silence day 春夜の空を雲の流れが速い。欠けた白月は雲間に朧に浮かんでいた。 霽れている。 はだれはだれと桜が散る。 静かだ―――――― 瓣が風に舞い、また沈み、男は地に伏した儘耳を欹てた。 黄泉で今しも動き出さないか、と思い。 何故こんなことになったのかまるで思い至らない。 枯渇したかのように涙も無く、ただ頬に触れる瓣の感触を受け止めていた。 隣では亡鬼の如く、友人の古書肆の如く、目の下に青い隈を拵えて凶相を曝す青年の姿があった。 黒いなめしたような皮を張った桜の樹に凭れている。 冷えた夜だった。 汗を滲ませた躯には殊に応える。次第次第に冷え往く身をただ外気の中へ曝した。 花冷えの夜である。 精も魂も尽き果て残るのはただの気怠さでしかない。 もう黄泉戸喫を喰らった頃だろうか。然し己は絶対に迎えに往くことは無いだろう。一度ツマであった人間だろうとあの腐敗した躯を見て逃げ帰るだけなのだから。 卑しい此の身は逃げ足だけは速いのだ。 「先生、」 青年の呼び掛けは聞こえていたが返事をする力なぞは無かった。 ただ片耳を地に押し付けて、此の花も凝る寒さに身を浸していた。 「妍哉、可愛少女ヨ」 此の言葉を青年が如何聞くか些か加虐的に興味があり、起き上がることもせず首だけを廻した。だが青年は先と変わり無く大木に木偶の如くに凭れていた。 既に凶相であると言う他に表情は無かった。 「妍哉、可愛少男ヨ」 また眼を瞑り耳を欹てた。 上空を陰雲が覆い、静かだった。 窓から見える空は雲が低く犇き合っていた。関口巽は乱れた寝着の儘、ただ暈りと煙草を喫んでいた。 紫煙が雲と同じ色で室内を漂う。 濁って澱んだ室内の空気は生温かくて穢らわしい。幾つもの最近が繁殖をみているにちがいない。 不図細菌の交尾を想像した。 敷布は乱れ酷く不潔に見えた。そしてその先の大きな塊を見遣って、 何の感慨も湧かなかった。 昨夜と――――――何も変らなく見えた。 いつまでも起き上がらないその躯。 何も変わりはしないのに。 不図気付く思考の矛盾に、口が歪んだ。笑みの形で。今此の状況で笑うなど余りに不謹慎だ。そうも思ったが矢張り笑った。表情が勝手に動いたのだ。 変らないとはなんなのか。 それは機能を停止していることではないのか。 では矢張りコレは―――――― その頬に触れようと手を伸ばす。 だが躯を其処まで動かすことも億劫でその場に座り直しただけの恰好になってしまった。暈りとまた煙草を咥えて、ささくれ立った黄色い埃の臭いがする旧い畳の上で捻り潰した。黒く焦げ付いた痕が出来た。 そして暫しして此の怠惰な緊迫の静寂を打ち壊したのは、快活な声だった。 「こんにちはーとっりぐっちです」 カストリ雑誌の青年編集者である。 だけれど矢張り動く気は起こらずただ窓枠に背を凭れ、暈りと開かれるであろう廊下に面した襖を見詰ているだけだった。 午は疾うに過ぎた。今は何刻なのだろうと暈りと考えていた。 予想通り見詰ていた襖が開いた。 入ってきたのは鳥口守彦だった。 極寒の中を走る狼にも似た犬を想起させる屈強で常には調子の良い青年である。いつも中々の二枚目だと思う其の顔が此の寝室を開いた途端僅かに強張った。 何となく関口はそれを面白く見遣った。 けれどそれも一瞬で、此の屋の夫婦の寝室にまるで衒いも無く鳥口は足を踏み入れた。 衒いが無いのも当然だろう。 関口は此の青年と幾度か此の部屋で交猥ったのだ。 鳥口の表情は急速に消え失せ、無表情の儘襖を後ろ手で閉めて、ソレを跨いだ。 此の部屋で妻の躰臭が染み込んだ布団で此の青年を受け入れた。 妻を身近に感じて、背徳なのか、羞恥なのか、酷く高揚した。 鳥口は関口とソレの境に遮るように座った。 「…居間と書斎、覘かせていただきましたが。先生どちらにも居なかったので」 此処へ勝手に入ったことへの言い訳らしい。 彼の眼は矢張り何の感情も伝えず、関口を一瞥するとすぐに眼を逸らした。 「どうしたんですか?」 表情が、強張っているのかそれとも冷淡なだけなのか、凍て付いていた。 関口は鳥渡だけ微笑んだ。 鳥口が俯く。 躊躇っているようだった。 それを見て、早く言え、と心が喚いた。 再び鳥渡だけ関口を見るとまたすぐに俯いた。 早く言えと言うのに。 それは願望の幻視か、ただの現実か、はたまた呼吸を止めて睡る妻の姿なのかそれが決まるのだ。 