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坂の上の古書肆を訪ったのは警視庁赤坂署貫属の木場修太郎だった。 「おう、邪魔するぜ」 甲高い声で木場は舖に踏み込んだ。 珍しく古書肆は舖の帳場に在った。それでもその様子は百年一日の如く本を片手に視線さえ動かさない。 「どうしました、旦那。刑事がこんな昼間から」 「煩瑣え。用が無きゃ中野くんだりまで来るかよ」 木場の勤務地は赤坂である。 框に腰を据え、近くの雑誌を手に取ると弄んだ。 「…関口はどうしてるよ、」 「さて、此処一週間は姿を見てませんが」 木場は顔を険しくする。雑誌を弄んでいるが、目線はまるで字面を追っていない。それに気付き、古書肆は不図目線を木場に向けた。 「……ありゃあ、事件に関わる度に憔悴するじゃねえか、」 白樺湖ではどうだったのか、木場が知りたい処は其処なのだろう。古書肆は目線をまた紙面へ向けた。 「大丈夫ですよ、どうにか保てているようです」 榎木津があの事件一連を「旅行」と称しているように、関口の浮上も早かったらしい。 その儘沈黙した。 木場は只管頁を繰るだけである。何処か常でない木場の様子に古書肆は怪訝にした。 「どうしたんです?」 古書肆が訊ねると、木場は一層顔を顰めた。 「緒崎が、辞めたらしい」 苦々しく口にした。 物覚えの特に良い古書肆は「緒崎とは誰か、」と言う愚かな問いはしなかった。ただ太陽が西から昇ったような不機嫌な顔をした。 外では霧雨に煙っていた。 特有の細かな雨礫に光は拡散、吸収され朦りと、白んで見えていた。 尤も音も無く降り続く雨も塀の中の人間には関係の無いことだった。 着ているものを剥ぎ取られた。もたもたしていれば容赦無く蹴リ据えられた。 「関口っ」 罵声を飛ばされ、矢張り蹴られた。 「う…うあっ…」 床に叩き付けられた。何を見ているともしれない虚ろな目に諸崎は益々苛立った。 どうしたら此の男を堪えさせることができるのだろう。 既に自白をさせることから、痛めつけることに目的は摩り替わっていた。 床に崩れ顔を上げて緒崎を見つめるその顔に唾を吐いた。 手の甲で唾を拭う。 その行為がまるで莫迦にされているようで益々怒りは込上げてきた。 関口の二の腕を掴み起たせると下着さえ取り払った全裸を繁繁と眺めた。白い薄い肢躰。 「反吐が出るぜっ。手前が女房持ちかと思うとようっ」 薄い腹を革靴で蹴り飛ばす。 咳き込みその場に崩れる関口の片腕を掴み起たせると再び腹を蹴り上げた。 関口の躰は既に痣で真っ青だ。 「ちゅうぜん…じ…」 懐かしい此の数日間呻く声以外上げぬのに誰かの名を呼んだ。 諤諤の顎は使い物に成らない筈だのに。 背筋の震えるような嫌悪が緒崎に沸き起こる。舌の付根が震えて饐えた味が口内に広がるような、股間が持ち上がるような、高揚感にも似た戦慄―――――腹立たしさだった。 「ああっ?」 「ち…ぜん…じ…」 「誰だ、そりゃ。女かよ?」 関口は頸を振った。 それが余計に緒崎を刺激し、関口の顎を掴み自分の方へ向かせた。 「じゃあ、男か?」 至近距離で唾を吐き掛け膝で腹を蹴る。 瞬間躰が浮遊し「くはっ」と声を上げて混凝土に叩き付けられた。 倒れた。 「そいつと犯った寝たのか?」 その場に倒れて動かない関口の脇腹を蹴る。 「ああ!?寝たのかよっ」 顔を蹴る。 「抱かれたのかよっ。男に喘ぎ声上げてよがって…てめえの臀部振ってよおっ!