に早速と出かけた。
 電車は海沿いを行き、海岸線のその突端に白亜の塔を再び見たのだった。
磯の香りと潮の音さえ未だ懐かしいとは思えないほどだ。関口は照り付けてくる海辺の太陽に少しだけ溜息を着く。辺りを見渡せど、何処にも日陰になるようなものは無かった。
そろそろ日も暮れるだろうか。
都下から此処へ出るには中々時間もかかるものだ。




先に来たときには気にならなかったのだが、男女の二人連れを何組か見た。そういえば榎木津の事務所で和寅が新婚旅行に訪れる人も少なくないようなことを言っていたことを思い出した。
思えばあれは中々の冷やかしだ。
顎から頬に掛けての汗を拭うと、不意に視界の明度が落ちた。
「着てろ」
頭から榎木津の衣類を掛けられたのだと知った。
数年前に米兵から買ったと言うカーキ色をしたマリンパーカだった。
「これ以上焼けて、痛い痛い言われたら煩くて敵わないぞ」
昨夜そんなに痛いと言っていただろうか。
マリンパーカは勿論榎木津にもゆったりとした代物だっただけに、小柄な関口には更に大きかった。フードまで頭に載せられ、気がつくと灯台の前まで来ていた。

「ほら、歌いなさい。関くん」
そう言った榎木津の向こうには今にも海に身を擲たんとする太陽があって、彼の輪郭を俄かに融かしていた。
「嫌ですよ」
じゃあ僕が歌おう、と嘗て尋常の頃に習った唱歌を榎木津は口ずさんだ。
到底、彼がちょうしのはずれだと言ったそれとは懸け離れて何とも美声だった。
彼は海軍だったのだし、歌には打って付けだ。
唱歌の一番を歌い終わると榎木津は「あの上から海を見たら気持ち良いだろうな」と云った。
高さ三十一メートル、明治七年に英国人ブラントンによって竣工された煉瓦製の燈台であった。そう説明すると鼻を抓まれた。
「どうせ、本馬鹿の受け売りだろう?」
普段はとても仲が良い二人であるのに時々関口との間で彼の話題が持たれることに白地な不快感を示される。
それが堪らなく嬉しいと知られたらきっと酷く侮蔑されるに違いない。
 燈台の向こうに日が落ちて行く。
「もう海には入れないね」
「いいよ、入る心算は無かったから」
「…何しに来たんです」
榎木津は横に立つ関口を凝々と見詰めた。
愚か者、とその眸が言っていた。
「さあ?」
僅かに笑って、榎木津が腰を屈めた。
フードを頭に被せてもらっていて良かったと思う。
日は沈んでゆくとは言え、未だ未だ日は明るいのだ。
脣を吸われ、互いの鼻先を擦り合わせるように「莫迦な猿だ」と囁かれた。
察しが悪いのは自覚済みだ。
「さあ海鮮を食べに行こう、そして温泉も」
手を伸べられた。
どうせフードを被っているのだ。誰にも男同士だとはわからないだろう。それに此処は蜜月を過す処らしいから。
和寅の言を真に受けて、関口は榎木津の手を握った。





犬吠崎は北野武さんが新婚旅行に行った処らしいので。タイトルはoperaaliceさまより。