静かに息むと鳥口が眉を下げて今にも泣きそうな顔で訊いた。 「奥さん…どうなさったんですか、」 と―――――― 噫、矢張り願望ではないのだ。幻視などでは、無いのだ。そう思うと心が落ち着いた。そうだ、そんなこと有る訳が無いだろう。此れは現実なのだ。その証拠に一度も妻の死など冀ったことなど無いのだから。 安堵した。 此の屍躰の有る部屋で。 「鳥口くん、」 関口は鳥口の手を触った。少し驚いた様子で鳥口が正面に手の主を見た。関口は妻の屍躰を触れるのに億劫だった躯を動かす。膝を着いて、鳥口の顔に寄せた。 脣が触れ合った。 乾いた関口の唇とは反対に年齢の所為か未だ瑞瑞しい鳥口の唇。 触れて、離して、また触れて。 次第にその間隔は短くなり、鳥口からは関口の袷から薄い胸部が覗いて見えた。 膚が、蒼いように白かった。 屍躰のようだ、と陰惨な姿を見慣れた脳が言う。 鳥口は関口に圧し掛かった。下唇を甘噛みし、口内へ侵入して舌を絡め獲り吸い上げる。 関口の閉じられた瞼の眼球を包む薄い皮膚や、眉間の皺を丹念に舐めた。 「先生、」 肌を接する黄色く枯れた畳からは埃の臭いがする。痛痒に思わず身を捩る。 折り畳んだ関口の膝に肩を押し付け、関口の頬に自分の右頬を沿わせて、鳥口は唸るように言う。 「悲しいとか、申し訳無いとか思わないんですか?」 「申し訳無い?」 擦れた声で関口が聞き返した。 「其処に…っっ」 奥さんが居るじゃないですか―――――― 悲愴な声だ。 何処か滑稽にさえ感じられる。 申し訳無い。そんな言葉の選択肢は許より此の脳内に存在していなくて何処か新鮮だった。 「悲しいでしょう!?」 語気を僅かに荒げる。 その振動が繋がった箇所を中心に関口に伝わって少しだけ喘いだ。 「困ったな」 体液の分泌に関口と鳥口は滑り、それが揮発し此の澱んだ空気内を漂う。その中で関口は呟く。 「…判らないんだよ。僕は悲しいのか、安堵しているのか、判らないんだよ」 人の死をなんだと思っているのか。 鳥口は関口の上に騎り猥らに揺れながら、腹が立った。 「たぶん…ん…君が死んでも…同じ感慨を持つんだろうな、僕は…ぁ…」 猥れる此の小説家は無類の卑怯者なのだ。 保身しか考えられないのだ。証拠に彼の口調には幾許かの不安要素も見受けられないではないか。 関口の頬に滴るそれを見るまで自分が泣いていることにさえ気が着かなかった。 「なんで君が泣くんだい?」 そんなことを何故訊けるのか判らなかった。 卑怯者だ。 最低な男だ。 判っている。 いつも自分のことしか見えていない男である。 誰の心も判らない。 最悪な野郎だ。 判っている。 判っているのだ。 しかし、それでも愛しいのだ。否、最低な男だから愛しいのか。 ――――――判らない。 「先生…」 鳥口は吐精の高まりと共に目を覆った。 関口は息を継ぎながら仰向けに妻のに変わらない躯を見た。 妻の躰は何処までも静かだった 鳥口が狂ったように駆け出した。 家を出て往く。 そして関口は躊躇いもせず彼を追った。寝着を羽織っただけの状態の儘家を出ると既に外は暗かった。夜闇の清浄な冷気が立ち込めていた。 こうして妻の屍躰を置いて情人を追っていても、妻に対し申し訳無いとは思わなかった。 ただ代わりに妻を愛しいと久方ぶりに想った。 念仏橋を過ぎ、闇雲に走る鳥口を追った。 こうして鳥口を追っているのに、だのに何故妻を愛しいと想うのか。 風が吹いた。 闇に雪が降る。 否、雪ではない。闇に白い、それは桜だった。 既に桜の季節であったのか。春だということさえ忘れていた。 桜の樹まで来ると関口は鳥口の姿を見失ったことに気が付いた。 そして背後から手が現れ、関口は犯された―――――― 瓣の舞う花冷えの闇であられもなく声を上げ噎び、歓んだ。 亡鬼の顔をした男は泣いていた。 幾度と無く蹂躙し、悦んで。 鳥口は桜に凭れ、関口は臥して地に耳を欹てる。 そして双方に浮かぶのはあの静かさだった。 妻の何処までも静かな、躰―――――― 冬のイベントの後、友人たちと打ち上げに行った店で友人と盛り上がった設定。 『雪絵さんが死んでて鳥口と屍の前だっつのに交猥(当て字)って。でも雪絵さんは死んでて』 と言う最低な関口万歳な話。 誤解されないように私は関口が大好きです!(強調) 同時に雪絵さんも好きです。雪関もいけます(関総受人) ホモ好きなだけ 此の話、雪絵さんの一人勝ちでしょう。 |