掘られたんだろうっ!?」 「う…ぁ…ん…、おんあこお……」 増して発音は聞き取れないほどに不明瞭だった。 「口答えすんなよっ!」 臀部を蹴り飛ばされる。 踵が喰い込んだ。 「どうだ?気持ち好いかっ」 弱く緩々と頸を振った。 また蹴られた。 自我など捨て去ってしまえばいいものを。 何時までも自分にしがみ付くのだろう、と朦朧と思った。 痛みは痛みで既に遠退いている。 否、痛いのは慥かだが、人間には耐性があり、同じ刺激を与え続ければ、順次慣れて往く。関口は順応しつつあった。 否否それも違うのかもしれない。 感情を切って、自分を――――――― 閉じているのだ。 自分は自分で無くなる。 緒崎は関口の股間へ革靴を摺り寄せた。 関口は多汗症である。 尤も、体熱を放散させて体温の調整を図ると言うよりは、興奮や外部からの刺激の受動過多による精神性発汗であると言える。 だのに暑さの残る此の九月の空の下、長袖の襯衣を着込んで神保町へ遣ってきた。 その日の薔薇十字探偵事務所には益田龍一しかいなかった。 長椅子の肘置きに靴を載せ、雑誌を眺め遣ると言う寛ぎ様である。 「益田くん一人かい?」 はにかんだような困ったような様子で関口は椅子に座った。探偵と入った三角錐の載った机が見えた。 其処に人が居ないことに酷く安堵したように見えた 「ええ。榎木津さんは何処かに出掛けて、和寅さんはお屋敷だそうですよ」 「成る程」 何が成る程なのか解からないが関口はそう呟き背凭れに身を埋めた。左右不対称な撫肩の小さな肢体はすっぽり其処へ収まる。 「何か飲みますか?」 益田は立ち上がった。 「ああ…うん…いいよ。構わないでくれ。こっちに用があったから寄っただけなんだ」 真直ぐに益田を見詰たその顔に疵があった。 口端が血がこびり付いたような切れ痕があったのだ。 「どうかしたんですか?」 「否、胃の調子がどうもね、思わしくなくて」 関口は自分の胃を押えた。 「そうじゃなくて、顔の疵ですよ」 長椅子の背凭れの納まった肩が一瞬震えた。益田の腕が伸びて疵に鳥渡触った。 「そ…そんな酷いかい?」 「酷いって程じゃあないですがね。殴られたんですか?」 「あ…え…まあ」 如何にも歯切れが悪かった。 疵に触る益田の腕を押し退けて、関口は目を臥せた。 前髪から眼球を包んだ毛細血管を浮かばせた皮膜の瞼と長い睫毛が覗いている。能く視れば左頬も腫れているようだった。 「喧嘩強そうじゃないんから余り治安の悪いとこ歩かない方が良いですよ」 「そんなとこには行かないよ」 「じゃあなんで殴られるようなことになったんです?あ、奥さんですか?」 益田の顔が下世話ににやけた。 「違うよ」 「そうでしょうね。あの奥さんが無体な暴力を振るうようには見えませんから」 けけけ、と笑う。 「胃が悪いなら珈琲は辛いでしょうから緑茶でも淹れますよ」 自嘲気味に関口は顔面だけで笑った。 益田が給仕場から戻ると関口は先の儘動いていないようだった。椅子に身を預けて、微睡んでいた。卓子に湯気の立ち上る碗を置いて呼び掛けることもせず、益田は関口を凝視めた。 此処に入って来た時から、何処か疲れているように見えた。榎木津が居ないと聞いて見せた白地な安堵の表情。 口端の疵。腫れた頬。長袖の襯衣。 頸を傾けて、関口の項が益田に向いていた。疲れているのだろうか。能く電車でこう睡る人間を見かけるな、と思っていると糊の利いた襯衣から関口の背が覗いた。 「蚯蚓腫れ…」 小さく呟き、長い前髪を掻き上げた。 