鳥が哭く


昼近くに目が醒めると既に妻の姿は無かった。
居間へ往くと其処にも妻の姿は無く、何処へ出かけたのかも検討が尽かなかった。新聞も無い。未だ取り込まれていないのか。靴を突っ掛けて新聞入れを覗くと案の定新聞は未だ其処に有って、ついで郵便受けの覗いた。
一通黄土色をした縦長の封筒が投げ込まれていた。
宛名は「関口巽さま」である。
差出人を確めるべく封筒を裏返した。

夜の闇を鳥が哭く。
啼くその声だけで、暗黒の中に姿さえ無い。
高く低くそれは神経を冒して此処に届く。
鳥が鳴くのは呼ぶ為だ。…何を呼んでいるのか。
「■コイシ■コイシ」
あれは―――――死の声だ。
あの鳥は、本当に死んでいるのか、慥かめる為に啼くのだ。
鳥の、魂夜這たまよばいだ。
何が本当に死んでいるのか?判らない。
咽喉が痛かった。痛んで口内に鈍い鉄錆を感じる。口から血を流して泣いているのは――――――
神経を冒して血を吐いて哭くのは誰だ。
あの家を出た時に棄て去った想いに何故今も鳥は鳴くのか。
棄てた、殺した想いに何故鳥は哭く――――――
今はもうない。
――――――だのに。
「■コイシ■コイシ」
泣いているのは誰だ――――――