がつがつと喰べる。 鳥口の食事はそんな表現が的確だ。 「関口さん、最近如何してる?」 対象者の張り込みの最中に偶々傍に質屋があり、『電話あります』の看板が掲げられていた。益田は対象者に怪しまれない為に電話を借り、赤井書房へ掛けた。 社長と社員の二人だけで構成される小さないかがわしい出版社である。鳥口の上司である妹尾が出た。久々の雑誌刊行で上を下にの大忙しであるらしい。構成中の鳥口に換わって貰い、断られるだろうと思いつつ今夜酒にでも一緒にどうかと問うと、思いも掛けない快諾が得られた。何でも四時が締め切りでその後はがつがつ喰べたいのだと言った。 「先生?」 鳥口の手が止まった。 「原稿書いて貰ったのかい?」 「まあ一応。関口先生、うちの専属のようなもんだから」 小鉢のオヒタシに醤油を注ぎつつ、鳥口は応えた。青線近くの猥雑な居酒屋は酷く身に馴染んだ。元刑事と編集者はサシで食事と酒を嗜んだ。 他に人間も呼びんだがどうにも予定があわなかったのだ。 「関口さん、大丈夫なのかな?」 「何がだい?」 「うん。先日うちに来たんだがね。どうも…憔悴しているっていうか、疲れきっているって言うか、」 「先生の挙動不審はいつものことじゃないか」 酷い言われようだと益田は思うが本当のことなので頷くほか無い。 「まあそうなんだけどね。…あんな処に蚯蚓腫れって」 最後は独り言の様に呟いた。 「蚯蚓腫れ?何処に?」 益田は眉間にを顰めた。 「背中」 事務机に戻り、置かれている回覧の綴を手に取ろうとすると、自分の手の甲に疵があるのを見つけ、不意に忌々しくなった。 あの猿が―――――― 思わず舌打ちをする。 赤く滲んだものが血であるのは瞭然だ。 血を拭うと、何処にも疵など見当たらなかった。 ならばあの血は――――――関口のものだ。 緒崎はどかりと椅子を軋ませて座った。座布団から埃が上がった。椅子には座布団が敷かれていた。椅子使っていった前任者が置いていったものだ。 「特高じゃないんだからさぁ…」 老刑事が緒崎に茶を差し出した。 緒崎の綴を繰る手が止まった。 片目が細くなる。 「解かってますよ。でもあれが犯人には変わりないし、人間の屑です。あの関口とか言う奴は。最低な野郎だ。世の為です。あのエテ公なんか殺しちまった方が世の為ですよ。人殺しがっ」 吐き棄てるように言って、また目線を綴に戻す。 もっとも字面は頭に入って来ない。待った、東京から届いた関口の関わった事件の綴であるのに。 関口を打ち据えた脚が酷く痛んだ。裾を捲り上げると青や紫に変色した脛が覗いた。 思わず舌打ちが漏れ る。 あの関口の所為だ。 関口は最早応えた様子も無い。打ち据えるたびにただ胡乱とした呻きや悲鳴が上がるだけだった。 「ま、緒崎くんも程々にな」 「どういうことです?」 老刑事は振り返って細い眼を緒崎に向けた。 「殺すなってことだよ」 関口は傷んでいた。木偶のように動かない。 躰中の痣は腫上り、血を滲ませ、黄色いじゅくじゅくとした液が涌いていたりする。下唇は切れて大きく腫れ、口を開けることも適わないようだ。 老刑事有馬が「関口は食事も受け付けない」と苦情が寄せられたと、緒崎に告げると、それに再び忌々しく舌打を してみせた。 「あの野郎…同情を買おうって腹ですよ」 にべもなく答えたが、かっと頭に血が上った。 「あのエテ公が」 そして腹に湧き上がった苛立たしさはまた関口に向けられる。 「鳥渡喰わせて来ます」 狭い所轄署である。関口の食べなかった配膳皿は捜査一課室の端に置かれていた。 その内の白い米の盛られた碗を持ち、緒崎は独房から取調室へ関口を連れ出した。薄汚れた混凝土の壁に覆われた湿々した取調室に既に机や椅子は存在しない。 関口を混凝土の床に投げ着けた。 「なんで喰わない」 髪を掴み顔を上げさせると、暗い澱んだ眸が向けられる。 訳も無く苛立つ。 それは高揚感にも似ているだろう。 衝動が湧き上がった。 革靴で紙のように薄い腹を蹴り上げた。靴先が骨に当るのが解かった。関口の骨と靴底の擦れる音がした。その儘背は壁にぶつかった。 口を開け低く短い悲鳴を上げた。 「…口開くんじゃねえか。なんで飯を喰わねえんだよっ!」 く、と緒崎の口端が吊り上った。 「俺への当て付けか?」 緩緩と関口は虚ろな眸を向けるだけだった。 「喰えよっ」 口に米粒を捻じ込んだ。 小さく開いた腫上った唇の肉に白い米粒は奇妙だった。 薄ら笑いを浮かべる緒崎の顔が不意に精悍なものになる。 「馬鹿みてえに口開くだったら喰えるだろうがよっ!」 襤褸々々になった関口の私服の換わりに支給された分厚い単の衿を掴んで引き倒した。 馬乗りに成り拳で顔を撲り付ける。 拳が歯に当る。頬骨に当る。鼻にこすると、右穴から血が噴出した。 その血を手が浴びて緒崎は漸く、関口の腹から降りた。手から血を振り払う。 荒い関口の呼吸を確認して、自分も肩で呼吸しているのを知った。腹の蟲が騒いだ。帯の端を引くと下着もつけない関口の貧弱な裸体が曝された。 やわやわと革靴が蠕動する。膨らみを増した。 「踏まれて気持ち好いのか?」 関口の顔が歪むのを見やって、ぐっと床へ押し付けた。 震えるようにして亀頭から漏れるそれを靴底で跳ね除け、右側の睾丸を圧す。 「こっちだけでも此の儘駄目にするか?てめえは人間の屑だからな。臀部に突っ込まれて歓ぶんだろう?」 踏み付けられ、躰を奮わせる関口の口に丸めた米粒を押し込んだ。 「口開け」 緒崎は制服の前を開いた。緒崎の雄芯が関口の眼前に曝された。 関口の眸が一瞬理性の灯火を見せる。 同時に腹が蹴り飛ばされた。 混凝土に叩きつけられ、呻きと共に口が開くのは反射だ。脳の範疇ではない。 その開いた口の儘、頬を掴まれた。 口に緒崎が押し込まれる。 咽喉の奥まで肉塊が押し寄せる。 緒崎の手が関口の額を撫ぜ、もう何日も洗髪をしない脂っぽい髪を掴み上げた。 関口が上目使いに緒崎を視る。 口が動いた。 だがそれは緒崎に奉仕する為でなく、 何かを呼ぶように。 『ちゅうぜんじ』と動いて見えた。 関口の口腔を出た緒崎の雄芯は、血の条が着いていた。 血に塗れた米粒も付着している。 殴られ続け、口の中は壊滅的なのだ。 既に歯も一本折れている。 自分の雄芯に着いた血の条を視て昂ぶことを自覚した。関口の疵と痣だらけの躰に、頭に血が上った。 苛苛する―――――― 高揚感―――――― 緒崎は解いた帯を関口に咬ませた。後頭部できつく縛り上げ、その儘関口の臀部に捻じ込んだ。男で試したことは無かったが、女の臀部を使うこともあった緒崎に抵抗は無かった。 関口は叫んだ。 その叫び声も帯に遮られ、くぐもり、取調室の向うに聞こえることは無いだろう。 縮々と締め上げる其処に緒崎は鼻で笑う。 きつく締め上げる関口の臀部にそれでも、幾度か奥へ突き上げる。 引き抜いた時には血が矢張り着いていた。 混凝土の床に投げ出された関口を見れば小さく縮こまっていて、緒崎は笑った。 