 益田が見たのは長椅子に横にでも成ればいいものを背凭れに背を埋め座った姿勢の侭睡る小説家だった。小動物のように躰を丸めて睡るのは座っている時でも同じらしい。
存外器用だ。
一体いつから此処に居たものか、目の前の卓子には碗が在り、冷めた珈琲が半分以上も残っていた。
兎も角起こすべきだろう、と肩に触れた。
鳥渡触れた。
一瞬にして関口の目が開かれた。
酷く周章して、汗が噴いた。
そして長椅子から滑り落ちた。
けれどその目は益田を凝視してまるで揺れない。
「大丈夫ですか?関口さん」
思わず真剣に訊いてしまった益田である。
臀が床に着いて漸く覚醒したのか関口は幾度か瞬きを繰り返し、音も無く口を開閉させた。
「な、何だ君は、」
「何だじゃないでしょう。そりゃ僕の科白です。どうしたんですか?こんな処で午睡ひるねなんて」
二の腕を掴まれ支えられ立ち上がると関口は長椅子に座り直した。
「あ…れ、和寅くんは?」
「居ませんよ。午后には出かけるって言ってましたから」
出掛けたんでしょう、と長い前髪を揺らして益田は言った。
卓子を挿んだ椅子に腰掛ける。
「今、何時かな?」
「見れば判るでしょう?夕暮れですよ」
そして益田は時計を指差す。
五時を幾分か廻った処だった。
「で、どうしたんです?」
「え、」
関口は時計から向き直った。
「用があったんでしょう?」
「…あ、うん、まあ…。あ、榎さんは…居るかな…」
思いついて榎木津の名を出すと益田の顔がゆっくりと弛んで笑顔を作る。それは嬉と表現ではなく、嗜虐を表していた。
「流石関口さん。物覚えが悪い」
「なんだよ」
関口が口を尖らせた。
「何って本当に憶えて無いんですか?」
「え、」
益田が呆れ顔を作った。
「うちの探偵は一昨日から旅行中ですよ。関口さんにお供の要求が入ったでしょう」
信州で味を占めたのか、何彼と世話を焼いてしまった関口に榎木津は御執心なようで今回も要求があったのだが丁度稀譚舎の依頼と重なり何とか逃れることが出来たのだ。
不図そんなことがあったな、と一年前の夕飯を思い出すような朧げさで「諾」と頷いた。
「き、君はどうしたんだい?」
「どうしたって仕事をしてきましたよ。此処は探偵事務所ですからね。探偵の仕事を」
寧ろ此処に居るのが妙なのは関口の方だろう。
また凝乎っと益田を注視していた。関口の眸は中々威力があった。
「なんです?」
思わず訝しく訊いてしまった。訊ねられてから気が付いたようで慌てて関口は目を外した。
「―――――益田くん、君に兄弟はあるかい?」
「は?なんでまた…」
「否、先日…漸く思い出したんだが―――――」
僕には弟が居るんだ。
何処かはにかんだ様子で関口は言った。
「はあ。思い出したんですか?」
「うん…。ああ、申し訳無いね。そんなことは如何でも良いね。ああ…うん、そう。歳の頃は君よりもっと上だと思うが、長く会っていないから、歳下を見るとね」
「重ねた。ってわけですか、」
合点が入ったように益田は頷いた。
「然し…関口さんが兄ってのも似合いませんね」
「そう、かな?」
苦笑して関口は頸を傾げた。兄と言う位置ポジションは中禅寺と同じなのだ。あの古書肆が兄であるのなら未だ判るのだが、此の関口が兄ではそうにも危なかしく思える。
そしてまた関口は益田を凝乎っと注視する。凝視められながら、他の誰かを見ていると言うのは矢張り居心地が悪かった。無意識なのだろうか、関口の顔は微かに強張って見えた。
「君は…いつ、憶えた?」
「はい?」
目を開けて夢でも見ているのか、暈りとした目付きで益田を注視した侭、口だけが動く。
「手の、悦びを―――――」
「はっ!?」
声を上げた。
関口は膜が弾けでもしたかのように、覚醒する。
自分が何を言ったのかそれさえ理解出来ないようだった。
俯く関口の顔を覗き込むように穿った。
「関口さん?」
「否、否。な何でも無いんだ。忘れてくれ、」
自身の言葉に驚いたのか、顔が真朱まほそに染まった。そして酷く周章し、手が碗に当った。
そして珈琲は空中に弧を描いて弾き跳び、関口の筒服の膝を濡らした。
「あーあ、待ってて下さい、手拭持ってきますから」
一旦益田は消え白い手拭を持って関口の許へ遣ってきた。
「良かった。余り濡れてませんね。此処にある換えの着替えなんて関口さんの足に余りますからね。不恰好です」
揶揄することも忘れずに、膝に手拭を擦り当てた。一緒に持ってきた雑巾を足許の水溜りに浮かべた。
そして真朱の関口の顔を下方から見上げた。
「ま、益田くん!」
関口が声を上げる。
「こういうこと、でしょう?」
益田の声が滲んでいた。
探偵助手の手の片方は関口の膝に載り、もう一方は関口の脚の付根を握っていた。
目が互いを映し、益田の脣が吊り上った。
手がやわやわ、と蠢き出す。
「や、益田くん、辞めないか…」
関口がその手を払おうとすると、靴底を珈琲の溜りに浸し、益田は長椅子に膝を乗り上げた。
「僕の馬に成りますか?幾らでも走らせますよ、」
囁いた。
目に見えて、躰が烈しく震えた。
「何が走らせるだ、」
能く知る声がした。関口に乗り上げたまま振り返ると、其処には和寅がいた。
「早い―――――ですね」
「小説家の先生が睡ってしまったんで起こすのも忍びなかったし、使いを早々に切り上げて帰ってきたんだ。そうしたら…」
頸を緩緩と降る。
「これがうちの先生だったら豪いぞ。益田くん。ほらさっさと其処から退けよ」
手を振ると益田は関口を僅かに見下ろして鳥渡笑った。「続きはまた後で」と付け加えることも忘れずに。
「ああ、余り濡れてませんね。先生ももうお帰りに成った方がいいですよ。もうすぐ夕餉の頃合でしょう?」
「あ、諾。うん暇しよう。榎さんが戻ったらまたお邪魔するよ」
終始益田を見ないように、関口は足早に薔薇十字探偵事務所を後にした。
「―――――和寅さん、帰ってくるの早すぎですよ」
益田は呟いた。