黒ずんだ紫色に変色した痣の広がる背中に堪った唾を吐き掛けた。 「クソッたれが」 関口が二日ほど戻っていないと聞いたのは鳥口だった。 先日の原稿料を届けに来たのだが、珍しく主人は不在で細君が困ったように笑って「中禅寺さんの処でしょう」と言った。最近能く出かけまして、とも言った。 古書肆の奥方が出掛けていると言う話は、その妹から聞いていた。 関口を誘って坂上の古本屋に往く予定であったので、鳥口は関口夫人に原稿料を渡すと京極堂へ赴いた。 達筆なのか下手なのか判別の尽かない『京極堂』の額を見やって、次いで『骨休め』の文字を見た。 相変わらず商売気の無い舖である。 玄関に廻って鳥口は声を掛けた。 「こんにちは。鳥口です」 奥から出てきたのは、青木だった。 「あれ、青木君、何してるの?」 「今日は非番でね。上がりなよ」 「非番で、此処の下足番?」 くつくつと笑って鳥口は靴を脱いだ。未だ他に靴があった。 よくよく人の集る家である。 「よくよく君たちは閑人なのだな。此処は横丁の寄合所じゃないぞ」 廊下にはみ出した探偵を無断で跨いで鳥口が廊下から座敷に上がった開口一番の古書肆の言葉だった。尤も目線は和書に釘付けだ。 「うへえ、お邪魔しますよう」 鳥口は頭を下げて近くの座布団を取った。 そして辺りを見回した。 「どうしたんだね?」 目聡い古書肆は鳥口の挙動に問い掛けた。 「先生、お手水ですか?」 鳥口が先生と呼ぶのは一人きりだ。 「来ていないが?」 「ありゃあ、怪訝しいなあ」 呟くと漸く古書肆は紙面から顔を上げた。相変わらずの不機嫌ぶりである。 「あれはもう随分着てないぞ。気斑の在る男だからな。しかしあれを求めるなら、此処じゃなくて自宅に行くんだね」 「やあ、行ったんですよ。原稿料を届けに。ところが奥方が、もう二日も戻っていないって仰るんですな。で、恐らく此方だろうって」 古書肆の眉間に皺が増えた。 「居ませんか?」 「居ないと言ってるだろう」 「僕見掛けましたけど」 青木が口を挿んだ。 「昨日ですよ。地取りで新宿に行ったんですけど。其処で」 「新宿?」 鳥口は地名を繰り返した。 「仕事中だったし距離もあったんで声も掛けられませんでしたけどね。あれは関口さんでしたよ」 長袖の襯衣を着て猫背に歩いていたと言う。 「新宿って…」 娼窟である。三人は沈黙した。探偵は相変わらず睡り続けていた。 撲り続ける為口の中は血で溢れているがそれでも舌は動くらしい。 血と唾液が混じり、緒崎の雄芯に絡みついた。 鼻の先に親指の腹を着けて、手を額へ髪へ移動させ鷲掴む。眼は虚ろだった。撲りたい衝動に腹がかっと熱くなり、関口は咽返った。 自身を関口の口内から引きずり出した。 大半を飲み込んだ関口の口は緒崎の放ったものので汚れていた。 「ちゃんと呑み込めよっ、この人殺しが」 腹を蹴ると、関口のそれが見えた。縄で雄芯の付け根を絞められ、酷く変色していた。 何処かで鳴り物が聞こえた。 苛立った。 関口もあの音も苛苛した。 縄を解く。 関口の頬を混凝土に叩きつけるように接吻させ、自身を関口に捻じ込んだ。 潤滑剤も何も無しだ。 それでも緒崎が動くたびに前立腺が刺激され、耐性が出来た関口の雄芯が反応を見せる。 関口は放たれる時、一人の人間の名を呼ぶ。そして緒崎はせせら笑い、撲り、また犯す。 此の人殺しの胡乱な意識の中で躰の痛みと快さだけが明確だった。緒崎にとって確かな手応えだったのだ。 人殺しは赦せない―――――― 関口が赦せない―――――― 赦せないのは―――――― 関口が唸った。 「ちゅうぜんじ」 と言っているように聞こえた。 忌々しい。 未だそんなことを言えるのか、苛苛する。 革靴で黒く変色した腹を蹴り飛ばした。 鳥口は赤井書房の事務机の上で唸っていた。山積みの原稿や資料が今にも倒れそうだったが、所詮男二人しかいない事務所である。崩れても余り気にも留めない。 中野の古書肆が見たら厭味の垂れ流しであることは必至だろう。 山に囲まれ、肘を着いて、鳥口は険悪な顔をしている。 今朝関口本人から下宿に電話を貰った。原稿料や労いや留守にしていたことの謝罪だった。口調は至って平穏だった。 益田の言葉を思い出す。 「あの背中の蚯蚓腫れ、たぶん竹刀の痕だ」 些少のアルコホォルから脱却するには充分すぎる科白だった。 酒の席とは言え、益田が無いことを言うとは思えない。状況設定嗜好者たる益田の証言である。竹刀の痕が背中に着く状況を考えて、鳥口は憮然とし、躰が粟立った。 夫人にも誰にも何も告げず家を二日も留守にし、青木に新宿で目撃されている。 彼に――――――何が起こっているのか。 鳥口は自らの髪を掻き乱した。 益田はあの後に「今度榎木津さんに見せようと思う」と付け加えた。 だから鳥口は今朝の電話で食事に誘ったのだ。 関口はあっさりと了承した。 約束した時刻までが恐ろしかった。 「何の集いだい?」 と訊ねられたので 「わかりません。意味不明です」 と答えた。 なんだいそりゃ、と関口は笑った。 軍鶏鍋屋は関口に好評だったと中禅寺敦子が教えてくれたのだ。 だが、一向に関口の箸は進まなかった。結果鳥口が一人でがつがつ喰べることとなった。関口は飲料ばかりが進むようだ。 榎木津は後ほど益田が連れてくることになっていた。 「先生、胃の調子が悪いってえ話ですが」 「あ…うん。そう、そうなんだ。折角誘って貰ったのに済まない」 長袖で今日はきっちり一番上の釦まで嵌めていた。薄い肢体だ。食料を入れないことには動かないのではないか、と思う。何だかまた躰が薄くなったと思った。 「顔の疵名治ったんですね」 「え、」 俄かに関口の顔が曇った。 「益田君に怪我をしたって聞いたんで」 「ああ…うん。ちょっと…」 関口は言葉を濁す。何処か顔が蒼褪めたようにも見えた。 「あ!猿がいる!」 奇声と共に入ってきたのは、西洋磁器人形だった。 大股で近付いてくると途端関口を繁々と見やって、眉を顰める。 「真っ暗だ。真っ暗。なんなんだ?関君」 唐突に言って、箸を取り、鍋を突付き始めた。 「た、大将?」 「榎木津さん!」 後を追って入ってきたのは益田だった。 「全然食事が進んでないじゃないか。全く…」 関口は始終飲み物だけで軍鶏鍋屋を後にした。後に残るのは関口を虐め倒して満足の探偵と何処までも腑に落ちない雑誌編集者と探偵助手だけだった。 結局こうして再び眩暈坂を上ることになっている。 鳥口の顔は目的地の主人ほどに兇悪だった。 主人は舖に出ていた。そして鳥口が入ってくると「鳥口君か、」と言った。 「何故です?師匠」 框に腰を降ろしつつ訊ねた。 「君か益田君のどちらかだと思っていたからね。鳥口君が来たのだな、と思っただけだ」 いつもいつも此の古書肆には見透かされている。 諦めに似た気持ちで鳥口は吐息した。 「関口と榎木津を会わせたんだろう?」 「ええ」 なんと言っていた―――――― 芥川の体勢で古書肆は訊いた。 