 彼と幾つの年嵩が合ったのかさえもう憶えていない。顔も朧げで、声も鮮やかでない。ただそれでも彼の手と息遣いだけは、鮮明に、今眼前にあるのではないかと思えるほど明瞭に思い出せるのだ。
最初にその『遊び』を持ち掛けてきたのは、彼だった。
あの頃、共に寝間を共に使っていた。
何歳の年嵩かさえ知れないが、兎角小柄な兄と当時既に体格は同等だった筈だ。
春の頃だっただろうか。
庭の連翹が馨っていた。
宵も深く、寝返りを打ち、何故か意識が浮上した。目が醒めた。
喰い縛るよな、歯列の狭間から漏れる咽喉を鳴らすような音が途切れ途切れに聞こえてきた。一瞬高く響いて、呼吸が荒くなった。
彼は此方へ背を向けていた。
筋骨の固まり出した精悍な肉体が薄い衣に包まれて瞭然と覗いていた。
その背が呼吸に荒く動いていた。
骨張った手が伸びて懐紙を掴んだ。そして手は腹部へ下ろされた。
見てはならない――――――
目を背けようとして、彼は寝返りを打った。
「兄さん、」
日に焼けた無邪気に見える顔が向けられた。薄く開いた窓から月明かりが照って彼の顔に条を載せた。
「見てた?」
「あ…否…あ」
胡乱な様子に彼は苦笑した。
「こんな隣で。解らないわけ無いよね?幾ら眠りの深い兄さんでもさ」
手を眼前に翳した。彼の体液臭が濃密に鼻腔に競り込んだ。思わず顔を逸らすと笑い「兄さんは?」と訊いた。
「無いの?」
躰が寄せられた。汗が伝った。彼の熟れた汗の匂いがした。
「ほら、脚、開きなよ」
囁かれた。
耳鳴りがする。
それが初めての手の悦びだった。
 夜の寝間と言わず、家人の無い居間と言わず、人気の無い教室と言わず、
躰を寄せ、互いを交差させ、互いの手に歓んだ。
時にむしゃぶりつき、時に哀願して拒んだ。けれど辞めることは出来無かった。
あの日々に狂奔したのは誰だったのか――――――

関口に避けられていると知ったのは京極堂を訪ねた時のことだ。
先客に鳥口と関口がいた。
関口は矢張り終始目を合わせず、ともすると颯颯と立ち去りたい素振りだった。だから殊更に声を掛け関口の様子を楽しんだ。
此の年上の小説家はそれだけでもういけない。
榎木津が愛玩する気持ちが痛い程判ってしまう。
それほど遅い時刻でもないのに、早々に関口は帰ってしまった。
常に無い様子に主人は矢張り気付いていたようで関口が帰った後に書面から目を外し、まともに益田を見た。
「どうしたのかな?益田くん。榎木津でも伝染ったかい、」
「否、先日うちに尋ねて来た時に様子が変だったんで」
此の程度の理由で古書肆躱せるとは思わなかったが、鳥口が加勢した。
「そうなんですよ、師匠」
「弟子を取った覚えは無いよ、鳥口くん」
「うへえ。まあ、それはいいじゃないっすか。先生先日から僕と目も合わせませんからね」
「ほう、」
古書肆は益田に目を向けた。
「合わせてくれませんねえ」
「手の悦び」云々を話したら自分が何をしたのかまで吐瀉ゲロしそうなので、それには触れず関口に弟があったことを初めて知ったと語った。
「それは…関口が言ったのかい?自分で?」
「ええ、そうですよ」
古書肆は顎を摩った。
「珍しいこともある」
眉間が益々狭まった。
「何がです?」
「あれは余り弟の話をしないんだよ。僕も昔に一遍聞いたきりだ。学生時代なんかは一度も帰郷しなかった筈だぞ」
「はあ、」
益田と鳥口は顔を見合わせ、頸を傾げながら曖昧に肯いた。
「――――――ホトトギスの兄弟と言った処かな、あれは」
「ホトトギス?あのテッペンカケタカって鳴く奴ですかい?」
鳥口が訊いた。
「そう、それだ。包丁かけたか、本尊かけたか、とかも言う。…コイシコイシとも鳴くとも言う」
「何がコイシんですか?」
此処からまたあの長広舌が始まるのだ、と思うとぴたりと古書肆は口を噤んだ。
「知らないのなら良いよ。ああそうだ。君たちが来る前に関口は弟から手紙を貰ったとか言っていたな。それで益田くんに話したのだろう」
綺麗に話しの始末を着け、古書肆はまた紙面に目線を戻した。
「そういえば関口さんてカストリ誌って赤井書房以外にも書いているのかい?」
夫人の淹れてくれた緑茶を口にしつつ鳥口に訊いた。
「しているだろうけど、他の出版社の話余り聞かないしなぁ。第一閨房とか情事とかそういう記事書くの先生苦手だしね。うちは猟奇一辺倒」
「あ、そう」
髪を掻き上げる。
「それが?」
「鳥渡、」
益田は腑に落ちない心持でまた茶を啜った。