「真っ暗だ、と――――――」 そして一層顔を兇悪にする。 その儘黙り込んだ。 「君は…釈放された時の関口を見ては――――――居なかったね」 「いません」 東京に戻ったのだ。 関口の釈放に付き添ったのは雪絵と中禅寺夫妻だけだった。 「酷かったんですか?」 「…酷かったね。僕はその時の状態を並べ立てようとは思わないよ。口にしたくも無いような状態だったと思ってくれ。その儘病院に搬送されたことは知っているだろう」 凄まじかったとだけ、伝えられていた。 「時代を逆戻りした気分だったな。特高の尋問だよ、あれは」 「そんなに――――――」 酷かったのだ。 「すぐ後に尋問した刑事は謹慎になった。僕は増岡さん伝で聞いたんだが、どうやら他の同僚が語るには、その刑事は関口に執着したと言う話なんだよ」 「執着?」 怪訝に問い返す。 「諾、関口の遣ること為すこと口にする言葉や目線から仕草。凡てが気に障ったと言うんだ。全関口巽の否定だな」 「――――――先生の否定ですか?」 「それはつまり、」 執着だろう――――――? 鋭い鷹の目で古書肆は鳥口を見た。 「先日ね、旦那から聞いたんだが」 木場は静岡県警と連絡を取っていたらしいのだ。 「緒崎が職を辞し、東京に出てきていると言うんだ」 尋問をした刑事は緒崎と言った。 察しは良い方だ。 鳥口は自認して来た。それはカストリ雑誌記者の自覚でもあった。 確かにそんな凄まじい時代を逆に戻るような尋問を働けば、未だ終戦八年目だ――――――。 拒絶反応は大きい。 辞職に追い込まれる要因を作った人物が居る東京に何故出てくるのか―――――― 自明である。 その刑事は、関口に会いに来たのだ―――――― 「執着と熱情は能く似通っていてね。本人にも判らないことが間々在るんだよ」 憮然と能く通る声で古書肆は言った。 「問題は――――――関口だ」 「先生の?」 「いいかい。榎木津は真っ暗だと言ったんだろう?つまり何も視得なかったと言うことだろう?」 それが、 どういうことか。 榎木津はその人の目線の記憶を―――――― ぞっと――――――鳥口は顔を顰める。躰が、震えた―――――― 九月の空の下、長袖の襯衣を着込み。 姿を消した二日間。 新宿の目撃談。 背中の竹刀痕の蚯蚓腫れ。 顔の疵。 胃が痛いからと食物を口にしない。 真っ暗だとの榎木津の談。 それらは凡て緒崎の上京に帰結するのではないか―――――― 「つまりそれは…関口先生が…」 榎木津の能力を熟知する人間がそれを防いだ―――――― と言うことだろうか。 つまり関口自身が自ら―――――― 目隠しなり、何かの方法を以って、視覚を塞ぐことをしたと言うことだ。 「そんな…」 絶句した。 妻は不在だった。 家には私一人だった。玄関が開いた音がした。 「すみません」 何処かで聞いた声がした。 だが何処で聞いたのか、誰のものであるのか―――――― まるで思い出せなかった。 弁が働いているのだ、と悟った。 此の声は…思い出してはいけないものだ、と。 あの夏に逝った女性の肢体の感触を思い出した。 憶えていないのに、知っている。 ――――――眩暈がした。 立ち上がった。 跫が、一歩、また一歩と、歩を刻む。 そう広くない家屋である。部屋を出れば、玄関が見通せた。 其処に見たのは―――――― 「関口――――――」 ――――――此の人殺しがっ 罵声が脳内を谺し、下肢に熱を感じた―――――― 了 以前書いていたものの続き 03/11/18 |