東京の高等学校へ進学が決まると、知ってしまった。
彼と離れなければならない。と言うことを。
そして彼に向けられる此の感情こそ、恋だ、と。彼から齎される悦びこそ愛しかった。彼が愛しかった。
此処にきて自覚するなど、滑稽だ。
もう、止そう。
言った時の彼の顔を思い出せない。
ただ深い深い絶望感に打ちひしがれた。
打ちひしがれたのは彼ではなく――――――
あれは止そうと告げたのは、腹を裂いた様なものではなかったのか、と今も思う。
彼の腹を裂いて、殺してしまったのだ。
己は自らの感情を。
関口は眩暈坂をゆっくりと下っていった。

その日の関口は頻りに時間を気にしていて、幾度も時計を見遣った。
益田は和寅の淹れた緑茶を呑みはじめた。関口の吐き出す紫煙が伸びて宙で巻く。
「こんにちわー鳥口です」
馴染みの声が聞こえ、姿を表したのは、カストリ雑誌編集者だった。
「おや、此処でしたか、先生。探しましたよ」
「藪から棒に。鳥口くん。関口さん求めるなら此処へ来るのは間違ってる」
益田が言った。
「でもいるじゃないか。御宅に行ったら奥方も先生も留守で、京極堂さんにもいなかったんで」
「なんだい、未だ締め切りには日があるはずだよ、」
「進行状況の敵情視察です」
「僕は敵か?」
立って話していると益田が手を振った。
「いいから座れよ鳥口くん。まるで何処かの先生だよ」
「うへえ、勘弁して」
「君は京極か、」
関口が時計を見ながら不満そうに言う。
鳥口は関口の横へ座った。床に置いたジュラルミンのケースは重そうで何処かで雇いの写真家でもしてきたのかもしれなかった。
「あ、そういえば先生。誰か来客のようでしたよ。玄関前で出くわしましてね、頭を下げられたんです。『不在ですか?』って声を掛けてみたら『そのようです』って短い返答でした。奥さんもいらっしゃらなくて」
「……どんな、人、だった?」
「背の丈は…益田くんくらいっすかね。背広着て、穏やかで端整って感じでした」
「そう、」
関口はそれだけ返事をして鳥渡顔を歪ませた。
 手紙には、今日の日付が記され東京を訪うので会いたい、と短く記されていた。
兄弟水入らずが良いでしょう、と妻は言い今朝方出掛けていった。
けれど今こうして弟に会うことを避けて神保町に転がり込んで居る自分がいた。
未だ終っていないのだ。
あの日々が――――――
関口は鳥口の取材話を聞きながら、自らの中に巣喰った鳥を思った。
探偵助手は僅かに小説家を望み訝しく眉間に皺を刻み、坂上の古書肆のような兇悪な面相をした。



オトウトコイシ、ホウチョウカケタカ、オトウトコイシ、ホンゾンカケタカ



夜の闇に果ても無く泣く鳥は何処へ行くのか。
射干玉の闇に鳥が哭く――――――




03/12/03

書き直しても未だ不満
混じり合ってない。浮いてる。
手直しを少しづつして往くつもりです